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未必の兵器──731部隊おぼえ書き・エピローグ

2024-08-24 14:44:34 | Bibliomania
■山田朗(明治大学教授) / 日本の秘密戦と731部隊──その記憶を発掘し、継承する意味 (抄録)

戦争には目に見える部分と目に見えない部分という2つの側面がある。目に見えない部分を「秘密戦」という。731部隊は何のために編成され、何をやったのかを考える。狭義の秘密戦には防諜・諜報・謀略・ 宣伝(戦時プロパガンダ)などがある。もう少し広げて広義の秘密戦ということになると化学戦・生物戦なども考えられる。戦間期1925年ジュネーヴ議定書が制定され、化学兵器・生物兵器の先制使用が禁じられた。しかし生産・備蓄はOKであった。サンプルを持っていれば何が使われたか分るという名目。

戦場では給水と防疫が死活的に重要。衛生状態が悪く、悪い水によって感染症が発生しやすいことで、日清戦争では戦闘による戦死より病死者の数が上回り、有名な「征露丸」が日露戦争時に発明される。石井四郎は三等軍正(大佐級)として1928年から30年にかけヨーロッパに4たび出張、そこで細菌戦の有効性・秘匿性・経済性を察知し、「細菌戦は自然発生と区別がつかない、安上がりだ」と陸軍上層部に掛け合う。感染症を防ぐことが「防疫給水」の表の任務であるなら、裏の任務と呼べるのが生物兵器・化学兵器の開発であった。

東京新宿の陸軍科学研究所で毒ガスの開発が行われ、瀬戸内海の大久野島で実際の製造が行われた。労働者が毒ガスの被害に遭い、今はここに大久野島毒ガス資料館がある。731部隊は関東軍防疫給水部としてハルビン郊外の平房に施設を建造したが、満洲国の建国により、内地の日本人の目に触れない場所で研究開発を行うことが可能になったのである。これは同時に非合法な人体実験を行うにあたっても好都合であった。満洲国で「暫行懲治盗匪法」という法律が施行され、これは抗日分子をその場で処分してよいというもので、憲兵隊が「抗日」を捕えて死刑を宣言し、この「死刑囚」を731部隊の実験材料として供給することが可能になる。3000人ともいわれる「マルタ」と呼ばれた犠牲者。

細菌兵器を最初に実戦使用したのはノモンハン事件でソ連軍に対して。しかし詳細は分っていない。やがて牡丹江643部隊、ハイラル543部隊、林口162部隊、孫呉673部隊といった支部が設置され、ペスト・チフス・コレラ・流行性出血熱・炭疽菌を用いて研究開発が進められる。そして大量散布方式の実用化に至る。ペストに感染したネズミの血をノミに吸わせ、このペストノミを陶器爆弾に搭載して飛行機から投下する。陶器爆弾は投下するとそこで割れてノミが生きたまま拡散する。1940年には寧波・衢州で、41年には常徳で、42年には金華で実施するも、この金華での作戦は日本軍にも感染症が増え失敗に終る。

ソ連参戦後、彼らは証拠隠滅に走る。施設を爆破しマルタを殺害。部隊員は日本に逃げ帰り、ごく少数がソ連に抑留され、後に裁判にかけられる。戦後になってアメリカ軍が731部隊員の尋問を始める。1945年9月からサンダースが内藤艮一(後に日本ブラッドバンク⇒ミドリ十字を創業)に尋問、46年1月か らトンプソンが石井四郎に尋問。ところが46年末になってソ連が石井の身柄引き渡しを米軍に求め、翌47年4月に石井四郎は免責を条件に人体実験データを米軍に提供すると申し出る。これを受けて米軍が調査・作成したヒル報告が米本国に届き、生物戦データは戦犯訴追より重要であるとして米極東委員会の承認が下りる。アジアの民衆を下に見る風潮、人権軽視の研究開発、エリート層の保身・無責任、臭いものに蓋をしたまま経済大国となった日本はいまそのツケを失われた30年あるいはそれ以上──という形で味わっているのだろうか。



ことし正月、羽田空港で旅客機と海保機が衝突、間一髪旅客機の乗員乗客が避難した直後に炎上し無残な姿になる(海保機は機長を除く5人が死亡)事故があり、劇的ということで海外でも大きく報じられ、私もユーチューブでそれらの海外ニュースを見たのだがこれがいけなかった。それから「興味なし」「チャンネルをおすすめに表示しない」を連打しても手を変え品を変え航空関連の映像サムネイルが表示される。私はユーチューブに課金しているのだが少なくともグーグルのユーチューブ用AIは顧客ニーズに応えるつもりはなく、グーグルの利益を最大化するよう興味本位ですぐ飛びついてすぐ忘れるユーザー量産するのに最適化されているのだろう。

ツイッター(X)、あるいは他のさまざまなソーシャルメディアにせよ同じ利益追求至上の動機がはたらいていると思う。音楽依存が強い私にとって、2017年から利用し始めたRate Your Music(古今東西の音楽を採点、レビュー、テーマによるリスト化など)、さらには2015年から放置していたlast.fm(音楽の再生を逐一記録)を2022年3月に復活させ、過去の記録を編集したり将来の再生を自動訂正してアルバムをまとめたりできる有料会員になったことによって、ゲームを楽しむように音楽一辺倒に導かれる不健康な日々が続き、結局は当ブログの年内終了をはじめ考え方や生活全般まであらためて点検せざるを得ないこの夏に至ったのである。



近代人は伝統的権威から解放されて「個人」となったが、しかし同時に、かれは孤独な無力なものになり、自分自身や他人から引き離された、外在的な目的の道具となったということ、さらにこの状態は、かれの自我を根底から危うくし、かれを弱め、おびやかし、かれを新しい束縛へすすんで服従させるのである。 ─(エーリッヒ・フロム/自由からの逃走/原著1941)
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昭和博覧会⑨ メトロニュース

2024-08-18 17:54:21 | Bibliomania
メトロニュースは東京地下鉄(東京メトロ)の前身・帝都高速度交通営団が昭和35(1960)年4月から不定期に発行し、駅に置かれる配布物。2022(令和4)年に紙版を終了、現在はnote上で更新されている様子。

創刊号には既に開業している銀座線・丸ノ内線を含め5本の地下鉄が建設されるという計画のあらましと路線図、運賃表とその改正についての記事が掲載され、二つ折りに綴じていないペラ紙を挟んだB5判6ページの体裁。



あなたの財産は、有利に運用されておりますか? 利用方法によってあなたの財産はますますふえていきます。ご存知かもしれませんが、財産をふやす確実有利な方法をお知らせしましょう。(中略)元利金の支払いが確実で、しかも、年七分九厘四毛の高利回りであること。その上、いつでも換金が自由な無記名証券で、いま話題となっている金利引下げに影響ないからです。(中略)皆さんは、地下鉄建設に参加しながら、財産をふやしていけるわけです。 ──no.4に掲載された「東京交通債券の話」。この後も頻繁に掲載。


メトロニュース初期には地下鉄路線網の計画図は毎号掲載されており、昭和38(1963)年7月のno.11に初めて第8号線、後の有楽町線が登場。当初は練馬区中村橋駅付近=江古田=目白=飯田橋=神保町=墨田区錦糸町駅付近のルートで計画されていた。昭和43(1968)年12月のno.39掲載の計画図から市ヶ谷=永田町=銀座付近へ抜ける現在のルートに変更され、昭和49(1974)年10月末に池袋=銀座一丁目間が開業。



