マガジンひとり

自分なりの記録

雑誌の興亡 #8

2009-01-29 22:06:03 | Bibliomania
【71】生産者のため - 遜色ない国産品が実現
『暮しの手帖』の広告を載せない方針のため可能となった「商品テスト」は、やがて消費者やメーカーにも影響をおよぼす存在となり、同誌の部数増にも寄与した。石油ストーブの場合は昭和35年、37年、43年と3回にわたってテストが行われたが、1回目では英アラジン社のブルーフレームという製品が評価されたのみで国産品はどれもお話にならないと切り捨てられ、2回目で国産品にも、まあまあ、というものが現れ、3回目にしてアラジン社と遜色ないものが国産品でも可能になったのである。こうして消費者のためというより生産者に、いい製品を作ってもらうための有効な手段となった「商品テスト」であったが、花森安治の硬骨ぶりはそれにとどまらず、戦時中に軍曹から聞いた「兵隊は一戔五厘の葉書でいくらでも召集できる」との言葉への怒りから、読者の体験談を募集して「戦争中の暮しの記録」を特集したり、自ら「見よぼくら一戔五厘の旗」という長編詩を執筆して平和と民主主義を鼓舞し、政府や大企業を批判していこうと述べた。

【72】小用に立たなければ - 週刊誌ブーム火付け役に
ここからしばらく週刊誌のことについて。『週刊朝日』の編集長として戦後の週刊誌ブーム火つけ役となった扇谷正造は、朝日新聞の社会部記者として入社したため雑誌などの出版局へ行くことを打診されてもそのつもりはなかったのだが、編集局長と局次長から奨められてる最中にトイレへ立って、用を済ませてるまさにそのとき出版局長から「決心はつきましたか」と問われては引き受けないわけにいかなかった。扇谷が副編集長になったときの『週刊朝日』は10万部の部数で返品が2割5分、欧米の新聞の日曜版のような内容を目指して毎日新聞社の『サンデー毎日』とともに大正時代から創刊されたがあまり売れずに小説なども掲載するようになっていた。

【73】3つの助言 - 大衆誌、人間くさく、固定欄
扇谷正造が社の先輩たちに『週刊朝日』の今後のあり方について相談したときに得られた3つの役立つアドバイス。荒垣秀雄氏の推した“ニュース大衆誌”という方向性。岡一郎氏の「人間くさく作るんだネ。何から何まで人間、人間、人間だよ」との言葉。秋山安三郎氏の「毎号何から何までガラッと変えるよりも固定欄をいくつか作って、そのワクの中で目先を変えていけば」という助言。これらの言葉をまず具体化させようとした最初の企画が、フランス文学者の辰野隆(ゆたか)に自叙伝を書いてもらうことであった。(下画像:扇谷正造が編集長をしていた頃の『週刊朝日』昭和24年8月28日号)



【74】対談企画 - フランス仕込みで大当たり
この企画を授けてくれたのは、扇谷の東京帝大の先輩にあたる野沢隆一で、彼によれば「辰野博士の自叙伝はそのまま明治、大正、昭和の文化史になる」と。ところが、扇谷は辰野氏と初対面の席で機嫌をそこねてしまい、なんとかとりなしてようやく「書くのはいやだが対談なら」ということでまとまった。辰野氏が13人のゲストを招いた連載対談は読者の好評を呼び、これ以後『週刊朝日』は高田保、浦松佐美太郎、獅子文六など連載対談を売り物として部数を伸ばしてゆく。

【75】トップ記事 - 新人記者を鍛える
獅子文六がホストの対談「面白き人々」を連載中、彼が胃の手術をすることになって急遽ピンチヒッターとして起用されたのが、サイレント映画の活弁士出身で声優やラジオの仕事もこなした徳川夢声であった。やがて夢声がホストを務める「問答有用」は、吉川英治の連載小説「新・平家物語」とともに『週刊朝日』の大看板となってゆく。扇谷はこうして固定欄を固め、さらにトップ記事を強化すべく新人記者たちに中心となって取材・執筆させた「しんせいは語る―いとも悲しき生い立ちの記」「ある保守政治家―犬養健」などの鋭い記事を生み出す。

【76】共同執筆の人物論 - 段違いの機動力発揮
評論家の大宅壮一は昭和3年の論文で、フランスの作家デュマが『モンテ・クリスト伯』などの作品を弟子たちの取材した材料から執筆したので、小説は集団で執筆できると指摘し、さらに自ら翻訳や人物論の執筆を集団で行ったのである。扇谷は学生時代に大宅の仕事を手伝ったことがあり、その体験から、著者個人の情熱よりも集団の機動力を活かした“調べた人物評論”に記事としての客観性を感じていくつかの人物論トップ記事を複数の記者に共同執筆させた。それらのやり方はやがて『週刊朝日』の部数を150万部にまで達させ、彼は週刊誌ブームの立役者となる。

