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スージーQ

2023-01-29 17:49:13 | 映画(映画館)
Suzi Q: Directed by Liam Firmager (2019), @下高井戸シネマ
オーストラリア人監督リアム・ファーマガーによる『スージーQ』は、デトロイト生まれで英国在住のシンガー/ソングライター/ベーシスト/バンドリーダー/俳優/詩人であるスーザン・ケイ・クアトロのプロとしてのキャリアを描く。メインストリームに躍り出た最初の女性ロッカーであり、正真正銘ロックンロールの女王である。1973年にスージー・クアトロが音楽シーンに登場する以前のロック界に女性はほとんどおらず、ベースを弾きリードボーカルを務めバンドを率い、世界の何百万人もの人びとに影響を与えた人物は皆無だった。

本作の制作陣は、スージーの先駆的な地位が音楽業界、ことに母国アメリカで不十分な認識にとどまっているという感覚から5年の歳月をかけて本作を完成させた。その結果スージーQはロック界の女性史の改訂版となり、年齢を感じさせない意欲的なパフォーマーへの敬意ある洞察となった。名声・野心・エゴ・回復力についての個人的な探求と、成功のために支払った代償とは何か。アリス・クーパー、デボラ・ハリー、ティナ・ウェイマス(トーキング・ヘッズ)、ジョーン・ジェットとチェリー・カリー(ランナウェイズ)、KTタンストール、オーストラリア生まれのプロデューサー/ソングライターであるマイク・チャップマン、そしてコラボレーターや家族。スージーの私生活と53年にわたる栄えある道程を記録した映画である。 (2020年DVD版の商品説明)



「イメージチェンジを図りたいと思いませんか」
「そうね。胸の開いたドレスを着てラブソングが歌ってみたいわ」
「ぜひ実現してください!」
「ジョークよ」

このインタビューは1977~78年ころ米ABC放送の人気バラエティHappy Daysのキャラ「レザー・トスカデロ」として、それまで成功できていなかった母国米国でも認知され始めた当時の。皮のジャンプスーツを着てベースを低く持ち、ブギを歌い演奏する小柄だがパワフルなロック・クイーン。このキャッチーなイメージは、Chapman & Chinnによるポップなシングル曲と共に英国から欧州全域、オーストラリア、そして日本を1973~75年にかけ席巻。デトロイトの芸能一家に生まれ、姉のいるガールズバンド「プレジャー・シーカーズ」に誘われ、やがてプロデューサーのミッキー・モストに見いだされ単身ロンドンへ渡る彼女の本心は「音楽をやりたい」のでなく「成功したい」。野心家だが成功しても名声に飲み込まれることはない。セックスや麻薬とは無縁。ステージを降りたら一人の女に戻る。ジャニス・ジョプリンが西海岸のヒッピーめいた音楽シーンに持ち上げられ、自分を見失ったのとは対照的で、逆にそれゆえ「女のロックのアイコン」として定着できなかったのかなと思う(ジョーン・ジェットが類似キャラで80年代に成功)。

近年の私の年間チャートは昨年1位のビッグ・シーフはじめ自作系の女性上位。2021年3位のコートニー・バーネット「時は金なり、そしてお金は誰の友でもない」という歌詞のような、スマホを介して人生の時間が最後の資本として使われていく時代、キャラでなく自然体で持続できるマジメな女が浮上。過去の芸能界、特にロックにマジメは求められていなかった。日本で噂を聞かなくなってからのスージーはヒット曲こそないが英TVドラマやミュージカルの舞台に出演、どんな場に呼ばれてもエンターテイナーとしての立ち振る舞いは見事なもので、最後にはシンプルなロックンロールに戻ってくる、見ごたえある女の一代記でした。


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裁かるゝジャンヌ

2022-08-25 17:35:27 | 映画(映画館)
La passion de Jeanne d'Arc@早稲田松竹/監督・脚本・編集:カール・テオドア・ドライヤー/歴史考証:ピエール・シャンピオン/出演:ルネ・ファルコネッティ、アントナン・アルトー/1928年フランス

ジャンヌ・ダルクは英国との百年戦争で祖国フランスを解放に導くが、捕えられルーアンで異端審問を受ける。審問官は英国に忠実なフランスの聖職者であり、「英国人を追い払うよう神の使命を授かった」と主張するジャンヌを悪魔よばわりするなど強引な尋問を行う。心身ともに衰弱し一度は屈しそうになるジャンヌであったが、神への信仰を取り戻し自ら火刑に処される道を選ぶ。

ゴダール、トリュフォーら多くの巨匠に影響を与えたデンマークの映画作家カール・テオドア・ドライヤーが、「人間」としてのジャンヌ・ダルクを実際の裁判記録を基に描いた無声映画の金字塔的作品であり、ドライヤーの演出と共に舞台女優ファルコネッティの演技も映画史上最高のものの一つとされる。本上映は2015年にゴーモン社によってデジタル修復された素材によるもので、伴奏音楽はオルガン奏者カロル・モサコフスキによる作曲・演奏。


終身刑を言い渡され、頭髪を剃られたジャンヌが、裁判官を呼び戻して自白署名を撤回し、火あぶりの処刑場へ連れていかれ、処刑が行われる一連のシークエンスは圧巻である。映画は、この当時の方が縛られていなかった。まったく類をみない独特な。

しかし、ジャンヌが神と直結した聖女であると信じるかどうかは別の問題である。聖職者がことさら醜く描かれている。今の日本人みたいだ。自分を守るのに必死な。↑画像の右側の人たちは、お笑いの才能がないにもかかわらず、先輩やメディアの引きでお笑い・バラエティー番組の有名人になった。有吉弘行や博多大吉のように、売れてから経験を積んで才能を伸ばせる者もいるが、画像の人たちはそんな殊勝ではない。ひたすら有名になりたい自己愛者なので、「有名である自分」を正当化するよう、後付けで奇矯な振る舞いに走る。