昭和40(1965)年11月のno.23表紙に使われた丸ノ内線電車がトレーラーで運ばれる様子。



①no.44(昭和44年11月)千代田線と命名された9号線の新御茶ノ水駅完成予想図②no.45(昭和44年12月)凍結工法の掘削工事③新御茶ノ水駅の仕上げ工事④延長41メートル、当時東洋一長いとされた新御茶ノ水駅のエスカレーター。

地表下34メートルと当時日本一地下深い駅であった新御茶ノ水をはじめ、昭和44(1969)年12月に開通した千代田線の北千住=大手町間は起伏の多い地形で地盤も軟弱、狭い道路の下に建設するなど施工環境が悪かったためシールド工法や凍結工法などの新技術が用いられた。



飛び飛びで入手したのではっきりと分らないが昭和50年代に入りno.70~80あたりで沿線風景に若い女性が写り込んだ表紙が多くなり、やがては風景より女性がメインに。内容も鉄道ファンにアピールするような硬派色は薄れていく。
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昭和博覧会⑧ 血のメーデー

2023-10-23 17:41:31 | Bibliomania
堀田善衛『広場の孤独』は、ひとくちに言えば、世界が二極化して米ソ超大国のどちらかの陣営に強制的に組み入れられ、日本は全面講和の可能性をまったく封じられて、アメリカとの単独講和に踏み切らざるを得なくなったことを描いたものだ。おしまいの方に、宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』をもじって、こんな詩が出てくる。

雨ニモ負ケテ
風ニモ負ケテ
アチラニ気兼ネシ
コチラニ気兼ネシ
(中略)
アッチヘウロウロ
コッチヘウロウロ
ソノウチ進退谷マッテ
窮ソ猫ヲハム勢イデトビダシテユキ
オヒゲニサワッテ気ヲ失ウ
ソウイウモノニワタシタシハナリソウダ
………

こういう状況は、その後30年たったいまでも基本的に変りがない。おそらく今後も、第三次世界大戦でも起らない限り、変りようがないわけだろう。うっとうしいといえば、うっとうしい限りだが、こういう作品が出て来たことは、逆にいえば戦後の混乱期が終息に近づいたことを示すものでもあったろう。

たしかに『広場の孤独』は、その時代の空気を情緒的に象徴していたといえるだろう。その年、昭和27年(1952)のメーデーは、皇居前広場で警官と群衆が衝突して、市街戦さながらの大乱闘になった。そのときの模様を梅崎春生は、ルポルタージュ『私はみた』で、次のように述べている。

デモ隊第一波の先頭が、馬場先門に着いた時、そこからすこし広場に入ったところに私はいた。私のすぐ傍では、300名ほどの武装警官隊が、殺気立った風情で、待機していた。しかしどういうわけか、彼等はすぐに、ひとかたまりにまとまって、広場への道を開放し、デモ隊との衝突を回避する態度をとった。そしてデモ隊は、道いっぱいの幅で、二重橋めざして、広場になだれこんだ。二重橋前に、先頭が到着したのは、それから5分もかからなかったと思う。

二重橋前の広い通路の両側には、人の背丈ほどの鉄柵があり、鉄柵の外側は幅一米ばかり余地があって、そこから濠になる。私はそこにいた。その狭い場所には、デモ隊ではなく、私同様の一般市民が、たくさんいた。柵にとりついていたかなり年配の男が、遠くを指さしながら、
「ほら警官が走ってくるぞ、あそこから走って来るぞ」 と叫んだ。私も柵にとりつき、背伸びをすると、林立した組合旗の彼方に、急速に近づいてくる鉄兜の形がたくさん見えた。しかし老人のその叫びにも拘らず、デモ隊の連中は、あまりそちらに注意を向けていないように見えた。二重橋前に到着したという安堵感が、デモ隊の緊張をゆるめていたように思われる。

このルポでは、デモ隊の人数がどれぐらいいたか、具体的に書いていないのでよくわからない。おそらくそれは、警官隊の10倍よりは多く、100倍よりは少なかったという程度であったろうか。いずれにしても、当時のデモ隊はヘルメットもゲバ棒も、また石コロなども持っておらず、もっぱら非武装無抵抗の集団であったといえる。一方、警官隊のほうは鉄兜、警棒のほかに催涙ガスや銃砲の用意があった。だから、デモ隊が皇居前広場へ入ろうとするのを、馬場先門のあたりで阻止しようとすれば出来ないことはなかっただろう。しかし警官隊は、むしろデモ隊を広場へ導入し、デモ隊が二重橋へ向って押し掛けるのをみたとき、前後からこれを取り囲んで警棒を振るい、ガス弾を発射したらしい。



私はあの一瞬の光景を、忘れることは出来ない。ほとんど無抵抗なデモ隊(一般市民も相当にその中に混っていた)にむかって、完全に武装した警官たちは、目をおおわせるような獰猛な襲撃を敢えてした。またたく間に、警棒に頭を強打され、血まみれになった男女が、あちこちにごろごろころがる。頭を押さえてころがった者の腰骨を、警棒が更に殴りつける。そしてそれを踏み越えて、逃げまどうデモ隊を追っかける。

と、梅崎氏は現場で見たことをつぶさに述べている。デモ隊のほうも、非武装ではあったが完全に無抵抗で一方的に殴られっぱなしということでは、無論なかった。警官のなかには、鉄兜を剥ぎとられ、濠に放りこまれて、立泳ぎしながら同僚に助けを求める者もいたし、反撃に出たデモ隊に警官隊の一部が分断されて、逃げ遅れた者は怒り狂った群衆の真只中で《渚に取り残された鰈みたい》な目にあわされたりもした。

ついに、警官隊はガス弾だけではなく、ピストルも発射した。梅崎氏は最初それをピストルの実弾音だとは信じなかったが、その信じられないことが実際に起った。ピストルの発射音は、梅崎氏が聞いただけでも、100発は優に越えていたという。当然、病院へ直ぐ運びこまなければならないような重傷者が大勢出たが、彼等の大部分は応急の手当てを受けただけで、芝生や草原の上に血まみれになって横たわったまま、うめき声を上げていた…。やがて、デモ隊の一部は暴徒化して、日比谷公園沿いの道路などに駐車してあった自動車に片っぱしから放火しはじめた。彼等はゲリラ兵や便衣隊の戦法を用いたらしく、一般市民の見まもるなかで自動車を引っくり返しては火をつけ、警官隊が押しよせると、すばやく通行人やヤジ馬のなかに潜りこんで姿をくらました。一般市民もむしろ彼等をかばい、《警官隊から守るような傾向が、強くあらわれていた》と梅崎氏は言っているが、市民の協力が得られなければゲリラ戦はたたかえるわけがない。

こういう一般市民の《傾向》に対して、警官は相当イラ立ったらしく、やたらに警棒を振りまわし、罪もない通行人を殴ったりもした、という。

私たちが、日比谷公園寄りの歩道を、交叉点に向かってゆっくり歩行していると、警官隊の一人が、目をつり上げ、警棒を威嚇的にふりかざしながら、
「貴様らあ、まごまごしてると、ぶったくるぞ。貴様らの一人や二人、ぶっ殺したって、へでもねえんだからな」
それから、もう一人、
「一体貴様らは、それでも日本人か!」
この罵声は、さすがに私たちを少なからず驚かせ、また少なからず笑わせた。