【77】集金のとき - 新聞代なら払うのだが
扇谷は『週刊朝日』の副編集長から編集長となるまでの間にいったん「夕刊朝日新聞」の学芸欄を担当することになったが、その当時、『改造』編集長の小野田政と酒に酔って喧嘩となり小野田の耳を食いちぎるという不祥事を起こした。しかし扇谷は戒告処分となっただけで社にはとどまることができ、それを契機に彼は『週刊朝日』に戻って部下を面罵することはあっても手を出すことはしなくなり仕事にいっそう精を出した。彼は、ただ編集のことを考えるのでなく読者層を開拓して雑誌を営業的に成り立たせることを常に意識したが、これは当時の同誌の部数の半数ほどは新聞専売店を通じて出ており、月末の集金の際に新聞代に比べて雑誌代は払うことをもったいながるようなそぶりがしばしば見られたことも影響したようである。

【78】平均的読者像 - 対象を割り出す数式
扇谷正造は大阪の販売店主から、こう言われたことがあった。「扇谷さん、あなたは家を訪問するとき玄関から入るでしょうが、私どもは勝手口からです。最初に新聞代をいただくと奥さんがガマグチをパチンとしめる。週刊朝日の代金もというと、奥さんが不満そうにパッと口金をあける。どうか、パチンのあとのパッが気持ちよくあくような雑誌をつくって下さい」。こうしたことから彼は「平均的読者像」として子どものいる主婦を意識し、『週刊朝日』を“男性用婦人雑誌”として編集することにしたのである。(下画像:扇谷正造氏を追悼する草柳大蔵氏の文章~『週刊朝日』平成4年4月24日号)



【79】週刊誌源平合戦 - 二枚看板と一枚看板の差
扇谷はそれまで前例のない週刊誌の「型」を創りだして、その部数を伸ばすとともに出版界に市民権を得させ、追随して『週刊サンケイ』『週刊読売』『週刊東京』といった新聞社系の週刊誌を登場させるほどであった。創刊以来のライバル『サンデー毎日』では源氏鶏太の「三等重役」という連載小説が人気を博したものの、『週刊朝日』には「新・平家物語」の他にも「徳川」(夢声)という強い味方が控えていたので、週刊誌の“源平合戦”は朝日ややリードの情勢。昭和33年新年号で150万部にも達するその影響力は、同年3月16日号に「隠れたベストセラー『人間の条件』」というトップ記事が出たため、全6部で19万部の売り上げにとどまっていた同小説を同年末までに総部数240万部の大ベストセラーにするほどであった。

【80】創刊の意図 - 大衆雑誌で経営安定化
やがて新聞社系の週刊誌を追って台頭してきたのが出版社系の週刊誌で、その先鞭をつけたのが文芸書のほか月刊の小説雑誌くらいしか手がけていなかった新潮社から昭和31年に創刊された『週刊新潮』である。同誌の創刊時の編集長を務めたのは後の社長・佐藤亮一で、彼は小学生のころ祖父で初代社長の佐藤義亮が大衆雑誌『日の出』を失敗させて返品に次ぐ返品、大赤字となったことを覚えており、そうした失敗だけはしたくなかったが、出版社の経営を安定させ大をなすためにはどうしてもよく売れる大衆雑誌を持たなければならない、との念願は共通していたのである。
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旧作探訪#47 『カッコーの巣の上で』

2009-01-28 20:58:01 | 映画(レンタルその他)
One Flew Over the Cuckoo's Nest@NHK-BS2, ミロス・フォアマン監督(1975年アメリカ)
反体制の若者たちのシンボルとして1962年の初版以来300万部以上を売ったというケン・キージーの同名小説を映画化。精神病院を舞台とする問題作のためメジャー映画会社は尻込みして幻の企画となりかけていたが、最初に映画化権を買ったカーク・ダグラスの息子マイケル・ダグラスと有名プロデューサー、ソール・ザンツが組んでオレゴン州立病院にロケーションしてようやく製作にこぎつけた。
刑務所の強制労働から逃れるため精神病を詐病して州立精神病院へやって来たマクマーフィー(ジャック・ニコルソン)。彼はそこで病院側に管理・抑圧されて無気力な日々を送る入院患者たちの姿を見て変革を試みる。テレビでワールド・シリーズを見られるよう多数決を呼びかけたり、患者たちを外へ連れ出して船で釣りを楽しんだり。それにつれて明るさや人間らしさを取り戻し生気に満ちた日々を送るようになる患者たち。だがそれらの出来事は、やがてマクマーフィー自身の破滅を呼び起こす悲劇へと転化していく…。
多彩な脇役たち、憎まれ役を一手に引き受けた看護師長役のルイーズ・フレッチャーの好演もあって、精神病院という極限地を舞台として権力や抑圧の問題を提起しながらも、そこにとどまらず人間の自由や尊厳を浮き彫りにしたヒューマニティーあふれる名作となった。1976年のアカデミー賞では作品、監督、主演男優、主演女優、脚色という主要5部門を制する快挙を達成。



