マガジンひとり

自分なりの記録

軍隊めし

2010-05-29 22:27:54 | 読書
『海軍めしたき物語』高橋孟(新潮社)
徳島から東京へ出て製図工として働いていた著者は日中戦争たけなわの昭和15(1940)年に徴兵検査を受けることになり、さっそうとした水兵の姿に憧れて第一志望を海軍・機関科、第二志望を同・主計科とする。そして翌年、海軍主計科に入隊することになるのだが、主計科といっても事務にたずさわるには相当の学校を出ていなければならず、彼が従事することになったのは“烹炊(ほうすい)作業”、つまり「飯たき兵」で、しかも艦が大きいほど軍規が厳しくなるといわれて♪死んでしまおか霧島いこか、とまで歌われた戦艦『霧島』に乗艦することになった。
霧島は真珠湾攻撃やミッドウェー海戦など日米開戦の主たる作戦にも就くが、鬼のような旧三等兵からビンタをくらいながら烹炊所にいた彼にとって、戦況を知ることはほとんどできなかった。やがて彼は海軍潜水学校を経て海軍経理学校へ入校し、卒業後に砲艦『武昌丸』に乗り組むことになる。フィリピンやベトナムにも寄港するが、戦況はだんだんと悪化し、南シナ海で米潜水艦による魚雷攻撃を受けて武昌丸は沈没する─。



沈没して4時間ぐらい過ぎた頃だったか、眠るまいと努力し、例によって腹に力を入れたり星を数えたりしていた時だった。私の右足に、突然バットで思い切り殴られたようなショックを受け、飛び上がるほど驚いた。私の右手が反射的に水の中の足(右の膝小僧の上)を押さえたら、ゴボリと凹んで肉がなくなっているのだ。
私はとっさに「フカだァ!」と大声で叫んだ。叫んだというより悲鳴だった。私はフカだと直感したからだ。と同時に、「バタ足しろ!」と誰かが言って、みんなが力一杯バタ足を始めた。
寒さをこらえるのが精一杯で、フカの警戒など思いもよらぬ事だった。いっぺんにみんな、目を覚まされてしまった。私は左の手で筏を持ち、右手で傷口を押さえたが、掌では押さえきれないほど大きく窪んでいる。それでも掌を反らすようにして傷の底を押さえるようにしたら出血は相当ひどいようで、ちょうど血管から吹き出す血が、掌でチョロチョロ出ている水道の蛇口を押さえているような感触だった。痛いというより右脚全体がシビレたようになって、すごく重い。
筏は元の状態にもどって、チャプチャプと波の音がするだけである。バタ足も、みんなはこれ以上続ける気力もないのだ。暗くて表情はわからないが、私同様、うつろな目をして精一杯筏にしがみついているに違いなかった。誰一人、声を出す者もない。私が「フカだ」と叫んだからバタ足をしただけで、私が重傷の状態であることを知るはずもないのである。知らせたところで、誰も助けてくれる者などあろうはずもない。



著者・高橋孟氏が田辺聖子の作品にイラストを提供していたのが縁で、彼女が『面白半分』誌の編集長を務めた際に勧められて執筆。昭和54(1979)年に単行本化されて、かなりのベストセラーになったように記憶している。
親がよく図書館から売れ筋の本を借りてきたので読むことができたのだが、当時中坊で衣食住すべて親がかりの身では、切実に感じることは少なかったろう。
ただ、こういう本がある、と感知しただけで。
このほど、かわいくて速い福島千里選手目的で陸上専門誌6月号を買うのに、写真のテンションなどからいつもの『陸上競技マガジン』でなく『月刊陸上競技』をチョイス。前者は日本陸連の、後者は実業団の公式機関紙となっており、自動車のスズキが実業団を脱退したと報じられた昨今としては、商品として出資を受けなければならない!!との切迫感の漂う月刊陸上競技。
「アスリートのための食事学」という選手向けの連載記事で、20年ほど前に男子短距離で活躍した不破弘樹さんが、法政大学で入寮したとき寮母さんがいなくて1年生が交代で朝・夕食とも全員の食事を作った経験を書いていたことから、本書を思い出したというわけ。
ご覧のとおり、2段組でビッシリ文字と絵が詰まって情報量が多く、すべて実体験に基づいているので価値も高い。花輪和一さんの『刑務所の中』などにも先行する貴重な記録といえよう。



