マガジンひとり

オリンピック? 統一教会? ジャニーズ事務所?
巻き添え食ってたまるかよ

マタンギ/マヤ/M.I.A.

2018-08-19 19:14:36 | 映画(レンタルその他)
MATANGI/MAYA/M.I.A.@イメージフォーラムフェスティバル/監督:スティーブ・ラブリッジ/2018年スリランカ・イギリス・アメリカ

かつて難民だった少女はポップ・イコンとなった。革新的な音楽と時に過激すぎる表現で物議をかもすアーティストM.I.A.を追った音楽ドキュメンタリー

スリランカの内戦を逃れ10歳でイギリスに渡った少女マヤ。ヒップホップやストリートアート、ロンドンの移民コミュニティに影響された独自の音楽を作るようになった彼女は、やがて世界的に有名なポップ・イコン「M.I.A」となる。その歯に衣着せぬ政治的物言いと「バッドガール」なキャラクターは、常に批判の的だ。しかし彼女の表現を形作ったのは内戦と、抵抗組織のリーダーである父の存在、そしてイギリスで移民として育った経験なのだった。M.I.A.自身とその友人たちが撮りためた22年分の映像素材を元に制作されたドキュメンタリー。本年のサンダンス映画祭にて審査員賞受賞。




書肆マガジンひとり🌞 @publisherMH 8月18日
パロディ漫画の田中圭一であれ、将棋の先崎学であれ、メディア上に露出することに当人の存在価値を委ねざるをえないタイプの人がうつ病に。闘病記を書いてまた一時的にチヤホヤされたり。オタクやネトウヨ=媒体なしでは生きられぬ=との親縁性も

けむほこ/見富拓哉 @kemhok 8月5日
漫画、同じような絵をなんでこんなに沢山描かされなきゃいけないのか未だに意味がわからないしこれを娯楽として消費している皆さんは間接的に人権を侵害している自覚をしっかりと持って欲しい


小林まことさんの『青春少年マガジン』。1980年前後、メキメキ頭角を現した彼と小野新二さん・大和田夏希さんを、誰が呼んだか「新人3バカトリオ」。厳しいスケジュールの間を縫って朝まで飲み明かす。巻末の目次でも↑のようにイジり合う。ヤクザみたいな連中との付き合いはおさらばと言いつつ、講談社など漫画雑誌のあり方はヤクザ以上かも。誌上で競わせ、人気作家には月刊誌でも連載を持たせる一方、人気が下がればベテランでも容赦なく打ち切る。連載にはアシスタントを雇うことが必須で、作家の人気にはアシたちの生活もかかっているし、アシとしても編集者の目に留まる近道としてやむをえず他人を手伝う面があり、将来のライバルの一人に変わりうる。過酷なスケジュールや、人気が下がるかもという不安は心身を蝕む。大和田さんと小野さんは40代で早世。最も人気があって身体頑健な小林さんのみ生き残った、その切なさが『青春少年マガジン』の肝である。

アメトークの読書好き芸人でカズレーザー氏が推奨した『サピエンス全史』を読んではいないが、著者ハラリ氏が「お金や国家、法人、人権といった"虚構"を信じる能力が、人類にこんにちの地位を築かせた。虚構の奴隷になってはいけない、虚構を利用して儲ける立場に回るべきだが、現状は逆にテクノロジーの急速な進歩により人は将来を読めず、不安におちいり、(トランプ当選やブレグジットのような)ポピュリズムの台頭、民主主義の凋落を招いている」と語るのを読んだ。

10年後、20年後、いま就いている仕事はあるのか。銀行の店頭で「いらっしゃいませ」ってやってるおじさんは自衛隊OBである場合が多いとのことで、お金と国家、みんなが信じているから成り立つ「虚構」にすがって生きる、ムダ飯食いの筆頭格。真っ先に路頭に迷う筈が、カネ余りのゼロ金利でも、東アジアで戦争が起こる気配がなくとも、銀行と自衛隊は秩序の上位に座ったまま—




2012年のスーパーボウル、例年スーパースターを起用するハーフタイムショーで、この年はマドンナがニッキー・ミナージュとM.I.A.を従えて登場。イタリア系とアフリカ系の米国人女性、M.I.A.に至ってはスリランカ難民の英国人で、米国人ですらない。アメリカの多様性を示す起用であると考えたM.I.A.は、偉大な先輩マドンナと共演するこのステージを楽しみにしていたが、途中彼女が中指を立てたシーンがそのままテレビで流れてしまい、猛烈な批判を浴びて謝罪に追い込まれた。

M.I.A.がショックを受けたのはそのことだけでなく、衣装や演出を決めてリハーサルを行うあいだ、NFLの背広の男たちがマドンナに指図し、マドンナが大人しくそれに従っていたということだった。これはM.I.A.の考えでなく私の見解だが、マドンナって人は若い同業者、それもグウェン・ステファニとかレディー・ガガとか女性ポップスターに対して悪口を言うじゃないですか。それは自分がカリスマだから、メディア上でガチャガチャやり合うことでより注目を浴びられるからそうするので、有名でなければ意味がない虚構人間として、彼女を売り出す側のメディアやNFLのような組織の男たちに意見するなどということは念頭にないのではないか。

スリランカでは多数派のシンハラ人が少数派のタミル人を迫害しており、M.I.A.の父は抵抗組織の創始者として家族とは音信不通になってしまった。英国の移民街での少女時代、普通のポップスを聞いていた彼女がヘッドフォンを外すと、街頭で流れるヒップホップの重低音が。感化された彼女は、スリランカの文化、普通のポップス、ヒップホップやストリートアートを混ぜ合わせた独特の活動を行い、やがて成功。結婚相手は酒造のシーグラム社の御曹司であり、富も名誉も手に。

スリランカは英国の植民地だったので、難民を受け入れ、その中から彼女のようなポップスターが生まれることは帝国主義的な利益にも叶うだろうし、逆に彼女にとって、国家という虚構から逃れたことで、文化という別の、もっと自由な虚構を利用できる立場に回ることができた、数奇な運命の体現者をあおぎみるドキュメンタリーでありました—





iTunes Playlist "M.I.A. Playlist" 51 minutes
1) The Slits / In the Beginning There Was Rhythm (1980 - In the Beginning There Was Rhythm: Compilation)