今でも完治してないよ。オラの心の病気?脳の病気?いわゆるひとつの精神病。4週間に1回、入眠剤を処方してもらうため精神科クリニックへ足を運ぶ。これまでもカミング・アウトはしてきたものの「精神科へ長期入院」とかいって「精神病院」という言葉は避けてきた。あまりに重い。精神病院という言葉は。オラの場合、最初の4ヵ月は総合病院の精神科病棟にいて、いったん退院したもののやっぱり調子悪くて別の、ほとんど精神科のみの病院へ約2年間入院。精神科医というのは病気を治せない。向精神薬と時間が治す。それはとても時間がかかる。2番目の病院で、ほぼオラと同時期に入院してきたOさん。統合失調症で幻聴に襲われ、「天皇陛下がAIDSで死ぬぅ~~!!」とか叫んだりもしたとか。オラより早く1年半ほどで退院していった。そんなふうに激しい発症でもわりと早く治る人もいるが、だいたい慢性化していて、ず~っと入院してたり、あるいは出たり入ったり。そういう人たちは、外見上は健常者とほとんど見分けがつかない場合が多い。どこが悪いのか、どうして治らないのか、よくわからない。TVに出ていばったり暴言吐いたりしてる人たちのほうがよっぽど狂人ぽいわよん。キチガイに刃物。橋下に政治。田母神に核ミサイル。
これまでの映画などで精神病者たちを描くのに、奇声を発したり、挙動不審だったり、歌ったり踊ったり、閉鎖病棟では多少それに近いこともあるかもしれないが、開放病棟ではそういうわかりやすい見え方はしてない。どことなく覇気のない人が多いけれども、その境遇を思えば当然のことである。このたび初めて見ることになった『カッコーの巣の上で』。前半では、みなさんわかりやすい狂人ぶりのような。またアメリカン・ニューシネマの系譜に連なる反体制の映画と見られがちにさせるほどの、ルイーズ・フレッチャー演じる高圧的な看護師の憎たらしいことといったら…。しかし話が進んでいくにつれ、だんだんと一人一人の患者たちの人物像が、彼らのそれぞれ背負ってる人生が見えてくる。それを、ただもう押さえつけようとする病院側に対し、彼らを人間として仲間としてあつかって解放しようと奮闘するジャック・ニコルソン。たまたま舞台が精神病院というのが効果的で前例がなくてアカデミー賞をかっさらったかもしれないが、もっと普遍的にいろいろな社会に適用しうる、秀逸な人間ドラマ、群像劇と呼べるのではないだろうか。登場人物のビリーとかチーフとか、各自の個性がよく描かれていて他人のように思えないナ 病院にもいたなあ ちょっと懐かしいかも…絶対に戻りたくないけんども、かつてのお仲間さんと年賀状のやり取りくらいはしてますよ。 

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ポスターのユートピア ~ ロシア構成主義のグラフィックデザイン

