マガジンひとり

オリンピック? 統一教会? ジャニーズ事務所?
巻き添え食ってたまるかよ

『浪華悲歌(エレジー)』 『西鶴一代女』

2009-08-20 22:07:21 | 映画(映画館)
@高田馬場・早稲田松竹(早稲田松竹クラシックスVol. 36 溝口健二監督特集)
『浪華悲歌(エレジー)』溝口健二監督(1936年・日本)
大阪の製薬会社で電話交換手として働いているアヤ子(山田五十鈴)は、勤め先で金を使い込んだ父を救うため、社長・麻居(志賀廼家弁慶)の妾となる。
ある日、麻居とアヤ子は人形浄瑠璃見物に行って妻と出くわしてしまう。危うくその場を切り抜けるものの、後日、友人である医者の勘違いから妻の知るところとなる。パトロンを失ったアヤ子だったが、麻居の友人・藤野(進藤英太郎)から300円の大金を巻き上げて兄の学費として送るいっぽう、交換手時代の恋人、西村(原健作)との結婚の夢を追う。ところが、藤野が金を取り返しに来たのを西村をごろつきに仕立てて追い返そうとして失敗し、留置所に入れられてしまう。西村に裏切られたアヤ子は実家に帰るが、彼女の金に支えられていたはずの家族は誰もアヤ子を温かく迎えようとしない…。
脚本家・依田義賢と溝口が初めてコンビを組み、不振期を脱してリアリズムの大家となる節目の傑作。近代都市大阪を舞台に、山田五十鈴が1920年頃から社会現象として流行した「モガ」に扮する。アヤ子が囲われるアパートは大阪モダニズムの最先端「大阪パンション」がモデルとなっており、そこかしこにモダニズムの匂いが漂っている。



『西鶴一代女』溝口健二監督(1952年・日本)
時は元禄。奈良の荒れ寺へ客にあぶれた娼婦たちが集まり、愚痴を言い合っている。その中に、厚化粧でも歳は隠せないお春という女(田中絹代)がいた。その夜、巡礼帰りの百姓たちの前に引き出され、“こんな化け猫をお前たちは買いたいのか”とさらし者になったお春は、我知らず羅漢堂に入っていく。羅漢堂に居並ぶ五百羅漢を眺めるうちに、お春には羅漢像のひとつひとつが過去の男たちに見えてくるのだった。
さまざまな男たちと出会い、別れていくたびに不幸になっていくお春の、流転の生涯が遡って綴られていく。身分違いの恋で御所勤めから追われ、田舎大名の側室となって世継ぎを産むものの里に返され、親の借金から遊郭へ売られ、ついには門付けから夜鷹にまで身を落とすお春。
原作は井原西鶴の『好色一代女』で、好色なヒロインがここでは徹頭徹尾、非誘惑者、被害者として描かれる。1952年のヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞し、西欧で評価された最初の溝口映画となった。



どうでもいいけどさあ、新聞、雑誌、テレビ、マスコミのみなさんは、酒井法子の話題をいつまで引っぱるつもりなのかね。自分の仕事がいやにならないのかね。(注釈)これ書いてるの酒井法子の事件の2週間後(衆院選の10日前)のことなんです。いや自分も最初は乗っかったけどね。飽き飽き。
芸能事務所とマスコミがでっちあげた虚像を、自分たちで寄ってたかって壊してるんでしょ。くだらな過ぎ。本誌だけはつかんでいた!!彼女の別の顔を!!ってさ、つかんでたんなら事件の前に報道しやがれ卑怯者。
そうしたら未然に防げたかもしんねえだろ。他人の不幸で商売繁盛の卑しいやつら。すべて他人事。決して反省しないマスコミ。
彼女の父親がヤクザだったことすら、初めて知らされた人が多いのでわ。知っていても報じないマスコミ。そういや田中角栄の金脈問題のときも。
ほんとうのことを言わない。記事の結びの文、ニュースキャスターの結びの台詞はいつも同じ紋切り型。未必の共犯。われわれを愚弄するそれらは、体制側や背後でうごめく者たちにとって便利なことでしょ。
戦前がいうほど暗い時代でなかった、というのは臭いものにフタをしたい右翼のみなさんの言い草とはまた違った意味で、いえてる部分が多い。まだ消費文明・広告文明のフォーマットが定まってなくて、言論自由なはずの現代よりも自由な表現にお目にかかれることがしばしば。『浪華悲歌』に登場する人物たちの言動は、さだめし「闇金ウシジマくん・モガくん」。そのリアルなこと。すでに戦後で『雨月物語』『山椒大夫』の前哨となる『西鶴一代女』では、描かれるのが個人の自我の前面に出ない時代ゆえか、幻想的な描写も取り入れられているものの、お金と権力の描かれ方はリアル。なにがヒロインをそういう行動へ走らせたか、そういう境遇へ追いやったか、われわれにもきっちり問題を投げかける。他人事ではいられない。
逆に今のマスコミとか芸能ってのは、問題から目をそむけさせてませんでしょか。われわれの目を、この没落にっぽんで。臭いものにフタをして同じ失敗を繰り返すってことでは、「日本軍」「自民党」の次に失墜するのは「マスコミ・広告業界」かもしれないが、どうか国民を道連れにしないでいただきたい。といっても、バレーボールの国際試合の前にジャニタレが歌い踊ってる姿を見ると、すでに手遅れって気も。一部では敗戦より手痛い国辱。特に痛いのは未来がないってこと。
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バンカラ