こうした傾向は統一教会の好餌である。イベントやメディアに呼んで物心両面から取り込んでしまう。歴史的に自民党とのつながりが圧倒的に強いのはもちろんだが、たとえば立憲民主党でもアイドル好きの枝野、NHK出身の安住、イオン創業家の岡田などが世界日報に呼ばれてのこのこ出てしまっている。

あとで詳しくのべるように、日本の「母子関係」は、「支配⇔服従」関係か「包む⇔包まれる」関係になりやすい。日本の〈夫⇔妻〉が、〈親⇔子〉関係としてしか存在しえないために、夫にとって妻との関係は「母子関係」としてとらえられる。はじめは恋愛関係であった夫婦も、時間がたてば「母子関係」となり、安定的になる。「ママ」や「お母さん」という呼び名は、その関係を象徴しているのだ。 ─(佐藤直樹/なぜ日本人は世間と寝たがるのか/春秋社2013)

年に1度は「告解」を行い、自分の罪をありのまま神に伝え、許しを求める。これによってヨーロッパに自立した個人が生まれ、内心の自由、法の下の平等が導かれ強力な社会を築く一方、外に向かっては残虐な侵略・植民地支配・人身売買を行った。これらはセットであり、歴史的な経緯があるから、明治維新の日本がキリスト教文明の容器だけを性急に取り入れ、「家制度・世間」の監視に縛られ自由のない内面だけはそのままであったことから、戦争と貿易の時代にはキャッチアップできたものの、いまあらゆるところで弊害が噴出している。

安倍晋三も暗殺犯も毒母親の犠牲者であり、母親もまた犠牲者。人間以外の生きものは神だの死後の世界だの必要としない。ジャンヌダルクが聖女だなんて信じない。


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コレクティブ 国家の噓

2021-10-06 14:58:51 | 映画(映画館)
Colectiv@シアターイメージフォーラム/監督:アレクサンダー・ナナウ/出演:カタリン・トロンタン、カメリア・ロイウ、テディ・ウルスレァヌ、ヴラド・ヴォイクレスク/2019年ルーマニア・ルクセンブルク・ドイツ

薄められた消毒液、製薬会社と病院幹部と社会民主党の癒着。「40年間以上にわたった社会主義体制を洗い流すのは非常に難しい。司法制度も政治システムも、今でも内部はとことん腐敗しているのです (ナナウ監督)」「これほど現代社会を象徴する映画はない…(ワシントン・ポスト)」

本作は2015年、ルーマニアのライブハウスで火災を発端に、助かったはずの数十人が病院で亡くなるという、人命よりエゴや儲けが優先された果てに起こった医療汚職事件の闇と、それに対峙する市民やジャーナリストたちを追った、激動する現実社会を捉えたドキュメンタリー映画である。監督は、世界各国の映画祭で上映され数多くの賞を受賞した『トトとふたりの姉』のアレクサンダー・ナナウ。地元の小さなスポーツ紙「ガゼタ・スポルトゥリロル」に勤務し、地道な調査を重ねて真実に迫っていくジャーナリストを映す前半から一転、後半では使命感を胸に就任した保健大臣を追い、異なる立場から権力の腐敗に切り込もうとする者たちを捉えていく。欧米先進国も新型コロナウイルスをめぐって政策の混乱に見舞われるいま、医療と政治とジャーナリズムが抱える問題に真っ向から迫る作品として注目を集め、ルーマニア映画として初めてアカデミー賞ノミネートを国際長編映画賞、長編ドキュメンタリー賞の2部門で果たした。


和歌山市の水道橋が崩落した様子をみて、数年前の台風で関西空港への連絡橋にタンカーが衝突、映画ターミナルのように空港内に足止めされた乗客たちを尻目に、中国人だけ領事館が手配した連絡船で早々に脱出したことを思い出した。コロナ初期にも彼らが突貫で病院を建てる様子を「中国だから(感染症が広がる)」みたいに対岸視していた筈なのだが、やがて日本では検査も進まず入院もできず自宅で容態急変し死ぬ人が続出。検査に消極的なのは厚労省の方針らしく(責任が増えるから)、どうやら日本の国民皆保険というのは国民のためでなく政府と医療関係者を養うためにあるようなのだった。

親戚の大学院生の子どもが「民主党のときに震災・原発事故が起きたから自分が就職するときは自民党であってほしい」と数年前に。芸人のラランド・サーヤが「人類の文明には宇宙人が関与したって言うと笑われるんですけどわたしは信じてる」とラジオで。前世とかも信じる子多いね。優秀な若者もそこは無学な田舎の老人。日本人は自分の考えがなく、立場でものを考える。若者ほど孤独を恐れ、受験や部活やゲームや推し、人生を安売り。そんな弱さがアイドルだの異世界転生だのせめて自民や維新のような悪人でもチャラチャラした陽キャの側でいたいという「現実逃避としての現状維持・既得権擁護」を選ばせるのだろう。おおむね40歳以下の世代とマスコミ、とくにテレビとSNSがそうなので、政権交代は2度と起こらず、あるとしてもねじれ国会とかで何もできず短期で終り、日本は変らない。食いものにされ人口が減り没落する。


