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マガジンひとり

自分なりの記録

2008年間TOP20

2008-12-31 18:27:38 | 音楽
1. "Nothing's Gonna Change Your Mind" Badly Drawn Boy (2006)
2. "Barrowland Ballroom" Amy MacDonald (2007)
3. "Friends (EP Dance Mix)" Ween (2007)
4. "Warwick Avenue" Duffy (2008)
5. "Smokin from Shootin" My Morning Jacket (2008)
6. "Great DJ" The Ting Tings (2008)
7. "Nothing Ever Happened" Deerhunter (2008)
8. "Paper Planes" M.I.A. (2007)
9. "Chasing Pavements" Adele (2008)
10. "The Sun Smells Too Loud" Mogwai (2008)

11. "Ready for the Floor" Hot Chip (2008)
12. "Lay It Down" Al Green feat. Anthony Hamilton (2008)
13. "Chemtrails" Beck (2008)
14. "Kill Zone" T-Bone Burnett (2008)
15. "Strange Times" The Black Keys (2008)
16. "Machine Gun" Portishead (2008)
17. "Bleeding Love" Leona Lewis (2007)
18. "Suffering Jukebox" Silver Jews (2008)
19. "Monsoon (Money Mark Casio Remix)" Jack Johnson (2008)
20. "Criminal" The Roots, Truck North & Saigon (2008)



若いってうらやましい。ほんとうに。いったん白紙に戻したい。もう1度スズキのセルボから、いや100曲くらいからやり直してみたい。ハーレム8685夜。もうすでに8800近くまでふくらんで。愛妾の名前もよくわからない。あれ?こんな美人さん(いい曲)いたっけ?名前は何ていうんだろ。のようなことがしばしば起こる。
CDを買ったり借りたりして、そこからお気に入りを選んでカセットやMDを作ってた当時からして、150円で1曲をダウンロード購入するのはあまりに簡便で安直。とうとう今年のTOP20はすべてが150円で買った曲で埋めつくされてしまった。と同時に、そのような環境を当然の前提として育った若い人たちが、新しいものを作っていくのはたいへんだろうなあ、とも思う。そもそも「世代交代」どころか、年をとる前に死にたいと歌ってた人でさえいつまでも去らずに居座ってる。オラ洋楽を聞き始めた1978年終わり頃には、普通の洋楽リスナーでもビートルズくらいまで10数年、ちょいマニアックなリスナーでもチャック・ベリーかレイ・チャールズあたりまで20数年さかのぼるだけで済んだ。今からですと40~50年にもわたって、複雑に枝分かれした音楽の源流をたどらなければならない。もはや娯楽というよりお勉強。
そうしてたどった膨大な音楽は、それぞれがまったく独自の叫びに満ち満ちており、200年前のベートーヴェンの叫びさえも生き生きとよみがえる。そんな過去のたくさんの叫びに対抗すべく今の若い人たちから聞こえてくる叫びはか細くてかき消されがち。それでもなんとか対抗しようと、フランケンシュタイン博士の述べた《新しい発明ができるならキチガイと呼ばれようとかまわない》の言葉の、「発明」よりも「キチガイ」のほうが独り歩きして、ヒットチャートや歌番組で誰もが親しめるような音楽よりも、セックス・ピストルズやニルヴァーナのような、あるいはそれさえポップに感じられるもっともっと奇矯で少しだけの人にしか語りかけない叫び=発明=音楽ばかりになってしまったのではないだろうか。

Billboard - 1. "Low" Flo Rida - 2. "Bleeding Love" Leona Lewis - 3. "No One" Alicia Keys

New Musical Express - 1. "Kids" MGMT - 2. "Geraldine" Glasvegas - 3. "Two Doors Down" Mystery Jets

Rolling Stone - 1. "Single Ladies (Put a Ring on It)" Beyoncé - 2. "L.E.S. Artistes" Santogold - 3. "Time to Pretend" MGMT

BLENDER - 1. "A Milli" Lil Wayne - 2. "Paper Planes" M.I.A. - 3. "Low" Flo Rida

Pitchfork - 1. "Blind" Hercules and Love Affair - 2. "White Winter Hymnal" Fleet Foxes - 3. "Ready for the Floor" Hot Chip

各誌の年間チャートがてんでんばらばら。ほかにもオリコンで1位2位を占めてる嵐(と書いてタイマ、マリファナ、ガンジャ等々と読ませるのかナ)なんてのはどんな曲だかぜんぜん知らないし知りたくもない。音楽が人を結びつけるものでなく、人をばらばらに孤立させるものになってきてる気配が。それにしてもローリングストーンとBLENDERの選択は4位以下も精彩に欠ける。ローリングストーンで年間1位の曲、つまんねえなあ。どこかで聞いたような要素を組み合わせたみたいな。ビヨンセさん、ひょっとしてあなた、もう歌いたいことがなんにも残ってないんじゃなくて??全体的に作曲よりも編曲で工夫してる感じの曲が多く見られる傾向なので、いい曲を書ける、作曲能力のある人・バンドが貴重な存在に。1位のバッドリー・ドローン・ボーイ、3位のウィーン、5位のマイ・モーニング・ジャケット、18位のシルバー・ジューズは、過去のアルバムにさかのぼっても、ずっといい曲を書いてきたみたいなので、特別功労賞を進呈したい。
そして昨年は弊年間チャートで1位2位を占めた日本人の音楽はますます深刻。あちこちからパクッた江原の説教とか、体裁はヒップホップでも歌われてることは四畳半フォークと一緒とか、そんなんばっか。リスクをとって自己責任で叫ぶことのできない、変われない日本。かろうじてフジファブリックと斉藤和義が30位あたりに。邦・洋通じても上位3曲が2008年の曲でなく、ワールド・ミュージックからも心のヒット曲を見つけられなかったのは残念でした。さあ、来年はどんな1年になりますでしょか。みなさんもよいお年をお迎えください。来てくれてどうもありがとう。またね!!


