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スワンプ・ロック&ザ・ミーターズ

2009-03-22 21:50:29 | 音楽
iTunesプレイリスト <Swampy> 113分
1. "Ramble Tamble" Creedence Clearwater Revival (1970 - Cosmo's Factory)
2. "It's Been a Long Time Coming" Delaney & Bonnie (1969 - Home)
3. "My Baby Left Me" The Grease Band (1971 - Grease Band & Amazing Grease)
4. "Speak Your Mind" Marc Benno (1971 - Minnows)
5. "Sweet Harmony" Maria Muldaur (1976 - Sweet Harmony)
6. "Big Chief" Dr. John (1972 - Dr. John's Gumbo)
7. "Mississippi" JJ Grey & Mofro (2007 - Country Ghetto)
8. "When the Battle Is Over" Delaney & Bonnie (1969 - The Original Delaney & Bonnie & Friends: Accept No Substitute)
9. "Just Kissed My Baby" The Meters (1974 - Rejuvenation)
10. "Tell the Truth" Derek & the Dominos (1970 - Layla & Other Assorted Love Songs)
11. "20 Million Things" Lowell George (1979 - Thanks I'll Eat It Here)
12. "Only You Know and I Know (Live)" Delaney & Bonnie (1970 - Delaney & Bonnie & Friends on Tour with Eric Clapton)
13. "Midnight Rider" The Allman Brothers Band (1970 - Idlewild South)
14. "Sweet Inspiration (Live)" Dan Penn & Spooner Oldham (1999 - Moments from This Theatre)
15. "One in a Hundred" Gene Clark (1971 - White Light)
16. "Polk Salad Annie" Tony Joe White (1969 - Rhino Hi-Five: Tony Joe White EP)
17. "Across the Borderline (Live)" Jim Dickinson (1997 - A Thousand Footprints in the Sand)
18. "Look at You Look at Me" Dave Mason (1970 - Alone Together)
19. "Look-Ka Py Py" The Meters (1970 - Look-Ka Py Py)
20. "I'm Still the Same" Bonnie Bramlett (2002 - I'm Still the Same)
21. "Ululu" Jesse Ed Davis (1972 - Ululu)
22. "The Letter (Live)" Joe Cocker (1970 - Mad Dogs and Englishmen)
23. "Nightbird" Labelle (1974 - Nightbirds)
24. "Evil Friend" Deadboy & the Elephantmen (2006 - We Are Night Sky)
25. "After Midnight" J.J. Cale (1971 - Naturally)
26. "Ghetto" Delaney & Bonnie (1969 - The Original Delaney & Bonnie & Friends: Accept No Substitute)
27. "Stranger in a Strange Land" Leon Russell (1971 - Leon Russell and the Shelter People)



ディレイニー&ボニーはゴスペル、カントリー、ファンク、ロックを混ぜ合わせた独特の芳醇な音楽を夫婦で奏でた。しかしその活動は、彼ら自身の音楽よりも彼らと交流があって影響を受けた友人たちによってスポットが当てられることが多い=エリック・クラプトン、リオン・ラッセル、デイヴ・メイスン、ジョージ・ハリスン等々。
1939年にミシシッピ州で生まれたディレイニー・ブラムレットと、1944年にイリノイ州で生まれたボニー・リンは1967年にカリフォルニアはLAで出会った。当時ディレイニーは『シンディグ』というTV番組の専属バンドの仕事をしており、ボニーは顔を褐色に塗ったりカツラをつけて黒人の扮装でアイク&ティナ・ターナー(当時人気のあった黒人夫婦デュオ)のバックで歌うなどしていた。ナイトクラブでの演奏の仕事で知り合った2人は、出会って1週間でのスピード婚。夫婦での音楽活動はやがて「ディレイニー&ボニー&フレンズ」として、カリフォルニアや英国と出身はさまざまでも米南部の音楽のフィーリングに憧れる親密な仲間たちによる美しい音楽を生み出してゆく。しかしスピード婚の2人は不仲になるのも速く、数枚のアルバムを残して1972年に離婚している。その後はディレイニーとボニーそれぞれ(ボニーはブラムレットの姓のまま)地味に活動しており、近年は2人の間に生まれた娘ベッカも音楽業界に入ったそうである。そして昨年12月、ディレイニー・ブラムレット氏が胆嚢の病気で69年の生涯を閉じたことが伝えられた。