首都ブカレストのライブハウス火災で27人が死に、さらに市内の複数の病院に入院したうち37人が数ヵ月の間に死亡。製薬会社により消毒液が大幅に薄められ、熱傷の手術後に感染症が悪化したり、ウィーンなど国外の専門病院への転院が何者かに妨害されたりといったことで。この裏には、チャウシェスク独裁政権の流れを汲む社会民主党が公立病院の経営を牛耳り、製薬会社から賄賂を受けるなど医療を私物化していた巨悪が横たわる。↑画像の女は熱傷の予後が悪く大きな障害が残ってしまった体をさらし、医療の闇を告発。関係者で内部告発した者も女がほとんど。抗議の波が広がり、内閣は退陣したものの、次の選挙で社会民主党は減税を掲げて大勝。改革のため孤軍奮闘してきた若きヴォイクレスク保健大臣の父は彼に「駄目だ。この国はあと30年は変らない」。大臣「いやもっと長いでしょう」。

音楽世界旅行の企画をやっていて、ハンガリーやポーランドといった旧ソ連圏の国は、貴族社会の発達した大国の面がありながら、ソ連に服従し、ソ連崩壊後はEU加盟するもドイツやフランスから安く扱われ、そのためもあってユダヤ人や移民への差別がひどいという点で日本と相似だと思う。アヘン戦争のように戦うことをせず、自ら白旗を掲げて欧米列強の末席に連なり、自分たち以外の有色人種をいまだに見下している、それを決定づけた明治維新。

戦争と貿易の時代には適合しすぎていて1980年代にはアメリカに迫る豊かな国になったものの、増長して政府債務が膨れ、政府も民間もそれにぶら下がる中間搾取=いわゆる中抜きが電通やパソナだけでなくあらゆるところに異常増殖。安倍昭恵は短大卒資格ながら社長令嬢なので電通に入り、首相夫人に。母子家庭で通常採用の高橋まつりは過労自殺。レイプもみ消しスガ首相の置き土産はレイプもみ消し実行犯の警察トップ就任。日本が豊かだった時代を知らない若者が、犯罪集団でも親ガチャ勝者でキャラが立っている自民党の側に親しみを覚えるのは無理からぬことである。世界史上これほど短期間で没落した国があるのか分らないが、目の当りにできる人生であったことを慰めにしたい。
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ノマドランド

2021-09-06 18:52:32 | 映画(映画館)
Nomadland@早稲田松竹/監督制作脚色クロエ・ジャオ/原作ジェシカ・ブルーダー/出演フランシス・マクドーマンド、デヴィッド・ストラザーン、リンダ・メイ、スワンキー、ボブ・ウェルズ/2020年アメリカ

ドキュメンタリーとフィクションの境界線を超えた、かつてないロードムービー。

ネバダ州エンパイアはジプサム社の企業城下町であったが同社が石膏採掘工場を閉鎖して撤退したためゴーストタウンに。長年住み慣れた住居を失った60歳のファーンは、亡き夫との思い出をキャンピングカーに詰め込んで、〈現代のノマド=遊牧民〉として日雇い労働の現場を渡り歩く。その日、その日を懸命に乗り越え、自活の経験値を積み、各地で出会うノマドたちとの交流や助け合い、古い友人との再会などを経て車上生活という生き方に自尊心を持って貫いてゆくファーン──。

アメリカ西部の路上に暮らす車上生活者たちを描き、ベネチア国際映画祭最高賞(金獅子賞)、そしてことしのアカデミー賞作品賞・監督賞・主演女優賞の3冠に輝いた『ノマドランド』。ノンフィクション「ノマド 漂流する高齢労働者たち」を原作に、これで主演女優賞3度目となるマクドーマンドが実在の車上生活者たちの中に身を投じ(スワンキー、ボブ・ウェルズらは原作にも登場する本人)る形で、前作『ザ・ライダー』が高く評価されたクロエ・ジャオ監督がメガホンをとる。彼女はマーベル・スタジオの最新ヒーロー大作『エターナルズ』の監督に抜擢されている。


小説家の岩井志麻子? 芸人のAマッソ加納? 引用するのもためらわれるひどい差別発言を公の場でしてしまったんです? 彼女らは特別な才能に恵まれているわけでなく、普通の日本人の感受性を持ちつつちょっとだけ優秀なことで有名人になっていると考えられよう。自由が嫌いで差別が好き。コロナの病人が入院できず自宅放置のいっぽうワクチンの職域接種、若者向けにネット予約できない接種会場を設け長蛇の列、そしてワクチンパスポートと差別につながる政策はドシドシ行う。

「亭主元気で留守がいい」「○○さんの旦那さん、接待でゴルフや宴席の多いお仕事だからコロナ危ないんじゃないかしら、しかもハゲてらっしゃるし」。敬語使ってるけど陰口叩いて差別してるな。主婦や会社員や学生の部活・サークルに象徴される日本の「世間」には監視・査定・選別の機能があり、卑屈で自由のない生きづらさにつながるいっぽう、中国のように国民を厳密に管理しなくても犯罪が少なかったりコロナ死も先進国としては少なく、何より平均寿命が世界トップクラスという現実がある。たとえ異論やマイノリティを排除する差別的・欺瞞的な幸福でも「安心して生きられる」ことが免疫を高めるのだろう。


2014年をピークにアメリカ人の平均寿命はジワジワ縮み始め、さらにコロナ禍により一挙に1.5年縮んだと伝えられる。コロナ以前に問題となっていたのは「絶望死」と呼ばれる酒・薬物・自殺による中年・若者の死で、全体が縮むより早く非大卒の白人の間で顕在化したという。