シロウトが商品先物に手を出すというのは、体重が同じクラスだからといって灰原がボクシングの世界チャンピオンに挑戦するようなものだと、帝国金融・金畑社長は言うが、相場にドシロウトのオラでも確実に言えるのは、これからは所蔵していた人もどんどん死んでいきますから、急がなければ古本は必ず安く入手できまっせ─。
著者も平成9(1997)年に亡くなっており、戦争中に実際に従軍した人の声を聞くことが難しくなりつつあるなか、米軍、中国人民軍、朝鮮半島情勢、自衛隊などについても妥当な判断を下せるものかわれわれに問われる。



↑亡くなったイトコの姉ぇーちゃんの法事のとき列席者からもらったんですけどさ。保存期限を2年ほど過ぎた、自衛隊の備蓄食糧。【使用法─沸騰湯中で約25分間以上加熱すれば、通常3日間は喫食できるが、食前にあたためればさらによい】とある。
直径10センチほどで、少食のオラにとっては1缶3食分くらいに相当、けっこうイイ米使ってやがんなァ─おいしくいただきましたとも。期限を過ぎれば、新しいものに交換されるんでしょ。潤沢な予算で。
考えていただきたい。先の大戦中、物資が窮乏し始めるのは開戦からかなり経ってからのことで、少なくとも本書に出てくるような海軍の船上では餓死などとは無縁だった。そうでなければ、とうてい戦争など遂行できない。
それなのに、国民に餓死者も出ているらしき北朝鮮がコブシを振り上げるとすれば、きたる金正日死後に向け、軍幹部が主導権を握って自分たち中心の軍事政権にすることで、食糧などの権益を確保する狙いがあるのではないだろうか。
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キング・レコードが紹介したユーロ・ロック 【3】

2010-05-19 22:26:24 | 音楽
─VII─
★★★コンチェルト・グロッソNo.2/ニュー・トロルス(1976─マグマ─イタリア)
★★ラッテ・エ・ミエーレIII ~鷲と栗鼠~(1976─マグマ)
★★★★ピッキオ・ダル・ポッツォI(1976─グロッグ─イタリア)
★★★★★チェレステ(1976─グロッグ)
★★時の交差/ノヴァリス(1980─アホーン─ドイツ)
★★★★地中海の印象/メディテラネア(1981─アミアミオーチ─イタリア)



再びニュー・トロルスはバカロフと組んで『コンチェルト・グロッソNo.2』を76年に制作した。分裂、メンバー交代を繰り返していたニュー・トロルスがひとつの拠り所としてオーケストラとの融合を求め、失いかけていた自信を取り戻した作品である。全編がオーケストラとの共演ではなく、A面がいわゆるコンチェルト・グロッソだ。
イタリアの超マイナー・レーベルのグロッグから発表された2枚のアルバムは素晴らしい。4人組チェレステは、76年にたった1枚のアルバム『チェレステ』を残して消えた。北イタリアの空間をそのまま切り取ったようなひんやりとした感触がたまらなくいい。初期クリムゾンの売り物であるメロトロンの音を見事に蘇らせ、これも傑作と呼べる。
同じくグロッグ・レーベルのピックオ・ダル・ポッツォは、ジャズ、ロック、民俗音楽と手当り次第に何でも消化吸収してしまう恐るべき4人組だ。76年のデビュー作『ピッキオ・ダル・ポッツォI』は、まさしく意欲作で、前衛的な姿勢が他のイタリアのロック・グループとは一線を画している。
ラッテ・エ・ミエーレは、72年から73年にかけて2枚のアルバムをポリドールから発表し、それらは「ポリドール・イタリアン・プログレッシヴ・コレクション」として日本でも発売されている。当時、流行のEL&Pもどきの音だったが、新編成で再結成後76年にマグマで制作した『ラッテ・エ・ミエーレIII ~鷲と栗鼠~』は、スタイルも変え叙情余りある甘美なイタリア・ロックの典型とも言える音で、特にB面すべてを使った曲「パヴァーナ」はクラシックの要素が非常に強い。4人編成のうちキーボードが2人というのもいかにもといった感じだ。
イタリアでも無名の3人組メディテラネアが81年に発表した『地中海の印象』は、独特の地中海ロックのノリがあって素晴らしい。80年11月のナポリ大地震が制作の動機とあるだけに、意気込みのただならなさが感じられる。演奏自体それほどうまくはないが、何よりも生命感に満ち、大らかで陽気な人間味が音に現れている。
ドイツ・ロマン主義をロックに持ち込んだノヴァリスの80年の作『時の交差』は、自然と人間が会話を交わしていた遠い時代への回帰を誘う。わかりやすく、肯定的な思想は健全だが、音楽としてもうひとつ力不足だ。