…あっっしまったっっ最凶紅白に“船場吉兆の女将”に出てもらうのを忘れちゃった!!最後にひとこと。みなひゃん。あ。く、苦ひい。そこはなへ、そこはなへ。まだいっぱい言い残ひたことがある。言い残ひたことが。
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2008年の映画・星取表

2008-12-30 21:30:35 | 映画(映画館)
★★★★★
黄金狂時代(チャーリー・チャップリン)旧作
君のためなら千回でも(マーク・フォースター)
接吻(万田邦敏)
実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(若松孝二)
気違い(渋谷実)旧作
ぐるりのこと。(橋口亮輔)試写会
世界で一番美しい夜(天願大介)
アフタースクール(内田けんじ)
飢餓海峡(内田吐夢)旧作
ノーカントリー(ジョエル&イーサン・コーエン)
旅芸人の記録(テオ・アンゲロプロス)旧作
カリガリ博士(ローヴェルト・ヴィーネ)旧作
座頭市物語(三隅研次)旧作
歩いても 歩いても(是枝裕和)

★★★★
ジプシー・キャラバン(ジャスミン・デラル)
コントロール(アントン・コービン)
光州5・18(キム・ジフン)試写会
笛吹川(木下惠介)旧作
靖国 YASUKUNI(李纓)
ジョイ・ディヴィジョン(グラント・ジー)
キンキーブーツ(ジュリアン・ジャロルド)旧作
シークレット・サンシャイン(イ・チャンドン)
イースタン・プロミス(デイヴィッド・クローネンバーグ)
花はどこへいった(坂田雅子)
敵こそ、我が友 ~戦犯クラウス・バルビーの3つの人生~(ケヴィン・マクドナルド)
闇の子供たち(阪本順治)
この自由な世界で(ケン・ローチ)
未完成交響楽(ヴィリ・フォルスト)旧作
潜水服は蝶の夢を見る(ジュリアン・シュナーベル)
トゥヤーの結婚(王全安)
大人は判ってくれない(フランソワ・トリュフォー)旧作
ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(ポール・トーマス・アンダーソン)
白い馬・赤い風船(アルベール・ラモリス)旧作
LOOK(アダム・リフキン)
ヤング@ハート(スティーヴン・ウォーカー)試写会
休暇(門井肇)
ピアノチューナー・オブ・アースクエイク(クエイ・ブラザーズ)
クララ・シューマンの愛(ヘルマ・サンダース=ブラームス)
紅いコーリャン(張芸謀)旧作
水玉の幻想・ホンジークとマジェンカ(カレル・ゼマン)旧作
ボーダータウン 報道されない殺人者(グレゴリー・ナヴァ)
グリーン・デスティニー(アン・リー)旧作
フランケンシュタイン(ジェイムズ・ホエール)旧作
青い鳥(中西健二)
厳重に監視された列車(イジー・メンツェル)旧作
ノン子36歳(家事手伝い)(熊切和嘉)
レス・ポールの伝説(ジョン・ポールソン)
チェ28歳の革命(スティーヴン・ソダーバーグ)試写会

★★★
はじらい(ジャン=クロード・ブリソー)
線路と娼婦とサッカーボール(チェマ・ロドリゲス)
長江哀歌(賈樟柯)
ファーストフード・ネイション(リチャード・リンクレイター)
みえない雲(グレゴール・シュニッツラー)旧作
サルサとチャンプルー(波多野哲朗)
告発のとき(ポール・ハギス)試写会
いま ここにある風景(ジェニファー・バイチウォル)
8 1/2(フェデリコ・フェリーニ)旧作
夜のひとで(長谷和夫)旧作
制服の処女(レオンティーネ・ザガン)旧作
ヨコヅナ・マドンナ(イ・ヘヨン)試写会
フツーの仕事がしたい(土屋トカチ)
ハムスター・プロウコク氏 靴屋はいやだの巻・悪魔の発明(カレル・ゼマン)旧作
歴史は夜作られる(フランク・ボザージ)旧作
ラット・フィンク ~ボクのビッグ・ダディ~(ロン・マン)
羅生門(黒澤明)旧作

★★
ビルマ、パゴダの影で(アイリーヌ・マーティー)
非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎(ジェシカ・ユー)
僕の彼女はサイボーグ(クァク・ジェヨン)
アクロス・ザ・ユニバース(ジュリー・テイモア)試写会
女工哀歌(ミカ・X・ペレド)
おくりびと(滝田洋二郎)
BOY A(ジョン・クローリー)試写会
ロック誕生 The Movement 70’s(村兼明洋)
帝国オーケストラ(エンリケ・サンチェス=ランチ)
ブロードウェイ♪ブロードウェイ コーラスラインにかける夢(ジェイムズ・D・スターン&アダム・デル・デオ)
未来を写した子どもたち(ロス・カウフマン&ザナ・ブリスキ)


哀憑歌(金丸雄一)
パレスチナ1948・NAKBA(ナクバ)(広河隆一)
おいしいコーヒーの真実(マーク&ニック・フランシス)
ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!-(エドガー・ライト)試写会
赤んぼ少女(山口雄大)
ダージリン急行(ウェス・アンダーソン)
ジュテーム わたしはけもの(星田良子)
誰も守ってくれない(君塚良一)試写会
中華学校の子どもたち(片岡希)