この梅崎氏のルポルタージュ『私はみた』は、メーデー事件の裁判で、検察側と弁護側の両者から証言として採用された。ということは、これがいかに中立的な立場で、客観的に、正確に叙述されていたかを示すものだろう。しかし、また中立的であるということは、このような場合、何も言っていないのと同じだということも示している。実際、ニヒリスチックな眼をした梅崎氏は、この大騒動を目のあたりに見ながら、警官隊とデモ隊 、どちらに正義があるとも言っていない。ただ彼は、暴力を憎み、負傷者を哀れみ、多少ヤジ馬的に警官隊をからかっているだけで、この事件の原因が何で、背後にどんな事情が隠されているかといったことには、全然言及していないのである…。いや、元来これは偶発的な事故であって、どちらが善いも悪いも無いことであるかもしれない。それは、このメーデー裁判が満20年(一審18年、二審2年)もの長期間の審議をつづけたあげく、騒乱罪は成立せず、結局二百数十人の被告が全員無罪になったことからも言えるだろう。

直接の原因としては、皇居前広場をメーデー会場には使わせないという警察の布告が、その3日前の4月28日に出ていたのに、それを無視してデモ隊が侵入したということが上げられているが、これは梅崎氏のルポにもあるように、むしろ警菅隊が広場へ導入したという形跡が濃厚で、デモ隊が一方的に悪かったとは決められない。それよりも、同じ4月28日に日米の単独講和と安保条約が成立発効していることの方が、事件の要因として間接的ながら、ずっと重要なのではないか。つまり、この日を境いに日本の中立や非武装平和は事実上許されなくなったわけで、その無力感へのイラ立ちがデモ隊や一般市民の間にも、強く働いていたことはたしかだろう。警官が無辜の通行人に向って、「一体貴様らは、それでも日本人か!」とドナっているのが、梅崎氏たちに滑稽に思われたというのも、超大外国の言いなりになって《アッチヘウロウロ、コッチヘウロウロ》しているのが自分たちの国家だという実感が大部分の日本人の胸の中にうずいていたからに違いない。

しかし、その一方、アメリカとだけでも講和が出来たということは、僕らに何となく自信をつけさせることにもなった。はやい話が、講和前なら路上に並んでいる自動車を片っぱしから引っくり返して火をつけることなんか出来っこない。なぜなら、たちまちMPがすっ飛んできて、有無をいわせず逮捕されたにきまっているからだ。実際、当時は自動車というものは、タクシーや官庁用の車を除いて大部分、アメリカ人の所有物であって、そ は絶対権力と文化の象徴のように思われていたし、占領期間中にアメリカ軍のジープや乗用車にハネられて死んだり怪我をしたりした人たちは大部分、何の補償もなしに泣き寝入りさせられていた。それだけに自動車が──なかには日本人の車もあったであろうが──次つぎと黒煙を上げて燃えているのをみたとき、大抵の日本人が心のなかで決哉を叫び、その犯人を一般市民が警官から守ったのもムリはないわけだ。

そういうナショナリズムは、警官隊にもあった。ただ、彼等は心情的にも、またデモ隊を取締る職責上からも、反共であり反ソであって、デモ隊に反撃されると、自分たち以外の一般市民は全部、容共・親ソの〝非国民〟に見えたのであろう。しかし、滑稽なヒロイズムはデモ隊の側にもあって、「おれは二重橋に5回突撃した」とか、「7度も吶喊(とっかん)した」 とかいう武勇談を、僕はあとになって何度聞かされたかしれない。そういう意味からは、あの皇居前の乱闘事件は、お祭騒ぎのページェントであったということも出来る。

気の毒なのは、あの裁判で被告にされた人たちで、彼等は青年期と中年期の大部分を、裁判所通いに費やされて、まともな就職も海外渡航も許されず、半生を棒に振ったようなものだった。 ─(安岡章太郎/僕の昭和史/講談社文芸文庫2018・原著1984)



1951(昭和26)年9月、太平洋戦争開始以来の日本の戦争状態を終結させるために米サンフランシスコにて52ヵ国が参加して講和会議が行われた。ソ連は会議で修正案を提案したが採択を阻まれ、ポーランド・チェコスロバキアとともに調印を拒否した。インドはアメリカ主導型の講和はアジアの緊張を高めるとして会議への参加を拒否し、ビルマ・ユーゴスラビアも出席しなかった。また英米両国の間で代表権について合意が成立しなかったことから、中華人民共和国・国民党政府のいずれも会議に招聘されなかった。

( 画像左)グロムイコ・ソ連全権到着に対して集まったデモ隊。こうしたソ連への抗議は会議期間中続いた。(画像右)吉田茂首相ら日本全権が9月8日に調印、各国の批准を経て翌52年4月28日に発効し、直後5月1日のメーデー騒乱を迎える。米国やソ連のようなならず者国家、またそれに従属する独裁政権にとって「外部に敵がいてくれる状態」が内政面でもいかに有効かつ必要とされるかうかがえる。
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昭和博覧会⑥ 慰安婦と女子アナ

2023-07-24 17:22:41 | Bibliomania
鹿内 私が招集になりましたのは、まだみんな現役の兵隊だけでいろんなことをやっていた時代に、戦況がだんだん怪しくなってきて、予備役の兵隊も現役と一緒にとるということになりまして、それでとられたのが昭和13年でした。行きましたら、現役と予備役が一緒なわけです。

みんな新兵さんですが、そこから幹部候補生をとるという、当時の風潮からいうと予備役から来たのを将校にとるなんていうことは、兵隊の常識からいえば大変な恩恵を与えることになるわけです。

櫻田 そりゃそうだ。

鹿内 そこで、いまでもほんとうにどういうわけかわからないんだけれども、何百人かのなかから、とにかく一回の幹部候補生の試験をやりまして、そのなかから歩兵の〝進め進め〟のほうの幹部候補生を決めるわけです。ぼくは北海道の七師団で、札幌の二十五連隊に入ったんですが、そこで幹部候補生の試験に通った。あのときは二十五、二十六、二十七連隊から、歩兵とか輜重(しちょう)兵とかが400人ぐらい集まって、そのなかからお医者さんになる将校が3人でしたかな。

それから経理関係の将校になるのが18人ぐらい選ばれた。これも何が基準で選んだのかわからない。そして、これもどういうわけか経理将校候補18人のなかから7人だけ将校になって、あとの残ったのが下士官になるわけです。そういうことで、ぼくは予備役から将校をこしらえるという制度の第一回生なんです。それで、東京・若松町の経理学校へ来た。

(中略)

鹿内 ところが、教育を受けたといっても半年ぐらいですからね。ソロバン持ってやるわけじゃないし、いまのように電算機があるわけじゃないでしょう。まあ皮肉な話なんですけれども、経理部将校というのは会計監督官をやるときは、まだいいんですよ。だけど野戦の経理将校は、櫻田さんは戦争をやっているからご存じだろうけれども、ある意味ではいちばんみじめな立場なんですね。要するに、部隊のお母さん役ですから、戦争になればいちばん先に下士官を5、6人連れて敵地へ乗り込んで行って…。

櫻田 そうそう。いろいろ調達しなければならないからね。

鹿内 物資を全部調達する。それから兵隊の寝る施設を徴発する。それに対して軍票を配る。あと現地の農民からどういうふうにものを買い上げるとか、そういうことを……。それで、大陸なんかでは、先に敵地に乗り込んで虫殺しみたいな〝なぶり殺し〟になったわれわれの仲間がうんといます。

櫻田 そうでしょう。

(中略)

鹿内 すっかり風紀が乱れちゃってね。しかも、面会者が多くて勉強にもならない。そこで、とうとう面会禁止になりましてね。それから、これなんかも軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地へ行きますとピー屋が……。

櫻田 そう、慰安所の開設。

鹿内 そうなんです。そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの、〝持ち時間〟が、将校は何分、下士官は何分、兵は何分……といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。 ─(櫻田武×鹿内信隆/いま明かす戦後秘史/サンケイ出版1983)