2009-08-18 21:50:02 | マンガ
マンガ雑誌の読者の子どもに向けて描かれ、単行本化されることもなく、されたとしても注目されずひっそりと消えていく数知れないマンガたち。
オラ小4~小6(1974~76)のころ唯一自分でお金を払って毎号買っていた雑誌、月刊少年ジャンプ。見ている時間は至福。わくわくして夢中になるというよりも、人気連載の野球マンガ『キャプテン』に代表されるように独特のゆったりした時間が流れていた。今となっては、他にどんなマンガが載っていたかはっきり覚えていないが、不定期掲載されていた作品に永井豪のおなじみ『けっこう仮面』と、どおくまんの『花田秀治郎くん』があって、後者は「花田秀治郎くん猛走す」とか「花田秀治郎くんラグビーす」のように1回1回読み切りの話が笑いあり根性あり恋模様ありでとてもおもしろく、その空気感とともにいつしか雑誌の中の一番のお気に入りとなった。
ところが当時ジャンプの集英社からは単行本化されず、不思議なことに大人向けの4コマ漫画を多く文庫化していた立風書房によって2冊の文庫にまとめられた。マンガ本を処分するのが習い性となっているオラも、こればかりは大切に保存。久しぶりで見てみる。見終えるまでに、思わず「いいマンガだなあ!!」と口に出してしまうこと6~7度。ほんと、これがオラにとっての月刊少年ジャンプ。
少年ジャンプの編集方針は「努力・友情・勝利」なのだという。しかし、それが強調されるようになったのは1980年代以降同誌が部数を急増させるにつれてのことで、それより前にはわりといろんなカラーの作品を載せていた気がする。
先日、宝生舞が年を重ねてきて、ひょっとして最後のセクシーグラビアの仕事だったかもしれない2000年5月の週刊プレイボーイを入手。そこに『キン肉マン』の続編となる、キン肉マンの息子が戦うマンガが載っていた。青年向けの雑誌に『キン肉マン』が載ることにも疑問がないではないが、まあいいでしょう、男の子たちにとっての「通過儀礼」なんでしょから。
にしても、敵キャラが「鬼畜ハンゾウ」といい、リング上の戦いで打ち負かした相手の顔面の皮を刀で切り取る、というのにはなんぼなんでもあきれる。オラが『北斗の拳』や『キン肉マン』に嫌悪感を覚えるのには、自分が肉体的にへなちょこゆえ、というのにとどまらない。敵を、残虐な、絶対的な悪として描く傾向。問答無用の悪。敵をそのように描くということは、つまり味方は絶対的に、無条件に善であるという。それは、読者に向かって、努力や友情の尊さを訴えているようでありながら、実のところ、あなたは無条件に善なんですから努力しないでいいし勇気も出さなくていいですよ、パチンコでもやっていてください、と言ってはいないか。
そうではないとしても、これから世の中を生きる子どもたちに向けて、善の面しか持たぬ人物、悪の面しか持たぬ人物を見せることの反教育効果は見逃せない。われわれ大人はすでに知ってますよね。世の中は複雑にできていて、誰しも善と悪を併せ持つ。立場によって変わったりもする。
『花田秀治郎くん』では、主人公の秀治郎もだらしない面やときには卑怯な振る舞いも。それを忠告する親友の剣源太郎はかっこいいが、彼ですら恋するとだらしなくなってしまう。そして、特に大人になったオラをも感動させてしまうのは、オールドミスの山神先生や、美人で性格の悪い天知さん、秀治郎を目の仇にする彼女たちも単純な「敵キャラ」にとどまっておらず、彼女たちの側から物語が語られることさえあるのだ。いいマンガだああ…。
みなさん、小学生のときって、高校生がすごい大人に感じられませんでした??マンガで高校生の学園生活とか見て、自分もあんなふうになれるのか憧れませんでした??
今のオラは40代の汚っさんで、高校生だったのは遠い過去。それでも、花田秀治郎や剣源太郎を見て、憧れる気持ちがよみがえってくる。彼らはオラより大きな人間。オラは大人になってもちっぽけな人間にしかなれなかったが、これからわずかでも彼らに近づきたいとも思う。