映画はずっとアメリカ文明の広報宣伝役を務めてきた。ハリウッドの娯楽映画やディズニーランドのように大量消費や恋愛結婚イデオロギーのプロパガンダとして機能するだけでなく、近年は仕事と引き換えにセックス強要される被害の告発「ミートゥー運動」の主要な舞台にも。本作がアカデミー賞を受けたと聞いたとき、硬派な内容と知って、おそらく昨年興行収入1位の鬼滅アニメと両方を見ているのは業界関係者か一部のマニアしかいないのではと、アカデミー賞の形骸化や娯楽を通じた人びとの分断を想像してしまったが、米映画界は思った以上にしたたかである。原作を読んで感銘を受けたマクドーマンドが資金を出し、インディーズ映画で才能を示した中国人女性ジャオを監督に起用。ジャオは北京の富裕な家庭の子女で日本の娯楽漫画が好き。そしてアカデミー賞受賞と、アメリカ型の「リベラル能力資本主義」と中国型の「政治的資本主義」が手を組んで成功した格好。

「若いころ頑固な変わり者といわれていたけど、いまの(車上生活の)あなたを見て勇敢で正直な人と分った」。活劇志向の監督のようで編集などの手際はあまりよくないが、やはりマクドーマンドの映画なのだと思う。家族や地域の思い出を胸に、車上生活仲間や友人と交流しながら独立心旺盛に生きる高齢女性というヒロイン像。企業が撤退したあと、主人公がネバダ州で定期的に仕事を得られる場はアマゾンの倉庫だけ。格差を広げ、高齢者から家を奪うような金銭万能の資本主義そのものへの批判はない。そこはアメリカ映画なので。「絶望」死と真逆の方向性、生活のすみずみまで自力でコントロールし、財産や企業に縛られず金銭よりは仲間に頼り、弱い立場でも毅然として自由に生きる姿をみせてくれたことは素晴らしい。
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人民警察

2021-08-25 16:02:01 | 映画(映画館)
Volkspolizei 1985@下高井戸シネマ/監督:トーマス・ハイゼ/1985年東ドイツ

4月の復活祭(イースターホリデー)を直前に控えた人民警察内部。警官はコーヒーを飲みながらアイスホッケーや映画のラブシーンに見入っている。働く大人たちは無気力に日々を送り、働かない若者は体制反発者となる。彼らに共通するのは現在も将来も見えない漠然とした不安の中で思考停止せざるをえない寂しい姿。監督はまだ10代前半の男の子に将来の夢を訪ねる。男の子は目を輝かせながら人民警察で働くと語る。この男の子も今は50歳となっているだろう。そして社会主義体制だったドイツ民主共和国はこの子が成人する時に消えてしまった。 



1955年東ベルリンの知識人家庭に生まれる。東独国営映画会社デーファ(DEFA)で監督助手として務めた後、70年代後半からドキュメンタリーを志す。ポツダムの映画アカデミーを中退した後フリーの創作活動を開始するが、独自の企画は実現しなかった。ラジオドラマ、演劇、記録映像撮影などに携わり、その間に準備を進めた企画をドイツ統一後に次々と発表した。これまで20作以上のドキュメンタリーを完成させ、今や世界の注目するドイツの映画監督の一人である。戦争・ホロコースト・体制の転換に翻弄された一家の歩みを描く新作『ハイゼ家 百年』が日米初劇場公開作品となる。


花輪和一『刑務所の中』は真の宝石だ。何度読んでも飽きるどころかますます面白い。「あのさ~飯にしょう油かけて食うとすごくうまいよ。一回やってみな」「おれたちの房にもいるんだよね。体に悪いって言ってもビチョビチョにかけて食うの」//「知ってる? 島田の乳首すごくちっちぇえよ。今日風呂だからよく見てみ」。会話の内容は幼児そのものだが誰もそのことに気づかない、と執筆時の花輪氏。

何しろ一癖も二癖もある元犯罪者なので徹底した一元管理によって、受刑者が不満を持って暴動を起こしたりしないよう誘導。素行によって懲罰房、逆に等級による映画鑑賞(お菓子付き)や作業賞与金など、受刑者が進んで秩序に従うよう仕向ける。いま読み返してみると、政府のコロナ対応が無能無責任でも日本の重症化・死者数が依然として欧米先進国を下回っていることにつながる特異な民族性が浮かび上がる。「会話が幼児」「進んで秩序に従う」。

米国のQアノン=トランプ信者は反マスク反ワクチン一辺倒であるが、逆に日本のネトウヨはワクチンを絶対視する傾向がある。私は「日本の音楽は世界一みっともない」が持説なのでフジロックなどそもそも賛同できないが、政府・東京都がオリンピックやGoToをやっているのにフジロックだけ叩くのもスケープゴートそのもので気持ち悪い。いまだ「遊び回ってたから感染したんだろ」的な言説が健在。職場・学校・家族間が圧倒的に多いに決まってるでしょ。ネトウヨや自民党支持層による人をおとしめて自分を守ろうとするエネルギーはものすごい。刑務所の中のチクリ屋だ。私を含め日本人は自由と責任が嫌い、憎んでおり、差別・いじめが好きな権威主義の子どもなのだ。

『人民警察』は学校の研究発表、文化祭の(映画でなく)演劇のよう。手作り感。ニート青年の騒音トラブルで出動してみたら父子ゲンカだったという寸劇も。ありのままの東ドイツ。それだけに同時代の教条主義の東ドイツでは公開を許されなかったとのこと。知識人一家なので秘密警察シュタージによる監視対象だったともいう。刑務所や東ドイツのような一元管理でなく、中心のない、誰も管理責任を問われない多元管理・監視社会に生きる私たち。
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天使/L'ANGE

2021-07-28 17:05:06 | 映画(映画館)
L'ange@早稲田松竹/監督・映像特殊効果:パトリック・ボカノウスキー /出演:モーリス・バケ、ジャン=マリー・ボン、マルティーヌ・クチュール、ジャック・フォール/1982年フランス