なんだか今年は凶悪キャラがいっぱい現れて長く感じられた1年だったような。橋下、KATO、田母神、KOIZUMI…。映画の話ではない。映画の話ではないが、“最凶紅白”で藤原帰一の歌う「ぼくちん東大教授ですがホット・ファズとかもわかるよ」と田母神の歌う「わたしが無名の兵士であることは絶対にない」とはリンクしてることは疑いない。受験などの競争で勝ち続けてきた男がゲーム的な世界観の映画を好ましく思うということ。上官から命令されて死地へ赴く兵士の立場に立つことはありえない、自分は絶対に命令をくだす立場であると確信してる男の示す単細胞な歴史認識。
そうしたやつらの言葉を、世界観を一顧だにしたくないものの、いろいろな映画の中に彼らの姿の影を見ることのできるのもまた事実である。『ビルマ、パゴダの影で』の映画の内容はさっぱり覚えてなくても、そこで聞いた「強姦許可証」という言葉は胸の奥にとどまって消えることのない。ビルマ(ミャンマー)の軍事政権が国民に対して圧政を敷く。そんななか、軍隊みたいなものがわざわざ「許可証」を印刷して証拠品を残すはずはない。残すはずはなくても、民間人への強姦を暗黙のうちに認め、奨励さえするような空気があることは容易に推測できる。一石二鳥・三鳥にもなって便利なので。ビルマの兵隊が民間人を強姦して獣欲を満たすとともに威圧効果や結束を固める効果をも得ることは、橋下や東国原がTVにいっぱい出演することとたいへん共通している。そして昔の日本映画『気違い』によれば、村人みんなが少しずつ軍人などの役割を分担してるような共同体=共和主義の社会においては、政治家の役割を進んで引き受けようとするのはもっとも恥知らずで汚い男、ということが描かれてる。政治家や軍隊が汚いのは今に始まった話でなく、万国共通に古来から連綿と続いてきた。ひとつの映画を見てそういったことを推測できるわけでもない。『火の鳥』の各話がそれぞれ独立した作品として楽しめて、なお全体の底をゆったりと流れるものがあるみたいに、ひとつひとつの映画が底のところで結びつき、これまで生きてきた人生とも共鳴して、なにか大きなひとつの世界を形づくる。その世界はまたひとりひとり異なった姿を示す。上記の星取表は、無職で独身で精神科入院歴ありのシロート童貞であるオラの、東大のセンセや空軍トップとはまた異なっていびつでもあろう価値観を表すものであり、それをみなさまに押しつけるつもりはまったくない。
まったくないけど、世間の多くの人が今年の最高の映画としてバットマン映画の新作ダークナイトを推してますよな。オラもそれを見れば★★★★★かもわからない。けどさ、上画像の1970年代にタカラが作った変身サイボーグのおもちゃみたいな人間とバイクが合体したようなメカが出てくるそうじゃないですか。40過ぎてそんなもん見れるかよ。ウルトラセブンが子ども向けの設定で高尚な内容を表現してるからといって、ウルトラセブンを大人向けも含めた全作品中の年間最高作品に選べますでしょか。
ダークナイトは、「スーパーヒーロー映画に抵抗を示さないお客」を集めて成り立ってる。そうしたお客を集める興行形態としての映画というものは、TV資本に頼った邦画など、すでに内部から腐食を始めており、TVが広告収入の減少や若者のTV離れで急速に劣化してるように、ビジネス・モデルとしては破綻の危機と隣り合わせにあるんじゃないかナ こんなにいっぱい見といて言う台詞じゃないけどさ。先日『チェ28歳の革命』の試写会のあとロビーで続編の前売り券が特典付き1300円で売られており、若い男子が「3人で見れば1000円じゃん。そういや最近3人で見てないよな。300円の差はでかいよ」と。高校生か。若いってうらやましい。
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火の鳥という作業

2008-12-29 22:21:48 | マンガ
『火の鳥・ヤマト編』手塚治虫(講談社版全集ほか)
過去と未来を往復しつつ繰り返される壮大な生命ドラマの第3作。古墳時代のヤマトの国で、国王の末っ子の王子ヤマト・オグナは父王の巨大な墓を建てる計画への反対運動にかかわっており、兄たちから疎まれて九州のクマソの王タケルを討つ旅へ出されてしまう。ヤマト政権から滅ぼされた小国なども含む倭の国の正しい歴史を記そうとするタケルの姿に心うたれたオグナは、タケルの妹カジカと恋仲になりつつあったこともあり使命を果たすべきか悩むのだが、クマソの守り神とされる火の鳥の血を飲めば不死の体になることを知り、父王の死とともに“いけにえ”として墓の周りに生き埋めにされる者たちを救うため、タケルを殺して火の鳥の血を持ち帰ろうと決意する…。