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マーク・レスターくんのなんでそうなるの

2009-08-13 22:04:09 | メディア・芸能
また時事ネタかよ。というより、じじいネタ。じじいとばばあしかわかんねえ。ブログの管理者は、時間帯による訪問者数、どのページが見られてるか、どんな検索ワードで訪れたか、などといったリポートをわりと細かく把握することができるが、ぜんぜん見当がつかないのが性別、年齢、どこで見てるか、あるいは外国から?といった訪問者ちゃまの属性。
まあ、だいたい上は40代前半~下は20代後半あたりの日本人で、男女比は9:1くらいかと思うんですけどね。当てずっぽで。世代が違うと、関心の範囲はおろか、根本的な日本語の話法までぜんぜん違ってくるからさ。以前にイトコの姉ぇーちゃんの娘さんは、マツダセイコって誰?と。小さな恋のメロディ?なにそれ。11才の男の子と女の子が子どもたちだけの結婚式を挙げて、二人でトロッコを漕いで去ってゆく??マジウケル~~





母国イギリスでもアメリカでも世評は芳しくなかった。1971年の映画『小さな恋のメロディ』。アカデミー賞を受けたミュージカル映画『オリバー!』の子役マーク・レスター(Mark Lester・1958~)とジャック・ワイルドが再び共演。マークの演じるダニエルが、トレイシー・ハイド演じるメロディに恋する。↑のチラシ画像は1976年のリバイバル公開時のもので、当初の公開では『小さな恋のメロディ』なんていう少女趣味な邦題であるものの原題もMelodyなのでトレイシー・ハイドの方にスポットが当てられている。マーク・レスターで売り出そうとは考えていなかった様子。ところが当時の日本人少女たちは食いついた。子どもだましなストーリーをも納得させてしまう、マーク・レスターのかわいらしさに。日本のみで大ヒット。ビー・ジーズの歌う主題曲も、オリコン3位で45万枚も売れた。そして…。



