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水晶歌団に「彼は反逆者」を提供

2006-04-09 16:30:32 | 音楽
4月5日、英国ツアー中だった米歌手ジーン・ピットニー氏、滞在先のカーディフのホテルで死去、65歳。
というニュースを知って"Gene Pitney"でグーグル検索してみたところ「大勢の人が寄ってたかって作りあげるネット版エンサイクロペディア」という触れ込みの“ウィキペディア”なるサイトに初めてたどり着いた。
自動翻訳ソフトを通して読むと、なんだかわからない機械的なグチャグチャ翻訳が面白かったので、今日は曲名をすべてテキトーな日本語で表記します。

1941年2月17日、コネチカット州ハートフォードで生まれ、ロックヴィルの高校でピアノ、ギター、ドラムに親しむ。
自分で歌う、演奏するほか作詞作曲も手がけ、音楽業界では始めのうちは歌手としてよりもタイトルに掲げたクリスタルズの全米No.1ヒットやリッキー・ネルソン、ロイ・オービソンらへのソングライターとして知られるようになった。
彼自身の最初のヒットは、スタジオにこもって演奏やヴォーカルをオーバーダビングして作った「(私は)私の人生を愛しぬきたい」で、その後もイタリアのオペラ風にツヤのある高音で歌い上げるドラマティックなロカビリーで独特の世界を築いた。
主なヒットは「私のすべての息」「同情のない街」「リバティー・ヴァランス(を撃った男)」「半分天国、半分心痛」「メッカ」「タルサからの24時間」で、その中にはフィル・スペクターのプロデュースによる曲や、ハル・デイヴィッド作詞・バート・バカラック作曲の曲も含んでいる。
64年には、アメリカで無名だった頃のローリングストーンズに紹介され、ミック・ジャガーとキース・リチャーズの書いた「昨日に属するあの娘」を歌い、それはジャガー=リチャーズ・コンビにとって初めて全米チャート入りした曲となった。
また遠い日本でも彼の「ルイジアナ・ママ」を飯田久彦がカバーして大ヒットとなった。
「あの娘はルイジアナ・ママ、やって来たのはニュー・オリンズ♪」という軽快な歌い出しは、30代以上の日本人なら知らぬ者はいないであろう。
彼はアメリカ人歌手だが60年代中頃の猛烈な“ブリティッシュ・インベイジョン”の中で、逆にイギリスで多くのファンを獲得することになり、60年代後半にはもっぱら全米チャートよりも全英チャートをにぎわせる存在となった。
その頃の1曲に「何かが私の心をとらえ占めた」があり、この曲は忘れられた名唱を発掘するのが得意なマーク・アーモンド(ソフト・セルという変態エレポップ・デュオを組んでいた)が88年のアルバムで採りあげ、さらにマーク・アーモンドはその曲をシングル・カットする際、スペシャル・ゲストとしてジーン・ピットニー本人を招き、朗々たるデュエットを行った。
その努力は報われ、「何かが私の心をとらえ占めた」は全英チャートのトップを4週間続ける大ヒットとなった。
ジーン・ピットニーの歌った曲では、全米・全英を通じてそれが最初で最後のトップ獲得であった…

以上の文章は、主にローリングストーン誌の出版物を基に、私が書きました。
米ライノー・レコードから出ているバート・バカラックの3枚組み名曲選の、ジーン・ピットニーの部分を中心に少し聴き直してみたが、バカラック以外にもリーバー=ストーラー、マン=ウェイル、ブライアン・ウィルソン、ジミー・ウェッブなど、あの時代のソングライターの力量には、本当に驚かされるものがある。
ライノーのように、宮川泰さん作曲の「逢いたくて逢いたくて」「恋のフーガ」「銀色の道」「宇宙戦艦ヤマト」などをレーベルを超えて集めたCDが作られればいいのに、とも思うが、昨日も書いたように日本のレコード会社は「歴史にリスペクトを払わない」「文化を破壊する」「音楽を金券としてのみあつかう」悪の権化であるから、期待するだけ無駄というものであろう。

The Look Of Love: The Burt Bacharach Collection
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