2) Yellowman / Zungguzungguguzungguzeng (1983 - Zungguzungguguzungguzeng)



3) Madonna / Express Yourself (1989 - Like a Prayer)



4) Neneh Cherry / Buffalo Stance (1989 - Raw Like Sushi)



5) Bucky Done Gun (2005 - Arular)
6) Sunshowers (2005 - Arular)
7) Galang (2005 - Arular)



8) Paper Planes (2007 - Kala)



9) The Very Best / Rain Dance (feat. M.I.A.) (2009 - Warm Heart of Africa)



10) XXXO (2010 - MAYA)



11) Bad Girls (2012 - Single)



12) Bring the Noize (2013 - Single)
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テイク・ユア・ピル

2018-08-13 18:56:08 | 映画(レンタルその他)
Take Your Pills@ネットフリックス/監督:アリソン・クレイマン/出演:イーベン・ブリットン、ウェンディ・ブラウン、アンジャン・チャタジー/2018年アメリカ(Netflixオリジナル作品)

米国の超競争社会で、より効率的にもっといい結果を残すため、アデロール(Adderall)など「スマートドラッグ」と呼ばれる興奮剤を服用する学生、運動選手、プログラマーたち。その代償として彼らが直面する危険とは?




あのん2億年 @Anon200million 8月12日
いいないいな 壁サーっていいな
神絵師囲んで焼き肉お寿司
コスプレ売り子も侍るんだろな
僕は帰ろ 1人で帰ろ
でん でん 電車に乗って
バイ バイ バイ


きのうコミケに参加したのですが、たくさんのサークルが思い思いに個性・作家性をアピールしているなか、当方「書肆マガジンひとり」の陳列は、2種の新刊を含め前面に並べた7~8種の本の表紙がすべて異なる作家さんの手になる。いかにも統一感・求心力がなく、来場者にとってどうでもいい素通りするサークルとなってしまう。参加のやり方は人それぞれで良いのではないかと思うが、「壁サー(=数千冊の在庫を置け、行列ができても対処しやすい壁際に配置される)」のような勝ち組になることはありえないでしょう。

さらにコミケから帰ってツイッターを見ていると、前回に続いて売り子を務めてくれた女装コスプレを得意とする男子が、他のサークルの打ち上げに誘われ、楽しそうに飲食している様子をアップしており、軽いショックを覚えて彼との付き合いを絶つことにした。前回は当方の打ち上げにお招きしたのだが、今回は私には伏せて、もっと彼にとって自己宣伝になる相手を選んだのである。コミケとツイッター、二つの市場・競争原理によって、私のような対人能力に欠ける者でも本を作って宣伝し参加でき達成感を得られる一方で、調子に乗って慣れない真似=若者に売り子を頼む=をするとしっぺ返しもくらうんだなと—




狩野英孝という人は、他の出演者からイジられたり、壮大なドッキリにハメられることで、その突拍子もないリアクションというより人間性が浮き彫りになって、確実に笑いを生むような、たいへんユニークな芸人さんだ。動じないし、へこたれないが、成長もしない。女好きが祟って、しばらく謹慎も。復帰した彼は、やはり彼のままだ。「人気者である狩野英孝」というメディア上に漂うキャラの方が本体で、そちらに傷が付かなければ、悪名でも人気のうちで、繰り返しイジられることや、↑画像のロンハーお部屋改造ではセンスを否定されることにも無感覚というかへっちゃらでいられるのだろう。

フォロワー数の多い者は、どうでもいいことをツイートしても、取り巻きからイイネやリツイートしてもらえる。一つ一つのツイートには解析機能が付属し、ツイート主は影響が広がる、あるいは広がらない度合を逐一確認できる。これらのツイッターの機能は、先述の売り子さんだけでなく、星空サラのような孤独な老人など、ネットに接続できるあらゆる者を狩野英孝のごとく「へっちゃらな」人間に変えてしまう。不倫・裏切り・炎上・売名。膨大な人数の時間つぶしや、承認欲求を吸い上げるシステムを作り上げ、人を物資とすることで、ツイッター社はあまり儲からないとしても、アマゾンやグーグルなど米国流の多国籍企業が利益を最大化するのに貢献。

市場原理・競争原理によって人を食い物にして儲けるやり方の一つに、このネットフリックスのドキュメンタリー作品が描くような、向精神薬=ここではアデロールという商品名の興奮剤=の問題が挙げられる。覚醒剤と同じアンフェタミンを含むため、日本では非合法だが、米国ではADDなど発達障害と呼ばれるタイプの精神疾患の治療で処方される。発達障害は、既存の社会やその変化に適応できないという、相対的に作られる面がある。NFLのブリットン選手は、禁止薬物のアデロールを、治療目的で使うことは許されるので、発達障害の診断を下されたとき喜び、実際アデロールによって闘争心や集中力を高めることでプロ選手として成功できたと語る。

日本軍でもヒロポンが広く用いられた。戦争だけでなく、売春や徹夜仕事・ブラック労働、嫌なことでも覚醒剤の力でがむしゃらにこなさせることができる。アデロール常用者が増えているとされる、米国の高校や大学、投資銀行などの金融界、IT企業などの起業家やエンジニア、スポーツの人気競技などなど、おそらく一年中コミケが続くような高揚感と競争の圧にさらされ、生きる時間を物資とするよう仕向けられる世の中なのでしょう—
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旧作探訪 #147 - 薄氷の殺人

2015-10-26 21:22:14 | 映画(レンタルその他)
白日焰火@レンタル/監督:ディアオ・イーナン/出演:リャオ・ファン、グイ・ルンメイ、ワン・シュエビン/2014年・中国、香港

1999年、中国の華北地方。6都市にまたがる15ヵ所の石炭工場で、ひとりの男の切り刻まれた遺体の断片が次々と発見された。プライベートで問題を抱える刑事ジャンは、この殺人事件の捜査にあたっていたが、容疑者として浮かんだ兄弟は逮捕時に抵抗し射殺され、ジャンも負傷し、事件は迷宮入りとなってしまう。そして2004年、未解決の5年前の事件と手口が似ている、新たなバラバラ殺人が2件発生。既に辞職し警備員となっていたジャンも独自に事件の調査を進め、クリーニング店で働くウー(グイ・ルンメイ)という未亡人に行きつく。被害者たちはいずれも殺される直前にウーと親密な関係にあった。やがて彼もまたウーに惹かれていくが…。

