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巻き添え食ってたまるかよ

旧作探訪#52 『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』

2009-02-26 21:08:51 | 映画(レンタルその他)
@レンタル、原恵一監督(2001年・日本)
ある日、春日部で突然『20世紀博』というテーマパークがオープン。昔のテレビ番組や映画、暮らしなどを再現し、懐かしい世界に浸れる遊園地に大人たちは大喜び。でも、しんのすけを始めとする子どもたちにはちっとも面白くない。むしろ毎日のように夢中になって遊びに行く大人たちに、もううんざり。やがてひろしは会社にも行かなくなり、みさえは家事をやめ、しんのすけが泣きじゃくるひまわりのオムツを替える始末。実はこれは、“ケンちゃんチャコちゃん”をリーダーとするグループによる、大人だけの楽しい世界を作って時間を止めてしまおうという、恐るべき“オトナ帝国”化計画だった! やがて大人たちは『20世紀博』に行ったきり帰ってこなくなってしまい、残された子どもたちは途方に暮れる。このままでは未来がなくなってしまう! そこでしんのすけら“かすかべ防衛隊”のメンバーは大人たちを取り戻すために『20世紀博』へ乗り込んでいくことにする。しかし、そこにはもうすっかり子どもに戻ってしまった親たちが楽しそうに遊んでいた。はたして“かすかべ防衛隊”は“ケンちゃんチャコちゃん”に勝てるのか!? そしてしんのすけは大人たちを今の世界に取り戻し、未来を守ることができるのか!?

昔むかしぃ~ストライキと呼ばれるものがあってぇ~電車が2日間も動かなかったりすることがあったそうじゃぁぁ~~
伊集院光さんの深夜ラジオも最近はぜんぜん身を入れて聞いてないんだけど、なにやら新しいコーナーが始まったみたいよ。今の若い人からは「え?ほんとうに?」と思われるような、世代間のさまざまなカルチャー・ギャップを題材とする。それって若いリスナーさんは楽しめるのかしら。われわれが懐かしがって喜んでるだけなのでわ。
この映画のテーマパーク。懐かしい小ネタ満載。子どもは置いてきぼり。しんのすけたち幼稚園児には懐かしむような過去なんてないし、大人たちが仕事や家事も放ったらかしで幼児化していくのが心配でならない。そしてそのような大人の狂態を引き起こす基となるのが、ケンちゃんチャコちゃん率いる「イエスタデイ・ワンスモア」なる秘密結社が20世紀博のタワーから振りまく「懐かしいにおい」。
しんのすけは、心も体もすっかり子どもとなってしまった父ひろしに、ひろし自身の靴の匂いを嗅がせて、過去の姿を回想させ、やがて未来を迎えるべき自分自身を取り戻させる。その回想の場面は、近年の邦・洋取り混ぜた映画の中でも屈指の“泣かせる場面”として名高いらしい。
オラもご他聞にもれなかっただ。故・父ちゃんが帰宅して脱ぎ捨てた靴下は臭かったぁぁ オラも近年、枕の匂いが父の枕の匂いと似てきてるものの、足はほとんど匂わない。働いてないので。父は立ち仕事できついって言ってた。あれは働いて一家を支える男の匂いだった…。泣けるです。
反面、そこから一家4人と1匹で団結してオトナ帝国に立ち向かうしんちゃんたちの姿は、無職・独身のオラにはまぶし過ぎるかも。いいなあ、未来があって。いや無職・独身でも未来へ向かって歩いていかんと。原作の臼井儀人さんはコサキンのラジオ番組のヘビーリスナーとのことで、映画の中にも小堺・関根両人が登場してリスナーにしかわからない小ネタを見せる。2001年の時点でも20年続いてた番組である。内輪受けでもたいへんなパワーがあった。長期入院の間は聞けなかったので、01年春に退院してリスナー復活できてうれしかったもんだ。ところが、この2年ほどで急速につまらなくなって、その劣化のひどさはかつてのワンナイ以上。聞いてて不快になることもしばしばで、最近は終盤の投稿コーナーしか聞かなくなってた。いよいよ3月いっぱいで27年半の歴史を閉じるとか。しかたあるまい。伊集院光さんとともに夜のTBSラジオの顔であったが、伊集院さんが同じ轍を踏まないよう願いたい。
伊集院さんはかつて日曜昼間にやってた長尺番組で、アシスタントを務める竹内香苗アナと「泣ける映画対決」をやったことがあり、竹内アナの『ライフ・イズ・ビューティフル』に対して伊集院さんの選んだのがこの『オトナ帝国の逆襲』であった。目の下に脱脂綿をセットして涙の量を測定した結果、伊集院さんが勝ったように記憶してる。


