マガジンひとり

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巻き添え食ってたまるかよ

日本人とユダヤ人と悪魔くん

2009-07-30 23:02:47 | マンガ
『悪魔くん』水木しげる(何度か復刻されたが太田出版の『定本・悪魔くん』が最良。その他に内容のまったく異なるさまざまなリメイクや続編が出ているので留意されたい)
人間や動物には奇形というのがあるが、精神的奇形だってあるはずだ。釈迦やキリストにしても2000年たってもそれ以上のアタマの持ち主が現れないところをみると、大きな天才とは精神的奇形児でアル、という見方ができるかもしれない。
いまここに人類がかつて生んだことのない頭脳の持ち主が現れて、1万年に1人しか理解できないといわれるユダヤの古書をひもといて、その文字の裏側に隠された「悪魔を呼び出す術」にふけっていたとしたら、どうであろう。…我が「悪魔くん」がそうなのだ…。
エロイム・エッサイム 我は求め 訴えたり 地上に天国のきたらんことを…
日本を代表する家電メーカーの太平洋電気に勤める佐藤は、社長からじきじきに「重役の椅子を用意するから、一人息子の家庭教師になってほしい。そのかわり息子のことで一切わずらわせないでくれ」との使命を受け、社長の奥軽井沢にある別荘へ出向く。そこには小学校を退学になるほどの異常な天才児、“悪魔くん”こと松下一郎がいて、前の家庭教師の服を着ているが顔や声はすっかり変貌してカエルのような奇妙な男とともに、魔術の研究にふけっていた。佐藤は別荘番の老夫婦に止められながらも悪魔くんを普通の子どもに教育しようと決意するが、悪魔くんの企みで深い森へ迷い込み、大量のヤモリのいる洞窟で気を失う。気づいたときには、ヤモリの性質をとことん研究した大昔の魔術師ヤモリビトに体を乗っ取られ、顔も変わり、遠からず心もヤモリビトと入れ替わってしまう運命に。カエルのような男も、同じように悪魔くんの力で魔術師・蛙男に乗り移られた前の家庭教師だったのだ。
悪魔くんはそうやって忠実な部下を12人集めて「十二使徒」とし、地下から悪魔を呼び出してその力を利用し、万人が幸福に暮らせる「地上天国」を実現しようとしているのだという。占い師からそれを告げられた佐藤は、インドから来日していた呪医フラン・ネール氏と面会し、彼の心霊手術によって、ヤモリビトの魂を追い出すことに成功するが、フラン・ネールの指示でヤモリビトのふりをして悪魔くんに付き従うことになる。フラン・ネールは「東方に神童が現れて魔術に終止符を打ち、世界を一つにする」という予言が悪魔くんのことを指すのか探りに来ていたのである。同じように、黒魔術の大家で表向きは石油王として名高いサタン氏も、悪魔くんの動きを知ってそれを妨害しようと軽井沢の土地ごと買い占めたり、ついには悪魔くんと魔法合戦で対決することに。サタンを破った悪魔くんは、悪魔を呼ぶ術を研究して気力で400年間生きてきたという伝説のヨハン・ファウスト博士の助力もあって、ついに悪魔を呼び出すことに成功するが…。