儚い雰囲気をまとう謎めいた美女と接点を持つ男たちがバラバラ死体となる、猟奇的な連続殺人事件を、虚無感と生活臭を併せ持つ映像で描写するクライム・サスペンス。第64回ベルリン国際映画祭で最高賞にあたる金熊賞と銀熊賞(男優賞)を受賞。




ムカつくんです、通販生活の広告。価格帯の高さや、出演者の人選。
きょうの新聞の折り込みで入ってきたものに筒井康隆が出ていたので、この機会に彼の著書『霊長類南へ』など6冊を処分。これまでも処分を重ねてきて残り14冊となったが、この機会に、というのも、金熊&銀熊の同時受賞という評判から今回の映画を見て、あらためて演技のよしあし、映画のよしあし、あるいはその原作となる小説(や特に日本の場合はマンガ)のよしあしなど考えずにはいられなかった。

私が中高時代愛読した筒井の小説は、舞台設定がNHK、創価学会、全学連、女権運動、文芸同人誌、ベトナム戦争など多彩ながら、今にして思えばパターンはほぼ決まっており、人物が一面的で陰影に乏しく、コントやギャグ漫画のように感じられる。いやお笑いや漫画の隆盛に、筒井が先駆けて貢献したのだ。こまわりくんや諸星あたるのような、欲望のままに生きる男子キャラは、フロイトにかぶれた筒井の存在なくしては生まれなかったろう。

と同時に、椎名誠・渋谷陽一・ビートたけし・村上春樹といった80年代を画した人物の、あえて大人の客・ハイカルチャーを捨てて、子ども・若い客・サブカルチャーを選ぶという新自由主義的な姿勢にも通じるだろうし、小泉元首相や橋下大阪市長の「単純化・敵を作ってたたく」ポピュリズム・劇場政治の遠縁にあたるのかも分からない。

これは筒井に限ったことではない。多くの小説にはモデルとなる人物や事件がある。だから映画化・ドラマ化にも適している。しかしどんなによくできた小説でも、作為である以上、作者の主観からは逃れられず、ある一面から描かれた人生の真実であるというに過ぎない。




話が飛んで申し訳ない。
みなさん故・松田優作の「なんじゃこりゃァ~~」の演技をご存知ですよな。
刑事ドラマ『太陽にほえろ』の名物となっている殉職シーンの中でもとりわけ有名で、当時の男の子はよく真似したものだ。現在でも、もはや記号のように流布し、彼のカリスマ性を高めているが、よく考えてみてください、あれって名演技ですかね、賞を受けるような。

私は『薄氷の殺人』を、印象的な佳作と思うけれども、金熊にふさわしいとは思わない。が、リャオ・ファンとグイ・ルンメイの2人が、この映画を特別な位置に高めるような、魅力的なたたずまいをしていることは認めざるをえない。
それに対し、松田優作の殉職は、人間の真実とはほど遠く、お笑い芸人や筒井のドタバタとも異なる、スターがスターであることを証明し、それをテコにドラマが、さらにはテレビ界・芸能界が少数の人気者を極端に優遇することで効率的に興行を回してゆく「スター・システム」に特化することで生み出された。平和な日本で、若い刑事が死んでは、また次の刑事が赴任する、奇妙な回転が他にもあちこちで繰り返され、ガラパゴス化は極まった。

音楽の例はもっと悲惨だが、ここでは述べない。
『おくりびと』はアカデミー賞を獲ったじゃないか、という向きもあろう。あれは演技が古い昔のスター映画だと思うが、題材の(西洋から見ての)新鮮さってことでしょう。それは『薄氷の殺人』の高評価とも重なると思う。ベルリン映画祭の、観客の評価は審査員ほどではなかったという。生活習慣も感情表現も違うし、外国人の演技のよしあしを評価するのは難しい。

スター・システムはどこにもある。近年のアカデミー賞や主要映画祭の結果をみるに、どうも先進各国共通して、その制度疲労が特に映画界の沈滞に表れている様子だ。娯楽が多様化し、小さな市場が乱立する傾向は、「映画祭・正装・赤じゅうたん」の求心力を奪い取るのかも―


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旧作探訪 #139 - ヘザース ベロニカの熱い日

2014-09-18 20:24:57 | 映画(レンタルその他)
Heathers@レンタル/監督:マイケル・レーマン/出演:ウィノナ・ライダー、クリスチャン・スレイター、シャナン・ドハティ/1988年アメリカ

ヘザーという名の美人3人による、スクールカースト最上位を成すグループ「ヘザース」の従僕のように扱われ、灰色の高校生活を送っているベロニカ。そこへ現れた型破りな転校生JD。
ベロニカは彼の協力を得て「ヘザース」をやっつけようとするが、ヘザースの一人を自殺に見せかけて殺したのを手始めに、JDの行動は次第に常軌を逸してゆく–

シニカルな作風で知られるマイケル・レーマンの監督初長編で、高校生活を描いた米映画として歴代上位に挙げられるカルト佳作。クリスチャン・スレイターの怪演ぶりやアイドル女優時代のウィノナ・ライダーも見もの。




昨夜7時ころ、自宅に居ながらにして犯罪に巻き込まれそうに。
私の楽天市場のアカウントが不正ログインされ、メルアドや住所などの情報を書き換えられた上、9万円近くのデジタルカメラが登録済のカード払いで購入されたのだ。
幸い、メルアドの変更では、変更された旧のアドレスにも「変更しました」との通知メールが届くので、何事かと私が楽天ログインするなど動き出したのを犯人が察知し、購入は即座にキャンセルされた様子である。

パスワードを変更したり、登録済カードを削除したり、楽天とカード会社に他に異常はないか問い合わせたり、きょう午前までバタバタしていたのだが、解せないのは、私がパスワードを変更したことで、犯人があらかじめ変更した住所氏名・携帯電話番号という個人情報が、詐欺未遂のれっきとした証拠として私の手元に残ってしまうという、犯行の手順のお粗末さ。