↑6月29日、英チェルテンハムの自宅で、マイケル・ジャクソンさんとの思い出を語るマーク・レスターさん=AP

どーーん!!!!
あなたはやってはいけないことをやってしまいましたね…。ここ喪黒福造の声で頼むよ。1981年、すでに俳優としては注目されなくなっていたころ、『Off the Wall』当時のマイケル・ジャクソンから呼び出されて対面。同じ1958年生まれで子ども時代から芸能活動をしていた二人は意気投合し、親密な友人関係が始まったという。
マイケルは結婚後に子どもができず、マーク・レスターが何気なく「ぼくの精子を試したら」と話したところ、マイケルは大いに乗り気で1996年3月にロンドンの医療施設でマークの精子を採取したという。
その後マイケルの妻デボラ・ロウさんは三児を出産。いずれの子どももマークが名付け親となり、逆にマーク・レスターの4人の子どもについてはマイケルが名付け親となった。両家は定期的に交流していたが、マイケルの死後、その母キャサリン・ジャクソンさんに遺児の養育権が認められてからマークの電話やメールが無視されるようになり、憤りを覚えたマークがこのほど英紙に「マイケルの長女パリスさんは私の娘だ」と爆弾告白。
キャサリンさん側はDNA鑑定には応じない模様で、さらにマーク・レスターには「子どもたちはどんな気持ちになるのか考えているのか」「本当にマイケルの友だちなら、こんなことはしない」「恥を知れ」など世間から多くの反発が浴びせられている。
まあねえ。パンチの利いた酒井法子の話題の直後としては、あまりにも脱力。「落差」っていう意味では共通してますけど。たぶん少年愛のマイケル・ジャクソンとしては、『小さな恋のメロディ』当時のマーク・レスターみたいな男の子がど真ん中のストライクなんでしょ。それにしても、自分の子どもをそうしたいと思うのかナ かわいらしいったって一時的なもので、マークもそこから脱皮できず、俳優業はあきらめざるをえなかったのに。↓16才の『楡の木陰の愛』と19才の『王子と乞食』。それを最後に日本でも話題を呼ぶことはなくなった。
子役から脱皮するってたいへんよね。日本でもケンちゃんシリーズの宮脇康之さんなんかが絵に描いたような浮き沈みの人生になってるみたいですけど。そう考えると、杉田かおる姉さんが「格付け女」で最年長者として、ずっと下の世代の人たちと同じリングに上ってるって偉大なこと。『小さな恋のメロディ』がTV放映されたとき、トレイシー・ハイドの声を杉田姉さんが吹き替えたんだとか。

  
コメント (2)
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銀行と映画館

2009-08-09 18:15:48 | メディア・芸能
弊ブログのことを知らぬ知人と会話するときオラしばしば「ベスト・オブ・マガジンひとり」をやる。文章の形で整理してあるので、会話があちこちへ飛んでも、その都度それに応じた題材を引っぱってこれる。先日もそうするうち織田裕二くんの話題へ。

オラ─山本高広の物真似を禁じてしまうなんて不粋ですよね。あれによってツッコミが入って、芸として完成するのに。
相手─織田裕二は自分のことをおもしろいとは思ってないんじゃないですか?