天井から吊るされた人形、繰り返しサーベルを突く、仮面の男。メイドが運ぶ牛乳の壺は、テーブルからゆっくりと床に落ち、割れる。凝視している男。男は、鼻歌を唄いながら風呂に入り、身だしなみを整えポーズをとる。せわしなく本を探し運び続ける図書館員たちは、皆同じ風貌をしている密室の裸女めがけて襲いかかる、棍棒を持った男たち光線が降り注ぐ中、人々は階段を昇る…。 

カンヌ映画祭批評家週間で衝撃を与え、世界のアートシーンに登場した『天使/L'ANGE』は、『アンダルシアの犬』の再来かつまったく新しいアヴァンギャルド映画と絶賛された。この作品にはダリ&ブニュエル、マン・レイ、コクトー、アンガーといった旧来の「アヴァンギャルド/実験映画」とは一線を画した作法がある。散文的な物語から離れ、どの1コマを切り出しても絵画となり得るような映像そのものの追求。特殊合成・特殊効果のほとんどをボカノウスキー自身が行い、完成までには5年という歳月が費やされたが、その美は洗練され、35年以上の月日を経た現在でも新鮮な輝きを放つ。



有吉弘行のラジオ、彼の結婚発表の前後はフリートークやアシスタントを務める芸人との絡みなど安定感があって楽しく聞いていたが、6月の後半くらいから急激につまらなくなり、もう止めようかなと思って迷いながらも聞いてみた7月18日の回。冒頭からタイムマシーン3号とアルコ&ピース、アルピーの平子と酒井、石橋貴明と上島竜兵、それぞれ比較して片方をおとしめるという安易な笑いの取り方をしていて呆れてしまい、2度と聞くまいと。

そもそもロンハーなどは人に順位を付ける企画が多いし、以前から彼はアンジャッシュ渡部が「寺門ジモンとは人としてレベルが違う」と発言せざるをえないよう誘導したり、カズレーザーに対しても似たイジリがあったな。蔑まれるような位置から悪口(毒舌)を武器にのし上がり、品川祐や熊田曜子のように彼から斬られることでかえってキャラが鮮明になって長く芸能界に残れる、人の運命を左右できるような立場になったことでおごりたかぶる。結婚計画がすっぱ抜かれ、一時精彩を欠いたが、テレビ・芸能・広告界にとって便利かつ必要な人材ということで、冷却期間を置いて無事譲渡されるよう根回しが行われたのだろうか。彼が2時間も3時間も歩くのは孤独になるためだと思っていたが、もう逃げ場はない。落日のテレビを背負っていってください。私はもう関わらない。



We can change!! オバマ現象が起きなかったらトランプ現象も起きなかったといわれているし、私もそう思う。現実に差別が残り、しかも世はスマホ(バカホ)、人の時間が換金される圧は強まっている。看板だけ黒人にしてみたけどかえってアメリカの野蛮さが露呈する結果に。

大坂なおみの記者会見の問題も、男のエリートの記者は「女のスポーツなんて価値は低い。俺らが価値を与えて大金稼がせてやってるんだ」っていうマウンティングを兼ねて下世話な質問を浴びせてくるんでしょ。大会組織委が聖火最終ランナーに起用したのも同じだ。差別をなくそうだなんてこれっぽっちも思っちゃいない。オリン「ピッグ」でっせ。ふざけてんのか。くだらねー順位とかを知らせてくるな。早く終れ。でも壮大な無駄のツケは税金の形で私たちが払う。有吉のことも同じだ。私は関わらない、テレビを見ないでやがて死ぬ。でもテレビや広告の「意味のある時間・価値のある人生を!!(そのためにお金を使ったり勉強や部活をがんばって稼げる人間に!!)」っていう押し売りはツイッターやユーチューブなどますます人の脳を汚染。やまゆり園の事件やブレイビクの事件を引き起こす。


意味や価値から逃れられる抽象的な映像でよくできているが、そこは映像なので64分でも少し飽きる。人に順位を付ける大がかりなお祭りの喧騒から逃れる自己満足ともいえる。フィッシュマンズのLong Seasonやライヒの18 Musiciansはこれから何度も聞くだろう。でもこの映画のことは競技場の維持費とか誰か選手の不祥事とか折に触れ脳裏をかすめるくらいで2度と見ることはないだろう。
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5時から7時までのクレオ

2021-07-13 17:11:56 | 映画(映画館)
Cléo de 5 à 7@早稲田松竹/監督・脚本:アニエス・ヴァルダ/音楽:ミシェル・ルグラン/出演:コリーヌ・マルシャン、アントワーヌ・ブルセイエ/1962年フランス

クレオは歌う。クレオは彷徨う。クレオは出会う。クレオは──。

シャンソン歌手クレオは占い師を前に、自分ががんかもしれないという不安と恐怖から大粒の涙を流していた。時刻は5時。今日の7時には精密検査の結果がわかる。不安を抱えたままパリの街にくり出す彼女だが、カフェでさんざめいても誰も心配はしてくれないし、久しぶりに会った恋人もまともに取り合ってくれない。挙句に、音楽家のボブが持ってきた曲を歌ったら絶望的な気分に。一人黒い服を身に纏い街をさまようクレオ。誰も自分の真の不安を理解はしてくれない。あてもなく公園に入ると、軍服姿の一人の男が話しかけてきて…。

左岸派と呼ばれるヌーヴェルヴァーグ映画運動から頭角を現した女性監督アニエス・ヴァルダが主人公の夕方5~7時をリアルタイムで描くことで若い女の実存的な不安を表現した野心的な作品。



奴隷の社交辞令。いやいやそもそも人に上下はないですが、いまの資本主義が「貴族と農奴」みたいな形態に先祖帰りし、低い身分でいいからどこかにぶら下がっていたいっていう人びとを大量に生み出してしまうことに。スマホゲーのガチャ・宝くじ・主婦の井戸端会議・推し・ラノベ・ツイッター…