さいたま市岩槻区のアパートに住むN倉という男。
もし私が自宅におらず、対処が遅れてログインできなくなってしまい、商品が犯人の手に渡るとしても、さまざまな物的証拠が楽天やカメラ店や配送者のもとに残り、遅かれ早かれ追及の手が及ぶ。
あるいは偽名で、住所や電話番号も、何らかワンクッションあるのかも分からない。
にしても、ナニワ金融道の泥沼亀之助ですら取り込み詐欺の準備にはずいぶんお金と時間を注いでいたのに、今は個人情報を入手、即犯行というようにお手軽になって、犯罪者だけでなく人間自体が退化してるのかなと–




電子メールって、こういうことが起こるから怖い。
Outlookは不具合やスパムが多いので、同人関係のやり取りなどグーグルメールを使い、頻繁にチェック。
私は、怠け者だが、几帳面な性格である。
そして、こうした犯罪の温床となるIT企業の経営者とか、芸能人や政治家など不特定多数の人間を相手にする人びとは、逆に「勤勉だが、ルーズ」なんだろうなと思う。
顔が見えない相手を、数撃ちゃ当たる式に安く見積もる、思い上がった処世態度。

こうした傾向が、特に1980年代に支配的になっていった様子が、この映画にうかがえる。
主人公から見て、↑画像(=ヘザーの一人と、やはり前半で殺される、2人で組んでナンパや弱い者いじめをするアメフト部エース)など殺意の対象となる、スクールカースト上位の人物たちが薄っぺらで類型的。VシネかMTVのよう。
このことが、主人公の行動を正当化し、行き当たりばったりの稚拙な犯行でも露見せず、あまつさえ被害者は死後に美化されて報じられ、若者の自殺ブームのような軽挙妄動に発展するので、JDの狂気もますます燃え盛る。

スレイター演じるJDは生い立ちなどで疎外感を抱え、ベロニカと犯行を重ねることで「ボニー&クライド」みたいに自らを祭り上げ、高校という存在自体狂っているから破壊してしまおうと大量殺人を計画する。やがて彼の異常性に気づいたベロニカが身を呈してそれを止めようと–という展開に、ネットを通じて犯罪に巻き込まれそうになったから言うわけでないが、一見80年代の軽薄な映画に見えて、昨今の世相を鋭くえぐる先見性を感じました。印象的な映画です–
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旧作探訪 #128 - 戦場にかける橋

2014-03-30 21:33:11 | 映画(レンタルその他)
The Bridge On the River Kwai/監督:デビッド・リーン、1957年・イギリス・アメリカ
大戦中、マレーシアで日本軍の捕虜収容所に入れられた体験を持つフランス人作家ピエール・ブールの小説を映画化。アカデミー賞を作品賞など7部門で受け、現在までオールタイムの映画30選・50選などで常連になっている不朽の名作。音楽の「クワイ河マーチ」も有名。
タイとビルマの国境近くにある日本軍の捕虜収容所では、連合軍捕虜を使って、国境に流れるクワイ河に泰麺鉄道のための橋を架ける準備が進められていた。だが、後から収容されることになった英軍部隊のニコルソン大佐(アレック・ギネス)は、将校の労役はジュネーヴ協定に反するとして、所長の斉藤大佐(早川雪洲)と対立。いっぽう、米軍捕虜のシアーズ(ウィリアム・ホールデン)は、ジャングルに囲まれているため不可能とされた収容所からの脱走を仲間と試み、奇跡的に一人だけ成功していた。
ニコルソンを酷暑の重営倉に監禁するなどして、英軍を協力させようと試みる斉藤であったが、ニコルソンは決して折れず、英兵士のサボタージュも続き、期限までに橋を完成させることが難しいと考えた斉藤も遂に譲歩し、ニコルソンに恩赦を与えて再度協力を要請。捕虜たちに生きがいを与えて士気を維持しようと考えていたニコルソンはこれを承諾し、英軍主導により建設工事が再開された。しかし同時に、生き延びたシアーズが英軍の特命を受け、架橋爆破作戦のため現地に潜入しようとしていた–




しばらく前、アメトークが終わってから、やや後の時間に『闇金ウシジマくん』の深夜ドラマがあるので、テレ朝からTBSに替えてTVを付けたままにしておいたところ、ウシジマくんの直前にやっていた番組が最悪であった。
SMAP稲垣と小島慶子がホスト役のトーク番組らしいのだが、ゲストがあの、映画『永遠の0』の原作小説やNHK経営委員就任後の数々のタカ派発言でも知られる、百田尚樹だったのだ。

その言動は知っていても、映像で見たことはなかったので、ナンボのもんなのかと、しばらくTVを消さないでおいたわけですよ。
すると、その口ぶりや論法が、ハシモト市長と酷似していることに気付いて。
とにかく、自分を守りたい人。臆面なくどこまでも自己正当化する。ことに「同業者が選ぶ直木賞なんか要らない。書店員が選ぶ本屋大賞が欲しかったんだ」という屁理屈とポピュリズムの組み合わせが、ひどく橋下と近しい。

彼の応援を受けた田母神候補や、お友だちとして彼をNHKに送り込んだ安倍首相の本心や歴史認識も、推して知るべし–




プライドの、というよりメンツの化けもの=橋下徹。彼のメンツのためだけに、無駄な選挙が行われ、頼みとする民意も離れがち。
映画の前半は一種の心理ドラマというか、原理原則に基づくニコルソンのプライドと、立場上どうあっても工期を守らねばならない斉藤のメンツがぶつかり、どちらも引くに引けない。
ジュネーブ条約=敗者の掟など知らん、イギリス人は負けたのに恥を知らない、とののしる斉藤なのだが、むしろ負けた場合に名誉を失わないことが大切であり、そうすれば敗北を糧にして勝利に変えることもできるだろうと考え、懲罰に耐え抜くニコルソンに対し結局は譲歩を余儀なくされる。

極限状況で、異なる価値観が衝突し、やがてニコルソンと斉藤の間には友情めいたものも芽ばえる。このあたり、戦前から日米英仏の映画界を股にかけて活躍した早川雪洲の存在が光る。