梅原猛さんが老境にあっても執念を燃やす、各地に残された古墳・史跡などから日本の国の成り立ちを推理し、神話・伝承にもかすかに含まれた歴史的真実の部分を探す仕事。それによると、古事記・日本書紀に出てくるオオクニヌシというのが出雲系の王朝の名残りで、ニニギというのがそれを征服して現在まで連なる王朝を打ち立てた大陸系騎馬民族のように推察されるのだとか。『火の鳥・黎明編』にも出てくる。そこでいったんはニニギたちの軍団に滅ぼされたかに思われたクマソの国の血統が生き延びており、川上タケルを国王として各地の豪族をも糾合して、ヤマト王朝などに勝手な歴史を作らせないぞ!と意気盛んになっている『ヤマト編』。フィクション色の濃いマンガ作品といえど、ここでも元になっているのは奈良県にあるぶかっこうな石舞台古墳と、古事記などで名高いヤマトタケル伝説。神話・伝説ではヤマトタケルというのは宴席で女装してクマソの王タケルを殺したとされ、天皇家の血統にもきっちり組み込まれてるものの、王位に就いたことはない。実際のところどうだったのか知るすべはないが、空想をはばたかせるのは自由。ほかの広大な古墳と比べて異色な石舞台古墳や、殉死の風習が次第にハニワで代用するように変わっていったことなどを火の鳥の生き血とからめてたいへん面白い物語に。描かれるヤマトタケル像もまた風変わりで、父王の権威主義にことごとく反抗し、クマソの王の妹カジカとはロミオとジュリエットよろしく悲恋で結ばれ、火の鳥を手なずけるのに音楽(墓の建設に反対する友の死をいたむ曲)を用い、最後は生き埋めにされても火の鳥の血の効果で死ぬまで力の限り殉死の風習をやめるよう声をあげ続ける。殺したタケル王から名前を譲られてヤマト・オグナ→ヤマト・タケルとなるのだが、彼とカジカは子孫を残さない。上のコマの右下にいる変な顔の王さまが現在にいたるまでの天皇家のご先祖さま。それでも彼とカジカの愛は永遠。いい話だ、火の鳥ってのは。
火の鳥の物語というのは、最初の黎明編がもっとも古代を描き、2番目の未来編が究極の未来、人類も生命もすべて滅亡して、地球上にまた新しい生命現象が繰り返し起こるまでを描く。そこですでに物語は完結してるとも言えるのであるが、それに続く、黎明編と未来編の間を埋めていく物語が意味がないどころか意味があり過ぎて困るくらいの。最近では『闇金ウシジマくん』というマンガも、体裁はまったく違えど、1巻ですでに後続の巻に出てくる話のバリエーションはあらかた提示されてると言っても過言ではない。金主、ギャンブル、性風俗、フリーター…。あらかじめ決まっている世界観。それに肉付けして骨格を補強していく作業。それは人生の後半を生きることとも似ている気がする。もはや若い時分に経験してきたことで培われた価値観・人生観はめったなことで変わるものではない。起こってくることも、今までに経験してきたことで、ああ、なるほどね、と察しのつくような。しかしそれでも生きることは面白く、人間への興味は尽きない。『火の鳥』や『闇金ウシジマくん』の後続の巻を読みたくてたまらないのと同じように。

火の鳥 (4) (手塚治虫漫画全集 (204))
手塚 治虫
講談社

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闇金ウシジマくん・清朝末期くん

2008-12-22 23:54:30 | 読書
『阿Q正伝・狂人日記』魯迅(岩波文庫)
周囲の人間から食べられてしまうという被害妄想を抱く男の姿に儒教道徳への疑問を込めた「狂人日記」、最下層の小作人“阿Q”の短い生涯を描く「阿Q正伝」など、清朝末期から中華民国成立の当時、日本に留学した経験も持つ魯迅自らの経験も織り込んで、中国に近代文学を導入しようとする意気込みのもと書かれた14の中短篇。