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雑誌の興亡 #10

2009-02-21 23:03:42 | Bibliomania
【91】常識と反対のこと - 誌名も内容も型破り
『週刊明星』の皇太子妃決定スクープを報道協定違反だとして批判し、同誌のライターを辞めた草柳大蔵を、光文社の黒崎勇は『週刊新潮』の記事などから注目して、彼に同社の新しい女性向け週刊誌の特集記事を執筆してもらおうと考える。その誌名は黒崎がふと見つけた「女性自身のもの―それは個性である」という言葉すべてを使おうとしたもののさすがに社内の反対があって『女性自身』となった。それでも当時からすれば大胆な誌名であり、また誌名だけでなく創刊号(昭和33年12月12日号)の内容も、11月27日に発表された皇太子明仁と正田美智子の婚約にいっさい触れないという、常識をくつがえすものとなった。

【92】返品率5割2分 - 皇太子妃決定を黙殺
普通なら新しい雑誌ということで興味を持たれてよく売れるはずの創刊号も、皇太子妃決定のニュースをまったく報じなかった『女性自身』の場合は5割2分の返品で、4割台しか売れないという惨憺たる結果に終わった。創刊号であつかった特集は3つあり、狩野川台風の被害者のルポ、青木幸枝というファッションモデルの美容を記録したグラビア、そして松川事件で有罪(懲役15年)となった高橋靖雄被告の妻が夫の無実を訴えた「今度こそ夫を返して!幼な子を抱えて十年」であった。名前にちなんで“ミッチー・ブーム”とまで呼ばれた皇太子妃決定のニュースをあつかわない同誌の姿勢は、同じ頃発行された『週刊女性』と比べると一目瞭然である。

【93】皇室記事 - 歴史的大事件で方向転換
『女性自身』創刊号とほぼ同じ時期に出た『週刊女性』では、巻頭で15頁にわたって「皇太子妃・正田美智子さん」を特集し、テニスコートでの二人のなれそめも写真入りで報じている。いっぽう返品の山となった『女性自身』の黒崎勇も「ミッチー・ブームは歴史的大事件と思い知って」すばやく方向転換し、2号目の12月19日号では「学習院に才媛はいなかった?従順と犠牲の名門、聖心学院の隠された断面」と「北白川肇子さんの恋 解放されたお妃最有力候補」という2本の記事を掲載した。

【94】“皇室自身” - 美智子妃の素顔を特写
黒崎勇は、無節操であると評されようが、日本人のベーシックな徳目に合致して共通概念となりうる皇室についての報道を「継続されるニュース」として注力しようと決意する。そして美智子妃の婚礼直前に自宅の庭でキャッチボールに興じる写真をスクープ。さらに草柳大蔵は同誌の読者層を17.4歳平均と想定して徹底的にルッキング・マガジンにしていこうと黒崎に提案し、やがて同誌は先行していた『週刊女性』を部数で追い抜く。(下画像:『女性自身』に掲載された、ご結婚5日前の正田美智子さんの写真)



【95】ルッキング・マガジン - 「読み捨て」からの脱皮
『女性自身』は創刊時から他の週刊誌より10円高い40円の定価をつけており、グラビアやカラー口絵を増やして読み捨てでない保存したくなるような雑誌への差別化を図っていた。中でも昭和34年1月23日号に掲載された「親のない正月」という狩野川台風の被災者を取り上げた記事では、彼らの簡易住宅を現地の人びとの呼び名にならって「流れ町のホタルかご」と表現し、取材も行き届いて草柳の目指した映画的にイメージフルな特集記事の実現となっている。