映画は後半、橋の建設と爆破作戦が同時に進みサスペンス要素を強める。
最後のシーンは圧巻と言うしかなく、あらためて傑作と思ったのだが、私としては冒頭、ニコルソンの部隊の到着前、過酷な労役で死んだ捕虜仲間を埋葬して十字架を立てるシーンが印象的だった。
日本軍が命じた泰麺鉄道の建設は、飢餓や伝染病により、連合軍捕虜15000人、現地労働者30000人の犠牲を生んだとされる。さらに、その後のインパール作戦では、食料や弾薬の補給がされず死屍累々、日本軍将兵30万人中18万人が犠牲となり「白骨街道」と呼ばれた。

この映画は現実の戦争の悲惨さを一部しか描いてはいないが、埋葬のシーンをはじめ、きちんとした記録を残そうとの執念というか、ジャーナリズムの厚みを感じる。
戦争責任を水に流し、無謀な作戦を命じたA級戦犯と、餓死・病死して今もジャングルに骨が残る兵士とが同じ靖国神社に祀られるわが国とは、文明や価値観が違うのは仕方がないとしても、どちらが時の重みに耐えるかは明白ではないだろうか–
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旧作探訪 #126 - ガンモ

2014-03-09 20:42:55 | 映画(レンタルその他)
Gummo、ハーモニー・コリン監督、1997年・アメリカ
竜巻に襲われて大きな被害を被った米中西部の町・ジーニア。頭部にウサギのぬいぐるみをかぶり、ハイウェイの高架から車に向かってツバを垂らす少年…
『KIDS』の脚本で「子ども・若者が使う言葉をスクリーンに再現できる」と評判をとったコリンの監督第一作。主人公をはじめ、登場するのはアマチュアの俳優ばかりで、ストーリーらしいストーリーはないが、貧困、暴力、病気、薬物依存、同性愛、児童虐待など、普通のアメリカ人の暮らしに忍び寄る荒廃が淡々と描かれる。




どこかの評論家が、こともあろうに『闇金ウシジマくん』を紹介する新聞記事で、「今の日本は格差社会ではない」と断じていた。
理由は「明治時代や昭和初期に比べれば格差は少なく豊かになっている」からだそうな。
そりゃそうだろうよ。
問題は、教育や就職を通じ、親から子へ貧困が引き継がれ、相対的貧困率(特に子どもの)が上がって格差が固定化し、人びとにとって「みんなで豊かになろう」というような希望を抱けない社会に変わりつつあることなのだ。

その一つの表れとして、ウシジマくんも時としてストーリーよりも「お刺身食べたい」とか「甘いパン 甘いパン」とかの断片が印象的で、それでもまだ、凄惨で読むのが苦しい「洗脳くん編」でさえ主人公の出産を通じ、ある種のカタルシスが用意されているのに対し、この『ガンモ』では、あらゆることが断片的で、ドラマ性・ストーリー性が排除され、時間が進んでいるという前後関係さえはっきりせず、どこから見始めても大きな違いがないことが挙げられる。

いまウシジマくんも陳腐な深夜ドラマになっているが、これまでのような映画やドラマのやり方では、今を生きる登場人物たちの感覚を伝えることができない–




マガジンひとり @magoneperson
「学校は(周囲が見て見ぬふりをするなど)いじめを継続させる条件を備えた特殊な場」だけれども過酷な就職競争の中では「前提となる社会環境を問い直す」態度を貫けば負けてしまうので「いじめは決してなくならない。強者が弱者を打ちのめすのは人間の本能」と考える大学生たち–貴戸理恵・東京新聞 2-Mar-2014


結論ありきのじじい評論家と異なり、この女性は大学の教壇に立ち、「いじめをなくす」方向へ学生の意識を導こうと試みるのだが、就職を前にした学生にとって「一人一人の意識を変え、やがていじめのない世の中に」というのは時間がかかり過ぎて呑めない。
見て見ぬふりをし、そういう自分を正当化する。いじめとかに、関わってられない。

こうして、社会の分断は進む。
「希望がない」のは、競争の中で蹴落とされないよう必死な、勝ち組のみなさんも同じことで、むしろ『ガンモ』のみなさんは、町全体が下がっていて、あからさまな富裕層とかを目にすることもなく、それなりに仲間もいて楽しそう。
希望がないこと以上に、その感覚を誰かと分かち合うことができず、孤独だということが最も恐ろしい。死ぬしかない。
在特会の連中も、本当は主義主張などよりも、「仲間とつるむ」ためのコミュニケーション・ツールとして、差別を利用しているんだろうから。
そうした意味では、映画の中でバディ・ホリーの "Everyday" とロイ・オービソンの "Crying" という古い曲が登場人物たちの拠りどころとして効果的に使われており、相対的貧困率が高いといっても、まだまだアメリカは結構豊かなのかもなと–





米公立校48%低所得層 - 2011年、「移民流入で悪化」
【ワシントン=共同】 米国の公立学校で低所得の家庭の子どもが急増し、2011年には児童生徒数のほぼ半数を占める事態になった。低所得家庭の子どもは健康面や学力などで不利な立場にあり、教育専門家は「これこそが米国の教育問題だ」と警告している。

米教育振興慈善団体の南部教育財団(SEF)は、農務省が低所得家庭を対象に実施している昼食費の補助制度を利用している子どもの数を調査。それによると11年時点で全米の公立の幼稚園や小中高校の児童生徒約5千万人のうち48.0%が低所得家庭の子どもだった。

補助の対象となる家庭の年収は物価動向で変わるが、11年は両親と子ども2人で40,793ドル(約430万円)を下回る家庭が対象だった。低所得家庭の子どもの割合は10年間で1割上昇しており「移民の流入や低所得層の高い出生率、金融危機に伴う景気後退で状況が悪化した」(同財団)という。

地域別ではミシシッピ州が70.6%で最大。ニューメキシコ、ルイジアナ、オクラホマ、アーカンソーの各州も6割を超えている。全米50州のうち17州で低所得層の子どもが半数を超える。南部と西部で比率が高い。都市部に集中しているのが特徴で、黒人やヒスパニック(中南米系)の児童生徒の7割前後を占めている。

公立校の運営費は連邦、州・地方の政府が分担拠出しているが、地方政府分は固定資産税の税収が財源になっている。住民が豊かでない地域は税収が少ないことが多く「施設や教員の質も劣る傾向にある」(ワシントン・ポスト紙)とされる。 –(東京新聞2013年12月29日)
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旧作探訪#124 『Mr.BOO! ギャンブル大将』