ユダヤ系の民俗音楽を漁っていて「Zohar」という言葉を見つける。あるいは先日の道教美術の展覧会で「八仙」という言葉を見つける。すべて小学生のころ見た『悪魔くん』に出てきた言葉。400ページほどの話を130ページほどに縮めた抄録版だったので、よけいにその威容が隠されて神秘的に思われた。
物語ではZohar=ゾハルの書なるユダヤの古書で、東方に神童が現れて地上天国をもたらすという予言がされていることになっており、奥軽井沢は昔からひとかどの魔法使いが死ぬ前に目指した「魔術の聖地」で、いったいいつからあるのか石造りの巨大な遺跡もあったり。そして悪魔くんが悪魔を呼び出すのに成功するのと前後して、世界中の穏秘術の大家たち、中国の不老長寿の八仙であるとか、エジプトのスフィンクスであるとか、イスラエルのベルゼブブであるとか、崑崙の夜叉であるとかも動き出す。地上天国どころか、たいへんなカタストロフィへつながりそうな。
ところが、呼び出すことに成功した悪魔、これが結局のところケチでガメツイ、そして演技がうまいというだけで、人間にできることしかできない。やがてフラン・ネールにそそのかされたヤモリビト=佐藤が、サタン氏暗殺の犯人として悪魔くんを警察へ売り、混乱の中で悪魔くんが死んでしまうと、ケチでがめつく演技のうまい悪魔が金融業を手始めに世界中の企業を操るまでにのし上がり、裏切りを悔やむ佐藤と蛙男が悪魔くん再臨の夢を語り合う、というところで終わる。
無名時代の水木しげるさんが1964年に全3巻の貸本マンガとして執筆。当初は5巻まで構想していたといわれるが、不人気のため終わらせざるをえなかった。水木さん有名になってからは、ゲゲゲの鬼太郎と同じく、黒い悪魔族と戦う単純なヒーローものとしてリメイクされたり実写ドラマ化されたり、貸本版とも近い続編も作られたものの原典のようなおどろおどろな迫力はよみがえらなかった。
悪い妖怪と戦う鬼太郎、あるいは悪い悪魔と戦う悪魔くん、なんてのは水木しげるさんにとって、子どもたちへサービスするためのかりそめの姿で、マスメディアと無縁かつ零細な貸本マンガでこつこつ独力で描いてた作品たちこそ、水木さんにとって本当にやりたいことだっだのでわ。中でも『悪魔くん』。水木さんは若い頃ラバウルで従軍して傷痍軍人となったが、召集される前に死を覚悟して哲学書や宗教書を読み漁ったのだという。そうやって摂取したことが最も込められているうえ、それらにも心から納得していない根本的な「懐疑」のようなものが漂う。
人間の知力なんてのは、大きな宇宙、大きな時間の中ではちっぽけなものなのではないか。精神的奇形と呼ばれるほどの天才・悪魔くんも世間的には無力な小学2年生。世界を救うことなんて、本当にできるのだろうか。いや、「世界を救う」のような考え方にも、誤りが混じっているのではないだろうか…。
「理想」とかを簡単に信じない。といって虚無的なのでもない。われわれはどうして生まれ、どうして死んでゆくのか。水木しげるさんに手を引かれ、はるか遠いところからやってきて、はるか遠いところへ消え去ってゆく、大きな流れの中でたゆたっているような物語。

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るきさんに異変

2009-07-24 22:25:01 | マンガ
《マンガ本を処分する》ことが、身についた習い性になっている。いったん売り飛ばしたコミックスを再度買い揃えることもしばしば。そんなんで、ふと『るきさん』を見ようと探してみたが、ない。あれ??るきさんを売るかなあ、と。丸尾末広の『少女椿』や花輪和一の『刑務所の中』や岡崎京子の『リバーズ・エッジ』や大越孝太郎の『月喰う蟲』など大切なマンガ本たちと一緒に置かれてた記憶がある。売るはずのない本たち。

よくよく探してみると、だいぶ格落ちして取り出しづらい、大友克洋の『気分はもう戦争』や喜国雅彦の『傷だらけの天使たち』や古屋兎丸の『Palepoli』や魚喃キリコの『blue』なんかと一緒のところから見つかった。売りはしないが、滅多に見ることもない本たち。

オラ中高生の頃こだわりあるマンガ読者から熱く支持されて頭角を現した寡作のマンガ家、高野文子。初期の短編では一作ごとにまったく新しい試みを行い、その完成度も驚くばかりの。ところが、それらを集めた1st単行本『絶対安全剃刀』こそ大切に保存してるが、それ以降わずか5冊しか出版されていない単行本は『るきさん』以外すべて手放してしまった。あやうく残った『るきさん』は、1988年から92年まで女性誌Hanakoに見開き2ページのカラーで掲載され、単行本にもフルカラーで収められている。内容より、その色づかいのきれいさこそ、売らずに残しておいた最大の理由かもしれない。内容といえば、恋愛や流行から超然として生きる独身女性るきさんの、ほっこりオールドタイマーな暮らしぶり。在宅でする医療事務(保険の請求や薬価の計算など)の仕事ひと月分を一週間で終わらせ、図書館へ行ったり切手を集めたり、たまにはバーゲンセールへも、流行にさとい、対照的なタイプの親友えっちゃんと出かけたり、優雅な暮らし。