─VIII─
★★★★アトミック・システム/ニュー・トロルス(1973─マグマ)
★★★★★真夏の夜の夢/マウロ・パガーニ(1981─フォニット・チェトラ─イタリア)
★★★★ピッキオ・ダル・ポッツォ2nd(1980─ロルケストラ─イタリア)
★★★★子供達の国/イル・パエーゼ・デイ・バロッキ(1972─CGD─イタリア)
★★ミノリーサ/フシォーン3rd(1974─アリオラ─スペイン)
★★★ドレミファソラシド/ホークウィンド(1972─リバティー─イギリス)
★★サテン・ホエール・オン・ツアー(1979─ストランド─ドイツ)
★★★胎児の復讐/エンブリヨ(1971─リバティー─ドイツ)



マウロ・パガーニの第2作は何とシェイクスピアの戯曲をもとにしたミュージカル『真夏の夜の夢』の音楽で、ミラノのスタジオ・ミュージシャンを起用し81年に制作された。期待していた地中海音楽ではないが、ファンキーなロックで十分楽しめる。そのなかでブルガリア民謡を取り上げるパガーニの感性は鋭い。
ニュー・トロルスが2つに分裂していた73年に制作された『アトミック・システム』は、リーダーのヴィットリオ・デ・スカルツィの様々な試みが聞かれる。得意とするクラシカルな響き、ジャズ風のインプロヴィゼイション、牧歌的な歌と何でもあって、それぞれがうまく調和している。シングルとして出されたムソルグスキーの「禿山の一夜」が収録されており嬉しい。
てっきり解散したと思っていたピッキオ・ダル・ポッツォが80年にひょっこりと顔を出した。『ピッキオ・ダル・ポッツォ2nd』がそれで、完全にロックの範疇からは踏み出している。ニュー・トロルスのヴィットリオの弟、アルド・デ・スカルツィが率いる物凄く知的な音楽集団だ。
72年に制作されたイル・パエーゼ・デイ・バロッキ唯一のアルバム『子供達の国』は、まさしくあの時代のイタリア・ロックだ。ストリングスを使い、それにヘヴィーなロックをかぶせ、叙情性たっぷりに大団円に向かって盛り上げていく。クリムゾンとEL&Pの影がちらつくが、ストリングスの扱い方で独自性を保っている。
『サテン・ホエール・オン・ツアー』はドイツのベテラン・ロック・グループ、サテン・ホエールが79年に過去3枚のアルバムから選曲したベスト・アルバムだ。もうひとつドイツの大ベテラン・ロック・グループのエンブリヨ初期の作『胎児の復讐』は、サイケデリック・ロックである。71年の2作目で今の面影はない。ところどころで刺激的な音が聞かれ、ドキッとさせられる。
フシォーンはスペインらしからぬ4人組のフュージョン・バンドで、『ミノリーサ』は74年に出したラスト・アルバムだ。アヴァンギャルド指向が強く、水準は高いのだが、構成力に甘さがみられる。
ホークウィンドの3作目『ドレミファソラシド』は72年に発表された。シングル・ヒットした「シルバー・マシーン」が収録されているが、前にも述べたようにユーロ・ロックのシリーズには不適だ。

─IX─
★★★★テンピ・ディスパリ/ニュー・トロルス・ライブ(1974─マグマ─イタリア)
★★★ツァラトゥストラ組曲/ムゼオ・ローゼンバッハ(1972─リコルディ─イタリア)
★★レアーレ・アカデミア・ディ・ムジカ(1972─リコルディ)
大地の響/フーベルト・ボグネルマイヤー+ハラルド・ツシュラーダー(1981─エルデンクラング─ドイツ)
★★★我が為に/トーマス・ディンガー(1981─テレフンケン─ドイツ)
★★宇宙の祭典/ホークウィンド(1972─リバティー)