2011-12-16 23:08:41 | 映画(レンタルその他)
鬼馬雙星@DVD、マイケル・ホイ監督、香港1974年
いかさま専門のギャンブラー「兄貴」(マイケル・ホイ)は、ツキに見放されて今はわびしい刑務所暮らし。新たに相部屋になった青年ギッ(サミュエル・ホイ)も無類の賭け事好きで、二人は意気投合。出所を機に兄貴に弟子入りしたギッは、博識を活かしてクイズ番組の優勝賞金を狙うことに。だが、ひと稼ぎしようと下町でポーカー勝負に加わったことから乱闘でケガ、代わって兄貴が出演することに─
マイケル・ホイの初監督作で、ホイ3兄弟が活躍するコメディ映画の記念すべき第1作。日本ではリッキー・ホイの出演シーンを追加して『Mr.BOO!』シリーズ第3弾として79年12月に封切られた。



このイラストって、たぶん日本の配給元がイラストレーターに依頼して、シリーズとして作らせたものだと思うんだけどね。
当時としては、すごいインパクトあって、また最初に封切られた『Mr.BOO!』(半斤八两)が、宣伝を上回るインパクトを与えたこともあり、中高生にとってかなりの認知度だったと思う。
主題歌のレコードもそこそこ売れ、漢字による原歌詞、カタカナによるその発音のしかた、日本語訳までご丁寧に細かな字で記載されていたので、当時の中高生は信じられない確率で広東語の歌が歌えた。私も、いまでも歌える。
ただし、日本で当たりそうな順番に公開されたと見えて、3弾の『ギャンブル大将』は内容も歌も、もう一つだ。
『Mr.BOO!』と『『Mr.BOO! インベーダー作戦』(賣身契)は劇場以外でも繰り返し見たけれども、今週のイワイガワのトークライブで、年齢不詳の岩井ジョニ男が「俺、子どものころ詐欺師になりたかったんだよ。ミスター・ブー・ギャンブル大将の影響で」と述べたのを聞いて、劇場公開以来見てみることに。ほんとうは何歳なんだ、ジョニ男。



─で、あんのじょう、ギャンブル好きとか、そうした歓楽街の空気が好きとかの資質がない人には、面白くないみたいですね。第1作ということで、手探りだったのか、ドタバタ要素が少なくて、やや地味。
マイケルの声を吹き替える広川太一郎さんは、得意のアドリブを交えて笑わせようとするが、むしろ途中から原語+字幕で見たので、若いころの才気あるマイケルとサミュエルが、映画という新天地でさまざまな創意工夫を試みる姿に素朴な味わいがある。



日本公開は先になった2作のドタバタなどでも、すでに見飽きていたドリフなどと異なった、なにか独特の野卑な、それでいて朴訥として懐かしいような、香港の彼らならではの味が。
当地でも、北京語か英語の歌しかなかった時代に、映画出演に加え自ら作曲して広東語で庶民の心情を歌うサミュエルは、人びとの心をわしづかみにしたとのことだ。そして脚本・監督・主演をこなすマイケル・ホイさんといえば、岡田武史氏が2度にわたって日本代表監督として実績を積むとともに、マイケル・ホイに似てる─という声を耳にしなくなりましたが、このほど中国でクラブ・チームを率いることが決まったそうで、私としてはそんなに似てるとは思わないけれども、人相的には成功の予感十分と申せましょう。
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旧作探訪#118 『愛のイエントル』

2011-01-23 22:50:01 | 映画(レンタルその他)
Yentl@VHSビデオ、バーブラ・ストライサンド監督(1983年アメリカ)
男装の少女が男子寄宿学校に乗り込んだが─!?
1904年の東欧。まだ学問が男だけのものだったころ、「なぜ?」と問いかける少女がいた。その名をイェントル(バーブラ・ストライサンド)。ラビの父から秘かにタルムードを教わっていたイェントルは、父の死後、たった一人、家を出る。目指すは、女人禁制のイェシバ(ユダヤ教神学校)。夢を実現するため、アンシェルという名で男装して男の世界にもぐり込んだ彼女だったが、やがて仲良くなった学友アビグドウ(マンディ・パティンキン)を愛し、その婚約者ハダス(エイミー・アーヴィング)が彼女を女と知らず愛したことで、のっぴきならない境遇へ追い込まれてゆく─。
女であることへのハンデに敢然と反旗をひるがえし、未知の世界への冒険に羽ばたいた一女性。原作の短編小説に惚れ込んだバーブラが、15年の準備を経て、製作・監督・脚本・主演・歌唱の1人5役をこなして完成にこぎ着けた意欲作。



◆からむニスト─視聴者の期待忘れないで
今期の連続ドラマもほぼ出そろったが、相変わらず、主役をはじめキャストに代わり映えのない番組が目立つ。その一つが日テレ『美咲ナンバーワン!!』で、内容も『ごくせん』の二番煎じで新鮮味に欠ける。
物語は売れっ子・香里奈が扮する六本木のナンバーワンキャバクラ嬢が名門高校の落ちこぼれクラスを担当し、やる気のない生徒を立ち直らせるというものだが、まず学校とキャバクラを同じ土俵とした設定に無理がありすぎる。教育はサービス業という考えもあろうが、その次元ではない。何かにつけ、六本木ナンバーワンを連発し、あげくは生徒たちを店に連れて行くなどむちゃくちゃだ。
とはいえ、ドラマは始まったばかり。今のところは荒唐無稽の内容だが、今後、生徒たちの生活環境や人間関係が描かれていくことを願う。香里奈のパワーばかりが強調されると、スーパーマンの活躍を見ているようで何とも味気ない。良質なドラマを作ってきたこの枠への視聴者の期待を忘れないでほしい。 ─(ギャップ、東京新聞1月21日)



いまは、学校がキャバクラなのかァ─ホストクラブみたいな学校だったら、すでにあった気もするけど=『花ざかりの君たちへ』。
そもそも原作↑には「イケメンパラダイス」っていう副題はなく、ドラマとは別物との評も目にしたが、それにしても、男装して男子高の寮にもぐり込むなんていう無理のある設定で、よく23巻も話を続けられたもんだね。さぞかし、意味不明なドタバタが多いんだろうね。
ドタバタもないではないが、意味不明なものをそぎ落とし、誇り高い主人公と周囲の人物に運命的なドラマをもたらすのが、この映画。映画化を志してから15年も過ぎて、この時点でバーブラは40歳に達しており、男子学生を演じるのは無茶なようでもあるが、気迫で押し通す。鳥には翼がある。高く飛んで、大空のすばらしさをさえずるため。人間には心がある。「なぜ?」と問うため。女にも心がある。生きる意味を問い、学問の道を歩むことは、決して神の摂理に反することではない─。