人は他人・社会とつながらなければ生きてゆけない。それは男女とも同じだが女は妊娠・授乳期の不利などから育つにつれより強い社会性を示す。OLや主婦は依存・従属的な弱い立場ゆえか細かな情報を気にして収集。人を値踏みする傾向があり、ひどいときには徒党を組んで排除したり。女のオタク、いわゆる腐女子の要望のため、ピクシブ系のサービスで「違うオタクジャンルからは自分の名前が検索できないようにする」機能があるそうだ。より大きな外部からは同じようなものにみえても、彼らにとって仲間とつながって自分を守る大事なコミュニケーション・ツール。逆にキャバクラ・風俗嬢などはどんな客でも笑顔で受け入れねばならない。政治家の集金パーティーなどもたくさんの人と談笑するがうわべだけ。一人一人の会話をいちいち覚えていない。友人知人が少なく、人と接する機会に乏しいと小さなことまでよく覚えている。ところが社交辞令を真に受けたりするそういう者も酒を飲んだりツイッターでは多弁になって人格が変る。つながりを求め、自分をアピールする人の本能が、人をコミュニケーションの媒体や話題に縛りつけ、時間を換金する資本主義を下支えしている。



占い・車の運転・おしゃれな靴を買う・彫刻のヌードモデルの友人。ヌーヴェルヴァーグ映画の中でも徹頭徹尾女の視点で撮られていると聞いて見てみたのだが、それは悪い意味でそうなのだった。他人の視線や評価、会話、都市の雑踏から離れることがない。気分は相対的にコロコロ変る。主人公は新進の歌手との設定で、実際に歌手志望の女を抜擢したという。アイドル。歌もコントもそれだけでは世に出られるような芸でない。なので映画界にはハーヴェイ・ワインスタイン、ポランスキー、ラースフォントリアー、キムギドク、同じような悪い男が引きも切らない。ああ、日本はそれの世界記録か(ジャニーズ・秋元康)。

白黒の映像がきれいな、おしゃれに作られた映画。それだけのこと。うわべの社交。都市・消費・恋愛を持ち上げ、女の監督や関係者がチヤホヤされればよくて、人を弱い立場に縛り付けてしまうことなど眼中にない、いにしえの広告映画。
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行き止まりの世界に生まれて

2021-03-30 19:11:54 | 映画(映画館)
Minding the Gap@早稲田松竹/監督:ビン・リュー/キアー・ジョンソン、ザック・マリガン、ビン・リュー、ニナ・ボーグレン、ケント・アバナシー、モンユエ・ボーレン/2018年アメリカ 

少年たちの手探りのあした——

「典型的ラストベルト」イリノイ州ロックフォードに暮らすキアー、ザック、ビンの3人は幼い頃から、貧しく暴力的な家庭から逃れるようにスケートボードにのめり込んでいた。スケート仲間は彼らにとっての居場所であり家族のようなものだった。いつも一緒だった彼らも、大人になるにつれ少しずつ道を違えていく。ようやく見つけた低賃金の仕事を始めたキアー、父親になったザック、そして映画を撮り始めたビン。ビンのカメラは一見明るい3人の悲しい過去や葛藤、思わぬ一面を露わにしていく——。 

寂れた町で必死にもがく若者3人の12年を描くエモーショナルなドキュメンタリー!

ラストベルト=鉄鋼や石炭、自動車などの基幹産業が衰退し、アメリカの繁栄から見放された<錆びついた工業地帯>。従来民主党支持であったラストベルト労働者層の不満が2016年、トランプ大統領誕生に大きな影響を与えた。映画完成時20代であったビン・リュー監督は、閉塞感のある環境で生きる若者たちの姿を通して親子・男女・貧困・人種…さまざまな<ギャップ>を見つめる。

趣味のスケートビデオから始まったこの映画は、若者たちのパーソナルな物語でありながら世界の現状を鋭く切り取り、「21世紀アメリカの豊かな考察」(ニューヨーク・タイムズ)、「ドキュメンタリーの新時代」(WIRED)と評された。アカデミー賞ノミネート、サンダンス映画祭はじめ59の受賞、ロッテントマト100%と全米の批評家・観客、そしてオバマ元大統領も絶賛。痛みと希望を伴った傑作が誕生した。



オバマが年末によい音楽を選んで発表するのは知っていたが映画でもやっていて、この映画。しょせん映画のことでもあり私は「よく分る、3人とも幸せに生きてほしい」とか言いたくないですね。アメリカの都市型リベラルとトランプ支持層は、たとえばトランプが制したテキサス州でもヒューストンやオースティンといった都市部ではバイデンの得票が上回るというようにはっきり分かれる。その関係はウシジマくんの小堀と板橋の関係にも似る。

小堀はどの面でも見下せるから就職同期の板橋と付き合う。板橋が堕ちていき、「おまえ(道連れにしようとした小堀)が来てくれたからそれでいい」と一人死地に赴く。板橋がオホーツクに沈んだことを小堀は知らない。人種・宗教・教育…。マス対マスとしてせめぎ合うトランプ支持層が「リベラルが分ってくれたからそれでいい」となる筈がない。そもそも分らない。


「あの、ご結婚されてます?」
言葉は丁寧だがズケズケと踏み込んで人を査定し、場合によっては排除してくる。死ね!! 安倍の泥船と一緒に沈んでろ。

コロナ第1波のころツイッターで流れてきた映像、振り込め詐欺の「出し子」とみられるおばさんがATMを出たところで多数の警官から任意で署まで同行を求められ、おばさんは猛烈な調子でゴネまくって、そうするうち結局逮捕状が届いて連行。終始マスクをして普通のおばさんぽい絵面が面白かったな。私が結婚してるか確かめようとする主婦ならずとも、わーくには多数派に従いますよというポーズをとっていないと生きづらい不自由な社会である代り、コロナのようなことではすぐにマスクが多数派になって自粛警察まで現れる。犯罪者も目立つことを恐れマスク。