歯医者へ行く。どうってことない治療である。しかしパーテーションで隔てられた隣りの治療台からはどうってことある気配が。耳をダンボにしても、ぼそぼそとした患者の声は聞き取れず、医者の声のみ聞き取れる。「ちょっとチクチクッとしますよ。もし我慢できないようだったら右手を上げてください」「う~ん。短期的には治るんですが、長期的に見ると、根っこを抜いたほうがいいですね」
つい顔がほころんでしまう、他人の不幸をおかしがってしまう性根の卑しいオラ。『闇金ウシジマくん』を最初に手に取ったときもだいたいそんな感じだったかもしれない。オラは借金なんてしないから、借金まみれで不幸の底に落ちてゆく人たちのドラマを賞味しちゃおう。ところが、そのマンガはまったくそれどころではない、初期からわりとすごかったものの巻を追うにつれオラをとりこにするばかりである。借金や悪徳や、場合によっては完全な法律違反の犯罪行為まで、いったい何が彼らをそうさせたのか、させずにおれなかったのか、その複雑怪奇な因果関係・人間模様をあますところなく描き伝える。そうすると読者は彼らを他人と思えなくなる。借金するような別世界の人たちではない。彼らの中にもオラがいて、オラの中にも彼らがいる。これまでのところ、完全に理解できないモンスターとして描かれてたのは、肉蝮(にくまむし)って人と鷺咲(さぎさき)って人くらいかな。鷺咲くんは年末SP企画に出演していただくので覚えててね。その2人でさえ人の子。そうさせた事情があるのかも。いずれマンガにも再登場して彼らの人生を語るときが…来ないか。まあ、できるだけいろんな人の物語を語ってもらって、いつまでも連載していてほしいですね。
今現在進行中でいよいよ佳境を迎えつつあるのが「スーパータクシーくん編」で、ホストクラブ勤めや離婚の経験もあるタクシー運転手・諸星信也を描く。つかみどころのない人間像で理解できにくかった彼も、今は「がんばれ!」と応援したい気持ち。その昔、とどのつまり野垂れ死にすることになる漫才師がタクシー運転手を「かごかき!」と侮辱したところ訴えられて裁判で負けちゃった。しかしすごいよな。駕籠っていう移動手段。駕籠からタクシーまでの間に、人力車というのがあったそうじゃないですか。それまたすごい。このたび読み終えた魯迅という人の短編集にも、いくつかの話に人力車夫が象徴的な形で登場する。ウシジマくんとの共通点はそればかりではない。
そもそも中国の文字ってのは、どうして漢字なのか。意味するところの違いに応じて膨大な数の漢字。知識を蓄積したり人に伝えたりするためには、それを学ばなければならない。ゆえに多くの民は文盲のままに。漢字という存在は、知識や教養みたいなものはそれを学べる環境に恵まれた特権階級・支配階級が独占していればいいという価値観を暗に示している。民衆の向上心や下克上を狙うエネルギーをも利用して成し遂げられた欧米の、それを追う日本の近代化に、中国が乗り遅れてしまったのはそのためもあるのではないか。そのさなか、諸外国から寄ってたかってむしられる当時の中国で、魯迅は文学の力によって民衆の意識を改革しようと考え、中国語の文法を改良することまで試みて中国最初の近代文学者となった。
しかし彼は《民衆というものをあらかじめ善なるものとはとらえなかった。なにかにつけて付和雷同し、裏切り、だましあい、互いに互いを食いあう度しがたい生き物と見ていた。魯迅の眼の深さは、食人関係性にしばられた民衆を、単に忌むべき“他者”とはせずに、自己のなかにも民草のやりきれなさを見ていた=辺見庸》。他者の中に自己を、自己の中に他者を見る、そこに生ずる共感や同情心、優しい情緒やユーモア。殺伐たる世の中でもなるべく笑って生きたい。極貧にあえぐ“阿Q”の、争いに負けたりひどい目にあっても、心の中で勝ったことにしてしまう独特の“精神勝利法”は、「自分で自分を励ます毎日」を送るタクシー運転手・諸星信也の心にも受け継がれている。そしてその中に、赤色革命につながるような理念も、すでに生じているのかもしれない。
魯迅=本国ではルー・シュンと発音するとか。小5のときのオラのクラスに迅と書いてシュンと読ませる名前の男の子がおっただ。シュンコちゃんと呼ばれるくらいかわいらしい。でも水泳もピアノも習ってて勉強もできて、人格的にも小5にしてひとかどの人物。小6でそこから去ったオラは後に彼が慶応中学へ進んだらしいと知る。小学校からエスカレーター式に上がってくる、生まれながらに支配階級にいるようなフシュウ漂うセレブたちに囲まれても、彼ならスポイルされないで立派に育ってると思う。ああ、フシュウの人は慶応じゃなくて学習院か。スピリッツ誌を読んでるとも聞くのだが(フシュウの人がね)、革命思想も隠し持つような『闇金ウシジマくん』は飛ばしてるかも。熟読してるとしたら、ちょっとばかり好感度アップだわよ。今さら遅いけどな。


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雑誌の興亡 #6

2008-12-21 16:02:56 | Bibliomania
【51】見る雑誌 - グラビア・ページの新機軸
『ロマンス』経営陣の前で屈辱を味わった岩堀喜之助も、『平凡』をB5判へと大型化させるにあたり“読む雑誌”から“見る雑誌”への大胆な転換を実行したことで、やがて『ロマンス』を凌駕する成功を収めることになる。B5判となった最初の昭和23年2月号の表紙は女優・高峰三枝子の歌う姿で、巻頭にも映画のスチルと歌手のポートレートを組み合わせたグラビアを載せるなど華やかな変身を遂げたのである。

【52】新しいレイアウト - 歌うグラビア
そのグラビアは「コロムビア・ヒットソング集」としてコロムビア・レコードとも提携して企画されたもので、歌詞を掲載したり映画と音楽を組み合わせたレイアウトはそれまでになかった斬新なものであった。歌詞はやがて歌本として別冊になるなど『平凡』の顔となり、同誌は活字を極力減らすいっぽう絵と写真を豊富に使って「歌と映画の娯楽雑誌」として生まれ変わる。

【53】ヒットソング集 - 歌謡曲を取り上げて成功
昭和20年代当時の人びとの心に流行歌はさざ波のように広がる大きな存在であり、そのため路線転換して以後の『平凡』は毎号のようにグラビア・ページで歌を紹介し、その他の内容も歌謡曲中心となってゆくのである。

【54】編集者の仕事 - 自分の感動を読者に
編集長の清水達夫が当時の人気歌手・岡晴夫のステージを見てその演者と客席の一体感に打たれたことも『平凡』の雑誌作りに影響したといい、同誌は岡の自伝的記事を掲載したほかやがてさらなる大歌手・美空ひばりとも出会うことになる。(下画像:「悲しき口笛」で人気を博したころの美空ひばり)



【55】ひばり情報誌 - 「この子はすごくなる」と
『平凡』昭和23年10月号に読切小説として掲載された「悲しき口笛」は翌年、松竹で映画化され主題歌をコロムビア・レコードの美空ひばりが歌うことになった。映画の試写会でまだ少女のひばりが歌う様子から彼女の大成を確信した岩堀と清水の意志もあり、24年4月号のグラビアで「美空ひばりちゃんの朝から夜まで」と題して彼女の私生活を紹介するなど、さながら“美空ひばり情報誌”の様相を呈した『平凡』は、昭和30年8月号で141万部に達するほど部数を急進させてゆく。

【56】『乙女の性典』 - 越えるべきハードル
『平凡』の部数を伸ばしたもう一つの要因が昭和24年3月号から連載された小糸のぶの小説『乙女の性典』であった。もともと彼女は同誌に読切小説を執筆していたが、松竹が少女の性教育をテーマとする映画を作るにあたってプロデューサーからぜひ原作となる小説を書いてほしいと頼まれ、いったんは断ったものの岩堀と清水に相談して引き受けることになる。

