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巻き添え食ってたまるかよ

森茉莉の死

2009-06-15 22:54:57 | 読書
70年代初めに撮影。写真嫌いな森茉莉が「赤坂離宮は好きだから」と、珍しく自ら希望して写真に収まった、貴重な1枚。晩年は鏡さえ部屋に置いていなかった。

きのう扱った、女装してアイドルになる少年のマンガ、どこかでみたよな過去の要素のツギハギ。いやしくも少年愛みたいな、少なからず社会紊乱の気配あるものに将来ある子どもたちを誘いかねないもの描くんでしたら、もちょっと覚悟をもって臨んでいただきたい。

《俺の前に道はない。俺の後ろに道はできる》くらいな。

しかしながら題材的に、どうしても後ろ向きで現実逃避なものになってしまいがち。弊ブログでも扱うことのある、最近よく見かける男子向きの少年愛ものはもちろん、先行して存在していた女子向きのいわゆる耽美だのやおいだのと称される小説やマンガにもそれが濃厚。

やや趣きを異にするのが、それらに火をつけたとも思われる萩尾望都さんの1971年の短篇「11月のギムナジウム」をはじめ同テーマのいくつかの作品群で、いまも心を震わせるような瑞々しさみなぎる。同時期に現れた竹宮惠子さんとなるとやや下品になるがオリジネイターとしての開拓者精神は色褪せるものではない。

オリジネイターという言葉を使わせていただいたが、彼女たちがマンガで描く前にも小説で一人の先行者が。作家・森茉莉(もりまり・1903~1987)が1961年ころ発表した短篇「恋人たちの森」では、美少年と年上の青年が恋する詩的・貴族趣味的な現実ばなれした少年愛の世界が描かれる。


大正4年、東京日比谷の写真館で写す。森茉莉12才。「お茉莉の髪は上等。顔も上等」、父の自慢の娘であった。

彼女は明治期に軍医としても文人としても名を馳せた森鷗外の2番目の妻の長女で、父から溺愛されて育ったという。きょうだいの名もそれぞれ漢字が当てられているが上からオットー、マリ、アンヌ、フリッツ、ルイと西洋かぶれ。女中たちからかしずかれるお嬢様として、料理は得意だったというがそれ以外に当時の女性に要求されたような家庭的なことは大の苦手。父の紹介で結婚してパリへ滞在したり2児をなしたものの育児は任せきりで早々に離婚。2度目の結婚も長く続かず、出戻りとして兄弟たちのもとへ身を寄せていたものの肩身は狭く、経済的に自立を迫られたのが翻訳・小説・随筆を手がけるきっかけに。48歳で世田谷区代沢のアパート(彼女によればアパルトマン)へ引っ越し、先の小説のほか自身の物質的には貧乏だが「魂は贅沢な」暮らしぶりなどを主観とも客観ともつかぬ不思議な調子で綴った『贅沢貧乏』で一部に高く評価される。


代沢で23年間住んだという倉運荘という名のアールデコ調の木造アパート。廊下は土で中庭に井戸があり、トイレも炊事場も共同。森茉莉は北窓だけの1階の8畳間に暮らした。家具といえば進駐軍から払い下げでもらったというセミダブルのベッド、そして箪笥ひとつに小さな机。ところが部屋一面はゴミと言ってしまえばそれで済むような品々で占められ畳のありかもよくわからない。ベッドの上にも小物や雑貨が置かれ、茉莉は横向きに体を丸めて眠っていたという。彼女は日当たりの悪い部屋を好み、窓もカーテンも閉め、ベッドの下に積まれた古新聞は溶け出してキノコまで生える。

ところが倉運荘が老朽化のため取り壊されて茉莉が移り住んだ同じ代沢のマンション、そこに彼女は7年間住んだのだが、ぼや騒ぎや水漏れ事故を起こしており賃貸契約更新を拒まれてしまった。80歳となっていた茉莉は30年も住み慣れた代沢を出たくなかったのだが、高齢者が単身で住める物件は簡単に見つからず、息子たちがあちこち探してようやく世田谷区経堂のフミハウスというマンションに部屋を見つけて引っ越した。最初のうちは家事もしていたが経堂へ来てめっきり足が弱り、2階へ上がるための階段もつらくなっていた。

自分の部屋を他人にいじられるのがいやな彼女は家政婦など頼みたくなかったのだが、息子たちの説得で高山さんという茉莉の著書を愛読していて彼女の気性を知っている女性が通ってくれることになった。

仕事では76歳にして始めた週刊新潮へのTV評の連載『ドッキリチャンネル』が続いていたので16インチのテレビをフルボリュームで付けっ放しにしていたが、82歳で心臓発作を起こして自分で救急車を呼んで入院、退院したときには連載休止となっており晩年の彼女に追い討ちをかけた。そうして1987年。高山が4日ぶりに茉莉の部屋を訪れると、彼女が黒電話のほうへ手を伸ばしてベッドの上で仰向けで倒れているのを発見、すでにこときれており、検死の結果心不全で死後2日と推定された。《魂の先行者》の孤独な死であった…。


いきつけの喫茶店、「邪宗門」にて。紅茶一杯で一日中粘る。書斎がわりにしていた。=写真は3点とも『知識人99人の死に方』(角川書店)より。

オラ16才で同性の友だちに恋してるけども、その前から性的に同性に興味あったのもまぎれもない事実。ただし、その好きになった人は外見で好きになったというよりは、心の部分が大きい。いわゆる「美少年」とはぜんぜん異なる。外見的な美少年でしたら、2代目ケンちゃんを演じてた子役の岡浩也さんとかかわいかったよナ 彼には森茉莉さんもドッキリチャンネルで目をつけていたのを見逃すオラではないよん。森茉莉さんが亡くなった87年の秋ころから7人組のジャニタレ光GENJIがデビューして貧弱な半裸になってローラースケートで歌い踊った世紀末の歌番組。もし彼女が元気でドッキリチャンネルを続けてたとしたら「サーカスに売られた子ども」以上のキレのある言葉で評してくれたことでしょう。

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2 コメント

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茉莉さんの (アゲハ)
2012-03-17 09:03:13
作品は大好きでベッドにも職場にもお傍去らずでしたから、(甘い蜜の部屋)などはついにボロボロになってしまいまして、最近アマゾンでその他の茉莉さんの未読の本と一緒に買いなおしました。
ドッキリチャンネルって知りませんけど、そんな時代もあったんですね。

少しまどろっこしい文章な気もしますけど、瀟洒な絵巻でも見せられるような印象でハマります。
そうして何度も読み返すんです。

茉莉さんは「夥しいゴミの中で死んでいた」と一部は表現されているみたいですが、つまりあれは茉莉さんの愛した(美)なんですね。
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ようこそ (マガジンひとり)
2012-03-17 15:12:55
はじめまして。

木賃アパートも茉莉さんの脳内ではベルサイユ宮殿。孤独死といえど、自己責任を貫いた真の芸術家としての栄光に包まれた死のように思います─ 
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