アメリカのトランプ支持層はツイッターの永久凍結であるとか身バレして解雇であるとかを受け、一斉にウヨ専門SNSに移動する動きがあるが、日本のネトウヨはツイッターに固執。事実はどうあれ自分たちが世間の多数派であるという雰囲気をかもし出していないと不安なのだろう。富国強兵の延長上で高度成長~バブルとなる昭和の終りに思考停止したまま、失われた30年。芸人のラジオを楽しく聞くものの、有吉とハライチは才能があってマルチに成功しているためCMめいた古い価値観に基づく驕りを覗かせることがあるのが難。そんなにテレビで売れていない空気階段はかわいらしい。太って時間を守れず借金のある鈴木もぐらは飲む打つ買うに頼らなければ生きられないようなタイプの闇。痩せたイケメンだが大学に馴染めず3ヵ月で中退ししばらく引きこもっていた水川かたまりはマザコン的な中流家庭の闇。お互いの闇を照らし、補い合って2人で完璧という関係性のかわいらしさ。大好きな芸人であるが親しみあるクズキャラのもぐらが単独でテレビで売れる兆しがあり少し心配。
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国家が破産する日

2020-01-28 19:09:57 | 映画(映画館)
국가부도의 날@下高井戸シネマ/監督:チェグクヒ/出演:キムヘス、ユアイン、ホジュノ、チョウォジン、ヴァンサン・カッセル/2018年韓国

すべての投資家はいますぐ韓国から離れなさい
1997年、前年にOECD加盟した韓国の誰もが国の躍進・好景気を信じて疑わなかったそのとき、巨大な通貨危機が近づくことを察知した韓国銀行通貨政策チーム長ハンシヒョン(キムヘス)は、政府が債務不履行(Default = 映画の英題)におちいらないよう対策を練り始める。

一方、あちこちに露呈し始めた不況のサインをみた総合金融会社(韓国のノンバンク)の社員ユンジョンハク(ユアイン)は会社を辞め、通貨危機に逆張りして儲けるため投資家を募る。この危機を知るよしもない小さな工場の社長ガプス(ホジュノ)はデパートと手形取引契約を結び家族の幸福を夢みる。

国家不渡りの日(原題)までわずか一週間。対策チーム内で危機対応をめぐってハンと対立する財政局次官パク(チョウォジン)はIMFから融資を受ける代わりIMF・米政府主導の構造改革によって韓国の旧弊を一掃できると考え、密かに根回しを進める。しかしこの改革は多くの企業の倒産や、正規から非正規雇用への転換を容認する非情なものであった…。


ご存じ山本太郎は積極財政論者だ。消費税を減税あるいは廃止、金持ちから取るようにして国債を発行し、財政出動する。正直どういうつもりなのかと思う。

政府・自治体の借金がGDPの2倍を超える大戦末期のような事態でも、通貨危機におちいらないのは、民間の金融資産がそれを大幅に超える担保になっているから。銀行や企業のような言い方であれば「自己資本比率が高い、100%以上」。もちろん金融資産を持っているのは全国の高齢者や投資家や企業が銀行などを通じて。彼らは、たとえば安倍昭恵が短大卒資格であるが社長の娘なので電通に縁故採用され、いまは政府の桜を見る会の仕事をお友だちの業者に発注させているというように、縁談や就職の世話、融資の斡旋、法律相談、子どもの学校などなど巨大で直接的なネットワークを形成している。地方の医者や世襲経営者が愛人にスナックを経営させ、自分も夜毎そのスナックで異業種交流を行ったり、親学だの日本会議だの青年会議所だの、活発にお金と情報が動く生きたネットワークであり、経済そのものともいえよう。

金持ちから取るということは、このネットワークを乱し、銀行や人材企業や地方の斜陽企業に退場を迫り、彼らの一部を路頭に迷わせることを意味する。彼らがそれ以外に生産的な仕事をできるとは思えない。入居者のいない賃貸物件の資産価値はゼロに近づく。株や不動産、人的ネットワークで結ばれている金融資産は連鎖的に目減りし、政府のデフォルトだけでなく、健全経営の企業も次々倒産し、日本発で世界を巻き込む金融危機に至るかも分らない。

わが国のGDPは内需中心であり、変化を拒む既得権の構造が確立しているからGDPの2倍も借金を膨らませることができたので、貧乏人が生活苦で借金すれば金利と消費税と2重に取られることになり、消費税をやめろという山本太郎の主張はもっともなのであるが、革命でも起こさない限り不可能で、不可能と分っている理想論を掲げるのはどういうつもりなのかと。


韓国国民にとって、たくさんの倒産・失業者・自殺者が出て運命の変ったIMF危機は大きな傷になっており、この映画の監督は「あの時のあなたの選択は仕方がなかった」というように国民を慰撫する目的で危機全体を図式化・単純化してしまっている。90年代タイやフィリピンや韓国の通貨危機のころ、わが国もバブル経済の後始末で政府が揺れていた。住専などの不良債権をどうするか、責任問題を恐れる大蔵省(財務省)が弥縫策に終始したことも、失われた30年を招いた一因といえよう。

金融危機は「流動性の危機」であり「返済能力の危機」ではない。不良債権なら、不動産とみればどんどん貸した銀行と、銀行や農協の傘下のノンバンク(住専)が悪い。巨大で複雑すぎるネットワークで結ばれ、連鎖的に目減りし、貸し手が資金回収に走る。日本は先行して貿易で儲け、内需型の自己資本が確立しているから、山一や拓銀が潰れてメガバンクなど銀行再編されたけれどもシステムそのものは温存される。韓国は後発で、外需依存でありながら通貨危機で外資が一斉に逃避し、IMF管理による構造改革が行われ、ますます外資に適した国になる。K-popや韓国映画はいまや世界ブランド。立場が弱いから外圧で変化を強いられた。

