(アメリカからの里帰り)幕末・明治KANBAN展@1984年に日本橋高島屋など3ヵ所で開催
米国マサチューセッツ州セイラム市のピーボディー博物館には、「大森貝塚」の発見者としてわが国の考古学の祖となったエドワード・モース博士が収集した、幕末・明治の日本人の生活をしのばせる膨大な民俗資料・民芸品が眠っている。彼が3度の来日を通じて日本に愛着を感じ、熱心に集めたそれらは、文明開化によって急速な西洋化のもたらされたわが国ではもはやお目にかかれない、貴重なコレクションといえよう。
集められたものは櫛、かんざし、キセル、下駄、職人道具、武具など多岐にわたるが、この展覧会では実際に使用されていたとみられる看板約130点を中心に展示したもので、およそ100年前の日本人の社会、経済、風俗、そして街頭の活気までがよみがえるようだったのではないだろうか。
薬屋(80×110.5cm)
薬屋・胃腸薬(83×43.5cm)
八百屋(42×91cm)
下駄屋(28.5×26.6cm)
易者(86.5×60.5cm)
木彫師(直径43.5cm)
エドワード・モース(Edward Sylvester Morse・1838─1925) モース博士は貝塚を発見しただけでなく、日本文化をアメリカに紹介するなど、日本ととても深いつながりを持っている。
メイン州ポートランドに生まれた彼は、少年時代から生物学を志し、ほぼ独学で生物学者となったが、考古学や天文学などにも好奇心旺盛であった。彼が日本政府の招きに応じて「お雇い外国人=近代化を目指す日本の若い人材に学問や軍事を教える」として来日したのは1877(明治10)年のこと。貝類の研究をしていた彼は、横浜から東京へ向かう汽車の窓から、貝の残骸が層になったような場所を大森駅過ぎに発見した。東京大学の教授となったモース博士は本格的な発掘調査を行い、貝だけでなく土器や石器、人の骨も発見し、日本で初めての遺跡調査報告書をまとめた。「縄文」という言葉も、彼が「Cord marked pottery」と記述したのが当初「索紋土器」、やがて「縄文土器」と訳されて定着したものである。
モース博士は日本にただならぬ愛着を感じ、計3度の来日を通じて全国各地を旅行し、民芸品などを熱心に集めた。そして日本人の生活を記録し、帰国してから『Japan day by day』という本にまとめたのである。↑図のように看板についても絵入りで詳しい考察を行っている。
彼は、大都市から離れた田舎でさえも熟練した職人が数多いことに鮮烈な印象を持ち、「3600万人の住むこの国のどこに行っても、芸術的な仕事をする人びとと、その作品を評価できる人びとがたくさんいる」と述べている。いっぽうで富国強兵・殖産興業の道を選び、急速に変わりゆく日本を目にして「強い力をもち、かつ利己的で商業主義的な西洋の国々とやむをえず交渉をもつようになって、かつてない変化と改革を体験しつつある国家と国民、その姿を調査しておくことは何にもまして重要なことだろう」と記し、また「この国の文化は、日ならず、西欧化の波にのまれて消え去ってゆくであろう」とも記した。そして持ち帰った収集物は、モース博士が名誉館長を務めるピーボディ博物館に収蔵されることになった。彼は関東大震災の報にショックを受け、書き改めた遺言のとおり蔵書は死後、すべて東京大学に寄贈されたのである。
米国マサチューセッツ州セイラム市のピーボディー博物館には、「大森貝塚」の発見者としてわが国の考古学の祖となったエドワード・モース博士が収集した、幕末・明治の日本人の生活をしのばせる膨大な民俗資料・民芸品が眠っている。彼が3度の来日を通じて日本に愛着を感じ、熱心に集めたそれらは、文明開化によって急速な西洋化のもたらされたわが国ではもはやお目にかかれない、貴重なコレクションといえよう。
集められたものは櫛、かんざし、キセル、下駄、職人道具、武具など多岐にわたるが、この展覧会では実際に使用されていたとみられる看板約130点を中心に展示したもので、およそ100年前の日本人の社会、経済、風俗、そして街頭の活気までがよみがえるようだったのではないだろうか。
薬屋(80×110.5cm)
薬屋・胃腸薬(83×43.5cm)
八百屋(42×91cm)
下駄屋(28.5×26.6cm)
易者(86.5×60.5cm)
木彫師(直径43.5cm)
エドワード・モース(Edward Sylvester Morse・1838─1925) モース博士は貝塚を発見しただけでなく、日本文化をアメリカに紹介するなど、日本ととても深いつながりを持っている。
メイン州ポートランドに生まれた彼は、少年時代から生物学を志し、ほぼ独学で生物学者となったが、考古学や天文学などにも好奇心旺盛であった。彼が日本政府の招きに応じて「お雇い外国人=近代化を目指す日本の若い人材に学問や軍事を教える」として来日したのは1877(明治10)年のこと。貝類の研究をしていた彼は、横浜から東京へ向かう汽車の窓から、貝の残骸が層になったような場所を大森駅過ぎに発見した。東京大学の教授となったモース博士は本格的な発掘調査を行い、貝だけでなく土器や石器、人の骨も発見し、日本で初めての遺跡調査報告書をまとめた。「縄文」という言葉も、彼が「Cord marked pottery」と記述したのが当初「索紋土器」、やがて「縄文土器」と訳されて定着したものである。
モース博士は日本にただならぬ愛着を感じ、計3度の来日を通じて全国各地を旅行し、民芸品などを熱心に集めた。そして日本人の生活を記録し、帰国してから『Japan day by day』という本にまとめたのである。↑図のように看板についても絵入りで詳しい考察を行っている。
彼は、大都市から離れた田舎でさえも熟練した職人が数多いことに鮮烈な印象を持ち、「3600万人の住むこの国のどこに行っても、芸術的な仕事をする人びとと、その作品を評価できる人びとがたくさんいる」と述べている。いっぽうで富国強兵・殖産興業の道を選び、急速に変わりゆく日本を目にして「強い力をもち、かつ利己的で商業主義的な西洋の国々とやむをえず交渉をもつようになって、かつてない変化と改革を体験しつつある国家と国民、その姿を調査しておくことは何にもまして重要なことだろう」と記し、また「この国の文化は、日ならず、西欧化の波にのまれて消え去ってゆくであろう」とも記した。そして持ち帰った収集物は、モース博士が名誉館長を務めるピーボディ博物館に収蔵されることになった。彼は関東大震災の報にショックを受け、書き改めた遺言のとおり蔵書は死後、すべて東京大学に寄贈されたのである。