【57】立て看板 - 繁華街でPR活動
松竹のプロデューサーは石田清吉という人物で、彼は宣伝効果を考えて部数の多い『婦人倶楽部』へ連載させたい腹づもりであったが岩堀と清水から熱心に頼まれて『平凡』への連載が決まったのである。その初潮を描いた書き出し《三枝子はさっきから、股のあいだが妙にベトベトするのをどうしたわけだろうと思いながら、先頭から五、六番目の列を歩いていた》はタイトルやテーマとも相まって大きな反響を呼び、映画も大ヒット、続編も次々と掲載されて『平凡』の看板となった。(下画像:映画化を前提として題名を読者から募集しているため仮題で始まった連載小説)



【58】打ち合わせ - 戦略的な連載小説
連載小説の主導権がもっぱら作家にあった時代にあって、小糸のぶの連載小説は編集陣とも密接に打ち合わせてストーリーの設定・展開が決まってゆくという後のマンガ雑誌に見られるような手法を先取りして行われた。この打ち合わせにはやがて映画・音楽会社やデパート・衣料品メーカーも加わり、メディアミックス戦略として広範な影響を巻き起こす存在となってゆく。

【59】アマチュアリズム - 読者のことだけ考えて
たとえば、そごうデパートのキャンペーンを目的とした「有楽町で逢いましょう」の場合はまずフランク永井の歌が作られ、それに基づいて宮崎博史が小説を連載し、さらに大映が映画化するという具合であったが、こうした作家の領域まで踏み込む試みは『平凡』がアマチュアの集まりのような形で編集されていたことで可能になったのである。彼ら送り手がアマチュアだったことで、受け手である読者の意見もどしどし取り入れられてゆく。

【60】ミス平凡 - 愛読者の投書でスター発掘
その一つとして昭和23年末に実施された「花形歌手人気投票」はすさまじい反響を呼び、ハガキによる応募総数は42万8千枚にのぼった。1位の岡晴夫、彼を1位にさせるため『平凡』を買うことのできない者までハガキを書いたのだった。さらにこの企画は既存の歌手・映画スターを飛び越えて、愛読者の中からミス&ミスター平凡を選出することにまでおよび、その中から都はるみ、神戸一郎らの歌手を生むことにまで発展していった。
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旧作探訪#43 『デッドゾーン』

2008-12-14 21:49:59 | 映画(レンタルその他)
The Dead Zone@VHSビデオ、デイヴィッド・クローネンバーグ監督(1983年アメリカ)
高校の国語教師ジョニー・スミス(クリストファー・ウォーケン)は同僚で婚約者のサラ(ブルック・アダムス)とのデートの帰り道、大型トレーラーと衝突、奇跡的に一命をとりとめたが昏睡状態に陥る。5年間の眠りから覚めたジョニーには、手に触れた人を通じて離れた場所で起こることを感知する能力が備わっていた。そればかりか《過去》や《未来》を見る力があることも知った。
彼の昏睡中にすでに別の男と結婚していたサラとその夫が選挙運動を手伝っている上院議員候補グレッグ・スティルソン(マーティン・シーン)の演説会場に足を運んだジョニーは恐るべきビジョンを見てしまう。大統領になったグレッグが核ミサイルの発射ボタンを押すのだ。それまでの事案から自分の行動で未来への行方を変えることもできることを悟っていたジョニーは悩むが、やがてグレッグを暗殺しようと決意することに。グレッグが演壇に立って話し始めた時、ライフルを構えた彼が立ち上がる。「ジョニー!」。サラの声に動揺したジョニーの狙いは外れ、グレッグはサラの子どもを盾に逃げ回る。フラッシュがたかれ、彼の政治生命を断つことになる写真が写された。ボディガードの放った銃弾に倒れたジョニーのもとにサラが駆け寄る。「なぜ?」の呼びかけにジョニーはただ「愛してる」と一言ささやいて息を引きとる…。



哀しいよぅぅぅおもしろいよぅぅぅいい映画だよぅぅぅ
弊ブログ草創期だった4年ほど前、国際結婚のためセルビアへ旅立った知人が「大好きな映画」として奨めてくれた。映画のあと原作小説(スティーヴン・キング、新潮文庫で上下巻)も買って読みふけったものだった。ところが、それからキングの小説にのめり込んだわけでもなかったのは、彼の著書の数が膨大すぎてどれから読んだらいいのやら…誰か教えてくだぱい。
しかしクローネンバーグの映画はいくつか見ており、その作風には信用の置ける映画監督、というより信用の置ける人間だナ、とも感じる。『デッドゾーン』の前後には『ヴィデオドローム』や『ザ・フライ』のような外見的におどろおどろしたホラー映画を撮ってるものの、それらの根底にも『デッドゾーン』や最新作『イースタン・プロミス』に表れるような人類の由来への興味があるのではないだろうか。主人公ジョニー・スミスについてクローネンバーグ監督は当時こう語ったのだとか。「『デッドゾーン』のストーリーは、基本的には『スキャナーズ』と同じなのです。自分は正常で、社会の確固とした一員だと思っている男が登場します。彼は完全なアウトサイダーとして描かれます。どんなに正常な人間に見えても、彼はアウトサイダーであり、自分自身をよく知っています」
それを演じるクリストファー・ウォーケンが素晴らしい。喪失感を抱えた表情が胸をえぐる。日本の役者ですと岸田森さんがこういう感じだったナ 全体の世界観としても、1950~70年代の若者文化、向こうでいえばロック音楽、日本でいえばマンガやアニメに代表されるようなサブカルチャー、カウンターカルチャーと共通する、ある種の軽さ、ポップさ、元気で前向きなエネルギーが、キングの、クローネンバーグの、ウォーケンの活動の源泉ともなってるのではないか。それはまた、核戦争の可能性が現実的に感じられるような、はたまた左翼運動が先鋭化して追い詰められるような政治・社会情勢とも無縁ではない。世界中の国で、1970年代あたりを境界として、確かに大きな潮目が動いたような感じがする。それ以来「みんなで力を合わせて」よりも「利己主義と市場経済」のほうが優勢になっていったのではないか。そして若者文化はそれを敏感に反映し、ときには予知してるようにさえ見えるジョニー・スミス的存在でもあったのではないだろうか。
はてさて、オラ自身、自分のことをよくわかってるとは言えませんが、アウトサイダーであり、それでもなお社会の一員であろうとしとります。そんなオラが政治家など権力の悪口を書くとき、「将来に核ミサイルの発射ボタンを押す東国原or橋下の姿」のまぼろしを見てる部分もあるかもわからない。みなさんはいかがお考えになりますでしょうか。