またまたホークウィンドだ。72年にリヴァプールとロンドンで行なったコンサートの2枚組ライヴが『宇宙の祭典』で、スペース感覚が特徴であろう。
ニュー・トロルスの74年のライヴ『テンピ・ディスパリ』は、いたるところ変拍子の大洪水だ。ジャズ風の演奏だが、本質的にはロック・サイドの人たちだから、落ち着くところへは落ち着く。演奏技術の高さには舌を巻いてしまう。
ラ・デュッセルドルフで兄クラウスの影に隠れていたトーマス・ディンガーが、初のソロ・アルバム『我が為に』を81年に制作した。ラ・デュッセルドルフとは少し違った面があり、効果音など音そのものへの執着が見られる。
『大地の響』はフーベルト・ボグネルマイヤーハラルド・ツシュラーダーの2人のドイツ人が新しいシンセサイザーのCASSを操作したデモンストレーション・アルバムで、音楽とはほど遠く、機械に興味ある人向け。
イタリア本国でもレコードが見つからない珍しいものが本シリーズでは何枚か出され、逆にイタリアで驚いている。次の2枚もそうしたものだ。72年に出たレアーレ・アカデミア・ディ・ムジカ唯一の作『レアーレ・アカデミア・ディ・ムジカ』は、重厚な音で、ピアノとオルガンが中心である。けれども歌の比重が高い点でイタリア的だ。
ムゼオ・ローゼンバッハの『ツァラトゥストラ組曲』もその種の期待を裏切らないクラシカルな音をうまく取り入れたものだ。初期のPFMと共通するところがあり、様式美を追求する姿勢が感じとれる。 ─(山岸伸一、ミュージック・マガジン1982年12月号)

キング・レコードが紹介したユーロ・ロック 【1】
キング・レコードが紹介したユーロ・ロック 【2】
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旧作探訪#97 『トゥモロー・ワールド』

2010-05-16 23:44:20 | 映画(レンタルその他)
Children of Men@レンタルDVD、アルフォンソ・キュアロン監督(2006年イギリス=アメリカ=日本)
子どもが誕生しない未来─このままでは、地球を受け継ぐ者は、誰もいなくなる。
西暦2027年11月、人類は希望を失い、多くの国が無政府状態となるなど恐慌におちいっていた。女性の出産能力が失われ、18年間も子どもが生まれないのだ。
イギリス政府も世界中から押し寄せる不法移民を警察や軍によって厳しく取り締まるが、日に日に治安は悪化していた。世界最年少の青年がアルゼンチンで刺殺されて絶望に包まれたこの日、ロンドン市街地で爆弾テロが発生し、英国エネルギー省に勤めるセオ(クライヴ・オーウェン)はすんでのところで難を免れる。
翌朝、セオは出勤途中に過激派グループ「フィッシュ」に拉致される。そのリーダーはかつての妻ジュリアン(ジュリアン・ムーア)で、彼女の要求はある不法滞在者の「通行証」を手に入れることだった。渋りながらも、従兄弟の政府高官から通行証を手に入れるセオ。検問所を突破するためジュリアンと共に乗り込んだ乗用車で、セオが引き合わされた不法滞在者は若い黒人女性、キー(クレア=ホープ・アシティー)だった。
検問所に向かう途中、セオたちの車は暴徒の襲撃にあい、ジュリアンが撃たれて絶命。組織のアジトに逃げ込んだセオは、キーから衝撃の事実を告白される。なんと彼女は子どもを身ごもっており、間もなく出産を迎えるというのだ。セオは彼女を連れ、命がけの逃避行を開始する…。



先日の『月に囚われた男』が意外につまらなかったので、海外での評判を調べようとネット検索。2000年以降のSF映画をランク付けしたサイトで15位とのこと。そこで堂々1位に輝いたのが、この映画。SF冬の時代といえど、10年間の1位となるような映画の題名に覚えがない。
『Children of Men』─わが国での題名は『トゥモロー・ワールド』。チラシの宣伝文句といい、バカしか相手にしてない感じなので、目に入ってませんでした。
で、内容はすごくいいです。久しぶりにきっちり細部までお金をかけて情熱かたむけて構築された新作のSF映画を見た感じ。映画館で見たらさぞかしの迫力でしたろう、キング・クリムゾン、マーラー、ジョン・タヴナー、ジャーヴィス・コッカーといった音楽も効いている。
細部を作り込んだ壮大なSFといえば『2001年宇宙の旅』が古典中の古典とされるが、早稲田松竹でかかったのを見て、映画としての完成度はともかく根底をなす世界観としてはトンデモ。人類が宇宙へ旅立って、「次のステージ」へ進化するとかの。
神を殺して、人類が神の座に就くというような、現実を踏まえない誇大妄想にも似た。
対照的にこの映画は、人類は地球の新参者に過ぎず、次の時代には生き残ることさえ許されないかもしれないとわれわれに問うのだ。



