1929年のオルテガ『大衆の反逆』━反対勢力が存在するような国が次第に極わずかな数になってきたという事実以上に、現代の相貌を露わにしているものはないだろう。ほとんどすべての国々において同質の大衆が社会的権力の上に重くのしかかり、すべての反対集団を踏みにじり、無きものにしている。大衆はその密度とおびただしい数を見れば誰の目にも明らかだが、自分と違う者との共存は願っていない。自分でないものを死ぬほど憎んでいるのだ━。
この記事は昨年4月下旬、コロナ1波のころアップした記事を踏襲しつつ全面改稿するものです。元の記事で「B'zっていうのはいま聞くとサビが唐突に始まる、全体の構成がいびつな感じの曲が多いと思う。エアロスミスの影響が大きいそうだが、エアロスミスのどんな駄曲でもそんなバランスの悪い曲はないでしょう。それでも生産年齢人口がピークに達したCDバブル下では200万枚も売れてしまう」と書いたのですが、B'zに限らず90年代はセールスの巨大さと個々の音楽のいびつさ・稚拙さが比例し、その後の言葉でいうガラパゴス化が極度に進んだ時代ではなかったか。
でも同じ時代に「日本人の音楽、いわゆるJ-pop、J-rockはダサイ」なんて言おうもんなら袋叩きでしょ。友だちも去ってしまう。いま野々村真が「自民党に殺されかけた」ってテレビで言っちゃったもんだからネットで激しいバッシングを浴びているみたいに。入院できなければそのまま悪化して死んでいた可能性のある病み上がりの人に対して攻撃する、現実社会ではそういう真似をする人はなかなかいないが、ネット上の集団になることで安心して叩いてくる。おもに高齢者なのだと思うが、若者でもワクチンのため早朝に行列とか、コロナ初期にマスクや消毒液を集めようと並んでた高齢者と一緒じゃん。旧ソ連みたいに物不足で仕方なく並ぶのでなく、みんなと一緒に並ぶことで安心する特異な思考停止の民族性がうかがえる。
The Azuma Kabuki Musicians / 道成寺 (1954 - Nagauta Music, Original Music and Arrangements from Older Classics)
春日八郎 / お富さん (1954)
衛藤公雄 / 希望の光 (1959 - 筝の調べ Koto Music)
寺内タケシとバニーズ / かぞえ唄 (1967 - 正調寺内節)
赤い鳥 / 竹田の子守唄 (1971)
三上寛 / 誰を怨めばいいのでございましょうか (1972 - ひらく夢などあるじゃなし)
冨田勲 / みんなのせかい (1972)
八代亜紀 / なみだ恋 (1973)
大貫妙子 / Summer Connection (1977 - SUNSHOWER)
桜田淳子 / しあわせ芝居 (1977)
西城秀樹 / ブルースカイブルー (1978)
友川かずき / サーカス (1978 - 俺の裡で鳴り止まない詩 中原中也作品集)
佐藤博 / SAY GOODBYE (1982 - awakening)
高田みどり / アンリ・ルソー氏の夢 (1983 - 鏡の向こう側)
THE BLUE HEARTS / TRAIN-TRAIN (1988)
JAGATARA / 中産階級ハーレム (1989)
Black Bisquits / Timing (1998)
Boredoms / Super Are (1998)
山岡晃 / Alone in the Town (2001 - Silent Hill 2 Soundtrack)
青葉市子 / 月の丘 (2018)
――ヒクソン、あなたはとても親日家だとうかがいました。
ああ。私が初めて日本を訪れたのは、今から15年ほど前のことだ。
それまで私が日本に抱いていたイメージは、武士道、サムライ、強さ、礼儀、そして無敵の男が持つ一分の隙もない精神力、そんなものばかりだった。
ところが日本に来た私は失望した。
確かに深い尊敬の心を感じたが、それは強さや精神力ではなく、むしろ弱さから生まれるものだったからだ。いくら尊敬の心を感じ、厳しい規律を目にしても、そこにはなぜか強さがまったく感じられなかった。
――「弱さ」というのは、どういうことでしょうか?
言い換えるなら、人々がシャボン玉の中で暮らしているような気がする、ということだ。尊敬の心が感じられても、それは他人の人生を邪魔したくないと怖がっているからだったり、他人の意見を聞きたくないからだったりする。
私は日本が大好きだ。少なくとも文化についてはそう言いきれる。しかし、その弱さをを少し残念に思っているのだ。
たとえば、私の最後の試合となった東京ドームでの対戦(船木誠勝戦)のような格闘技イベントに行くと、床には紙コップ一つ落ちていない。試合に動きがあると、観客全体がほとんど同じ瞬間に息を呑む。「ヒクソン! ヒクソン!」という声援が聞こえることもあるが、そのタイミングすらもほぼ同じだ。
そんな光景を見ていると、人々がいかに安心してシャボン玉の中に閉じこもっているかが分かる。もう少し自分を出し、エネルギーを出しきって生きれば、どんなに幸せになれるだろうかと思う。 ─(『ヒクソン・グレイシー 無敗の法則』出版時の著者インタビュー・2010年)
1978年にザ・ベストテンが放送開始してすぐに絶大な人気を呼び、私は開始時中1だったが実感として中高生の視聴率は40~50%はあったろう。順位の競争に煽られ、当時ややマンネリ化していた男アイドル「新御三家」のうち西城秀樹は78年5枚ものシングルをリリース、いずれも良い曲で特に「ブルースカイブルー」「遥かなる恋人へ」は秀逸であったがセールスは伸び悩み、翌79年最初のシングルとなったのが米国のノベルティ・ディスコ曲のカバー「ヤング・マン(YMCA)」であった。これが大当たりし、下り坂のピンク・レディーも同じ原アーティストの曲をカバー。翌80年には松田聖子(4月)・田原俊彦(6月)・近藤真彦(12月)がデビュー、山口百恵は引退し、アイドルをめぐる光景は一挙に若返ることに。
オリコンのチャートが始まったころ200万枚のメガヒットとなったピンキーとキラーズ「恋の季節」(1968)は1位から2度落ちて返り咲き、また70年代の演歌などもヒットまで時間がかかる例が少なくなく、楽曲本位が感じられたが、ベストテン以降はスピード化が求められ、ニューミュージック系の歌手もCM・ドラマとのタイアップで抱き込まれるなどテレビ・広告・芸能の業界主導が強まってゆく。曲の良さよりキャラ・イメージ・メディアミックス的な大量露出によって音楽シーンが作られる時代。その権化がジャニーズ事務所と秋元康であることはいうまでもない。ヒクソン・グレイシーが指摘した「シャボン玉の中で安心する」弱い心はこうしたテレビと広告と音楽の蜜月によって情操が歪められてしまったことにもよるのでしょう。