イェントルにとって、生きることは、すなわち疑問を持ち、学ぶことである。が、その頃のユダヤ人社会では、学ぶのは男がすることで、女は家庭を守る貞淑な存在であればよかった。そんな中で男装して神学校へ入ることは、命がけの反逆でもある。因習的な性役割への。
『花ざかりの君たちへ』の先駆けのような設定で、ドタバタや三角関係もあり娯楽作としても素晴らしいが、根本にあるものは、大いなる夢なのだ。
5年ほど前に見たアングラ演劇で、「夢と欲望、それってどう違うの?」という台詞がひときわ印象的だったのだが、今なら、それは向上心と上昇志向の違いのようなものだ─と答えられようか。
イェントルが人生の目的として学問を志すのに比べ、前にも同じことを述べたのでしつこくなるけれども、福沢諭吉は食うか食われるかの人間社会あるいは国際関係で、食われないために、学問が必要だと説いたのだ。手段なのである。
結果として、食う側、勝利者になればいいのであれば、相手の足を引っぱったり蹴落としてでも、相対的に浮上すればいいということになりうる。それが上昇志向である。
向上心は、そうではない。結果が伴わないとしても、信念を貫き、わずかでも前進すること。映画の中で、アビグドウに弟が自殺した過去があり、保守的なハダスの家から婚約を解消される─(そしてハダスはイェントルと結婚することに─イェントルは実は女なのに─!?)─という展開があるのだが、おそらくユダヤ教で自殺が厳しく戒められるというのも、挫折や敗北のせいで自殺するというのなら、結果によらず信仰を、向上心を貫きなさいという神の教えに背くことになるからではないだろうか。
最期の最期まで、あきらめるべきではない。夢を。
それこそ、《夢と欲望、向上心と上昇志向、イェントルとキャバクラやホストクラブ》の違いであり、わが国のマスコミ・芸能界は夢を持たず、欲望を正当化する必要に駆られて、どうしようもないドラマを電波に乗せ続けるのでしょう。

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旧作探訪#117 『ファンタスティック・プラネット』

2011-01-03 23:13:04 | 映画(レンタルその他)
La Planète Sauvage@レンタルDVD、ルネ・ラルー監督(1973年フランス=チェコ)
ルネ・ラルー初の長編(73分)アニメーションとなった本作は、ステファン・ウルのSF小説を原作とし、脚本と基本デザインをローラン・トポールが担当しているが、初期段階でトポールが手を引き、チェコのイジー・トルンカ・スタジオのスタッフたちもやや非協力的だったため、制作に4年を要した。しかしシュールで幻想的な独特の世界観は、同年のカンヌ映画祭でアニメーションとして初めて審査員特別賞を受けることにもつながり、アニメーション史に確かな足跡を刻んでいる。
真っ赤な目と青い肌を持つ、巨大で長命なドラーグ人が、人類をペット、あるいは害虫のようにあつかう惑星が舞台。みなしごのテールは、ドラーグ人の少女ティバに拾われてペットとして飼われるうち、ドラーグ人が学習に用いる、脳に直接知識を送り込むヘッドフォン様の機械によって、現状に疑問を抱き、ティバのもとから逃げて原始的な生活を送る人類の部族に加わる。
ドラーグ人は定期的に毒ガスなどで人類を“駆除”していたが、反撃に遭って1人を殺されたことから、人類みな殺しの必要性を覚え始める。テールたちの部族は放浪のすえ、ドラーグ人のゴミ捨て場に住みつき、そこの機械類から学んで科学技術を急速に発展させる。ドラーグ人の偵察機械に発見された彼らは攻撃を受け、ロケットで脱出してたどり着いたファンタスティック・プラネットで、種族保存のためドラーグ人がとる奇想天外な方法を知る─。



年に1度か2度のことで、きのう親戚の家に集まって、深酒したが、しばらくぶりで参加するイトコがいて。いつもの、亡くなったイトコの姉ぇーちゃんの兄弟や嫁さん旦那さんがたは、故・母の長兄の子どもなのだが、次兄の息子さんで、製薬会社に勤務して長く青森や、その次には大阪に赴任していた、オラより1コ上の。
分かりにくいっすか。次は、系図でもこしらえようかね。
オラ、むしろ会社を辞めてから、このブログのおかげもあって、いわゆる“コミュニケーション・スキル”は向上した気がしていたのだが、その人は小さい頃から穏やかな人格で、剣道をやり、大学へ進んで、会社では医者相手の営業を長くやってきた。
オラと反対に、まったくの正攻法で、鍛え上げられた社交性なのだ。会話にソツがない。しばらくぶりでも、アッという間に打ち解ける。
いや、居酒屋などで聞く、世間の狭そうな会話しかできないサラリーマンばかりではないんだよね。資質もあると思うけど、子どもの頃からの優しく、正々堂々としたお人柄のままで。
ところが、その人がなぜか結婚できていない。医者相手の高額な接待も多く、太ってしまって糖尿病にも。
会社のため献身的に働いてきた、今は管理職で年収も1千万超ではないかとも思われるけれども、正々堂々と生きてきたのに健康や家庭生活を犠牲にしなければならないとすれば、卑怯で異端な道を突き進んだ結果の“無職・シロート童貞・精神科入院歴”であるオラのほうがお得な気がしないでもない。
まあ、かねがね思う、「大企業の正社員」を基準とする、日本経済の富国強兵システムが、この時代に立ち行かなくなってきたことの表れも、いくらかはあろう。
で、「日本のサービス業は生産性が低い」とされる中、マンガやアニメやゲームや、日本産のポップカルチャーは、一定の競争力があり、各国の市場で独自の存在感を発揮してはいる。いるのだが、このアニメ映画など見ると、それはしばらくぶりのイトコのソツのない社交性や会社中心の人生の裏返しのようにも感じる。
「草木国土悉皆成仏」という言葉に表されるような、循環的で、和を尊ぶ、八百万の神がいる、わが国の風土が、裏を返せば相互にもたれ合って責任を回避することにもつながりかねないのに対し、一神教の規律のもと、敵や自然環境と戦い、克服して生き残る─という厳しさ。
オウムや九官鳥は言葉をしゃべることができるが、テープレコーダーが録音を再生しているようなもので、言葉をしゃべれる体の構造を持っているから知性や文明を発展させるということにはならない。なぜ、人間だけが、現状のような文明を築いたのだろうか。
しかも、生殖の方法は、オスとメスが交尾して、子どもが小さい頃はメスが授乳するという、人類以前の多くの動物がとってきたやり方を踏襲するしかないという制約の下。
考えてみれば不思議だ。この映画には、その不思議さ、人間が人間たるゆえんを見つめる目が光っており、そのまなざしには、先に述べたような一神教の厳しさがある。わが国のアニメとは、発想が極めて異質で、それだけに“クールジャパン”などとうぬぼれていられない、ここから学ばなければいけないのではないだろうか─という焦りにも似たものを呼び起こされる気がする。