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雑誌の興亡 #5

2008-12-08 22:17:18 | Bibliomania
【41】大衆の心 - 新劇グループの姿勢に感動
マガジンハウス創業者である岩堀喜之助が中国で宣撫工作員を務めていたとき感じた怒りは、内地から来る雑誌の記事のほかにも、戦争の激化にともない中国人の反日運動も盛んとなり、宣撫工作も中国人しめつけや匪賊の弾圧へと姿を変えていったことへも向けられた。辞めて帰国し大政翼賛会に勤務すると、戦時下で劇場を封鎖されて活動できない新劇のグループが地方を回って手抜きのない本物の演劇を見せている姿勢を目の当たりにして感銘を受けたこともあった。

【42】渡りに船 - 転がり込んだ版権
敗戦後、陸軍画報社の中山正男社長は国策雑誌の発行人として戦犯訴追されることを心配して社の版権を手放したく思っており、雑誌を始めたかった岩堀は渡りに船とばかり譲り受けて、用紙を確保することができたのである。さらに出版界の長老的な平凡社の下中弥三郎社長と面会して、5号のみで休刊した雑誌名『平凡』を新雑誌の名として命名してもらうこともできた。

【43】凡人社 - 『平凡』のために集まった人々
以上のようなわけで岩堀が清水達夫に電報を打ったときには用紙や誌名も決まっており、陸軍画報社の使っていた銀座の部屋を借りて、『平凡』という雑誌を凡人が集まって作ることから「凡人社」という社名で5名の合資会社としてスタートを切ることとなった。

【44】給料は全員同額 - 企画打ち合わせの席で手渡し
合資会社といっても資本金の5万円はほとんど岩堀がひとりで金策したものであったが、早くも雑誌創刊に向けた最初の企画会議で全員同額の給料200円が支払われ、席上では清水の電通時代に知ったグラフィクデザイナーに題名ロゴ・表紙デザインを依頼することなどが決まった。こうして創刊号は、内容としては小説や随筆が中心で総合雑誌よりはやわらかめな雑誌として昭和20年11月、A5判48ページで発行された。(下画像:『平凡』創刊の昭和20年12月号)



【45】人相 - 顔を見て大雑誌になると予言
翼賛会時代には電話さえろくに取らなかった清水達夫であったが、岩堀に見込まれて編集長に就任すると人が変わったように仕事に取り組んだ。当時としては珍しい三色刷りの表紙のためかすぐに売り切れとなった創刊号を印刷した秀英社の小島順三郎社長は、岩堀の人相から雑誌の成功を予感し、2号以降を大手の大日本印刷か凸版印刷で刷ってもらうよう商売っ気抜きで彼に奨めた。

【46】想像を絶する需要 - 創刊号は即日完売
創刊号の3万部が即日完売という『平凡』の好スタートは、特に個性や主張があるわけでない内容のためでなく、昭和20~22年ころの出版物に対する猛烈な需要のためで、それが落ち着くにつれ、他社の『新生』や『人間』と同様に部数を減らし、凡人社は用紙難や資金繰りに苦しむようになる。

【47】ふたりだけの編集会議 - 通勤列車でかんかんがくがく
『平凡』の売り上げが下降して社員の給料も払えないありさまとなった岩堀は弱気になることもあったが、東海道線で清水と通勤する往復の4時間を編集会議に変えてずっと雑誌の立て直し策を話し合った。その結論には、『平凡』を吸収する噂さえあった人気雑誌『ロマンス』の存在も影響していたのである。

【48】歌と映画 - 毎月の材料に困らないだろう
『ロマンス』という雑誌は当時A5判の多かった大衆雑誌の中でB5判と大きかったことが特色の一つであった。『平凡』も追随してB5判に変え、内容面でも映画と歌謡曲を取り入れて働く人びとの慰めになるように娯楽性を強めていくことが決められた。

【49】ロマンス旋風 - 若者の憧れをよぶ誌名
『ロマンス』は『東京タイムズ』という新聞の出版局から昭和21年5月に創刊され、最盛期には80万部を発行した。その登場は敗戦のガレキと荒れた世相のなか「娯楽雑誌の彗星」とも称されるほど鮮烈で、毛利銀二こと伊藤静雄のエキゾチックな美女を描いたパステルの表紙画と、活字に餓えていた人びとの心に届く内容は“ロマンス旋風”を巻き起こすに十分であった。(下画像:吉屋信子、吉川英治ら豪華執筆陣を集めた『ロマンス』昭和23年11月号)