パプリカっていう曲はあの子どもらが作詞作曲したのかってくらい音楽性が虚無である。情報量が少なく、人間らしくない。システムが変化していないから、そこを母体として育つ若い世代もロボットみたいになる。ただ、いわゆるK-popも、商品として世界で受け入れられているだけで、記号的で人間らしくないことは変らない。少子化も自殺率も日韓共通。もっと大きな、金融とインターネットの結びついたシステムが国家を超えた影響力を持ち、金利と消費税の2重取りのような形でわれわれを縛っているのである—
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永遠に僕のもの

2019-11-20 16:02:08 | 映画(映画館)
El ángel@下高井戸シネマ/監督:ルイス・オルテガ/出演:ロレンツォ・フェロ、チノ・ダリン、セシリア・ロス、ダニエル・ファネゴ/2018年アルゼンチン・スペイン

1971年、ブエノスアイレスの邸宅。天使のように美しい17歳の少年、カルリートスは平凡な両親の心配をよそに住居侵入や窃盗を繰り返し、平然とウソをつく生活を送っていた。転校先でラモンという名の不良青年に魅了され執着するようになったカルリートスはラモンに取り入り、彼の父であり札付きのワルであるホセと共に3人で強盗を繰り返すようになる。犯罪者としての天性を発揮するカルリートスによって大金を手に入れた3人であったが、ホセはカルリートスのためらいなく発砲・殺人する無軌道ぶりを危険視するようになる。やがて警察の検問に引っかかり逮捕されたことからカルリートスとラモンの関係に決定的な亀裂が走り…。

12名の殺人を重ねた実在の殺人犯で、その美貌から「死の天使」と呼ばれてアルゼンチン全土を騒然とさせたカルロス・エディアルド・ロブレド・ブッチをモデルとし、彼をゲイのサイコパスとして描くことで、主演ロレンツォ・フェロの「空虚で不気味だが両性具有的な悪の魅力」を引き出すことに成功したクライム・サスペンス。

 

脱ぎたがーる。いやぼーい。すぐ半裸になる。自分でもかわいいと思っている。私からみて、イアン・ミッチェルとロバート・プラントを足して2で割ったような、まあそうかわいくない。イアン・ミッチェルというのは40代以下であればまったく知らないと思いますが、世界的に若い女性からキャーキャー騒がれた英アイドル・バンド、ベイ・シティ・ローラーズ全盛時に顔だけで選ばれて加入してすぐ辞めた、辞めて自分で組んだバンドも来日したりしばらく人気のあった人ですね。当時としてはかわいかった、いまは小さな童顔の初老。

ほぼすべてのロックバンドは女からモテたくて、たくさんの女を抱くことを目的の一つとして音楽を始める。何度も同じことを述べて恐縮ですが、クラッシュのフロントマン、ジョー・ストラマーには友人の恋人を寝取るという悪癖が…。もちろんそれは彼の自由奔放な音楽性と表裏一体であり、もう死んでしまったから私は安心して彼の自由な音楽を楽しむことができる。

この映画でも音楽が終始重要な役割を果たす。最も印象的だったのは、犯行に使った車を、証拠隠滅のためカルリートスがガソリンをかけて焼いてしまう場面で流れるアニマルズ「朝日のあたる家」スペイン語カバー。歌詞が改作されている様子。「なぜいつまでも過去から逃げられないのか。なぜあなたは俺を捨てたのか」。淫売の母、ギャンブラーの父。



ツイッターで「桜を見る会についての記者会見でbakaABEが『真実こそ重要』と述べると会場で失笑が起った」と目にし、この記事で使うためさかのぼって探したが見つけられなかった。それ自体ウソかも。でもその場にいる全員が「首相はウソにウソを重ねた犯罪者」と知っていることは確か。検察官のように問い詰めないのは、そうすれば上司や記者クラブによって排除され、路頭に迷うから。家族も。政治部の記者になるためのすべての努力が水の泡。記者だけでなく、大多数の国民が同じように現状維持を望み、安倍政権の犯罪を見逃して、こんにちの状況を招いた。

カルリートスは「淫売の息子」ではない。善良な両親、決して貧しくない生い立ち。でも「盗むということを知らない。そもそも誰かの所有物であるという概念がない」とうそぶき、犯罪を繰り返す。同性愛の傾向があり、不良の魅力を放つラモンとその父、次いでムショ返りのミゲルと組むが、いずれも裏切り、ラモンは心中同様に事故死させ、ミゲルについては殺してしまう。ラモンもミゲルも自己陶酔的に「犯罪こそ人間の正義」と語るから、殺されるのも道理だ。

カルリートスの自由は、自分がかわいいという幼児的な自己愛や全能感の表れであり、刹那的な快楽のため犯罪を繰り返し、他人を傷つけることで、だんだん苦しい状況へ追いやられる。車を燃やす場面は象徴的だ。自己愛性の人格障害のように描き、彼の特異性を際立たせ、映画としては軽く楽しくみられる。しかし中南米各国に政情不安が続き、貧富の差が激しく、治安が悪いという社会環境の問題と、彼の「犯罪の自由」を切り離して考えることはできない。

日本人は行列が好き。秩序を好み従順。労働者としては優秀。なのでアルゼンチンのように先進国から転落するとは考えにくいが、決して安倍晋三と側近たちだけのせいでなく、だんだんと中南米諸国に近い社会状況になってゆくことは避けられないでしょう。

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