【96】週刊誌の時代 - 出版社系が続々参入
昭和30年代に入ると出版社系の週刊誌が次々と創刊されて既存の新聞社系週刊誌と合わせて活況を呈したが、その直撃をくらったのが、昭和初期に100万部にも達した『キング』などを擁した講談社である。同社の『講談倶楽部』『少年クラブ』『少女クラブ』も『キング』と同じく月刊誌で、戦後には新しい時代に適応することができず、昭和37年から41年にかけて相次いで姿を消すことになった。代わって『現代』や『小説現代』を創刊するとともに昭和34年には週刊誌の創刊も決めた同社の雑誌の盛衰は、まさに雑誌が生きものであることを証明している。

【97】マンガ週刊誌 - 創刊当初は連載小説も
昭和34年2月に講談社の臨時社員総会で野間省一社長が発表したプランでは、創刊する週刊誌として一般向き、婦人向き、娯楽誌、子ども向きの4つが考えられ、結局一般向きの『週刊現代』と子ども向きの『週刊少年マガジン』が決まると、わずか2ヵ月足らずのうちに不眠不休の原稿依頼や取材・執筆で両誌とも3月後半に創刊にこぎつける。『週刊少年マガジン』と同じ3月17日には小学館からも『週刊少年サンデー』が創刊されたが、後のマンガ週刊誌の先駆となった両誌は、創刊当初は月刊の少年雑誌を週刊にしたおもむきで、読み物や連載小説なども掲載していた。やがて『少年マガジン』は貸本劇画のような原作と作画を分業するシステムを導入して、梶原一騎原作・川崎のぼる作画の「巨人の星」、高森朝雄原作・ちばてつや作画の「あしたのジョー」という大ヒットを生み出す。

【98】ジェット版 - 文藝春秋を母艦として
皇太子成婚と週刊誌の相次ぐ創刊の重なった昭和34年、それを象徴するように《あさっては皇太子さまのご結婚》《きょうは週刊文春の発売日》というコピーを用いて『週刊文春』の創刊4月20日号が広告された。《文藝春秋を大きな航空母艦とすれば「週刊文春」は、その甲板からとび立つ超音速のジェット機です》とも謳われていた。創刊号での皇太子成婚の特集記事は2部構成で、1部をライターの梶山季之、2部を文春社員の半藤一利が担当し、梶山らの社外ライターのグループはその後も意欲的な記事を手がけて同誌の部数増に貢献するが、中央公論社の社長邸を右翼少年が襲撃した嶋中事件以降、マスコミがタブーに触れる報道をためらうようになると、梶山は雑誌ライターから作家へと転身する。

【99】異種交配 - デザイン界の手法を拝借
昭和20年代に平凡出版で月刊の『平凡』を100万部雑誌へ育てた清水達夫はふたたび編集長となって『週刊平凡』を昭和34年5月に創刊する。そこでは「テレビのある茶の間の娯楽雑誌」をキャッチフレーズに、デザイナーの大橋正から聞いた「異種交配」の技法を活かして創刊号の表紙でテレビ界の人気者・高橋圭三と東宝女優・団令子を赤いスポーツカーに乗せた。この雑誌もすぐに100万部に達すると、清水は次の新しい週刊誌のプランを練り始め、そこでもまず表紙を印象的なものにしようと、多摩美大の女子学生であった大橋歩のパステル画を採用して昭和39年に男性週刊誌『平凡パンチ』を創刊する。平凡出版の週刊誌戦略は、表紙の構想が重要だったのである。

【100】女性誌の変化 - 未婚者をターゲットに
昭和30年には雑誌の発行部数で月刊79%:週刊21%であったが、34年には月刊46%:週刊54%というぐあいに逆転し、特に月刊誌の発行傾向においても女性誌で著しい変化を見せる。その象徴が昭和30年に講談社が創刊した『若い女性』である。この雑誌はファッションに重点をおいて《未婚女性だけにターゲットをしぼった初めての実用誌》として、当時の家庭婦人を対象としていた女性誌の世界に新風を吹き込んだ。判型もB5判と大きく、一般雑誌としては珍しい原色写真版印刷の表紙で女優の北原三枝を起用、これらは新しい読者に大いにアピールするとともに婦人家庭誌にも変化をもたらす。

