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いまを生きる水俣病 #2

2010-03-19 23:07:49 | Bibliomania
PreStudies「水俣病と私たち─映像・報道・表現を通して考える #4 柳田邦男さんと映画『水俣レポート 実録公調委』を見る」@明治大学駿河台校舎
講師:柳田邦男(ノンフィクション作家)
映画:水俣レポート 実録公調委(土本典昭監督、1973年、48分)─総理府の公害等調整委員会が委任状の署名・印鑑などを偽造したことを発見した患者・支援者たちをつぶさにとらえた記録。


阿久根市の「ブログ市長」の巻き起こす騒動を聞くと、不快な気分を催すが、彼には彼の正義があり、それを支持する市民によってれっきとした選挙で選ばれたことを忘れるわけにはいかない。

すなわち、過疎化して沈滞する中にあっても、市民の声に耳傾けず旧態依然の権益にしがみついてきた市役所関係者たちが、ああした過激派を自ら招き寄せたということもできる。

ここにおいて正義や悪は、どちらかがむさぼれば、もう一方はさらにむさぼるという相対的なものとなっており、どちらかが勝ったからとて決着のつかない悪循環にもはまっているような。

水俣病という悲惨な状況を招き寄せたものは、わりと絶対的な悪というものに近いと思ってきたが、いや漁民にも責任があるということでは決してないが、政治・経済などの時代状況、その当時の国民の暮らしのありかたなど複雑な背景とも切り離して考えることができないのを知った。

というのも、日本軍が国民を巻き込んで戦争へ突っ走ったこと、あるいは企業が人命を軽視して事故を起こしたり公害を垂れ流したりするのには、共通する要因が潜んでおり、それは現在でもわが国で、そしてほかの国=多くは開発途上の国=で繰り返されることにもつながっているのだ。

「水俣市だけの特殊な現象」ではない。そしてそれは、ほかのありとあらゆる事件や災害にもつながっている、人類普遍の問題なのではないだろうか。




↑水俣病を引き起こした企業チッソの創業は、1906(明治39)年、鹿児島に設立した電力会社「曽木電気株式会社」に始まる。その後、化学肥料の製造で飛躍的に業績を伸ばし、第一次世界大戦後には、朝鮮でも大規模な工場を操業するようになって、日本有数の総合化学会社にまで成長をとげた。主要工場のあった水俣では、チッソは「企業城下町の城主」として君臨し、社会・経済全般にわたって影響力を深めていったのである。製造するものは、石鹸・化学調味料などの日用品から、酢酸・硫酸などの工業用品、火薬や宝石にまでいたった。中でも、アセトアルデヒドから酢酸、オクタノールを経て合成される塩化ビニール可塑剤は、わが国にプラスチックの少ない時代に袋・ホース・農業用シート等の製造に不可欠なものとして稼ぎ頭となっていったが、その製造工程から出る排水の中におそろしいメチル水銀が含まれていたのだ。




↑1950年代、魚を好むネコが狂い踊って死ぬ奇病は、やがて人間にも広まり、チッソ関係者や水俣市役所はわりと早い時期から「ネコ実験」などによって工場排水が奇病の原因であることをつかんでいたが公式に認めず、風評被害や病気による差別などで苦しむ漁民たちの補償要求にも「原因が工場排水と決定しても追加補償しない」と一筆入れさせて低額の補償で決着を図った。




↑1968年、政府による公害認定後、チッソ社長は初めて患者の家をわびて回った。しかし、その後の補償交渉では誠意をまったく示さず、一部の患者たちに当地では大きな存在のチッソを相手とする裁判を決意させることとなった。(以上3つの画像:『日本の公害』大阪人権歴史資料館)




↑チッソ水俣工場はいつも環境を、ことに海を犠牲にして操業と拡大を続けてきた。水俣病が町をゆるがし、漁協とチッソが全面対決した時が2回あったが、多くの市民はチッソに同情し、チッソ勝利に終わったという。チッソはメチル水銀を垂れ流しながら造る塩化ビニール可塑剤の国内シェア85%を握り、「東大応用化学の1、2番しか入社できない」とされるほどの待遇で、現在商品化されている液晶や高純度シリコンの基となる特許を多く取得。高い技術力を持つ、業界トップの総合化学企業だったのだ。1970年ころ、チッソに対して訴訟をしない患者の家には、盆暮れにチッソから贈答品が届けられたという。(画像:塩田武史著『僕が写した愛しい水俣』岩波書店)


いまを生きる水俣病 #1
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