先ごろ日本レギュラーツアー初の「エージシュート」を達成し話題を呼んだ尾崎将司。プロ野球選手からゴルファーに転身するとめきめき頭角を現し、日本ツアー通算94勝、賞金王12回、日本メジャー大会20勝とそれぞれ歴代1位の記録を刻み「ジャンボ尾崎」の異名で黄金時代を築いた。実弟の健夫、直道もプロゴルファーとして活躍、ほか親しい選手との合同練習など「ジャンボ軍団」とも称される日本ゴルフ界のボス的存在。1970年から現在までと長いキャリアを誇るが海外ツアーにはあまり熱心でなく4大メジャー大会でトップ10入り3度にとどまる。
1922(大正11)年、英国皇太子(↑左)が来日し、当時摂政官だった昭和天皇と駒沢の「東京ゴルフ倶楽部」でコースを回られたのは、まだよく知られていなかったゴルフという競技への関心を高める出来事であった。
日本にゴルフが紹介されたのは1901(明治34)年、英国人の茶商アーサー・グルーム氏が六甲山の別荘に簡易な4ホールを作ったのが最初。やがて増設され「神戸ゴルフ倶楽部」となる、↑画像はその初期のキャディー。
資金を要するスポーツのため当初は政官財の要人に限られたが昭和初期には現役ビジネスマンも楽しむようになりプロ選手も出現、1936(昭和11)年の時点で全国に56のコースがあった(台湾・満洲含む)。
各国持ち回りで開催されていた国際大会カナダ・カップが1957(昭和32)年初めて日本で行われ、中村寅吉(↑左)が個人優勝、小野光一と組んだ団体戦でも優勝を果たす。
1967(昭和42)年秋、アーノルド・パーマー(↑右)、ゲーリー・プレーヤー(中)、ジャック・ニクラウス(左、現在の表記はニクラス)という当時の世界3強が来日して各地で模範競技会を開催、実力と紳士的な振る舞いでゴルフ人気を沸騰させた。ほかツアーでは彼らほど著名でなかったがボブ・トスキも分かりやすいレッスンで親しまれた。
1975(昭和50)年、村上隆は日本プロ・マッチプレー、日本オープン、日本プロゴルフ選手権、日本シリーズの年間グランドスラムを達成。
男子に遅れ1960年代にようやく女子もプロ化が始まったが、現在まで世界のメジャータイトルを獲得したのは先駆者の樋口久子が1977(昭和52)年の全米女子プロを制したのが男子を含め唯一(↑優勝を決めた瞬間、当時の新聞記事から)。
男子プロで海外転戦に熱心だったのが青木功。1978(昭和53)年の世界マッチプレー選手権で初優勝し海外通算7勝。中でも1980年の全米オープンで帝王ニクラスと接戦を繰り広げ2位となったのはセンセーションを巻き起こした。のちシニアでも活躍。
1985(昭和60)年は中島常幸が3度目の日本ツアー賞金王を史上初めて1億円を超す額で達成。48勝は尾崎、青木に次ぎ歴代3位。
1987(昭和62)年、岡本綾子は全米女子プロ・ツアーで4勝を挙げ賞金王に輝き総理大臣表彰を受けた。
冒頭の尾崎将司の画像は1988年、昭和最後となる日本オープンを制した時のものでこの大会では当時「AON」と称された3強=↑左から尾崎、青木、中島が優勝争いを繰り広げた。 ─(画像はすべてベースボール・マガジン社刊『激動の昭和スポーツ史【14】ゴルフ』より)