2009-01-13 22:58:55 | Bibliomania
永遠の輝きを得た「時代の美術」 ~ロシア構成主義とポスター~ (抄)
エレーナ・バルハトヴァ Elena Barkhatova
20世紀の初頭に台頭したロシア・アヴァンギャルドの名で知られる芸術運動の中でも、ヨーロッパのモダニズムと密接に関わった構成主義の一派による絵画、グラフィックアート、建築、映画、デザインなど諸分野での独創的発達は、1917年のロシア革命と世界初の社会主義国家建設という壮大な実験性をも反映しており、多くの到達が失敗に終わったと見なされソビエト全体主義への批判もあるとしても今なお有意義である。1910年代に未来派の出版物とともに現れたヴラディーミル・マヤコフスキーら詩人たちは、古典的な規範や言葉の優越性から解放されて、「超理性的」あるいは「超論理的」言語といった原理や、工業化の進む都市・都会の生活様式と大衆のエネルギーを称揚したのである。未来派の本の多くには美術家も参加し、文字テキストと絵画的イメージの調和という考えのもと斬新な構図、レタリング、切り紙絵やコラージュなどの工夫を凝らして手作りの少部数の本を世に送った。同じ時代には芸術のあらゆる分野でも、従来の具象美術の枠を壊すような試みが盛んとなり、造形的絵画、絵画的彫刻、空間的絵画、素材の絵画的処理など「芸術から生産へ」というスローガンも掲げられて、前時代の純粋美術よりも工学機器や日用品をも範疇とするよう広がってゆく。家具、衣服、食器、さらには庭園や鉄道―すべてに創造的意志を行き届かせることこそ、革命の理念の実現と考えられたのである。それらを実践する芸術家や職工たちがモスクワで創作工房や教育機関を開設して集まり、1920年代初頭には早くも構成主義を謳った展覧会がいくつも行われるまでになる。その最初の綱領的マニフェストとなったのがアレクセイ・ガンの著した『構成主義』で、彼は特に20世紀的な芸術手段として映画を重視し、彼も参加した映画と写真の専門誌『キノ・フォト』では一冊全体がアレクサンドル・ロトチェンコによる写真とタイポグラフィーを組み合わせたモンタージュでデザインされるなど構成主義を象徴する存在となった。
イーゼル絵画を前時代的なものとして否定するようなその動きの中で、ロトチェンコらは当然のようにポスターに対して最大の可能性を見出すようになる。雑誌『レフ(芸術左翼戦線)』を媒介として集った多くのアーティストたちは、マヤコフスキーの言葉に沿ってポスターを作り、さらにそれは本来の実用的に備えた機能としての広告の方向へも向かってゆく。マヤコフスキーとロトチェンコは1923年、ソヴィエト最大手の商業団体モスセルプロム(20の店舗と100のキオスクを抱えていた)の商品を宣伝する、文字と写真によるモンタージュ広告を発表、その一点一点に記された「モスセルプロムだけにしかありません」というキャッチコピーはロシア語では韻を踏むことができ、力強く響いた。二人はそれから広告デザイナーとしてコンビを組み、モスセルプロムのみならず多くの企業の広告宣伝を手がけるものの、この大衆消費社会を先取りするような活動にもかかわらず、実のところソビエトの消費者は広告やポスター制作の原動力たりうる競争原理よりも、構成主義の力強いデザインが象徴する国家経営企業・集団経営企業のイメージに惹かれていたのである。
こうした事情と、1924年にはレーニンも死去したことにより、人びとは早くも構成主義の中に潜む俗物趣味に気づいて激しい批判も起こってくるものの、その彼らにしても構成主義ポスターの大衆に対するあまりに直截な訴求力については認めないわけにいかなかった。その帰結として、マルクス主義的理念を称揚しつつ広告宣伝のパワーも最大限に活かす、映画ポスターが中心的かつもっとも斬新な表現を追及できる場として注目されてゆく。そこでは俗な方向に流れがちであったモンタージュの手法も激変とさえいえるほど新しい手法が試みられ、中でもエイゼンシュテイン監督による映画『戦艦ポチョムキン』や『十月』のポスターは、映画という新時代のダイナミックな表現手段そのものを象徴的に表して強い印象を刻んだ。主要なアーティストたちがそれら映画に向けたポスターをこぞって競作し、ゲオルギーとヴラディーミルのステンベルク兄弟による作品は、構成主義の理論的原則に則ったうえで、機知に富むスローガン、さまざまな視点からの珍しいアングルなどを大胆に取り入れて高い評価を獲得した。
またもっと実用的な分野では、構造主義ポスターが広告=形式主義的なものへと堕するのを防ぐためとも称されて、亡くなったレーニンの写真もしばしば登場するようになった。ロトチェンコは「スナップショットを入れ込めば、誰にもレーニンを理想化したり偽ったりすることはできない」とも語ったのだが、フォトモンタージュの構図の中ではそれらがレーニン像を偉大なるシンボルにしてしまうのは必然であり、やがて故人に代わってしだいにヨシフ・スターリンのものが現れてくる。スターリンは1920年代終わりから30年代初頭にかけて戦友たちを容赦なく排斥しながら台頭してきた存命中(当時)の指導者である。そして構成主義者たちが「時代の美術」と呼んだポスター・デザインはソビエトの政治状況の中に組み込まれ、1931年に共産党中央委員会が決議した「ポスターについて」などで厳しい監視・検閲下に置かれて美術の中でも特に共産党の厳しい規格化および思想的統制のもと、急速にその活気と創造性をしぼませていったのである。

上画像「映画“十月”」ゲオルギー・ステンベルク、ヴラディーミル・ステンベルク(1927)



「レフ(芸術左翼戦線)1号」アレクサンドル・ロトチェンコ(表紙デザイン・1923)



「社会主義国の自動車を大切にしよう。自動車は良い道路、注意深い保管、時を得た修理、熟練した運転技術を必要とする」セルゲイ・イグームノフ(1930)



「映画“熱烈な王子”」イオーシフ・ゲラシモーヴィチ(1928)



「映画“戦艦ポチョムキン”」ゲオルギー・ステンベルク、ヴラディーミル・ステンベルク(1929)



「レーニン。1万の敵それぞれを迎え撃つために我々は新たに数百万の戦士を招集する」ニコライ・アキーモフ(1925)

ロシアの夢 1917-1937
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旧作探訪#45 『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』

2009-01-12 22:23:53 | 映画(レンタルその他)
@レンタル、押井守監督(1984年・日本)
TVアニメ・シリーズにもたずさわる押井守の手になる劇場版第2作で、彼の映画監督としてのキャリア初期を飾る傑作。
明日は友引高校の楽しい学園祭…のはずなんだけど。あたるたちの上を下への大騒動にもかかわらず、不思議なことにいっこうに学園祭当日はやって来ないのだった。この異変に気づいた温泉マーク先生とサクラは、謎の解明に乗り出した。しかし温泉マーク先生はいつの間にか姿を消し、錯乱坊までが消えてしまった。
さらに不思議なことに、あたるとラム以外は帰宅することもできないのである。陸がだめなら空からと面堂の戦闘機に乗り込んだ一同が見たものは、なんと巨大なカメの背に乗っかり、宙を飛んでいる友引町だったのだ。
あたるたちのサバイバル生活が始まる。上機嫌なのはラムだけ。竜之介がしのぶがと一人また一人と消えていくのだった。サクラと面堂はあたるを囮にして事態を解明しようと試みる。そして、とうとう自分たちのいる世界が夢邪鬼(むじゃき)のこしらえた夢の世界であることを突き止めるもののサクラたちも消されてしまい、一人残ったあたるはこの夢を作り操る夢邪鬼と一騎討ちすることに。果たして、あたるとラムは夢邪鬼の術を破り、現実の世界へと戻ることができるのだろうか…。