そういえばそうかも。織田は自身を正統派の俳優と思っていて、山本が彼の真似で笑いをとることが心外なんでしょか。ゲイゆえ、よけいに笑われることに過敏で、忌避したいというのもあるかもしれない。
美輪明宏というゲイの老人も、部外者から見ればちゃんちゃらおかしい狂ったクジャクのような扮装で、言動もそうだが歌いぶりの仰々しく尊大なこと。ナチ政権下なら収容所に送られかねない同性愛者なのに、どちらかといえばヒトラーの側に立ってふるまう。
そうした傾向をもっとも象徴する人物に北野武=ビートたけしがおり、たとえば彼が昔むかしツービートの漫才で、寝る前にちゃんと締めよう親の首!あるいはブスは殺しても罪にならない!などと発言する場合、彼は決して殺される親やブスの側から言ってはいない。ゆえにこそ子どもも狂喜したのだ。
当時の彼は今のように地位と組織を築いた姿ではない。もっと徒手空拳でしゃべっていた。映画に進出するより前は音楽で売れることに執着しており、スタジオアルタのミニライブで彼の姿を目にしたが、その肌の汚くてブサイクなこと。彼にはずいぶん楽しませてもらったのであんまし悪口ばかり書き連ねるのもどうかと思うが、肌の汚さは空気感に属することで、テレビや映画では伝わらないので特筆しておきたい。別の機会にはロッド・スチュワートに自己投影して「Hot Legs」をガニマタで歌う。
きのう夜のTBSの報道ワイド番組では酒井法子が出頭したことを受けて、ゲストなのかコメンテーターなのか北野武は「わたしがやったらこの番組はたいへんですね!」などと。おまえはかつてやっただろ。犯罪者。漫才でもタブーを破って弱者攻撃して世間の喝采を受けたように、当時の風潮では写真週刊誌のパパラッツィよりも、それらに私生活を追いかけ回される有名人たちに同情する空気があったのも冷徹に計算して芸能界追放にまではならない、と踏んだかもしれない。
ビートくんの気持ちもわかる=後藤田官房長官。それはそのとおり。
ことは一介のお笑い芸人にとどまらない。日本人というのは、なにかものを考えるとき、《権力の側から考える・権力の側に立って発想する》性向が強い。権力から被害をこうむる側に近寄ることを避ける。それゆえに、体制から差別され続けてきたユダヤ人の音楽と、体制にすり寄ろう、あわよくば自分が体制になろうと考える日本人の音楽ではぜんぜん違ったものになるんでしょか。関白宣言。
もし音楽やお笑いの芸能人たちが、そうした発想に基づく芸で人気者となって、人びとをそちらの方向へ誘導してくれるとするなら、それは体制側にとってたいへん好都合。てな考えが湧いてきたのも、↑の五反田駅周辺の地図を見ていて。
オラの住む現在ではない。生まれてない1963(昭和38)年。この時期の駅周辺で、まず目立つのが銀行と映画館。黒い三角印で表示される映画館が5館も。今は一つもない。地図に表記されるということは、銀行と映画館が「公的な場所」として共通する役割を担っていることをも示しているのでわ。銀行は人びとから広く預金を集めて、さまざまな企業や商売に出資する。シロートには違いがよくわからないが、かつては相互銀行とか信託銀行とか信用金庫とか、横並びの護送船団方式で箸の上げ下げまで国の意向に沿う。
映画館は人びとの夢を集める。かつてはもっと夢があったかも。やがて広告主導のテレビがすべての世帯に普及し、映画館の数も減って相対的な地位は低下したかもしれないが、やはり今でも映画は芸能界でももっとも華やぎのある頂点として影響力を振りまいてるのではないだろうか。
北野武には音楽は無理でも映画が残っていた。そこで彼はもっとも独自な才能を発揮することができた。映画監督は権力者。「押尾学も映画のオーディションを受けたいって言ってきたらしいんだけど、俺のところに来る前に書類で落とされた」。北野映画はそれほどそうなっていないが、権力側に立って発想されることはだいたい似てくる。ゲームやパチンコ・パチスロのプレーヤーというのも、実際に権力があるかどうかはさておき、そのゲームやパチンコの中では自分が主人公となって全権を握る。パチンコ機種みたいな映画が増殖するゆえん。もしわれわれが、そうした映画やゲームの世界にのめり込んで、外界のこと、選挙とか社会的なことに興味を失って引きこもるとするなら、権力者たちにとってそれは《われわれが権力の側に立ってものを考える》こと以上にますます都合よろしい。しかし未来はない。



↑Hollywoooo──d!!



↑警視庁渋谷署に移送される酒井法子容疑者=8月8日夜、東京都渋谷区で(東京新聞・北村彰撮影)
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旧作探訪#67 『シド・アンド・ナンシー』

2009-08-07 22:23:58 | 映画(レンタルその他)
Sid and Nancy@レンタル、アレックス・コックス監督(1986年イギリス)
1978年10月、元セックス・ピストルズのベーシスト、シド・ヴィシャス(ゲイリー・オールドマン)は、恋人ナンシー・スパンゲン(クロエ・ウェブ)を刺殺した容疑で逮捕される。警察からナンシーとの関係を尋問されたシドが、二人のなれそめを回想するところから、映画は始まる。
過激な音楽と破天荒な言動で全英の話題を集め、パンク・ロックの中心的存在ともなったセックス・ピストルズ。元はそのファンであったシドは、ルックスの良さと攻撃性をマネージャーのマルコム・マクラレン(デイヴィッド・ヘイマン)に買われて途中からバンドに参加する。明日をも知れぬ、彼のパンクを体現するような生き方は、方向性を見失いつつあったバンドの中でもパンク・キッズの注目を集めるのに十分であった。アメリカから来てパンクのグルーピーとなっていたナンシーも、シドに惹かれ、麻薬におぼれたり破滅的な志向を持つ二人は急速に愛し合うようになる。
ところがセックス・ピストルズは初の米ツアー中にヴォーカルのジョニー・ロットン(ドリュー・スコフィールド)が脱退して空中分解。ろくに楽器も弾けなかったシドはなんとか音楽活動を続けていこうと苦闘するが…。