─スタックス(ソウル音楽の中心的レコード会社)でアルバムを作りましたよね。
ディレイニー・ブラムレット「友人のドン・ニックスが私をスタックスに紹介してくれたんだ。そこで作った“It's Been a Long Time Coming”という曲は多くの黒人のヒットチャートで1位になって、それでツアーをすることになったんだ。最初にデトロイトでコンサートをやったんだけど、そこの公会堂は人びとで溢れかえっていたよ。もちろんみんな黒人だった。彼らの驚きの目といったらなかったね、“この白人たちはいったい何者だ?”と言わんばかりだったよ。でも演奏を始めた途端、みんな納得してくれたよ。それはとてもいいショウだった。でもショウが終わって控室に戻ると、ラジオ局のDJたちが集まっていて私に言ったんだ。“これからはあんたたちの曲はかけられない。われわれは黒人のラジオ局だから”とね。アルバムが出る前にツアーをやってしまったのは大失敗だった。アルバムが先に出ていたらみんなわかってくれたと思うんだ。それでスタックスを離れなければならなかった。大好きなレーベルだから本当はそうしたくなかったんだ」
─わかる気がします。
「そうさ! 私はオーティス・レディングのバンドと仕事してたんだよ! ブッカー・T、スティーヴ・クロッパー、アル・ジャクソン、ダック・ダンたちが私とレコーディングしてくれたんだ。これ以上望むものなんてあるかい!? アイザック・ヘイズがピアノで…最高の連中だったよ。だからスタックスを離れる時は本当にがっかりしたね」
─言ってみれば逆人種差別ですね。
「その通り! その後エレクトラからの『オリジナル・デラニー&ボニー』(69年)が出たころはもう時代も変わり、黒人のラジオ・ステーションでも白人音楽が流れ、その逆に黒人音楽が白人のラジオ・ステーションから聞こえてくるようになってたんだ。だからあのツアーさえなかったら…」
─仕方ない時代だったんでしょうね。
「当時の人種差別はすごい緊迫感で社会を支配していたから、あのときDJたちの取った行動を責める気はまあないけどね。ちょうどマーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺されたころなんだよ。その時自分は偶然、彼が殺されたメンフィスにいたんだ。当時は私だけでなくすべての人が失望を味わった時期なんだね。それで結局スタックスのアルバムは後から発売になった」

─『オリジナル・デラニー&ボニー』ですが、プロデューサーのデビッド・アンダールと一緒に仕事をしていかがでしたか。
「彼がやっていたのは座ってドラッグを吸っていたことぐらいだよ。リオン(・ラッセル)と私がほとんどの仕事をこなしたんだ」
─ラヴの『フォーエヴァー・チェンジズ』やビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』のように、『オリジナル・デラニー&ボニー』は英国でより受け入れられたと思います。
「そうなんだ。向こうに行ったときはビートルズからジミー・ペイジまでありとあらゆるミュージシャンに会ったよ。飛行機から降りたら、すごい人だかりができてて、みんな騒いだり叫んだりしたんだ。誰が乗ってるんだろうと不思議に思っていたら、なんと自分たちのことを迎えてくれていたんだ。海の向こうでこんなに有名だったなんて夢にも思わなかったよ」
─その時(エリック・)クラプトンに会ったんでしょうか。
「そう、彼が空港まで私たちを迎えに来たんだ。そして車で自宅に連れていってくれた。イギリスではそこに滞在したんだ。さっき話したブラインド・フェイスの前座の話は、われわれが帰った後に、彼から電話でかかってきたんだ。で、ツアーの最初のショウが行われるニューヨークで会って、アメリカ中を回って、カリフォルニアにたどり着くころには、エリックは私のバンドの一員となっていたってわけさ」
─あなたの初期のアルバムを聞き、あなたが書いてプロデュースしたクラプトンの1stソロを聞くと、それらは“クラプトン&ブラムレット”のダブル・アルバムになりえるように思えるのですが。
「そうだね。ちょうどその頃エリックは私の家に住んでいたんだ。すごく親密に仕事をしていた、その時に私は彼に曲の書き方、そして歌い方を教えることができたんだ」
─あなたが彼に「神が与えた声を持っているんだからそれを無駄にするな」と言ったと伝えられていますが。
「そう、彼はちゃんと自分の声を活かしていなかったんだ。小手先のテクニックで歌っていたんだ。ジョージ・ハリスンも同じだったね。彼は私がスライド・ギターの弾き方を教えたと言っているようだけれど、実際は教えるというより私が彼にテクニックを見せたんだ。彼が知っていると便利であろう技術を彼の前でやって見せたんだよ。私はデュエイン・オールマンからそうやって習ったね。彼はとても心が広くてそういったことを惜しみもせず教えてくれた。私と彼とキング・カーティスとは親しい仲だったよ」
─エレクトラからアトランティックに移って、音楽がずっと地についた感じになったようですが。
「もっと自分のやりたいことがやれるようになったんだ」
─それはやはりジェリー・ウェクスラーの存在が関係していますか。
「その通り、ジェリーとトム・ダウドが果たしてくれた役割は大きいよ。最初はアーメット・アーティガンのところに行って、ジェリー・ウェクスラーと仕事がしたいと言ったんだ。そうしたらジェリーの方もずっと前から私と仕事をしてみたかったらしく、それからトム・ダウドを加えたんだ」
─「スワンプ・ロック」という言葉の語源については何かご存知でしょうか。
「うーん、知らないね。ひとつ思い当たるのはジミ・ヘンドリクスの言った言葉だな。彼がしばらく私のバンドでやっていた頃、その音楽は何と呼ぶのか?と人からよく聞かれたんだ。私は“そんなこと聞かれてもわからない”と答えていたのだけれど、彼らは“じゃあゴスペルなのかそれともロックなのか”とさらに聞く。でもやっぱり自分にはわからない。そうしたら、それを聞いたジミが静かに寄ってきたんだ。彼はステージ以外ではとてももの静かな人物だからね。それで彼は“なんて呼べばいいか教えるよ。《スピリチュアル》、これで決まりだ”ってね。彼のそのひと言はいまでも忘れられないね」 (レコード・コレクターズ1998年8月号掲載のインタビューより。聞き手=Matthew Greenwald)