マンガを全巻揃えるってぜいたくよね。かさばって。引っ越しのたびに処分。いったん手放したマンガを再び買い揃えるとか。『うる星やつら』と『パタリロ!』のオリジナルのコミックスはどちらも15~16巻のあたりから買わなくなった。そして27才で一人暮しを始めるにあたり『うる星~』は最初の4巻を残して、『パタリロ』はすべて売り払ってしまった。今にして思えばパタリロのコミックスには後の版や文庫版では不都合があって削られてしまった回が載ってたりしたので、もったいないことはもったいないけど、そんなふうに選んだり捨てたりすることってけっこう大切なんじゃないかと。いくたびかの取捨選択を経ても生き残ったマンガ本のありがたさ。
ギャグマンガがいつまでも新鮮であるのは非常にたいへん。うる星やつらも竜之介の出てくるあたりから落ちてきてる。しかし正直最初の4冊については驚くほど中味が濃くておもしろい。いろいろ変なものを意図せずして呼び出してしまう運勢の持ち主・諸星あたる。第1話で彼と地球侵略を賭けた鬼ごっこをする異星人のラムちゃん。第2話ではラムちゃんは登場せず、むしろヒロインはもともとあたるのガールフレンドであったしのぶのようにも。それ以外のさまざまな登場人物たちも、TVアニメではわりと最初のほうからいたように記憶してるテンちゃんなど、原作ではかなり後になってから登場する。どの話も基本的に一話完結でオチがついており、原型のままアニメ化するのにぴったりだったであろうし、当時もそう思い込んでいたのだが、このほど久しぶりに傑作と名高いビューティフル・ドリーマーを見て、ああ、原作とアニメは別物だったのねえ…と。
こんなに、オタクという言葉でしか表せない独特の気持ち悪さのある映画と思ってなかった。もっと普遍的な作品かと。たとえ押井監督に高邁な意図があったとしても、これでは80年代当時のアニメとかオタク文化の文脈をわかってないと、とても伝わるものではない。そもそもTVアニメ化の段階でいくらか余分なものが加わってる気配で、中でもこのたび気になったのが「キャラクター化および微温化」。登場人物がそれぞれ役割分担して、ある種、類型的なキャラクターを演じ、ぬるま湯的にここちよい世界を構成する。同時期に他でも見られた。ドラえもん、ちびまる子ちゃん、水戸黄門とかの時代劇、特に萩本欽一のお笑い番組。欽ちゃん番組は後になるにつれ安直なキャラクターで笑いをとる傾向が強まっていった。
うる星やつらの原作は、もっとパンチが利いている。ラムちゃんが再登場してあたると同居することが決まる第3話とかすごい。UFOタクシーの運賃が地球の貨幣価値に換算するとべらぼうに高くて、取立てのため世界中の石油を吸い上げるとか。また当時TVアニメが評判を呼んだ理由でもあるラムちゃんのお色気表現、これもまた意外なほど穏健に抑えられている。マンガにおけるラムちゃんやしのぶはなまなましい。裏を返せばアニメのみで「メガネさん」なる名前を与えられてるキャラクター、押井監督の分身ともされているが、ラムちゃんを好きでたまらないがあたるの本妻であることは認めて親衛隊みたいにふるまう、なんて気持ち悪いよな。高橋留美子さんは考えないよ。
いわゆる《ラムちゃんの発想する母胎回帰的に微温的な夢の世界から、ラムちゃんを好きでいるためにもどうしてもそこから脱出して自由をつかみたい男の子の諸星あたる》とはちょっと異なって、オタクが自分で作ったおもちゃを自分で壊してるだけのようにも見える。日本のアニメーション自体が、なにか不思議な制約を受けた表現である感じが。

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雑誌の興亡 #7

2009-01-04 23:22:35 | Bibliomania
【61】平凡アワー - ラジオと連動、立体編集
『平凡』がメディアミックスによって、まったく斬新な方法で雑誌を展開したことは、阪本博志『「平凡」の時代 1950年代の大衆娯楽雑誌と若者たち』でも論じられ、さらにこの本では『平凡アワー』というラジオ番組の果たした画期的な役割が指摘されている。そこでは『平凡』のグラビア頁と連動した流行歌や映画があつかわれ、印刷媒体を立体的にふくらませてゆくコミュニケーションが試みられていた。

【62】類似誌 - 表紙から内容まで追随
大判化によって“見る雑誌”となった『平凡』の100万部を超えるような人気に便乗して、『東京』(東京出版)、『明星』(集英社)、『星座』(三幸社)といった、タイトルロゴやレイアウトまで『平凡』の影響下にある類似雑誌が続々と現れた。しかしこのうち継続されたのは『明星』のみであり、また『平凡』が範とした『ロマンス』も版元の分裂や倒産を経て消えていった。