TVを中心とする報道は、ドラマよりおもしろい酒井法子の逃避行で一色に染まる。留置場にいる押尾学には知るよしもないが、知ったとしたら、世界一えらい俺さまより話題を集めるなんて許せない、と吠えたろうか。
すっかり隠れた形となった押尾の事件。忍法カゲリ!!のりピーの事件はなるほど劇的ではあるが、たかだか覚醒剤のこと。押尾の事件では人が死んでいる。
同様に芸能界と麻薬がらみで女が変死した事件が1978年に起こった。シド・ヴィシャスとナンシー・スパンゲン。ナンシーの死因は腹部の刺し傷で、その原因となったナイフは一緒にいたシドの持ち物であったが、レコード会社の働きかけもあったとされ嫌疑不十分で釈放となり、約4ヵ月後にシドは麻薬中毒死した。
そこへいたる成り行きが推測されて映画化されたことは知っていた。初めて見る。演じる2人は熱演で、実際にもこんなんだったろうなあ、とも思わせる。シド一世一代の名唱となった「マイ・ウェイ」の場面などいくつかハッとさせもする。
しかし、確かにパンクスにまつわることはこんな風に暴力と自堕落にまみれていたかもしれないが、当時セックス・ピストルズのライブを見て衝撃を受けて創作の道へ進んだ者も少なくない。破壊的で破滅的なだけではなかった。そのあたり映画のピストルズはぜんぜん魅力がないよナ…。特にジョニー・ロットンの人物像が平板で。まあ主役はシドとナンシーで、その2人の破滅志向を美化して描かなければならなかったことはわかるけど…。
酒井法子の報道も同じ材料を繰り返してるのに過ぎないのだが、やはり現に起こってる事実であり、それに比べ「TVサイズで見る映画とかドラマ」の不利は否めない。先日の『ディア・ドクター』にも釈然としなかったのは、西川美和の監督した前の作品に比べ、明らかに映画として弱く、主演の鶴瓶の人間そのものの発する情報量に依存してしまってる。鶴瓶なくしては成立しない。
映画監督ってのもおそらく、事件が起こってくれなければ困るマスコミと同じくメディア産業なんでしょ。特異な題材とか強力な俳優に依存しがち。
映画、芸能、TV、マスコミの類いは、売春してでもAVに出てでも麻薬をやってでも暴力をふるってでも、とにかく有名になりたい、あるいは有名でい続けたい人たちが切れ目なく現れ続けてくれないことには立ちゆかない。
そして、そんな中でも、根拠もなく誰よりも有名でいたい押尾学の事件が、ひっそりと隠れて続報も入ってこないとしたら、それはなんらかマスコミの、あるいはもっと大きな権力の意図を勘繰る必要もあるんじゃないかと。押尾にはエイベックス等を通じて、パチンコ利権への、さらにパチンコ利権を握る警察OBの平沢勝栄議員へもパイプがあることが噂される。いま押尾の身柄も、被害者の検死など詳しい捜査状況もすべて警察の管理下であり、事件を大きくするのも小さくするのも全権は警察次第。

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旧作探訪#66 『クラム』

2009-08-02 21:07:03 | 映画(レンタルその他)
Crumb@VHSビデオ、テリー・ツワイゴフ監督(1994年アメリカ)
ひょろりと伸びた手足、度の強い眼鏡、一見すると内気でスクエアなこの人こそ、アニメ化もされた“フリッツ・ザ・キャット”やジャニス・ジョプリン『チープ・スリル』のレコード・ジャケットで名高い、米アンダーグラウンドの伝説的なコミック作家、ロバート・クラム氏(1943~)なのだ。
すばらしく下品な絵とコミックの数々
現在クラムのコミックスは、アンダーグラウンド・カルチャー再燃の流れに沿ってその原画も高い評価を受けているが、性的な妄想、女性への恐怖、広告文明への嫌悪、LSDによる奇想などを隠そうともしない作品群は、“良識ある”一般社会では忌避されることも多く、それゆえよけいにカルト的な崇敬を集めてきたのだった。
クラムを生んだ環境、それは「健全なアメリカ家庭」の陰画
クラム本人や家族、関係者の膨大な証言を集めたこの映画では、その奇想を生むのが個人的資質というより、特異な家庭環境と幼少期にあったことが明らかになる。軍人でカトリックの父、そしてロバート以上の奇人でそれぞれ絵も描く兄チャールズと弟マクソン。それらは自傷行為のような痛みをわれわれに突きつけ、ロバート・クラムが見せかけの幸福な生活の下に潜むアメリカの欺瞞と病巣を暴き出してカルト・ヒーローとなるに至った背景をまざまざと示す。
6年間にわたるインタビューのすえ映画を完成させたツワイゴフ監督はクラムのバンド仲間でもあり、デイヴィッド・リンチも製作に名を連ねた本作はドキュメンタリーとしては異例の高評価を受けたが、兄チャールズ・クラムは公開を待たず撮影後に自殺した。