人類は火や電気や原子力、エネルギーや道具の文明を発展させて地球上に満ちあふれたものの、生きものとしての基本は変わっていない。勃起した陰茎を膣内に挿入して精子を卵子に受精させ、十月十日かけて母胎から出産するという方法でしか増えることはできない。
その場合、胎児に栄養を吸い取られ、命がけで出産しなければならない女性が主導権を握るのは当然。↑の竹内久美子がだいたいどの文章でも同じことを言っているとおり、林真理子や上田美由紀のようなドブスといえど、女の側に男を選ぶ優先権がある。



↑「助産婦さんがいい女なら結婚しちゃるわい!!」などと言う諸星あたるも、高橋留美子が「いっぱい種をまける男性」として理想化を施した主人公であるがゆえ、そのような言動が許される。通常男子には、選り好みは許されない。まして並より劣った遺伝子しか持たぬオラは、45才までシロート童貞に甘んじなければならない。
つまり、この映画は現実を描いている。人類が生き残れるかどうかの瀬戸際の現実を。2027年に生き残れるかというのは、あなたやオラ個人が生き残れるかということではない。あなたの子どもやオラの親戚が生き残れるかというのとも、ちょっと違う。
たとえ自分や自分の家族や日本人が滅んでしまっても、アラブ人やアフリカ人など、とにかく人類が生き残ればいい。そのために身を捧げましょう、という。
口で言うのはたやすいが、現実には自分の利益ばかりが追求される世界。江副浩正・秋元康・折口雅博・笠原健治─汚い汚っさんが若い女を食いものにし、まして外国からの移民の命などゴミのようにあつかわれる新自由主義。だんだんと女が安心して出産できない世の中になりつつあるのは洋の東西を問わない。
そこのところを、いったん立ち止まって、種としての人類という原点に戻って考え直してみましょうと触発する映画として万人に推奨したいものの、わが国で公開当時バカしか見ないような宣伝だったのは、先に挙げたような人たちがマスコミ・広告業界を牛耳っているためかもわからない。

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A.M. CASSANDRE (A・M・カッサンドル)

2010-05-11 23:06:42 | Bibliomania
A.M. Cassandre(1901~68)─本名アドルフ・ジャン=マリー・ムーロンとしてロシアのウクライナ地方で生まれパリで死去したフランス人の画家・ポスター作家・タイポグラファー。ことに1925年から30年代半ばにかけて幾何学的で力強いポスターを多数デザインし、当時のアール・デコの潮流を代表する一人。
裕福な家庭で育ち絵画を志したカッサンドルがパリで知名度を広げるきっかけとなったのは1923年、家具店「オ・ビュシュロン」のために制作した大型ポスターである。当時のフランスは新時代へ向けての「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」が1925年開催されるなどしており、その《装飾美術=アール・デコラティフ》が後にアール・デコとして定着するのだが、画家たちにとっては印象派などの個人の見方に基づく美術の延長に広告デザインもあるという認識が一般的で、個人の絵とはまったく異なって大多数に向けて力強くアピールする方向性を宿したカッサンドルのポスターは驚くほど斬新なものだったのである。彼がポスターを手がけるまでの絵画作品は残されていないが、キュビスムの影響を受けて抽象画の方向へ向っていたとされ、建築にも興味を持つなどして、ポスター作家として当初からその特性に自覚的だったことは疑いない。



↑改良版の「オ・ビュシュロン」ポスターがパリ街頭に貼られた様子

ポスターの大きさいっぱいに配置された45度の矩形が、並べて貼られたポスターと連続して、カッサンドルの言葉によれば「一種の幾何学的リズム、統一のとれたシンフォニー」のような効果を挙げている。当時、街頭のポスターが人びとに与える影響は大きく、カッサンドルのポスターは行き交う人びとの注意を向けさせ、街を活気づけるのに十分であった。「画家のタブローというのは、ちょうど紳士が玄関から訪問するようなものだが、ポスターは強盗が斧を持って窓から闖入するようなものだ。そのくらいでないと人びとは注意をはらってはくれない」とも彼は述べている。
ずっと後年に女性SF作家ジェイムズ・ティプトリー・Jrが「接続された女」で描いた、《押し売り防止法》により広告が禁止された世界にしても、広告や媒体というものがときに併せ持つ暴力性に対し意識的なことがうかがえる。



↑食前酒「ピヴォロ」 1924



↑煙草「ゴールデン・クラブ」 1926



↑食前酒「デュボネ」 1932

消費者の気を引く快活なカッサンドルとしては、DUBO、DUBON、DUBONNETと三段階のプロセスを追って、一人の紳士が食前酒デュボネのとりこになっていくこのポスターは傑作といえよう。紳士のユーモラスな表情とともに、Du Beau(すてきな)などの言葉とかけた遊びも見逃せない。ポスター作家となってからカッサンドルは詩人ブレーズ・サンドラールや活字製造会社を経営するシャルル・ペイニョと知り合っており、Pivolo(食前酒ピヴォロ)の書体は彼が最初に手がけたタイプフェイスとなる。