ミーターズ『Rejuvenation』のアルバム解説 - Bunny Matthews
ニューオーリンズでは、まるで皆が彼らの従兄弟でもあるかのようにミュージシャンである。そして現在ニューオーリンズに住むすべてのミュージシャンの中でも、彼らは最もファンキーなミュージシャンである。その彼らこそが、ザ・ミーターズであった。キーボード/創設者:アート・ネヴィル、ギタリスト:レオ・ノチェンテリ、ベース:ジョージ・ポーター・ジュニアとドラマー:ジョセフ「ズィガブー」モデリスティ。
ニューオーリンズには、熱狂的に音楽の喜びを求める多くのファンが住みつき、ファンクミュージシャンの存在、必要性は欠かせない。
典型的なニューオーリンズの夜には、人びとが裏庭のテーブルの周りに座り、くつろぐ姿がみられる。テーブルの上には、数日前のつまらないサンデータイムズが至る所に広げられていて、シミのついてしまった写真を覗いてみると、新人や、年老いた政治家の顔ばかり並んでいる。その上、まんべんなくふられたコショウで辛そうなザリガニの殻が、唾液でしゃぶりつくされて、カラカラになって皿に積み重ねられている光景は、まるで頭でっかちの肉食動物を見るようだ。
そんな人びとは、ザリガニをゆでたのと同じ湯でゆでられた小さいジャガイモとトウモロコシを1夜で1ブッシェル(約35リットル)も消費するのだ。彼らの食べたザリガニはきっと、その日か、それ以前に、すぐ近くの排水溝か入江の泥水の中で散歩していたところをたたき潰されたザリガニにちがいない。ザリガニは進化の目盛りの上では、わずかにゴキブリより高等だ。そして、両方の種がはびこっているニューオーリンズでは、たまたまザリガニだけが人によって消費される。ビールは、だいたいひとりひとりが1樽ごとに故人の好みで選ぶ飲み物だが、ゆで上がったザリガニ、ジャガイモ、トウモロコシを入れるポットの中には、それ以外のものでも入ってしまえば何だって構わず、指を使って口へ運んでしまう。この業界は一層乱れれば乱れるほどよくて、そのいい加減な酔いどれ状態が業界に貢献をする。たとえ、大きく黄味がかったオレンジ色をした何かが、彼らのむき出しのひざの上に現れたって誰も気にしない。彼らはそれを指で潰し、ナメて取り去る。これこそファンクスピリッツのすべてなのだ!
そんな状況のなかで、ポータブルステレオから鳴り響く、ザ・ミーターズのRejuvenation(若返り)は、今まで収録された中で最もファンキーなアルバムで、ごく自然に生まれた。
ズィガブーがドラムをたたく音は、完璧なリズムに乗って、ひとりひとりが中庭マーディグラ(アメリカの謝肉祭の最終火曜日)パレードのような喜びを楽しみ、用意した食用ザリガニ・ポットとのひとときが始まる。