ウィキペディア:頼近美津子

カクシャクの筈、未亡人として美津子が相続した持ち株を買い戻し、再び議長に就任するも1990年死去。この三者のウィキペディア、読みものとして面白いかもしれないが、徹頭徹尾現実主義で胸糞悪い。信隆や対談相手の櫻田という人物、慰安所のくだりからもうかがえるように日本軍の経理・労務屋として人・物・金を御する立場を利用し、敗戦後は財界の重鎮に。敗戦が功を奏したという以外にも、ワンマン経営と男尊女卑であったり、女癖の悪さから反発した春雄が父と対照的な制作重視・軽薄路線をとったこと、春雄の母・英子が祈祷師に心酔していたため春雄早世の遠因になったとみられることなど、現今の物価高と少子化にもかかわらず大阪維新や統一教会やジャニーズ事務所、潰すどころか焼け太りしてしまうような歴史の構造的な一端がここにもあったかと。

実務に疎い武士階級は、農漁民を懐柔しつつ徴税してくれる代官なり庄屋なり中抜きエージェントを立てる必要がある。そうした色と金、接待の価値観に基づく〝世間〟という人間マーケットが成立していたから日本は欧米帝国主義にキャッチアップできたのであり、敗戦という事態にあってもその支配がゆらがなかったのは、一般国民から鹿内父子やその類似がいくらでも輩出されて男尊女卑の軍国主義を助けるから。慰安婦は心ならずも協力させられるが、女子アナや女優は自ら進んで男尊女卑に協力し、軍功のあった男に嫁ぐようプールされているのである。
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731部隊おぼえ書き⑦

2023-03-28 19:06:34 | Bibliomania
ジュネーブ条約で、毒ガス兵器に続き、残忍で非人道的であるがゆえに使用を禁止された生物兵器を、中国人捕虜などへの人体実験を重ねて開発した、戦争犯罪人たちの首謀者が陸軍軍医中将石井四郎である。戦争犯罪を裁く東京裁判の陰で、米軍と取引してデータや標本類と引き換えに訴追を免れ、ニュルンベルク裁判で死刑となったナチスドイツ軍医と対照的に戦後の日本を安穏と生きた彼ら。

石井四郎とは特異な人間だったのか? 郷土(千葉県成田空港に近い農村)の英雄であり、京都大学医学部を経て軍医として前例のない中将まで上り詰めた石井をめぐる多くの証言を、ジャーナリスト西浦扶甬子が収集し、オンライン講演会にて報告する(2月22日・抄録)


石井の父、石井桂②は幕末に千葉県山武郡で生まれ、養蚕の繭の仲買人として成功した資金を元に高利貸となり、焦げ付いた借り手から田畑を集めて千代田村の大地主になる。しかしさらなる事業拡大に失敗、学業優秀だった四男・四郎がヨーロッパ留学するための出費で家運はさらに傾き、桂は1933年87歳で死去。③は四郎の京都帝国大学時代。

①石井は家運の傾いた1932年に細菌戦部隊設立のため妻子や兄弟を満洲国ハルビンに呼び寄せ、新宿若松町の自宅には母千代(上田藩の御殿医の娘)と使用人を残すのみだったが、45年3月の東京大空襲の後、千代もハルビンに呼び寄せた。この写真はハルビンの石井邸の庭で、中央の石井の左側に母千代。左端の洋装の女たちは使用人とみられる。


④石井の親戚で同郷の萩原英夫。石井は自己顕示欲と防諜を兼ねてか、獣医の資格を持つ兄2人を731部隊で従事させたのを始め、千葉県の同郷の者を731部隊の直属や軍属に取り立てた。萩原の証言によれば、1938年に彼など20名が満洲へ渡った際に石井は大佐であったが(当時46歳)、42年に少将、45年に中将と、細菌戦部隊を率いた功績により出世し「初代の軍医大将になる」と豪語していたという。

⑤1943年14歳で731部隊の少年隊入隊(二期生)した小笠原昭。「石井四郎は本当にヒットラー以上に悪い。国際法を無視して細菌兵器を開発した。国際法で禁止するようなものだからやった方がいいという考え方だった。まだ元隊員には石井は戦の神様だから神社を建てて祀らにゃいかんということをいうのがおるんですからね」。


⑥朝枝繁春(元陸軍参謀)。敗戦間際には大本営参謀陸軍中佐としてソ連参戦を知り、天皇を守るため独断でハルビンに飛んで石井と会い、細菌戦に関するすべての証拠隠滅を指示した。建物を壊すため工兵隊を手配したり、満鉄総裁を通じて部隊員引揚の特別列車を手配させるなどした。自らは9月にソ連軍の捕虜となり抑留され1949年8月復員。「当時日本の人口は8000万だよ。ソ連は2憶7000万。広大なる国土を持ち油の産地で工業も発達しとる。関東軍の兵力でもって、ソ連が出てきたときに太刀打ちならない。1対15だよ。勝つ目途がないから、細菌戦でやろうと。一番いいのはペストの乾燥菌だ。これを培養して飛行機でばら撒く」「(中国でやっていたのは)石井中将の勝手なの。関東軍司令官の命令なく、関東軍防疫給水部という正式な名前、いい水をつくって飲ますという看板の下にやっておるのとまったく逆の細菌をばら撒くんだね。日本は中国人民に対して土下座で謝らなきゃいかん。絶対に悪い。日本人が今やっていることは詐欺だよ。対してヒトラーのドイツははるかに世界の信用を得とる。今日にいたるまで信用を得られていないのは、この期に及んで世界に向かって陳謝しておらん」。

⑦1958年8月、房友会(石井部隊関係者の戦友会)結成大会でくつろぐ石井四郎。石井は翌59年に喉頭がんのため死去(67歳)。がん闘病中にカトリックの洗礼を受けた。

石井が1928年にヨーロッパ留学したのは、25年にジュネーブ条約により生物兵器の使用禁止が決まった後で、しかし彼は20ヵ国にも及ぶ歴訪で各国の細菌学者・軍医に精力的に取材し、細菌戦の効果は未知数だがワクチンをはじめとする備えを怠ってはならないというのが議論の大勢であると知る。ワクチン研究がより危険な細菌の発見につながることも想定される。石井の父親譲りの事業欲と功名心は、これを湯水のごとく資金供給されるチャンスとみて、細菌兵器などの研究機関の設立計画を参謀本部に持ち込み、1932年の防研=特殊防疫研究所=731部隊などの母体、の設立を実現させる。石井らは最初から過大な、いつまで経っても達成できないような計画を立て、ヒト・モノ・カネをつぎ込んで暴走する。暴走を止めたのは敗戦という他律であり、占領軍参謀2部(G2)によって一種の司法取引が行われ、731部隊の所業が闇に葬られてしまったことから、この問題はなお尾を引いて日本の将来に暗雲を投げかけている─
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731部隊おぼえ書き⑥

2023-01-26 16:38:36 | Bibliomania
軍医秦正氏(はたまさうじ)の証言
秦正氏は1910年11月、東京都渋谷区幡ヶ谷笹塚に生まれた。38年28歳で千葉医科大学を卒業、同学附属病院皮膚泌尿器科や沼津市楠病院分院を経て39年から教育徴集により軍医予備員候補者教育を受け、41年7月には動員令状を受けて関東軍の満洲ハルビン市郊外の部隊に所属。軍医中尉に進級していた44年5月に沖縄に向かう途中の朝鮮釜山で「満州第731部隊に転属を命ず」の電報命令を受け、ハルビンに戻って7月20日ハルビン東南約20キロメートルの平房屯所在の731部隊本部に到着した。

