第100回・水俣セミナー 「吉永理巳子講演会・語れなかった水俣病の父を力として」 @エコギャラリー新宿、8月28日
●講師の略歴
1951(昭和26)年 水俣市明神町の大矢二芳(チッソ勤務)の三女として生まれる
1954(昭和29)年 3歳 父、36歳で急性劇症型の水俣病を発病
1956(昭和31)年 5歳 祖父の大矢安太(漁師)発病。以降、9年間寝たきりとなり、母が下の世話や食事の世話をした
父、原因不明の「水俣奇病」の患者として認定されるが死亡。当時、魚が原因であるとは分からず、1度目の退院後、毎日のように刺身や煮魚を食べさせたのが仇となり、2度目の入院後わずか2日で亡くなった。ひどいケイレンのため寝台に寝させることもできないほどであった
近隣在住のいとこの前田恵美子(1954年生)発病
1971(昭和46)年 20歳 母、患者として認定される
1973(昭和48)年 22歳 祖母、患者として認定される。この後、自身も水俣病様症状(ひんぱんに足が吊る)
1976(昭和51)年 25歳 結婚。開田理巳子となる。この後3人の子に恵まれる
1994(平成6)年 43歳 知人の薦めにより『水俣の啓示 不知火海総合調査報告』(ちくま書房)を読み、初めて水俣病についての正確な事実を知る
水俣市主催の「水俣市再生を考える市民の集い」で自身と家族の水俣病体験について講演。初めて公の場で患者家族であることを語る
「水俣・本願の会」の発足に参加し、事務局メンバーとなる
1996(平成8)年 45歳 未認定患者問題の解決策成立に伴い、特別医療事業の対象者となる
1997(平成9)年 46歳 水俣市立水俣病資料館の「語り部」となる
「水俣・本願の会」の患者らと水俣湾水銀ヘドロ埋立地に石仏を建立
1998(平成10)年 47歳 胎児性患者ら障害者のための共同作業所「ほっとはうす」の設立に参加。運営委員となる。水俣病の経験を伝えるためのフィリピンのセミナーで講演
2000(平成12)年 49歳 記録映画作家・土本典昭の意志を継ぎ、患者遺影撮影のため遺族を訪問
2001(平成13)年 50歳 NPO法人水俣教育旅行プランニング(現環不知火プランニング)設立に携わる
2004(平成16)年 53歳 離婚成立。大矢理巳子に戻る
2006(平成18)年 55歳 チッソによるダイオキシン汚染土の除去問題で、埋立場所変更を求める住民団体「明神の環境を守る会」の世話人代表となる
2007(平成19)年 56歳 使用したビンを工芸品に再生する「リグラス工房 びんの風」を主宰
2010(平成22)年 59歳 NPO法人環不知火プランニング理事長の吉永利夫と結婚。吉永理巳子となる
先日の記事「中産階級ハーレム 野球編 #1」で、戦前の野球界では、後発のプロ野球は人気面でも高校野球(当時の中等学校野球)や六大学リーグに大きな差をつけられてたことに触れたんですが。
戦後20年で生まれた私は、亡父の影響もあって小5くらいから巨人ファンとしてナイター中継を見るようになったし、その頃の巨人を中心とするプロ野球が娯楽に占める存在感の大きさは、誰にとってもたいへんなものだった。今の2倍くらいはあったように思うのだが、どうやらそれは戦後に急激に、おそらく人為的に高められたものなんだろうと。
そしてそれは、戦争に負けたことを棚上げし、奇跡的な復興・経済発展を果たしたこととも密接につながるんだろうなと。
野球の応援を通じて、人びとが場を共有する、一体感を味わうということ。
それは戦争のための「滅私奉公」が、会社や工場に勤務することで個が栄えて国も栄える高度成長モデルに姿を変えるのを側面から大いに支えたのではないか。そして水俣病などの公害病や福島第一原発事故は、そうしたやり方、戦争に負けても改まらなかったやり方がもたらした国民の裏面史ともいえよう。
今も「放射脳」と呼ばれる、食物汚染に過剰反応して差別的言動を取る人びとがいるけれども、病態が悲惨な水俣病の場合、遠隔地に住む人びとの無理解・無関心だけでなく、むしろ親戚に病人がいたりチッソ関係者がいたりする水俣市民ほど水俣病から目を背けたがる傾向があるのだと、昨晩の吉永氏は語ってくれた。
この吉永氏自身、青年会議所の関係で知り合った最初の夫と結婚、3人の子をもうけ43歳になるまで、父を奪った水俣病の実態に関心を持ってこなかった、遠ざけてきたと。今はそれを埋めるように先頭に立って活動するが、分かる気しますよ。就職と結婚は、人間が最も値踏みされる、序列や差別が露わになる局面。家庭を営むためには、差別されると分かっているような要素は極力排除してかかるのが当然である。
また、ということもあるので、無職で独身で精神科入院歴の私は、自分が体験したことでないとしても、排除される側の目線をもってこれらの問題をこれからも扱っていきたいと考えております。