【101】大判化 - A5→B5→AB
当時、婦人家庭誌には『主婦の友』『婦人倶楽部』『婦人生活』『主婦と生活』などがあったが、大正6年の創刊で最も歴史の古い『主婦の友』がリーダー役を果たして、他誌に先駆けて昭和31年3月号でA5判からB5判へ大判化したのである。さらに婦人誌の売り物であった別冊付録をやめて綴じ込み付録にして定価を下げるとともに、昭和42年1月号ではB5判より左右が3センチ広いAB判へ再度大型化、その間に別冊付録も復活させて新年号には家計簿というスタイルが定着。昭和42年の新年号は婦人家庭誌4誌を合わせて415万部を発行するという活況であった。

【102】アンノン族 - 旅をライフスタイルに
こうしたなか昭和36年9月号から文化出版局が創刊した『ミセス』は、婦人家庭誌に付きものの皇室記事・スキャンダル・セックス記事という“三種の神器”をあつかわない編集方針で最初は苦戦したが、やがて高年齢向けの女性誌として定着。そして昭和40年代に入ると、若い女性向けの新しい雑誌も現れる。45年3月に平凡出版から創刊された『an・an』は月2回刊・A4判で、画期的だったのは本文頁もすべてグラビア用紙を用い、雑誌の全体でカラー印刷のイラストや写真を載せられるようになったことである。集英社が『an・an』に対抗する形で『non・no』を創刊すると、両誌は若い女性のライフスタイルに大きな影響を与える役割を果たし、旅の記事を売り物にしたことから『an・an』『non・no』を持って旅をする「アンノン族」と呼ばれる女性たちを作り出すことにもなった。(下画像:『an・an』『non・no』の創刊号)



【103】ポスト万博対策 - 女性誌と国鉄がタッグ
昭和45年に行われた大阪万国博覧会は、入場者6400万人のうち2200万人を列車で輸送し、うち900万人を新幹線で運ぶという国鉄にとっては絶好の商機であったのだが、すでに開催前からその後にもお客さんに国鉄を利用して旅をしてもらうため、主に20~30代の女性をターゲットとして電通との協力で「ディスカバー・ジャパン」なるキャンペーンが練られた。ちょうどそれと適合したのが『an・an』と『non・no』で、京都や萩など日本を旅する特集記事がたびたび載せられるようになる。やがて旅にとどまらず若い女性のファッション感覚にも応える存在として、光文社が昭和50年6月号から創刊した『JJ』は「読者モデル」という新しいタイプのモデルを起用、ニュートラというファッションも流行させるなど女性誌の世界を大きく変えてゆく。

【104】その役割 - 新聞にできぬ力発揮
その変化とは、読者の年齢によるラインナップ作戦が強まったことである。光文社の例では、女子大生向けの『JJ』、キャリア向けの『CLASSY.』、30代向けの『VERY』、40代向けの『STORY』といった按配。こうした変化のため婦人誌としては最も歴史のある『主婦の友』が昨年6月号をもって終刊、女性誌が年齢別・内容別にセグメント化したためかつてのような総合的な内容で大部数を発行する業態が成り立たなくなったことを意味している。また総合的な内容の雑誌が厳しくなったのは女性誌に限った現象でなく、昨年は『論座』『月刊PLAYBOY』『現代』なども相次いで休刊となったし、週刊誌もここ数年は勢いをなくしてきている。これらが示すのは、日本の雑誌の特徴であった一冊にさまざまな情報を盛り込むという編集方針に、読者が飽き足りなくなっていることであり、そのことに雑誌の編集者は思いを寄せるべきだが、同時にこの連載であつかってきたような総合雑誌がジャーナリズムとして社会的に大きな力を発揮した歩みも忘れてはならない。最大の例として、『文藝春秋』が昭和49年11月号に掲載した立花隆「田中角栄研究・その金脈と人脈」と児玉隆也「淋しき越山会の女王」は、田中角栄金権内閣を倒す引き金となったのである。(下画像:田中内閣退陣の引き金になった『文藝春秋』昭和49年11月号)=おわり