↑社会保険支払基金が診療報酬明細書を審査している様子

このほど、すべての医療機関を対象に、電子化された診療報酬明細書(レセプト)をインターネット経由で送付しないと報酬が支払われない「レセプトオンライン請求」が義務化されるのだとか。オンライン請求に対応するにはレセコンなるコンピューター一式とネット接続が必要で、導入に200万円ほどかかるため、これを機に廃業する診療所も出てきているという。

さらに病名や医療行為はケースバイケース・千差万別で、たとえば病気を7桁の病名コードに置き換えるのにも、コードが存在しない病名が多数(全体の18%)あるとも。

これまでは手作業で行われてきたんでしょうが、そんなややこしい仕事を、るきさん、いったい在宅で、かつひと月分を一週間で片付けたりできるものでしょうか。そんな都合のいい話があるのか。そう思って、マンガを再読してみようと思ったんです。

高野文子さん自身、重要視していない作品なのだともいい、他の作品がその時点で決定的!というか10年や20年経っても古びない表現が行われているのに比べ、やはりるきさんはHanakoというバブル当時の若い女性向けに消費をうながす雑誌に載せられ、時流に迎合している感はぬぐえない。最終回ではえっちゃんに別れを告げ、切手を売ってイタリアへ旅立つんだけど、ありえねえよ。実家が裕福なんでしょ。オラ現在の無職の生計が、8割ほどを自殺した両親に負っているように。

しかし、ところどころにるきさんとえっちゃんの言葉を通して、高野さん自身のバブル経済への、またバブルに乗っかって暮らす当時の若者への違和感もうかがえるのが、いま再読する妙味というか。「消費者」を「生活者」に言い換える、当時の風潮とか。あるいはDINKS。あったよなァ…そんな言葉。夫婦共稼ぎで、子どもを持たない。子どもを持っちゃったら、お金も時間も子どもに吸い取られるじゃないですか。それを避けて遊びたい若夫婦のエゴを、新しい言葉で聞こえよくして、消費に向かわせようと(元は同時代アメリカのDual Income, No Kids = DINKなる造語)。

もし当時の夫婦たちがちょっとでもそうしたエゴ肯定の風潮に乗っかってしまったんだとしたら、資本の側としては《正社員は長時間労働でこき使おう。そのためにも不安定で最低賃金の派遣社員を増やそう。だって、あんたたち子ども要らないんでしょ》って、なるよな…。
るきさんは、時代を超えて生きられなかった…



るきさん(新装版) (単行本)
高野 文子
筑摩書房
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旧作探訪#64 『エム・バタフライ』

2009-07-15 23:09:33 | 映画(レンタルその他)
M. Butterfly@VHSビデオ、デイヴィッド・クローネンバーグ監督(1993年アメリカ)
男は一度もそこに触れずに愛しつづけた。
1964年、北京。フランス大使館の外交官ルネ・ガリマール(ジェレミー・アイアンズ)は、ある夜会で見たプッチーニのオペラ『蝶々夫人』でマダム・バタフライを演じるソン・リリン(ジョン・ローン)に、激しく心を揺さぶられてしまう。毅然たる美貌と恥じらいと慎みをたたえたミステリアスな東洋の美女。
「君は僕のバタフライか?」──妻がいる身でありながら禁じられた恋路に足を踏み出すルネ。だがソンは中国当局からある任務を受けたスパイであった。そうとは知らず愛と官能の世界に耽溺するルネ。その彼の前に、さらなる衝撃の事実が!
錯綜する裏切りと陰謀、歴史の裏側の舞台でうごめく性の幻想。世界中を騒がせた衝撃のスキャンダルが、オスカー俳優ジェレミー・アイアンズ、艶麗な女装姿のジョン・ローン、異才監督クローネンバーグによって白日の下にさらされた、驚愕の一作。

  