↑壁面に並べて貼られたデュボネのポスター



↑旅客列車「エトワール・デュ・ノール(北極星号)」 1927



↑客船「ノルマンディー」 1935

これらの鉄道や船をあつかった作品は、名実ともにカッサンドルの評価を不動のものにした。とりわけ「ノール・エクスプレス」(いちばん上の画像、1927)で右下の一点へ向けて極端な遠近法がとられた構図は、今もなお鮮烈である。
彼のダイナミックな都市的視点は、当時あまりに潔癖だったル・コルビュジエからは批判されたが、人々への訴求力は抜群で、巷にはカッサンドル風のデザインも現れ始めた。カッサンドルは1930年、同業の友人シャルル・ルーポとアリアンス・グラフィクL.C社を設立し、多数のポスターを手がけて全盛期を迎える。



↑オランダ発明博覧会「NE NY TO」 1928



↑イギリス旅行を呼びかける「アングルテール」 1934



↑タイプフェイス「ペイニョ体」の見本ページ 1937



↑1937年から39年まで手がけた米ハーパース・バザー誌の表紙の一つ

1935年に画家バルテュスと出会ったことが、カッサンドルの後半生の不遇に大きく作用したともいわれる。かつて決別したはずの「抒情」が彼の中に兆したのだ。それは彼にとってしばしば心の傷や苦悶を意味し、大胆なポスターを描かせてきた「完璧さへの希求」とは相容れないものであった。1936年にはニューヨークで大がかりな回顧展が開かれ、雑誌ハーパース・バザーと契約して表紙を担当するものの、彼の中に表れた迷いは、そのデザインを時代の先端からだんだんと後退させていくこととなった。第二次大戦後のカッサンドルは、ほぼすべての時間を絵画制作に当てたが、最晩年にもイヴ・サン=ローランのロゴやタイプフェイス「カッサンドル」の優れた仕事を残した。そして1967年に自殺を企て、そのちょうど1年後にピストルで頭を打ち抜いて死去した。 ─(図版・経歴は1991年の『カッサンドル展』図録より)



↑イヴ・サン=ローランのロゴ 1963



↑1930年頃のカッサンドル
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旧作探訪できようもないニジンスキー

2010-05-07 23:28:14 | メディア・芸能
『ニジンスキー』Nijinsky(ハーバート・ロス監督、1980年アメリカ)
19世紀末から20世紀へという変革の時代に生き、魂と肉体を通してバレエの真髄を極め、そして狂気の中に神を見い出した不世出のバレエ・ダンサー=ヴァーツラフ・ニジンスキー。以降も男性の優れたダンサーが現われるたび「ニジンスキーの再来」と称されるなど、その業績は見事な踊り・振り付けとともに語り継がれているが、この映画はニジンスキーの1912年3月から1913年11月までの20ヵ月の足跡をほぼ忠実に追ったものである。
1912年2月、ブダペスト。ロシア・バレエ団の主宰者セルゲイ・ディアギレフ(アラン・ベイツ)が、病床に伏しているニジンスキー(ジョルジュ・デ・ラ・ペーニャ)の許にパリから帰ってきた。芸術を愛し、美しい少年を愛するディアギレフの庇護のもとニジンスキーの名声は今まさにヨーロッパに広がろうとしていた。5月のパリ公演をひかえ舞台稽古をするニジンスキーに熱い視線を注ぐ若い娘がいた。ロモラ・ド・プルスキー(レスリー・ブラウン)である。
5月、パリのシャトレ座。ニジンスキー振り付けの「牧神の午後」が初演され、その革新的な踊りに観客は酔ったのだが、牧神との魂の合体に陶酔したニジンスキーがニンフのヴェールをおかずに自慰行為めいた振りをするのは、あまりにやり過ぎであった。
彼は常に新しいものに挑戦していった。当時、ストラヴィンスキーが作曲したばかりの『春の祭典』を振り付けたこともその顕れである。1年後、パリのシャンゼリゼ劇場で初演したが、観客にはまったく受け入れられなかった。そしてこの間にロモラの入団が決定した。この出来事がニジンスキーの運命を狂わせてしまうのだ。天性の才能や両性的かつ未成熟な魅力を熱愛して彼を育て、と同時に愛人としたディアギレフ、そしてロモラとの凄絶なる三角関係のすえ、ついに破綻をきたすのである。
バレエ団は南米公演をすることになったが、航海を好まないディアギレフは同行せず、ニジンスキーは団員とともに南米へ向けて出発した。長旅の船内はロモラにとってはニジンスキーに近づく絶好のチャンス。─そしてディアギレフが他のダンサーを探し始めたと聞いて錯乱した彼は、ロモラに異性への欲望を感じた。南米で二人が結婚したことを知ったディアギレフは怒って、ニジンスキーに「バレエ団に残るか、ロモラを取るか」との最後通牒を送り、彼の精神錯乱は強まっていく─。