731部隊は1945年8月9日、ソ連が攻めてきたことにより敗戦直前の13日に逃亡しているので、秦は約1年間731部隊にいたことになる。731部隊の終幕近くに入隊しているのが彼の特異な点であるが、当時の翻訳班でソ連医学の文献を翻訳していた2名は医学の知識がなかったため、医師でありかつ満洲国のロシア語国家試験を通った秦を呼ぶことでソ連の文献を731部隊の研究に役立てようとしたらしい。彼が所属した総務部は太田軍医大佐以下約150名、配下に5課があり、彼は調査課の翻訳班6名の班長を務める。

翻訳の文献の選択は、雑誌その他ソ連刊行物の目次をまず訳し、調査課長・石光薫(大佐相当技師)に提出し指示を仰いで文献を翻訳する。731部隊は、抗日活動に従事していて関東憲兵隊により逮捕された中国人・ロシア人・朝鮮人・モンゴル人などを「特移扱(とくいあつかい)」として「マルタ」と呼んで生きたまま人体実験に使用していたが(以下・愛国者)、秦の翻訳班は文献翻訳を通じてソ連の最新事情を知ると共に敵愾心を煽り、ソ連及び中国愛国者をマルタとして行う細菌兵器研究と生産を鼓舞し、想定される対ソ戦においてソ連の防疫陣を麻痺させ勝利を得ようとしたのである。

発疹チフス・消化器系伝染病・ペスト・炭疽・ガス壊疽・波状熱(ブルセラ病・家畜伝染病)・シベリア森林ダニ脳炎・凍傷・K洗剤・DDT(農薬・殺虫剤)等に関するソ連の研究業績を1年で約150編翻訳し、ソ連及び中国愛国者(秦の知る範囲にて約12名)に対して次のような人体実験を行わせた。

①炭疽菌
1944年12 月頃、隊長北野政次、第二部長碇軍医大佐の指揮下で安達実験場 において、約6名の愛国者(少なくとも1名はソ連愛国者)に足枷をつけたまま護送してきた車から降ろし、約20m間隔に立てた木柱の根元に後手に縛って座らせ、100~200m高度の飛行機から炭疽菌の細菌弾を落として爆発させ、愛国者の鼻咽喉粘膜に純粋培養炭疽菌を散布させた。その結果、数日ないし十数日で重篤な炭疽を発した愛国者に対し、診療部長軍医大佐永山太郎は各種の「治療」を試みたのち、遂に死亡させた。

②凍傷
44年8月、秦はソ連の凍傷治療法を翻訳。従来の日本で行われる低温摩擦法と異なり、ソ連では摂氏22度の温水で治療が行われていた。彼はこの文献により第一部の吉村技師に示唆を与え、次のような人体実験を行わせた。44年冬、吉村が出産直後のソ連婦人愛国者に対して行った「凍傷」実験である。先ず手指を水槽に浸した後外の寒気にさらし、激痛を伴う組織凍結にまで至らしめ、凍傷の病態生理学的「実験」を行った。更にこれをさまざまな温度の水によって「治療」した。日を改めて再び凍傷にさせ、何度も繰り返した結果、その手指は壊死して脱落した。

③ガス壊疽
1944年12月頃までに秦は「ガス壊疽治療血清力値測定」その他ガス壊疽に対するソ連医学の治療水準を示す文献3編を紹介し、第一部二木技師に示唆を与え、次のような人体実験を行わせた。二木は文献に基づき、菌毒力を何らかの手段で高めることによってソ連医学の治療水準を相対的に低下させうると考えた。44年12月頃、1名の中国愛国者の大腿前面を小切開し、一側にはガス壊疽菌のみを、他側にはガス壊疽菌と土砂の混合物を接種した後、両側の発症状態を比較検討し、土砂混入はガス壊疽菌毒力を増強せしめることを確認。足が極度に膨張し、壊疽に陥らんとするや外科的切開その他各種の「治療」を加えた結果、遂に死に至らしめ、屍は診療部の所軍医中尉の手で病理解剖に附した。

④ペスト菌
秦の在隊当時ソ連においてはスルフィヂン(ソ連製サルファ剤の一種)が各種疾患に試用されていた。彼は「赤痢に対するスルフィヂンの効果」やその他スルフィヂンに関する数編の文献を翻訳提供し、第一部軍医少佐高橋正彦に示唆を与え、次のような人体実験を行わせた。45年1月頃高橋は約3名の愛国者にペスト菌を注射して重篤な肺ペスト及び腺ペストに感染させた後、日本製サルファ剤で「治療」を試み、遂に死亡させた。

秦は、敗戦前後に731部隊が全員逃亡した後もなぜハルビンに残っていたかについて、個人的な親族関係のことによると説明している。①動員を解かれ現職に復帰できるのを喜ぶ気持ち②妻の家がハルビンにあり妻とその弟が病気であったこと(両人とも翌年死亡)③妻と秦の母とは折り合わず日本に帰って母と一緒に暮らすことが嫌であった④秦が日本の名古屋大でやっていた医学研究資料がことごとく空爆で焼けてしまい、可能ならばソ連へ行って医学研究をやりたいと考えた。

ハルビン市の妻の家に潜伏し、9月にハルビン市日本難民委員会(後日本人民会と改称)付けの皮膚泌尿器科医師となり、46年7月には東北民主聯軍(後の人民解放軍)の命令を受け出頭したのち参軍し、外科・皮膚泌尿器科医生やロシア語翻訳を務める。しかし中華人民共和国成立後の1951年4月、瀋陽公安局に逮捕され、撫順戦犯管理所へ収監された。この収容下において、シベリア抑留とは対照的に日本人戦犯は厚遇を受け、日本人戦犯の1食は中国人3人分の食費が充てられていたとされる。これは毛沢東と周恩来の「戦争犯罪の原因は個人的な問題ではなく歴史的・社会的なもの。日本人戦犯を平和を愛する人に生まれ変わらせ、破壊的な要因を平和的な要因に変えることこそが根本的な解決方法である」との方針によるもので、55~56年の軍事裁判においても撫順戦犯管理所と太原戦犯管理所にいた日本人戦犯1017名は起訴免除となり、6月21日、7月18日、8月21日の3回に分けて帰国。107名の起訴は45名に減り、死刑は誰一人いなかった。秦は3回目の1956年8月21日、45歳で日本に帰国し、1984年7月、73歳で亡くなった。

※中国帰還者連絡会(中帰連、中国抑留者が帰国後に結成した)の平和記念館会員・對馬テツ子さんが、731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会・第15回 にて語った内容を抄録しました。

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昭和博覧会⑤ 公職追放

2022-12-05 17:53:05 | Bibliomania
この放送の10日前には、天皇がアメリカ大使館を訪れてマッカーサーと会見し、その2日後、天皇がマッカーサーと並んだ写真が日本全国の新聞に載りました。日本の歴史を通じて、これほど大きな影響力を持った写真はないと私は思います。よく、アメリカを変えた何冊の本とか、日本を変えた10冊の本とかいいますが、私は戦後の日本を変えた本は1冊もないという信念を持っているんです。しかし、もし日本を変えた写真というのがあるとすれば、これじゃないかという気がします。要するに誰が日本の本当の支配者かということを、この1枚の写真が一目瞭然のうちに日本国民に教えたのであります。
それにしても、敗戦後2ヵ月もたたないうちに、日本を占領することになった敵国の司令官の姿の中に人間らしさを見出して、このような人物が司令官としてやってきたのは、日本の将来にとって幸福なことであると言い切る神経というのは、よくいえば、どんな悪い状態からでも自分にプラスになることを取り出す、そういう心理作用といいますか、考え方だろうと思います。しかしこれは、下手するといわゆる事大主義になるわけです。既成事実によりかかって、起きてしまったことは仕方がないとして、それをできるだけ正当化し意味を見つけ合理化していく、そういう態度につながっていくと思うのです。