「The Rejuvenation LPは、我々のアルバムの中でも最もよく練られた作品だと思う。」と、レオ・ノチェンテリは言う。「私はRejuvenation LPに多くの制作時間をとり、何度も朝からスタジオ入りし、何もかも良く仕上がるようにクールに判断し、そして、自分が冷静であることを確かめながら夜明けまでの制作に時間を費やした」。
「我々は、アラン・トゥーサンの人気があった頃、彼のリズムセクションであった。我々は裏方の経験があって、ロバート・パーマーの”Sneakin’ Sally Through The Ally”、パティ・ラベルの”Lady Marmalade”とDr.ジョン”The Right Place”といった、自分たちの能力を発揮する機会を得た。我々はローウェル・ジョージとも一緒に仕事をした。私はこうした過去のエピソードをとても誇りに思っている。なぜなら実際に私がThe Rejuvenation LPのカバー上に、それが言及されるようにはしていないから。ローウェルは”Sneakin’ Sally Through The Ally”と”Hey Julia”を作るためにロバート・パーマーと一緒にやって来て、我々はそのセッションで、ローウェルがリトルフィートの曲を収録することを望んだので、彼は私と作った曲をトレードすることになった。私たちミーターズは、彼の曲のうち、2曲をミーターズの2曲と交換し収録した。
ローウェルが演奏した1曲が”Just Kissed My Baby”。その曲中では、彼のプレイは聴き取りにくいかもしれないが、よく聴いてみるとちゃんとスライドしてるのが聴こえるはずだ」。

ミーターズの代表曲の1つ、”Hey Pocky A-Way”は、1973年にDr.ジョンSessionでオリジナルがリリースされている。ノチェンテリが思い出す。「私が覚えてるズィガブーが最初に叩いたドラムグルーヴは、たしかDr.ジョンのIn The Right Placeの”Shoo Fly Marches On”だったと思う。”Shoo Fly Marches On”は実際、初期の”Hey Pocky A-Way”で、そのビートに新しい歌詞を加えて”Hey Pocky A-Way”になった」。

ノチェンテリは言う、挑発的なアフロ娘の写ってるアルバムカバーについてミーターズは誰一人なんにも分かっていなかった。「私がそのカバーを見た時、あ然とした。いったい何をイメージすべきか分からなかった。多くの人びとはこのカバーが好きらしいが、最初にそれを見た時私には、その写真に写っている光景と、その重要性を理解できなかった。しかしその後、私はその写真が何を語っていたかを理解することができた」。アルバムのタイトルは”The Rejuvenation(若返り)”。そして、写真の中に置かれている物すべてが見る者を活気づける=若返らせることができる物ばかりとなっていたのであった…スイカにワイン!
私は、このカバーよりずっと論理的に良い物を作れるという自信は十分あったが、中身の音楽にしかやりがいを感じていなかったので、このカバーに対してはそれほど関心がなかった。
ザ・ミーターズの不滅のファンキーさは、どんな宇宙の力が貢献したのか? ゆでたザリガニはまともな食習慣なのか? ニューオーリンズの人びとを堕落させている蒸し暑さか? ニューオーリンズのコンゴ広場でドラムを叩いている元奴隷から、バンドリーダーであるバディ・ボールデン(テーマソングは”Funky Butt, Funky Butt, Take It Away”)から、プロフェッサー・ロングヘアまでもがジャズを新しくすると言い出すのか?
ノチェンテリは語る。「ただ私が言えることは、このザ・ミーターズの不滅のファンキーさがマジックで、それが一時的に起こったということである。それは人びとが集まった時、まれに起こる現象だ。このマジックは実際に、我々が聞く音楽に関して、4つの異なった背景を持っていた。アートはカントリー&ウエスタンを、ジョージはポップを中心とした音を好み、ズィグは絶対的なR&B好きで、私は基本的にジャズを背景に育ってきている。これがまさにミーターズ・マジックの要素なのだ」。