【63】「暮しの手帖」 - 創刊時からの終身編集長
『平凡』の凡人社がマガジンハウスとなってゆくまでの歴史はひとまず措き、戦後に創刊された中でも今も着実に発行されている『暮しの手帖』を採りあげたい。同誌の昭和23年9月の創刊から、自身が53年1月に亡くなるまで30年間ずっと編集長を務めた花森安治という人。彼は『平凡』の岩堀喜之助と同じように戦時中は大政翼賛会に勤めており、戦時下に苦労して青春を送ったような人びとにも喜んで読んでもらえて商売にもなるような雑誌を出したいと考えていた暮しの手帖社社長の大橋鎭子(しずこ)と戦後になって出会う。(下画像:『暮しの手帖』編集長を創刊以来30年にわたって務めた花森安治)



【64】丸ごと花森色に - 新時代の装いを提案
大政翼賛会が解散して失職した花森が、たまに旧制高校で同窓だった田所太郎の編集する『日本読書新聞』に顔を出してイラストを描いていた、そこへ大橋が雑誌の創刊について相談に訪れて花森を紹介されることになった。やがて二人は意気投合し、特に大橋の考えていた、深刻な物資不足のおり女性たちに手持ちの洋服・和服を再利用してもらうようなスタイルブックを作るのに、東京大学で服飾関係を中心とした美学を学んだ花森はうってつけであった。

【65】事務所は銀座に - 予約読者の長い行列
「ファッションの仕事をやるなら事務所は銀座だ」と主張した花森のため、大橋がなんとか物件を見つけると、彼は編集長として獅子奮迅の働きで、表紙の絵もスタイル画も文章、割付、校正まで自ら手がけて『スタイルブック』を昭和21年5月末に発行した。やはり彼の提案で《たとへ一枚の新しい生地がなくても、もつとあなたは美しくなれる/スタイルブック/定価十二円送料五〇銭/少ししか作れません/前金予約で確保下さい》との小さな新聞広告が出され、事務所のあるビルの前には予約読者の長い行列ができ、郵便為替も連日届いた。

【66】衣食住の総合誌 - 「美しさ」へのこだわり
創刊号は成功した『スタイルブック』もやがて類似誌が出るなどして売れゆきが落ち、翌年に出した『働くひとのスタイルブック』もさっぱり売れなかったので、花森たちは衣食住全般をあつかう『美しい暮しの手帖』の創刊を企画する。B5判96頁、定価110円で創刊された同誌の表紙の裏側にある《これは あなたの手帖です/いろいろのことが ここには書きつけてある》との言葉に始まるメッセージは、今でも表紙裏に掲載されている。(下画像:『暮しの手帖』創刊号)



【67】リュックの販売旅行 - 一駅ずつ降りて本屋へ
しかし花森と大橋は、取次会社が「誌名が暗い」だの「婦人雑誌は女の顔がなければだめです」などと言って発行1万部のうち5千部しか引き受けてくれないという厳しい現実に直面する。しかたなく編集室のみなはリュックサックに雑誌をぎっしり詰めて各地の本屋へ雑誌を置いてもらえるよう行商に出ることになった。

【68】広告無掲載 - 「商品テスト」が可能に
そんなに苦労してまで『暮しの手帖』を売らねばならなかったのは、通常の雑誌が購読料収入以上に重視する広告収入、それが広告を載せない方針のためあてにできなかったからである。花森は編集者が苦労して編集したレイアウトに広告がズカズカと踏み込んでくることに耐えられなかったし、広告を載せることでスポンサーの圧力を受けることも排したかった。やがて「広告無掲載」でも雑誌を成り立たせる、売れる企画も5号目にして実現することになる。

【69】やりくりの記 - 皇室発の「特ダネ」
すでに「美しい」が取れて『暮しの手帖』となった5号の本文巻頭に掲載された「やりくりの記」という随筆。その筆者名が東久邇成子(ひがしくにしげこ)となっていた、彼女こそ昭和天皇の第一皇女から東久邇家に嫁いだ照宮さまであり、皇族の彼女に戦後の乏しい配給生活を執筆してもらうという画期的な企画を大橋が再三にわたって東久邇家を訪れて実現させたのだった。

【70】商品テスト - 順調に部数が伸びる
皇室出身者が筆を執って庶民と変わらぬやりくり生活を記したこの随筆は評判を呼び、5号は完売となった。それ以降も部数は数万部から30万部ほどへと順調に伸びてゆき、中でもそれに寄与した企画が昭和29年の26号から始まった「日用品をテストした報告」で、醤油をテストした回では推奨された醤油に対抗すべく他の醤油が10円値下げすることまで起こった。
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旧作探訪#44 『バスキア』

2009-01-03 22:37:54 | 映画(レンタルその他)
Basquiat@レンタル、ジュリアン・シュナーベル監督(1996年アメリカ)
1980年代にニューヨークのアート・シーンを席巻したものの88年、27才の若さで他界した天才画家ジャン=ミシェル・バスキアの伝説を描く。
バスキア(ジェフリー・ライト)はストリートのグラフィティ(落書き)アーティスト。家出を繰り返し、高校を中退、夜はヒップホップのDJ。彼が描きつけるメッセージは詩情をたたえ、絵は原始的な色彩とパワーにあふれていた。無垢なハートそのものを筆にして描いたようなバスキア・ワールド。アンディ・ウォーホル(デビッド・ボウイ)が絶賛し、NY中の画商が群がった。一夜にして人気アーティストとなるアメリカン・ドリーム。ほとばしる才能にニューヨーカーは魅了され、作品は高値で飛ぶように売れてゆく。そして有名人とのパーティー、女たち、金…。多くの人に愛されながらも傷つきやすい魂を持ったバスキアは、チャーリー・パーカーやジミ・ヘンドリクスに憧れ、麻薬に手を出し、恋人も去ってゆく。そして、敬愛するウォーホルの死の知らせが届く…。