20万人の追放者の中で意外に少ないのが官僚です。いくつかのカテゴリーで、わずか1,809人となっています。その7割近くが武徳会関係です。占領軍は日本の官僚をだいたいにおいて温存したわけです。というのは、日本占領は間接占領であったということです。普通、占領というものは地上戦闘が行なわれた後で始まる。具体的な戦闘が行なわれて負けた国の現政府は崩壊する。その後、占領軍が軍政府をつくって、現住民の中から信用のできる者を少しずつ登用していって、行政機構を再建していく、こういうプロセスが普通です。つまり占領というのは普通、直接占領なのです。
ところが日本占領の場合は、本土決戦をやっておりません。しかも日本占領の最高方針は、現存の政府を支持はしないけれども、利用して統治を行なうということだった。現存の政府関係者を全部追放してしまったのでは統治機構が崩壊しますから、どうしてもかなりの程度残さざるを得なかったわけです。
それと追放の実施そのものが、日本の側に任されたことから、決定に当たっては官僚の影響力がどうしても強くなる。自分の仲問に対する被害を最小限に食い止めようとするのは、自然というものでしょう。それからもう一つの要素は、占領軍が日本をそれほど知らなかったということです。
もし占領軍が日本をすみからすみまで知っていれば、日本の専門家が占領軍あるいはGHQの中にたくさんいれぱ、それほど日本人に頼らなくてもすんだかもしれません。しかしそれでもやはり問接占領の場合には、既存の官僚制に頼らざるを得ないわけです。したがって官僚は大半生き残る。戦争中に大臣をやったとか長官をやったとかいうような、特に上層部の人は追放されましたけれども、それ以外の官僚はほとんど生き残った。それが戦後日本をになったのか、引きずったのか知りませんけれども、戦後日本が官僚国家になっていく、その原因がそこにあるわけです。 ─(秦郁彦・袖井林二郎/日本占領秘史/ハヤカワ文庫1986・原著1977)



元ドイツに交換教授として派遺されていた荒木光太郎教授と、芸術家のその夫人は、2人とも戦争当時ドイツの外交官仲間と特に親しくしていたというので、一般日本人よりも特に厚遇を受けていた。
この荒木光太郎は、画家荒木十畝の子で、その夫人が、のち郵船ビルで個室を与えられ、歴史の編纂に従事していたという荒木光子である。光子がウィロビーの厚遇を受けて「郵船ビルの淀君」と噂されたのは、ケーディスと親しかった子爵夫人鳥尾鶴代や、その学習院グルーブの存在とは別のケースである。荒木夫人はその手腕をウィロビーに高く買われたが、鳥尾夫人の場合は愛情でケーディスと結ばれた。楢橋渡は、烏尾夫人を通じてケーディスに働きかけ、追放を早く解除になった、と一般に信じられている。

GSが「追放」という武器を持っているのに対して、G2はCICという「諜報」武器を持って対抗した。従って、CICが下部傭員に情報活動に有能な元特高警察官を傭い入れたことは不思議ではない。ここにおいて、占領後最初に追放された特高組織がいつの間にかG2の下に付いて再組織されたのであった。GHQのこうした動きを、被追放政治家たちが見逃す筈はない。彼らは早くもG2とGSの対立に眼を着け、ひいては、それがアメリカの日本管理政策の本質だと覚ったのである。これはさらに、米ソの対立が安全保障理事会などで顕著になるに及んで、G2の線を本筋のものだと確認するようになった。
政治家たちは、自分が事実上の追放を免れる唯一の救い道は、追放を指定したGSに対立するG2に気に入られることによって、GSの連中をうち敗かすにある、と考えついたのであった。彼らはまた、追放の指定は止むをえないとしても、別な立場で、つまり実際上、追放されない前と同じような権利を確保しようとしたのである。

(中略)占領軍の追放指定の無知は、無力な小物を罰し、狡知にたけた大物を跳梁させる結果になったのであった。(中略・自由党の)鳩山一郎の場合は、GSとよかった楢橋渡がその陰謀を行なったと一部に信じられている。(中略)当時の政局は、どの党も絶対多数を取れなかったため停頓をしていた。鳩山は社会党と連繋するつもりだった。彼にすれば、事前にも手を打ってあることだから出来ると考えていた。ところが、社会党は92名を取って昂然とし、鳩山の提携申し出にも動かなかった。幣原首相は、楢橋書記官長と進歩党幹事長の犬養健らの手で、現職のまま進歩党の総裁になることに決った。しかし鳩山は社会党との連立を中心と考えていたし、進歩党と連繋する気持は少しもなかった。
もし、檎橋の鳩山追放工作が真実とするなら、居坐りを画していた幣原内閣のために鳩山追放は行なわれたといえるのである。ここに問題なのは、日本の政党同士の駈引きや闇討ちのことではなく、そのような工作にGHQが荷担したということである。これを逆に云えぱ、G2とGSの相剋につけ入った日本人が、それを利用することによって対手を追い落したり、己れを浮び上らせたりしたのである。 ─(松本清張/日本の黒い霧/文藝春秋1960)
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731部隊おぼえ書き⑤

2022-11-10 21:14:11 | Bibliomania
《人体実験リスト:石川技師が持ち帰った8000枚のスライド》
石川太刀雄技師は1943年夏に七三一部隊(以下731部隊)を除隊し、秋に金沢医大の病理学の教授に就任する。翌年「炎症(殊にペスト)に関する研究」を発表した。この論文は彼が部隊での研究に高揚感や誇りを感じていたことを示している。論文はこう始まっている。「昭和15年秋、満州国農安地区ペスト流行に際して、発表者中1名(石川)はペスト屍57体剖検を行った。之は体数に於て世界記録である」。この高揚感は請われて医大の教授となり最初の学会に臨んだ彼の意気込みの現れである。

彼は金沢への赴任に際し、部隊で病理解剖をした約800人分、30種類ほどのスライド(病理標本)を持ち込んでおり、ペストの学会発表がその第一弾だった。敗戦がなかったら、次々に発表する予定だっただろう。敗戦によって学会発表はなくなり、代わりに米軍にそのスライドの存在を知られ、約20種類のレポートを書くはめになった。そのうち3本が米国議会図書館に保管されている。

石井機関での細菌兵器の研究開発と人体実験を調査した結果をまとめた米軍レポートの最終版がヒル&ビクター・レポートと呼ばれる1947年末にまとめられた報告書だ。2人は25の項目について石井機関で人体実験などに関わった医学者たちの面接調査を行っている。25項目のうち人の病気が21項目、細菌兵器についてが2項目、毒物と植物の病気が各1項目だった。

ヒル&ビクター・レポートの目的は731部隊での人体実験によって得られ、1943年夏に石川が金沢に持ち込んだ8000枚のスライドの解読だった。スライドは米国の生物兵器研究基地、キャンプ・ デトリックに送られたが、それを有効に利用するためには各スライドの来歴情報が必要不可欠だった。各スライドは死亡した人の肝臓や肺などの臓器の病変部分を顕微鏡で病理観察するためのものだ。作るのは病理学者で、平房では石川らが着任した1938年3月以降その体制が整った。スライドの分析によって死因をガンだとかペストだとか判定することができる。8000枚のスライドは平房での人体実験のエッセンスだった。そのスライドを作った病理学者は、スライドの主がどのような実験経過で死亡したかを知らされており、各臓器に現れた病変の意味を理解している。そうした来歴が分かって初めてスライドは医学的に意味を持つ。米国は8000枚のスライドとその来歴を人手することで平房での人体実験のエキスを手にした。