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粉骨砕身

2009-03-20 21:42:35 | マンガ
『青春少年マガジン1978~1983』小林まこと(講談社KCデラックス)
新潟県出身のマンガ家・小林まこと。高校では柔道部にいて試合でブレンバスターを掛けられ負けたことがある。その経験を活かした「格闘三兄弟」が1978年、1000号記念となる週刊少年マガジンの新人賞で100万円を獲得、即デビュー。同作の主要キャラそのままに『1・2の三四郎』を連載するとたちまち人気沸騰。同じ時期に『タフネス大地』の大和田夏希と『純のスマッシュ』の小野新二も新人ながらマガジン誌上で人気を競い、若い3人のマンガ家は厳しいスケジュールの合い間をぬって飲み歩くなど“新人3バカトリオ”とまで呼ばれた。彼らの他にもたくさんの新人やベテランも活躍して講談社のマンガ雑誌はモーニングなど新しい雑誌も創刊されて空前の活況を呈するのだが、その裏側には命を削るような創作との格闘があり、大和田夏希も小野新二も若くしてこの世を去ってしまったのである。その血と汗、笑いと涙の青春の日々を小林まことが回想する本作は、創刊50周年を迎えた少年マガジンに連載され、単行本にはデビュー前の習作の歩みや新人賞を受けた「格闘三兄弟」も収録されて過ぎし日をしのばせる。

青春少年マガジン1978~1983 (KCデラックス)
小林 まこと
講談社

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高2・高3とクラス替えなく続いたD組では、今も交流あるM原くんとK宮くん、あと女子の2~3人を除いてはオラほとんど会話なくて孤立気味だったのだ!!しかしぜんぜん会話ないわけでもない。M原くんと同じ水泳部でギャグ・センスのあったS藤くん。全員勉強できる属性の都立高校で、後に二浪してまでも慶応へ進んだ実利家の彼にとって、まったく正反対のタイプとなるオラは多少なりとも気にかかる存在だったんでしょか。びっちり細かい字で240位くらいまで作った1981年(高2の冬)の年間チャートをしげしげと眺めて、「ギンギラギンにさりげなく」が98位だなんてふざけるな!!と。彼はあ~ゆ~世界が好きなのねん。高3の文化祭でクラスの自主映画を作るにあたって、オラが橋本治の『桃尻娘』の中の「瓜売小僧(ぼうや)」を映画化しようと原作文庫本を回覧したりしたのに対し、S藤くんは忘れもしない『1・2の三四郎』を映画化しようと提案。
ちょうどそのマンガが人気絶頂のころであった。本書を読み始めて、そんなことを懐かしく思い出すと同時に、オラと正反対の趣味を持つS藤くんの世界じゃないですか。中画像のような絵を見て、最後まで読み通せるかどうか若干の危惧も。この誇張された目とか口はなに??カエル!?河童!?香取慎吾!?
しかし読み進めるにつれ、この絵柄は誇張ではないということがわかる。これが小林まこと氏にとっての真実なのである。そして、すべての読者にとって。週刊連載でマンガを描くことが、どれほど過酷な労働なのか。かつ初期にはアシスタントさえおらずネームから仕上げまで独りの作業。やがて単行本が出ると、まとまったお金もど~んと振り込まれるし、数人のアシスタントも抱えるようになるものの、32歳の若さで月刊少年マガジン編集長に就任した栗原良幸という辣腕の編集者に見込まれ、週刊と並行して月刊の連載も持つように。睡眠時間が一週間でわずか8時間、嘔吐したり鼻血が吹き出たり体調も悪化。交流のあった3人の新人マンガ家はいずれも似た状況で、いわば「戦友」のような。栗原氏がモーニングを創刊するにあたってまたも連載を依頼されそうになった小林氏は、断るつもりで「4ページなら…」と言ったことから後の『ホワッツ・マイケル』の大ヒットにつながるが、小野新二氏は肝臓をぼろぼろに傷めてしまい、大和田夏希氏はノイローゼに襲われるように。やがて90年代に相次いで2人は亡くなる。その描写は痛ましい。
みなさん吾妻ひでおさんの『失踪日記』をご記憶でしょか。あのマンガも10年ほどの間に起こった失踪、ホームレス生活、ガス配管工の仕事、若いマンガ家時代の回想、アルコール中毒で強制入院…といったあんまりな激動の実体験を、1冊の単行本で7割~8割くらい描きつくしてしまってる。それが売れたからといってやすやすと続編を描けるようなものではない。マンガ家さんというのは、すべて本当のことを描き、まったくオリジナルなアイデアを惜しみなく公開してしまう。しばしば吾妻さんと比較されたいしかわじゅん氏が、弊ブログみたいに他人が創作してくれる限り続けていくことができる、ぬるいマンガ評の文章の方向へ進んだのが対照的ともいえよう。計算ではできない、マンガ家という商売は。それは命を削る。命と引き換えにするような情熱が燃えたぎっている。ギンギラギンにさりげなく。

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