冒頭いきなり「アート界は“生前は不遇だったゴッホ”のような伝説を欲しがっている」との本人の述懐が。彼に接近してきて「“黒人の画家”というのは初めてかも」と言う美術ジャーナリスト。安い金額で彼に先行投資して、絵が売れ出すと「絵を売るときは必ずあたしを通すこと。アトリエに誰か呼ぶときもよ」と宣言する画商。最初の個展で、先述のジャーナリストが予約済みの絵を「どうしても欲しい」と言い張る金持ちそうな汚やじ。汚やじがパトロンになってくれそうなので売ってしまうバスキア。怒って酒席に乱入するジャーナリスト。キツネとタヌキの化かし合いというか。
上画像は1982年の作品の一部で、同じ時代に勃興しつつあったヒップホップ文化との関連をうかがわせ、それは黒人としてアメリカで生きることの過酷さを直接に反映してるゆえのインパクトかもしれず、映画でも描かれるその差別されようはちょっと想像つかないほど。売れたら売れたで別の種類の差別もかぶさってくる。高名な存在で、彼と行動を共にすることも多かったウォーホルについても「バスキアを利用してる」との陰口が。監督のジュリアン・シュナーベルという人はユダヤ系の、これまたニューヨークのアート界で同時期に活動してたとのことで、そんなバスキアを温かいまなざしで描いたこの映画から、『夜になるまえに』『潜水服は蝶の夢を見る』と監督としても長足の進歩を。それにしても出発点がこの伝記映画であったことを考えると、直接よりも間接的に広く影響をもたらす、絵描きさんというよりある意味ミュージシャン的な総合アーティスト・表現者といったような存在だったのではないかしら。
誰かの言ってた「芸術というのはイマジネーションをコミュニケーションしたいという気持ち」って言葉、一点ものの絵を金持ちに買ってもらう画家という商売と馴染みにくい。誰かに買われちゃったら、そこでコミュニケーションが閉じちゃうじゃないですか。絵画よりも版画、あるいは版画よりもマンガのほうが、表現行為の中にあるコミュニケーションが成立してる気配が。そういう意味で音楽というのは、発せられた段階で「みんなのもの」になってる向きがずっと強いのでは。まあ日本の音楽なんてのは特定のリスナーにしか語りかけてなかったりすることもあるみたいだけど、それはまた別の話。
この映画には、ちょい役でゲーリー・オールドマン、クリストファー・ウォーケン、ウィレム・デフォー、また無名時代からバスキアに親切な忠告をしてくれる役でベニチオ・デル・トロなど、配役がたいへん豪華。そんな中にあって、表情の乏しいウォーホルを演じるとはいっても、音楽をやってないデビッド・ボウイというのはあまりにも魅力がなさ過ぎ。ボウイさん、ボウイ債とかつまらんこと考えるよりも音楽をやってください。

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『チェ 28歳の革命』

2009-01-02 19:20:54 | 映画(映画館)
The Argentine@新宿・厚生年金会館、スティーヴン・ソダーバーグ監督(2008年スペイン=フランス=アメリカ)
20世紀最大のイコンとなった、本気で世界を変えようとした男の、熱き《生》がここにある。
1964年、ニューヨーク。一人の男が語る。
「バカらしいと思うかもしれないが、真の革命家は偉大なる愛によって導かれる。人間への愛、正義への愛、真実への愛。愛のない真の革命家を想像することは、不可能だ」
アメリカ人ジャーナリストの、“革命家にとって重要なことは?”という問いに答える、キューバ革命の指導者チェ・ゲバラである。アルゼンチン人医師だった彼は、なぜ、キューバに革命をもたらし、20世紀最大のイコンとなったのか。
1955年7月、メキシコ。持病の喘息を抱えながらも、ラテン・アメリカの貧しい人びとを救いたいと南米大陸の旅を続けるアルゼンチン人の医師エルネスト・ゲバラ(ベニチオ・デル・トロ)と、軍事独裁政権に苦しむ故国キューバの革命を決意するフィデル・カストロ(デミアン・ビチル)は、フィデルの弟ラウル・カストロ(ロドリゴ・サントロ)を介して出会う。わずか82人で海を渡り、2万人におよぶキューバ政府軍と戦うというカストロの正気を疑う作戦に、参加を決意するゲバラ。
「チェ」という愛称で呼ばれ、軍医としてゲリラ軍に加わったゲバラは、平等社会のために戦い、日々心身を鍛え、厳しい規律を守り、農民たちには礼を尽くした。また、女性と子どもには愛情をもって接し、若き兵士に読み書きを教え、裏切り者には容赦ないが、負傷兵には敵味方の区別なく救いの手を差し伸べた。
やがてその類まれなる統率力を認められ、司令官として部隊を率いるチェ・ゲバラ。後に妻となる女性戦士アレイダ・マルチ(カタリーナ・サンディノ・モレノ)にも支えられながら、チェ・ゲバラの部隊はカストロからキューバ革命の要となる戦いを任せられる。それは「大都市サンタクララを陥落させ、キューバを分断せよ」という指令だった…。