先日の吉田豪や松本ともこの出演したイベントで、豪さんが言ってたんですけどさ。マイケル・ジャクソンの死去について「音楽評論家」の富澤一誠が、こうコメント。「彼は人種の壁を超えて愛されたスーパースターでした」。みんな知ってる。真顔で言ってたらしい。以前には「最近海外では“ディーヴァ”という音楽が流行しているようです」とも真顔で言ってたんだとか。おっかしい。
ニューミュージックみたいなくだらん音楽を正当化することで、マスコミで発言する利権をつかんだ。そ~ゆ~既得権益汚やじが鈴なりにしがみついて沈没してゆくマスコミ業界を象徴。といって、もっとこう、マイケル・ジャクソンの音楽や芸能生活について、ちゃんとした意見を述べている業界人がいるとしても、それはそれでやっぱり釈然としない。
彼が薬漬けになって早世してしまった結果がわかったうえでの、後出しジャンケンのように思うんです。
マイケルがスーパースターとして絶頂にいた、同時代に言っていただけないと。江口寿史氏は、白人のような風貌へ整形を繰り返し、ディズニーランドのアトラクションにもなってた、その同じ時代にマイケルに対する微妙な違和感をマンガのオチで表現した。↓誰もが眠るが、ロボットみたいなマイケル・ジャクソンは眠らないのかも…。
“まんが書店”の客を客とも思わない常識外れの商法についても、江口氏は当時マンガ化してる。型にはまった“風刺漫画”などとはひと味もふた味も違う、あっぱれな芸だったといえよう。



スパイの京劇俳優死去  時佩璞氏
【パリ=AFP・時事】男性でありながら女性のふりをしてフランス人外交官に色仕掛けで近づき、仏機密文書を入手し、1986年にスパイ罪で有罪判決を受けた中国人の京劇俳優、時佩璞氏が6月30日にパリの自宅で死亡した。70歳だった。側近が1日明らかにした。
時氏は中国の山東省生まれ。64年にフランス人外交官ベルナール・ブルシコ氏と出会い、自らを女性と信じ込ませ愛人関係に。ブルシコ氏はモンゴルの仏大使館に勤務していた77年から79年にかけて約30件の極秘文書を中国政府に渡していた。
83年にブルシコ氏とともに逮捕され、86年に禁固6年の判決を受けたが、87年に当時のミッテラン大統領が恩赦を与え、その後パリに居を構えていた。 ─(東京新聞7月2日夕刊)



1986年5月、パリの法廷で、ベルナール・ブルシコ氏(左)とともに被告席に立った時佩璞氏=AFP・時事

実話MW。MWより奇妙。事実は小説より奇なり。この事実から想を得て、舞台化されたものを、さらにクローネンバーグ監督が映画化。舞台版よりも映画では、男性と女性、あるいは西洋と東洋、といったことに政治的な寓意が込められてるんだとか。京劇で男が女を演じることの意味をジョン・ローンが「どのように振る舞えば“女”になるのか、男だけが知ってる」と言う場面も。
クロネンさん自身「ジョン・ローンそのものが、この映画の特殊効果だ」と語ったとかで、クロネンらしい特殊効果なしのフェアプレーながらも、その色っぽさ、女性らしさは、それだけで一見の価値あり。公開中の『MW』は映画化にあたって、ホモとか女装とかを排除して凡庸なアクション作になってしまったので、そこを正面突破したクロネンさんはさすがだと思います。
見ているとなるほど、身長、骨格、皮膚の質感など、アジア人男性であれば、「東洋の女性は慎み深い」という西洋白人の固定観念にも乗じて、性交時に脱がず触らせず、18年間も女であるとだましおおせることも可能かもしれない。なにしろ実話に基づく。
欧米白人にとっては、日本人と朝鮮人と中国人、あるいはベトナム人やタイ人との違いもわからないし興味もない。彼らは“上から見てる”ので。いっぽうわれわれは、下から隙あらばのし上がろうと狙ってるので、さまざまな民族・文化の違いに興味津々にならざるをえないのかも。
おそらくクローネンバーグ監督も、アジアとヨーロッパの中間地帯で歴史に翻弄されてきたユダヤ系の一員として、そうしたことに敏感で、この難しそうだがやりがいのある題材をぜひ自分の手で成し遂げたかったんではないでしょか。
いわゆるユダヤ人が金儲けがうまい、というような定評や彼らの映画や音楽に発揮する才能などもおそらく、差別されてきたからこそチャンスに敏感であることの表れかもしれないし、逆に、祇園精舎の鐘の音=盛者必衰の理なんてのも、上の立場、権力側に立つとどうしても鈍感になって、江口寿史やクローネンバーグのような《気づく力》を失ってしまいがちなことにもよるのではないか。

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