きのうあつかった時事ネタのひとコマ漫画では決して描かれない世界。たとえばそれら諷刺漫画の作家さんの中では並外れてアイデア豊富のように思われた山藤章二という人物。もっとも鮮やかな印象を刻んだ作品に、週刊朝日最終ページの「ブラックアングル」というコーナーでロッキード事件の疑獄に連なる3名、田中角栄と児玉誉士夫と小佐野賢治を、武者小路実篤が「仲良きことは美しき哉」なるキャプションとともによく描いた色紙と重ねてみせたものがあった。
それは当時、たいへん鮮やか。今になってみると、なんの感慨も湧かない。事件も武者小路も遠い過去。それらをリアルタイムで共通の知識として持ってなければ、意味がない。
そのときその場だけで通用する時事ネタ。諷刺漫画の多くは、単独の絵としての価値を持たない。小市民的な常識の範疇を超えない“諷刺”で、新聞や雑誌には適応するが、時代や言語を超えて残ってゆくような無制限の表現からは遠い。
いっぽうロバート・クラム氏とて、絵柄など彼が生まれ育ったころの文化から強く影響されたポップ・カルチャーではある。しかし、適応というより不適応、新聞や雑誌に載ろうなんて思ってないし、社会的にも。
2度の結婚と娘さんもいるが根っからのオナニストで、日本でいうと林良文のような尻フェチ絵も多く、映画の中で女性から「子どものころあなたの絵で女性の体が物のようにあつかわれてるのを見て恐い思いをした」と言われて、「私は監禁されているのがふさわしい人間かも」などとも。さらに彼の兄と弟は彼以上の不適応で、引きこもりというか世捨て人のような暮らしを送っており精神科のお世話になったことも。兄チャールズと彼は少年時代競うように絵を描き、そのころの絵ではむしろチャールズに天分があったようにも見えなくもない。しかしカントとヘーゲルの本しか読まないというチャールズは次第に絵よりも観念的な文章にのめり込み、ロバートの絵が世間に媚びてないとはいえポップな市場価値もあるのに比べると、誰も理解できない完全に世間と隔絶された隠者となってしまった。
ロバートは子ども時代チャールズからよく「なんと最悪に輝いているんだ!」との言葉を浴びせられたという。それは子どもらしい罵言かもしれなかったが、「社会から切り離された存在」としての創作人生を象徴しているように思えてロバートにとって今でも好きな言葉だという。映画はチャールズに捧げられた。
さて、この「社会から切り離された」というのは口で言うほど容易でない。誰しも日々お金で食べものを買い、人と会話しながら生きている。超俗の芸術家も例外ではない。しかし、人を、というより世間を、あるいは市場を常に意識して振る舞うようになると、本来の姿からかけ離れたなんだか情けない姿にもなってしまうような。ロバート・クラム氏は1960年代にサンフランシスコでインディー誌『Zap』などでアンダーグラウンドの人気者となったが、意外にも当時のヒッピーとかロック音楽は嫌いとのこと。ローリング・ストーンズからレコード・ジャケットの絵を依頼されたが断ったんだとか。
おそらくそこにこそ、彼がお客さんを、場を、市場を意識したくない、意識することによって本来の作風がねじ曲げられて自由な奇想が湧いてこなくなってしまうのでわ、のような創作の秘密があるのかもしれない。それはまた、ブログってのはいったいなんなんでしょ、とも考えさせる。人に読まれること前提で書かれた個人の日記。
オラ映画の感想にも時事ネタを盛り込んだりするじゃん。『この自由な世界で』でシングルマザーが主人公なことから竹内結子がCMにじゃんじゃん出て母子家庭の現実を覆い隠すのはむかつく!!とか飛んだり。10年や20年後にどうなってるんでしょか。社会とつながっていたい孤独な者のつぶやきに、お客さんが遠巻きにして苦笑している、奇妙なセラピー。



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