石川は京大の病理学の講師から技師として1938年3月に平房に渡り、43年6月24日付で金沢医大の教授に任命された。彼は赴任にあたり平房の部隊が保存していた8000枚のスライドを根こそぎ金沢に持ち込んだ。その経緯について石川の同僚だった岡本耕造技師は「石川博士がスライドを持っているとすれば、彼の独断で人知れず持ち出したものだ。石川がハルビンを去った後の病理標本は約200例だった」とヒルとビクターに答えている。石川が金沢に去った後、部隊の人体実験により作成されたスライドが忽然と消えていた、ということだ。石井は清野の通夜の席で「感染病理に関する心魂こめて作った資料」と話しているが、その本体が8000枚のスライドであり、それは1938年から43年までの間の平房での人体実験の実態を示す物証だった。

なぜ「独断で人知れず持ち出」せたのか。ひとつの背景として目本の医学界では前世紀後半まで、病理標本はそれを作成した病理医の所有物、という悪習の存在があった。その悪習に基づき石川はさしたる疑問を持たずスライドを持ち出した可能性がある。当時の部隊長北野もその悪習を共有していた。その時期部隊を離れていた石井も同じ意識だっただろう。石川のスライド持ち出しは、彼の仕事目的がより効果的な細菌兵器の開発ではなく、自分のキャリアアップだったことを示している。

軍で「お国」のために働いていた医学者が大学に移るに際し、部隊の財産を持ち出し、それを基にして論文を発表した。これは除隊が決まる前から石川の頭の中にあった行動だっただろう。部隊での人体実験データをいずれ大学勤務となった際に、自分の研究に生かそうと準備をして部隊勤務を送っていたのだ。日本の敗戦で石川の夢は破れ、学会発表ではなく米国のために、ヒルとビクターの監視下でこれらスライドの由来や意味などをまとめた。石川がこれらスライドについて何本のレポートを書いたかは分からないが、現在読むことができるのは前記米国議会図書館の3本だけである。 ─(常石敬一/731部隊全史 石井機関と軍学官産共同体/高文研2022)


ヘッダー画像:西里扶甬子/生物戦部隊731/草の根出版会2002
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昭和博覧会④ 占領とドッジライン

2022-10-18 15:44:18 | Bibliomania
11月14日(1945・昭和20年)
外へ出ると細雨。「銀座見物に行きましょう」と伊東君を誘った。雨でもアメリカ兵は銀座に 土産物買いに出ていた。小箱をかかえているのにつづけて会った。人形の箱だ。鳩居堂が開いている。薄暗く倉庫のようだ。地面が(註=店のなかが地のままなのである。)でこぼこしている。筆、線香、日本紙の書翰紙と封筒、そんなものがわずか並べてある。
松坂屋の横にoasis of Ginzaと書いた派手な大看板が出ている。下にR・A・Aとある。Recreation & Amusement Associationの略である。松坂屋の横の地下室に特殊慰安施設協会のキャバレーがあるのだ。
「のぞいて見たいが、入れないんでね」というと、伊東君が、
「地下2階までは行けるんですよ」
地下2階で「浮世絵展覧会」をやっている。その下の3階がキャバレーで、アメリカ兵と一緒に降りて行くと、3階への降り口に「連合国軍隊ニ限ル」と貼紙があった。「支那人と犬、入るべからず」という上海の公園の文字に憤慨した日本人が、今や銀座の真中で、日本人入るべからずの貼紙を見ねばならぬことになった。しかし占領下の日本であってみれば、致し方ないことである。ただ、この禁札が日本人の手によって出されたものであるということ、日本人入るべからずのキャバレーが日本人自らの手によって作られたものであるということは、特記に値する。さらにその企画経営者が終戦前は「尊皇撰夷」を唱えていた右翼結社であるということも特記に値する。
世界に一体こういう例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人問が自らいちはやく婦女子を集めて淫売屋を作るというような例が──。支那ではなかった。南方でもなかった。壊柔策が巧みとされている支那人も、自ら支那女性を駆り立てて、淫売婦にし、占領軍の日本兵のために人肉市場を設けるというようなことはしなかった。かかる恥かしい真似は支那国民はしなかった。日本人だけがなし得ることではないか。
日本軍は前線に淫売婦を必ず連れて行った。朝鮮の女は身体が強いと言って、朝鮮の淫売婦が多かった。ほとんどだまして連れ出したようである。日本の女もだまして南方へ連れて行った。酒保の事務員だとだまして、船に乗せ、現地へ行くと「慰安所」の女になれと脅迫する。おどろいて自殺した者もあったと聞く。自殺できない者は泣く泣く淫売婦になったのである。戦争の名の下にかかる残虐が行われていた。
戦争は終った。しかしやはり「愛国」の名の下に、婦女子を駆り立てて進駐兵御用の淫売婦にしたてている。無垢の処女をだまして戦線へ連れ出し、淫売を強いたその残虐が、今日、形を変えて特殊慰安云々となっている。 ─(高見順/敗戦日記/文春文庫1981・原著1959)



1945年8月30日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー米陸軍元帥は神奈川県厚木の海軍飛行場に降り立ち、7年近くにおよぶ日本の占領が始まった。9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリ号にて降伏文書の調印式、27日には吉田茂外相との話し合いに基づき、昭和天皇がマッカーサーを訪問、長身のマッカーサーが略装で腰に手をあて、小柄な天皇がモーニング姿でかしこまっている会見写真は国民に衝撃を与えた。その後のマッカーサーは強烈な自負心と恵まれた容姿、威圧と寛容両面の統治により日本国民の心をつかみ、英雄視・偶像化されてゆく。



物不足により戦前から続くコメなどの配給が乏しくなり、物価のインフレが極度に進んでヤミ市の値段に反映、飢える都市住民は生産地まで「買い出し」することに。列車の乗客は乗降口や連結器にまでしがみつく。配給品だけで生活した裁判官が餓死するという事件も(1946年の東海道線)



【左】戦災車や老朽車を再生したバス住宅が東京の焼け跡のあちこちに出現。炊事場つきの独立家屋が羨望された(1946年)【右】家も壕舎もなく、吹きさらしのトタン囲いで4度目の冬を迎える人も(1948年・東京鍛冶橋下)



1946年、大阪で。全滅を玉砕と言い換えたように日本人は占領軍を「進駐軍」と和らげて呼んだ。アメリカでは、日本人というのは戦争でそうであったように最後の一兵に至るまで死に物狂いで戦う民族だと考えられており、降伏してもゲリラ戦やテロが起って統治は困難であろうと、当初80万人の兵力上陸を計画していたが、日本人は彼らに対して思いがけず温和で行儀よく、子どもたちとはチューインガムやチョコレートを介した交歓、夜にはパンパンと呼ばれた女たち、うち固定的にGIのアパートに住むようになった女はオンリーさんと呼ばれ、抵抗はないとみたマッカーサーは占領直後の9月に「兵力は20万で十分」とワシントンに打電、それほど日本人の気持ちの切り替えは早かった。



1948年1月、戦中の44年から211人の乳幼児を養育費つきで引き取っていた東京新宿区の寿産院が103人を栄養失調などで死なせていたことが発覚。逮捕された院長とその夫は配給のミルクや砂糖、さらには死なせた子の葬儀用特配清酒まで横流ししていた。写真は同院の竹製ベッドで眠る乳幼児。