【50】屈辱 - 忠言以上の大転換へ
戦後に東京タイムズの経営者となった岡村二一は岩堀の新聞記者時代の先輩で、岩堀は凡人社の経営に窮して彼を訪ね、『平凡』の用紙割当を買い取ってくれないか申し出た。しかし岡村は「60万部の『ロマンス』が1%にも満たない用紙の割当をもらってもどうにもなりゃしない。岩堀くん、書生っぽい屁理屈や新聞記事の焼き直しみたいな雑誌じゃだめだから、『ロマンス』の向こうを張って漫画と漫文を活用して若い読者層を狙ってみたまえ」と忠告して断った。
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『ラット・フィンク ~ボクのビッグ・ダディ~』

2008-12-04 23:57:58 | 映画(映画館)
Tales of the Rat Fink@シアターN渋谷、ロン・マン監督(2006年カナダ)
そのままつっぱしれ、キミのカスタム人生!!
地下アメリカの怪鼠キャラ、ラット・フィンクの作者でカスタム・カルチャーを牽引したアーティスト、エド“ビッグ・ダディ”ロス(Ed Roth・1932~2001)。1950年代のアメリカ文化の資料映像と斬新なアニメーション(動くラット・フィンクが遂に!)を織り交ぜ、そのマッドな人生と作品(改造車とローブロー・アート)を紹介するアニメンタリー(アニメーション+ドキュメンタリー)映画。名画『アメリカン・グラフィティ』の登場人物の気分でホット・ロッド・カルチャーの歴史も楽しく学べる。監督は60年代のダンスブームのドキュメンタリー『Twist』等も手がけるロン・マン。
エド・ロスとは? 1950年代にアメ車を改造する天才としてダリのように現れた彼は、空中に浮く車「ローター」等、奇想天外な発想でカラフルな珍車を次々に創造。ラット・フィンクをはじめとするモンスター・キャラやオリジナルのTシャツも人気を呼んだ。その奇抜な創作に人生をかける姿は、変わり者(ウイアード)あつかいされていた全米の悩めるキッズを触発し、その後の文化の潮流にも大きく影響をおよぼすこととなった。
カスタム・カルチャーとは? カスタム・ペインティング、ピン・ストライプなどの改造車制作の技術が産んだ文化。他人の基準に縛られずに改変・創作する姿勢を持つ。旧来の美術界から低俗と考えられてきたグラフィティ、スケートボード、パンクロック、タトゥーなどの先鋭的ストリート・アートを総称してローブロー(Lowbrow)アートとも呼ぶ。



横浜の団地に住んでた、幼稚園~小学校中学年当時のオラに、運転免許を持ってない父ちゃんがたびたび買い与えたおもちゃ。英レズニー社製のマッチボックスというミニカー。少なくともあの時点、1970年代前半においては日本製のミニカー、あるいはブロックとかは、マッチボックスやレゴのような輸入品の品質に達してないパチモンでしかなかった。
そのマッチボックスのミニカーがごろごろして進みのよくなかったタイプから滑らかでスピードの出るタイプへ車輪を改良、それにつれて1番から75番まである車種の中にもまったく見慣れない妙なものが現れてきた。エンジンがむき出しになってる奇妙なスポーツカー。こんなの公道を走ってないよ。ドラグスターという名前で呼ばれてたね。
子どものオラは特段の抵抗もなくそれを受け入れはしたが、だんだん正統な感じの車種が姿を消して、ド派手でごてごてしたスポーツカーが増えていくのは、子ども心にもそれはちょっとマッチボックスの良さと違うのでは?とうすうす察してたかどうか微妙なところ。そのような動きをもたらした、マッチボックスのみならずいろんなところに表れた一大傾向の源流となった男の物語を見ることができた。
世界で唯一のものを自分の手で作り出したいインディーズ精神、あるいはマンガ等の人気キャラクターを勝手にパロディ化する同人誌を作っちゃうおふざけ精神、そんなようなもののかたまりみたいな不逞の輩エド・ロス。ロックンロール音楽なども始まって若者文化の胎動いちじるしい1950年代の米カリフォルニア州で彼の活動はスタート。ガレージにこもって塗料の匂いにくらくらしながら車の改造に熱中するとか、それでもって仲間を集めて公道レースを繰り広げるとか、中でも彼の心持ちを象徴するのがネズミのラット・フィンク。ディズニーランドにいる、あのお行儀のいいネズミに我慢ならなかった彼は、毛深くてよだれを垂らしてハエがたかってるネズミを創作。やがて、改造車やラット・フィンクなどのキャラクターはTシャツやフィギュアやプラモデルとして商品化もされ、ありとあらゆるところへ広まっていった様子。オラの持ってたマッチボックスのミニカーは、その流れの中ではわりと遅いほうだったのかも。でもシンプソンズより早いね。
そして、缶詰の広告や有名人の写真が「芸術」に変わってしまう時代、いつの間にやら保守本流のカルチャー自体が形骸化・空洞化して、サブカルチャー、ポップカルチャーにとって敵愾心を燃やすべき「正統」が存在しなくなりつつある。自動車ビッグ3ですらいよいよ歴史を閉じようかという。それに伴ない反骨心や自主独立の気概が薄まって、おふざけと商業主義に呑み込まれんとしてるのが、最近のさまざまなサブカルチャーに表れたひとつの傾向なのかもしれない。
それでもなおエド・ロスの精神は「ガレージ・キット」とか「魔改造」とかの言葉となってワンフェスで売られるフィギュアの世界にも脈々と息づく。小学校中学年のオラの前に、マッチボックスやレゴよりも魅力あるおもちゃとして登場してきたのが日本産タカラの変身サイボーグ。それらおもちゃ類は手元にはひとつも残ってないですが、カタログを残してあるのでいずれ画像をいっぱい載せたいですね。

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