映画グッズをあつかう店で、旧作探訪のためにチラシを探して、目的の映画と同じクリアファイルに収められていたことから芋ヅル式に手を伸ばすことがある。『ニジンスキー』のチラシも、そんな1枚。家に帰って、さて、オークションにレンタル落ちのビデオが出品されているかどうかチェックしておくか─。
ない。DVD化はもちろん、どうやらVHSビデオですら売られたことがないらしい。公開前から、少女マンガがらみのムック本まで作られたといい、バレエ、オペラ、オーケストラなどの映画は女性層に手堅い需要が見込まれることから、まさか見ることのできない映画になっていようとは予想外。



きのうの本『ゲイ文化の主役たち』にもディアギレフとニジンスキーはペアで46位に登場。↑の写真などでもいかにも人相の悪い、ホモのブタ野郎がセルゲイ・ディアギレフ。音楽の道を志したものの自分には作曲も演奏も才能がないと知り、社交能力を活かして芸術家たちをオーガナイズする側に回ろうと。ロシアの芸術と、パリの音楽・美術・社交界を取り結ぶ存在として、主宰するバレエ団には現在でも著名な顔ぶれが音楽・衣裳やセットの美術・ダンサーとして集った。
中でも傑出した存在がニジンスキーで、それまで女性ダンサーをリフトする影の役回りに過ぎなかった男性ダンサーを初めて光の当たるものとし、官能的な振り付けと驚異的な跳躍力=映画公開当時には「空中で止まっているように見える」という伝説もあった=で観客を魅惑。もちろんその実現はディアギレフの組織力・集金力なくしては考えられず、ホモ野郎のディアギレフが彼の肉体をむさぼったことは言うまでもない。
独占欲・嫉妬心の強いディアギレフは、なんでも言いなりになるニジンスキーを自分の持ちもののごとくあつかったが、それだけに自分の不在時に彼が突然結婚してしまったことが許せなかったのだろう。バレエ団を逐われた彼は、自前で奔走してバレエ公演を打たざるをえなくなるが、次第に統合失調症が悪化し、後半生は病院を転々として終えた。
1960~70年代に「ニジンスキーの再来」と騒がれたスター・ダンサー、ルドルフ・ヌレエフもまた同性愛で、ソ連からの亡命や、AIDS合併症による死去などこちらも映画の題材にうってつけ。ニジンスキーが首や太ももが非常に太くて、わりと野暮ったい印象なのに対し、ヌレエフは中性的・耽美的で、わが国のダンサーなどでも演じられそうな。
そういや西島隆弘きゅんも、女もすなる新体操というものを男もしてみむとて連ドラ出演中なのよね─。脇役で出番が少ないので2回目以降見てないや。もったいないよね。吹き替えなしとのことなので、身体能力も磨かれてることでしょうに。
もし彼がエロい衣裳で「牧神の午後」を踊ってくれるとしたら、最前列で見るために10万円くらい出すよん─とオラの中のホモホモ心が言っている─。



↑「牧神の午後」のニジンスキー/衣裳・舞台美術を担当したレオン・バクストの画



↑『アルミードの館』のニジンスキー

  

↑ストラヴィンスキー(左)と『ペトルーシュカ』のニジンスキー/ジャン・コクトーが描いた『カルナヴァル』のニジンスキーとストラヴィンスキー
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旧作探訪#96 『レッツ・ゲット・ロスト』