1949年7月、国電三鷹駅で無人の電車が車庫から車止めを破って暴走、駅舎を壊して民家に飛び込んだ三鷹事件。1946年2月からの預金封鎖・新円切り替え・財産税によっても激しいインフレは収まらず、45年9月から48年8月にかけ物価は700%の上昇、都市住民を中心に深刻な社会不安を巻き起こす。一方ソビエトによる東ヨーロッパ諸国の占領、中国の内戦が共産党優位となるなど、新たに東西冷戦の緊張が高まり、米政府とGHQは戦犯を罰して日本を弱体化させることより日本を経済復興させて冷戦の味方として強化する統治に移行する。これは同時に、失業と飢餓による社会不安から、台頭する労働組合と左派政党が革命を志向するようになることを防ぐ意味もあった。GHQはデトロイトの銀行家ジョセフ・ドッジを経済政策顧問として迎え、49年3月、1ドル360円の固定相場と増税を軸とする「ドッジ・ライン」と呼ばれるデフレ政策を実施。中小企業の倒産が相次ぎ、国鉄の従業員大量解雇をめぐって労働争議が頻発、国鉄総裁が変死体で見つかった下山事件や三鷹事件・松川事件、ほか光クラブ事件や金閣寺放火などまるで革命前夜のような社会不安が増幅。

1950年6月、朝鮮半島の南北の境界となっている38度線付近で戦火が勃発、やがて国連軍の編成、建国したばかりの中共軍の参戦により戦闘が拡大、収束まで3年を要する動乱となる。この間、国連軍の兵站基地となった日本は特需の外貨流入によりドッジ・デフレの沈滞を払拭する恩恵に預かったが、警察予備隊の創設(のち自衛隊)により再軍備のスタートを余儀なくされる。戦争は懲り懲りと誓った筈が、わずか数年で旧植民地の戦争を経済復興のきっかけとする皮肉なめぐり合わせ。


画像出展:①朝日新聞社・戦争と庶民1940-49・3巻②戦争と庶民1940-49・4巻③⑤朝日新聞社・アサヒグラフに見る昭和の世相・6巻④⑥⑦毎日新聞社・決定版昭和史・13巻
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731部隊おぼえ書き④

2022-10-04 17:02:44 | Bibliomania
岡本晃明/京都帝大医学部の人骨収集と体質
細菌戦部隊・関東軍防疫給水部七三一部隊(以下731部隊)の実像を追う多くの人たちの努力によって、日本や米国、ロシアや中国に眠る一次資料が発見されてきた。しかし戦後70年以上が経過する中で、関係者の新証言を得ることが厳しくなっている。さまざまな分野で記憶の継承が叫ばれつつ、記録の散逸や遺品廃棄が進む。筆者は2017年に、731部隊に医学者たちを送り込んだ京都帝国大医学部が、広島の被爆者を解剖した標本を米軍に持ち去られたこと、アイヌ民族や沖縄の墓地で遺骨を収集したことを一連の流れとして取材し、京都新聞に連載「帝国の骨」として掲載した。違うテーマとして扱われる資料を突き合わせることで、幾つか新事実を浮き彫りにできた。

(中略)本稿では、731部隊長だった石井四郎・陸軍軍医中将(京都帝大医学部卒)の恩師であり、京都大学が今も保管している多数のアイヌ遺骨の発掘者でもある病理学教授清野謙次(1885~1955)を縦軸に、現代も未解決の遺骨収集問題、医療倫理に関係した京都帝大の人脈を、点描する。

清野謙次の教え子たちは医学者として栄達した。ある弟子は細菌部隊を創設し、ある弟子はハンセン病患者隔離施設で陸軍の軍事研究を行い、ハンセン病患者の骨格標本をつくった。またある弟子は被爆地で収集した胎児標本を、秘密裏にアメリカの軍事研究に提供した。日本統治下の広大な「外地」に研究対象を拡大し、遺骨を発掘した。清野自身が南樺太でアイヌ民族らの遺骨を、弟子たちは沖縄や奄美で、京大医学部の仲間が朝鮮や満州、台湾などで少数民族らの遺骨を多数収集し、人骨コレクションのネットワークを築いた。

(中略)清野謙次は京都帝大医学部を卒業し、病理学者として20代のドイツ留学中に生体染色研究で高い評価を得た。京都帝大に戻った30代の研究生活を、帝国日本が世界に勃興していく大正時代に送った。一方、各地で発掘を行い、多数の古人骨計測データを統計処理する当時としては斬新な手法で「津雲石器時代人はアイヌ人なりや」(1926) を発表、昭和の人類学界に颯爽と登場 した。文芸春秋など当時メジャーだった雑誌で、清野は多数の随筆を書いている。清野は古代に「原日本人」がおり、北方諸民族と混血したグループがアイヌ民族へ、本州などでは大陸から渡来した人と混血を通じ現代日本人へと枝分かれしたとの新説を唱えた。清野の「混血説」は、多民族が「皇民」として統合される時代に、「ルーツ」は同じとの言説を用意し、社会に歓迎された。

(中略)清野が樺太で遺骨を収集した1924(大正13) 年は、日本の南樺太領有(1905年)に伴い樺太アイヌ民族が9カ所に強制移住させられてから、約10年しか経過していない。強制移住政策でアイヌの村が廃村になったことを清野自身も書き留めている。京大が現在も保管している遺体は、発掘当時葬られて数年の遺体を含んでおり、墓地として機能していた蓋然性が高い。移住を強いられても、父母が眠る先祖代々の墓地を廃棄したわけではなかったと考える方が自然だろう。京都大学の2012年アイヌ遺骨報告書と清野の著作を照合すると、京大はアイヌの子どもの遺体と副葬品「明治44年印刷の日本製絵本」を今も保管している。カタカナで書かれた「花咲ぢい」の絵本である。樺太アイヌの人たちは当時、戸籍法の対象外であり、「土人」として管理され、北海道のアイヌ民族を統制した「旧土人法」とも異なる法的扱いを受けていた。

(中略)清野謙次の人類学上の師は、京都帝大解剖学第二講座教授だった足立文太郎という。江戸時代末の1865 (慶応元)年生まれ、東京帝国大(当時は医科大学)卒。足立は、清野謙次の父勇(大阪大学医学部の前身である大阪医学校校長)、東京帝大医学部教授の人類学者小金井良精、陸軍軍医総監まで昇進した森鴎外と同世代で、幕末に生まれ、明治時代にドイツ留学した近代日本医学草創期の学者だ。足立文太郎と小金井良精は、清野からみて人類学の老大家であり、清野父、足立、小金井の3人は親友だった。

SF作家の星新一の「祖父・小金井良精の記」にも足立が描かれている。アイヌ人骨を収集した祖父小金井良精の日記を用いており、「明治30年8月18日 足立文太郎氏、台湾蕃人を測定す」などと、足立がたびたび登場する。小金井良精はドイツ留学時代に軍医森鴎外と知り合い、鴎外の妹と結婚。森鴎外の長男(小金井にとっては甥)森於兎が台北帝国大解剖学教授に就 任した経緯など、明治期に留学した医学者が姻戚関係も含めていかに親密で、ごく少数のエリートで帝大のポストを占めていたかがうかがえる。

日本占領1年目の1946年、連合国軍総司令部(GHQ)民間情報教育局 (CIE)の世論調査課長が、人口政策と優生政策に関するレポートを作成している。ここに京都帝大名誉教授足立が、「まさにナチスと比すべき」日本の人種差別主義や民族主義、超国家主義を支え、広範な影響を与えた学者の代表例として引用されている。 ─(吉中丈志編/七三一部隊と大学/京都大学学術出版会2022)

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