●講師の略歴
1951(昭和26)年 水俣市明神町の大矢二芳(チッソ勤務)の三女として生まれる
1954(昭和29)年 3歳 父、36歳で急性劇症型の水俣病を発病
1956(昭和31)年 5歳 祖父の大矢安太(漁師)発病。以降、9年間寝たきりとなり、母が下の世話や食事の世話をした
父、原因不明の「水俣奇病」の患者として認定されるが死亡。当時、魚が原因であるとは分からず、1度目の退院後、毎日のように刺身や煮魚を食べさせたのが仇となり、2度目の入院後わずか2日で亡くなった。ひどいケイレンのため寝台に寝させることもできないほどであった
近隣在住のいとこの前田恵美子(1954年生)発病
1971(昭和46)年 20歳 母、患者として認定される
1973(昭和48)年 22歳 祖母、患者として認定される。この後、自身も水俣病様症状(ひんぱんに足が吊る)
1976(昭和51)年 25歳 結婚。開田理巳子となる。この後3人の子に恵まれる
1994(平成6)年 43歳 知人の薦めにより『水俣の啓示 不知火海総合調査報告』(ちくま書房)を読み、初めて水俣病についての正確な事実を知る
水俣市主催の「水俣市再生を考える市民の集い」で自身と家族の水俣病体験について講演。初めて公の場で患者家族であることを語る
「水俣・本願の会」の発足に参加し、事務局メンバーとなる
1996(平成8)年 45歳 未認定患者問題の解決策成立に伴い、特別医療事業の対象者となる
1997(平成9)年 46歳 水俣市立水俣病資料館の「語り部」となる
「水俣・本願の会」の患者らと水俣湾水銀ヘドロ埋立地に石仏を建立
1998(平成10)年 47歳 胎児性患者ら障害者のための共同作業所「ほっとはうす」の設立に参加。運営委員となる。水俣病の経験を伝えるためのフィリピンのセミナーで講演
2000(平成12)年 49歳 記録映画作家・土本典昭の意志を継ぎ、患者遺影撮影のため遺族を訪問
2001(平成13)年 50歳 NPO法人水俣教育旅行プランニング(現環不知火プランニング)設立に携わる
2004(平成16)年 53歳 離婚成立。大矢理巳子に戻る
2006(平成18)年 55歳 チッソによるダイオキシン汚染土の除去問題で、埋立場所変更を求める住民団体「明神の環境を守る会」の世話人代表となる
2007(平成19)年 56歳 使用したビンを工芸品に再生する「リグラス工房 びんの風」を主宰
2010(平成22)年 59歳 NPO法人環不知火プランニング理事長の吉永利夫と結婚。吉永理巳子となる
先日の記事「中産階級ハーレム 野球編 #1」で、戦前の野球界では、後発のプロ野球は人気面でも高校野球(当時の中等学校野球)や六大学リーグに大きな差をつけられてたことに触れたんですが。
戦後20年で生まれた私は、亡父の影響もあって小5くらいから巨人ファンとしてナイター中継を見るようになったし、その頃の巨人を中心とするプロ野球が娯楽に占める存在感の大きさは、誰にとってもたいへんなものだった。今の2倍くらいはあったように思うのだが、どうやらそれは戦後に急激に、おそらく人為的に高められたものなんだろうと。
そしてそれは、戦争に負けたことを棚上げし、奇跡的な復興・経済発展を果たしたこととも密接につながるんだろうなと。
野球の応援を通じて、人びとが場を共有する、一体感を味わうということ。
それは戦争のための「滅私奉公」が、会社や工場に勤務することで個が栄えて国も栄える高度成長モデルに姿を変えるのを側面から大いに支えたのではないか。そして水俣病などの公害病や福島第一原発事故は、そうしたやり方、戦争に負けても改まらなかったやり方がもたらした国民の裏面史ともいえよう。
今も「放射脳」と呼ばれる、食物汚染に過剰反応して差別的言動を取る人びとがいるけれども、病態が悲惨な水俣病の場合、遠隔地に住む人びとの無理解・無関心だけでなく、むしろ親戚に病人がいたりチッソ関係者がいたりする水俣市民ほど水俣病から目を背けたがる傾向があるのだと、昨晩の吉永氏は語ってくれた。
この吉永氏自身、青年会議所の関係で知り合った最初の夫と結婚、3人の子をもうけ43歳になるまで、父を奪った水俣病の実態に関心を持ってこなかった、遠ざけてきたと。今はそれを埋めるように先頭に立って活動するが、分かる気しますよ。就職と結婚は、人間が最も値踏みされる、序列や差別が露わになる局面。家庭を営むためには、差別されると分かっているような要素は極力排除してかかるのが当然である。
また、ということもあるので、無職で独身で精神科入院歴の私は、自分が体験したことでないとしても、排除される側の目線をもってこれらの問題をこれからも扱っていきたいと考えております。