今日も年賀状が届いてたよ。郵政民営化。たしか昔は1月2日には郵便配達を休んでた気がするんだけど…。そこまでお客の利便のためサービスする必要があるでしょうかね。あまりにも市場原理が貫徹してしまうのって、なんだかいやだナ お客さんとしてお金を払うから、運転手の接客のよしあしをタクシー会社に申告できるからといって、あんましえばらんほうがええよ。スパナで後頭部を思いっきし殴られまっせ。
人間が人間に対していばる。これはよろしくない。本来人間には貴賎はないはず。天皇家はずっと続いてるからえらい?冗談ではない。みなさんもオラも一人残らず、先祖代々ずっと途切れることなく遺伝子が引き継がれてきた尊い人間。差別させてたまるもんか。手塚治虫先生は『火の鳥・ヤマト編』で、王子として生まれながら命を賭けてまでも、父王の権威主義によって罪もない人びとが殉死の名目で死ななければならない旧弊をやめさせようとするヤマトタケル像を描いた。やっぱし若い人にはそんなふうに育ってほしい。エルネスト“チェ”ゲバラもアルゼンチンのわりと裕福な家に生まれ、医師になるための高等教育を受けた。しかし『モーターサイクル・ダイアリーズ』で描かれた南米をめぐる若き日の旅で、各地の独裁政権・軍事政権の圧政に苦しむ人びとを目にし、さらにはその後ろで糸を引くアメリカ帝国主義の姿をも察すると、なんとかして人びとに自由や平等をもたらそうと革命家を志すことに。言葉でこそ「もしわれわれが空想家のようだといわれるならば、救いがたい理想主義者だといわれるならば、できもしないことを考えているといわれるならば、何千回でも答えよう。そのとおりだと」と語ってるものの、実践的な軍事能力もまたすごいものが。
彼は「無名の兵士の士気が勝敗を決める」と考えており、貧しい家に育った兵士たちの教育を熱心に行う。「読み書きができないと政治家・資本家のウソに簡単にだまされる」。ゲバラやカストロとともにキューバに上陸した82人の兵士たちは、12人しか生き残ることはできなかったものの、新しい兵士を組織化して軍隊に付きものの略奪・強姦などを厳しく排除した果敢な戦いぶりは市民たちからも支持され、逆にアメリカ資本の傀儡でもあるバティスタ政府軍は兵士の士気がいっこうに上がらず、職場放棄なども続出したため数のうえでは圧倒的優位でありながら負けてしまった。キューバ革命の成立。新政府で入閣した彼であったが、やがて他の中南米の国にも自由をもたらそうとボリビアで革命活動にたずさわる、その様子は後編の『チェ 39歳別れの手紙』で描かれるとか。
革命成立は1959年。それほど古い話ではない。プレスリーも兵役に就いたりしてロックンロール旋風もやややんでいたあたりか。ジョン・レノンもチェ・ゲバラを「あの頃、世界で一番かっこいい男だった」と。イギリス人というのは、王家みたいなもんを残してはいるし金融帝国主義にもどっぷり漬かってるけれども、革命とか共産主義をかっこいいものとして憧れてる気配は少しするよナ いっぽう、日本では共産党とか社会党は明らかにかっこ悪いし、革命を謳った赤軍派もあんなことに。そもそも「丸山真男をひっぱたきたい。希望は戦争」とかの今の若い人もさ、平等とか下克上を目指すならば、戦争じゃなくて、普通は革命でしょ。どうしてなんざましょ。ひとつには、恋愛というのは市場原理である。平等もへったくれもない。われわれには男女関係を通じて市場原理・経済の法則が刷り込まれてる。
そして他にも。『水戸黄門』ってドラマをみなさんご存知よね。あれが気持ち悪い。「この紋どころが目に入らぬか!」とか言って、印籠を見せたとたんに悪人どもが「へへええ~~」ってはいつくばる。そんなに徳川家の家紋ってえらいの??悪人たちが天皇家の関係者だった場合には??それよりも、アメリカ軍だった場合は??逆に黄門さま一行がはいつくばるの??
どうもあそこからは「弱きを助け強きをくじく」の理想主義に乏しく、そんな決まりきったもんを喜んで見てる日本人の保守的な精神風土がないまぜになって感じられてならない。それゆえにこそ、因業な金貸しIMFが米資本の意向のもと債務国に強いる構造改革・自由貿易、それを債務国でもない日本にもたらした小泉(毅のほうじゃないよ。あと構造改革が全部だめとは言ってない)なんかが「革命的に新しく」見えちゃったんじゃないでしょか。


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