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旧作探訪#113 『NICO ICON』

2010-12-06 22:34:25 | 映画(レンタルその他)
Nico Icon@VHSビデオ、スザンネ・オフテリンガー監督(1995年ドイツ)
「私たちはパスポートなんて持つべきじゃない。『死を思え(メメント・モリ)』の反対で、バカげてるわ。誰それがどこで生まれたかなんて、いったい誰が気にするっていうの?」
アンディ・ウォーホルの『チェルシー・ガール』をはじめとする映画に出演し、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの伝説的1stアルバムで歌うなど、ウォーホルの“ファクトリー”の花形的存在だったニコ。
1938年10月16日にドイツのケルンでクリスタ・パフゲンとして生まれた彼女は、ニューヨークでウォーホルと会うまでに、既にヨーロッパで十分刺激的な人生を送っていた。
─パリコレのキャトウォークを歩き、VOGUE、ELLEの表紙を飾るファッション・モデルとして─フェリーニの『甘い生活』にも端役で顔を出し─『太陽がいっぱい』のロケで出会ったアラン・ドロンの子どもを産んだ母として─ロンドンで「I'm Not Sayin'」なるシングル盤を吹き込んだ歌手として─そして、そのシングル盤のB面で伴奏したブライアン・ジョーンズ(ローリング・ストーンズ)のガール・フレンドとして─。
ボブ・ディランとの出会いにより音楽の世界に引き込まれ、ルー・リードと、ジョン・ケイルと、ジャクソン・ブラウンと、そしてドアーズのジム・モリソンと出会うニコ。「彼は私が恋した初めての男だった。だって彼は私の容姿と心に愛情を示してくれたから。だけど私たちは愛の成就のため、あまりに酒を飲みすぎ、あまりにドラッグをやりすぎた。それが私たちの難点だった」。
やがて自分でも曲を作り始めた彼女は、ジョン・ケイルのプロデュースのもと『Marble Index』『Desertshore』『The End』という一連の傑作アルバムをリリース。ヨーロッパに渡って映画監督フィリップ・ガレルと出会ったのも同じころで、2人は『内なる傷痕』や『孤高』といった映画を制作するとともに、虚無的な生き方もつのらせ、ヘロインに溺れてゆく。
ニコは彼女をヘロイン中毒から助けようとしたマネージャーの尽力によりコンサート活動を再開し、東京にも2度訪れている。だが1988年7月、スペインのイビサ島で自転車に乗って転倒、脳出血のため49歳で世を去った。ハシシを買いに行く途上だったとされる。
このドキュメンタリー作品は、世界が最も強烈な激動を味わった1960年代から80年代にかけて、自分が自分であることを探し続けた真のボヘミアンであるニコを、関係者の証言や生前の映像を元に描いたものである。ニコと同じケルン出身のオフテリンガー監督はこう語る。「ニコは、単に人から美しいと思われるだけの存在から、独自のやり方で自分自身を表現できる人間になるまで、多大なステップアップを踏んでいった人だと思う。そしてそれこそが、私が彼女に興味を持ってやまない理由でした。人がいかに自分自身を鍛え、今ある姿からほんとうに自分がなりたい自分に変われるか、ということに」。



あ~~酒が飲みたい─酒が。
本来きのう、この映画の記事をやるはずだったのだが、同じことなんだよ。オラは日曜月曜と2日連続の休肝日を設けているので。
2日間飲めないのは長く感じる。土曜の25時から火曜の17時まで飲まないとすると、48時間ではなく、64時間も飲まずにいなければならない。が、老いても1日でも長くおいしく飲み食いするため、我慢するのだ。



《ぬか漬けのきゅうりは生のきゅうりに戻れない》─吾妻ひでおさんは、あれから一滴も飲んでおらず、健康を取り戻したようなのだが、きゅうりはぬか漬けにしなくても、やがてしなびる。
誰もが老い、いずれは死ぬ。子どものころなんてさあ、朝から元気いっぱいで、酒も薬物も必要とせず、夜にはぐっすり眠れたのに。



酒は涙かため息か─あるいは《進化したナメクジ》が、下等動物のままでいれば楽に生きられ楽に死ねたろうに─とこぼすグチのようなものか。
東京新聞の最終面に『わが街わが友』という、著名人が短期連載を引き継いでゆくコラムが載っており、たいていは成功者の自慢だが、あの乙武クンの連載は一風変わっていて、彼に対する認識を改めさせられた。彼が太陽のように明るいのは、人間の命に限りがあることを分かった上でのことだったんですね。
逆に、黙っていてもチヤホヤされる、何ひとつ欠けることのない美女に生まれついたニコは、生きながらにして常に死の匂いを振りまく、まるで死が親友であるかのよう。だが、その音楽は、不思議と優しい。
この映画は、以前のチェット・ベイカーの映画と同様、劇的とか感動を誘うとかではないけれども、一人の人間が背負った業がまざまざと描かれ、その光=まったく独自な音楽=と、影=酒や薬物浸りの暮らし=が、分かちがたい運命だったということが、静かに伝わってきます。
─と書いているうちに、酒が飲める時間が、少し近づいてきた。

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