2010-05-01 01:11:36 | 映画(レンタルその他)
Let's Get Lost@VHSビデオ、ブルース・ウェバー監督(1988年アメリカ)
1950~60年代ジャズ界のスモーキーな夜に明りをともした、理由なき反逆児、すさまじいトランペッター…チェット・ベイカーの私生活はまさに修羅場。それをエキゾチックな白黒で撮影したウェバーのやり方こそ、ベイカーを描く唯一の方法であり、この映画を前にしてはカラーが発明されたかどうかは関係なく思えてくるほどだ─マイアミ・ヘラルド紙。
1989年5月13日、アムステルダムのホテルの窓から謎の転落死を遂げたトランペッター、チェット・ベイカー。ジャズ、女、麻薬、そしてチェット。破滅型の彼に魅せられた女たちの間には、男と女の裏切りや葛藤、それでも残る愛情もほの見える。織りなされた赤裸々なドラマは見る者を戦慄させ、彼の人生と音楽が不可分であったことを伝えてやまない。
ファッション・フォトの第一人者ブルース・ウェバーが白黒の鮮烈な映像美で描いて、ジャズと映画の新しい地平を切り開く迫真のドキュメンタリー。



この絵「テレクラくん」の吉永美代子は、登場したころは前歯もそろっていたが、こうなってしまっては売春する値段も暴落。ホームレスが千円で買って仲介者=もっと歯のボロボロな“肉まんま”=が半分持っていくので、手取り500円。
オラぁただでも御免こうむる、こんな女。関わりたくないというか、オナニーでもしたほうがよっぽどマシだ。
オナニーといえば、それらを中心とする下ネタ・トークに定評のあるケンドー・コバヤシが、ウシジマくんのために買ったスピリッツ誌のインタビュー記事で語っていた。ボク、漫画の原作を1コ考えてるんですよ、男子が自分のオナニーの手の上下運動の速さでタイムワープするっていう、誰か描いてくれませんかね─。
余計なことだが、そのアイデアは、初期のいがらしみきおが既に使った。それも、たった1本の四コマ漫画で使い捨てたのだ。どちらが真の天才なのかは明らか。
いがらしみきおの四コマ漫画には、他にもちょっと忘れ難いインパクトのあるものが数え切れないほど。そうしたやり方を長く続けることはできなかったが、同じように短編で惜し気なくアイデアを使い捨てた筒井康隆も彼も、音楽ではジャズを好む。
ジャズとはまさに、そうした音楽ではないだろうか。作曲された音楽というより、瞬間瞬間でどのように演奏するかがすべて。一瞬に賭け、その場の者と分かち合ってしまえば、後になって再現できるかどうかは問わない。コツコツ積み重ねる貯金型の音楽とは価値観からして対極にあるといえよう。
当然それは生き方にも表れる。チェット・ベイカーの演奏活動の初期、ジェリー・マリガンのバンドに入った彼は譜面が読めず、練習もあまりしなかったとされるが、舞台では輝くばかりのソロを吹いて人気をさらった。同じトランペットのマイルス・デイビスも一目置くほどで、チェットと映画のための録音で共演したハービー・ハンコックも「ファースト・テイクの新鮮だったこと!!コードに付いていくことを生まれながらに知り尽くしているかのようで、音符がコードを軸にくるくる回転していた。彼の直感は傷ひとつなく、音の選択は完璧だった。そこにほとばしる彼の心、私の奥深くで感じた温もりを忘れられない」と語る。
私生活でも常に美人を伴い、お金のない時もいい車に乗り、いつも素敵な犬を連れていたとか。そして麻薬。コカインとヘロインを混ぜた“スピードボール”と呼ばれる危ない薬でラリって、暴力沙汰もしばしば、刑務所にも入った。アルバム『Chet Baker Sings』などのヴォーカル曲で聞かれる、中性的でソフトな歌声からは想像しにくいが…。
さらに1968年ころ、麻薬のことでヤクザ者から襲撃され、殴られてアゴに大怪我、医者にかかったが歯をすべて抜く破目となった。演奏ができなくなり、3~4年間はガソリン・スタンドで長時間のアルバイトをしたり厳しい日々だったという。しかしその間に練習を積んで義歯で演奏できるようになった彼は、ディジー・ガレスピーの尽力で音楽活動にも復帰。彼を敬愛するエルヴィス・コステロさんの『Punch the Clock』の中でも吹いてましたね。
レッツ・ゲット・ロスト。考えてもみれば、食べたり話したり生命活動の基本に影響大な永久歯は、いったん失ったら2度と生えてこない。ウシジマくんの中で歯を失ったり失わせられたりの場面が多いこともうなずける。
時間のようなものだ。過去から未来へ一方向のみに流れ、過ぎ去った時間が戻ることは決してない。常に瞬間に燃焼するやり方で生きてきたチェットは、映画の中でインタビューを受けて過去を振り返らされるのがつらそうで、撮影中にも5日連続で麻薬にふけって心配されていた。転落死の一因ともなったかもわからない。

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