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旧作探訪#50 『シベールの日曜日』

2009-02-15 22:45:19 | 映画(レンタルその他)
Les Dimanches de Ville d'Avray@VHSビデオ、セルジュ・ブールギニョン監督(1962年フランス)
12才の少女と青年の純粋な愛を詩情豊かに描き、主演の2人のもの悲しい雰囲気や、特にシベール役のパトリシア・ゴッジのかわいらしさは各国の観客に強い印象を与えた。1962年のアカデミー賞で外国語映画賞を獲得。
パリ郊外にあるビル・ダブレの町。ピエール(ハーディ・クリューガー)はこの町でひっそりと傷ついた心身を休めていた。彼はインドシナ戦線で一人の少女を射殺したと思い込んでしまい、操縦していた戦闘機を墜落させて、そのショックで記憶を失い気分も暗く沈みがち。看護士のマドレーヌ(ニコール・クールセル)はそんなピエールを愛し手厚く看病した。夜遅くパリの病院から帰ってくる彼女を、駅まで出迎えるピエール。そんな夜、ピエールは駅で父と娘(パトリシア・ゴッジ)の二人連れに出会った。彼は少女の目に涙が光るのを見て、後をつけていった。行き先は修道院であった。少女の母が他に男をつくって二人を置いて出ていってしまったため、父親は少女を修道院に置き去りにするつもりで連れてきたのだ。二度と現れまい。少女もピエールもそのことを知っていた。次の日曜日、ピエールは少女に会いに行った。
「君の名前は…」
「教会の鐘の上の風見鶏を取ってくれたら教えてあげるわ」
こうして二人の日曜日ごとのデートが始まった。二人の間には深い信頼と愛情が生まれた。だが、度重なるデートに村人は二人の噂をした。そして、クリスマスの晩、ピエールは少女に教会の風見鶏をプレゼントするのだった。
「私の名前はシベール。ギリシャの女神の名前なのよ」
少女のプレゼントは名前だった。だが、その時、ピエールが少女を連れ回して危険をおよぼすかもしれないという通報を受けた警官が、ピエールを射殺した。死んだピエールを見てシベールは涙を流しつぶやく。「私にはもう名前がないの。誰でもないの」と。



DVD化されておらず、やっとのことで入手したVHSビデオにて鑑賞。ビデオ製作の基となったのはアメリカ上映版でしょか。日本語字幕とともに英語字幕も表れる。日本語や英語でこういう意味のことをフランス語ではこんなふうに話すのかという、その印象の違いがまざまざと。イギリスとフランスって海底トンネルで結ばれるくらい近いんでしょ?それなのに、どうしてこんなに言葉の響きはぜんぜん違うんでしょ。フランス語ってまったく独特。愛をささやくモナムーとかの言葉は当然のことながら、日常で使うシルブプレとかの言葉も響きが詩のよう。ロマンチック。そんな詩的でロマンチックなフランスでも、傷ついた二人が作り出す愛の世界は周囲から白眼視されずにはおかない。周囲からはいい大人のピエールがいたいけな少女を恋人同士のように連れ回してるかに映るものの、二人の関係ではむしろシベールが主導権を握ってる気配で、将来結婚しましょう、とかもシベールから言い出す。役柄と同じ12才で、シベール役になりきって生き生きとかわいらしいパトリシア・ゴッジはまさしく伝説的。昔、吾妻ひでおさんが日本初の少女愛(ロリコン)同人誌シベールを作ったのも、この映画の影響下のことなのでしょか。映画の中にもマンガの元祖的存在な日本人の名前が出てくるけど、ピエールとシベールの愛の姿はあまりに奇矯で周囲の“常識人”たちの胸を不穏にさせずにはおかないもので、世間から疎外されてることそのものがますます二人の結びつきを強める方向へ。秋葉系みたいかも。見ていても、映画に反応して秋葉的なもの、自分の中の気持ち悪いものがぴくぴくんと呼び覚まされるのを感じる。ここではモノクロ映像のフランス映画ならでわの表現で、世界の人の胸に届く作品になってはいるものの、ちょっと他の形に移してリメイクとかを考えにくい題材ではないだろうか。アニメ化か、あるいは変態・野島くんなら実写ドラマ化できるかも…。
さて「旧作探訪」も早いもので50回を迎えたので、今までの作品から10傑を作ってみました。ここは映画ブログでないし、オラは無職・独身の変わり者ですので「ああ、こういう意見もあるのね」程度にお試しあれ~~



1 - 蜘蛛女のキス(ヘクトール・バベンコ) 1985
2 - デッドゾーン(デイヴィッド・クローネンバーグ) 1983
3 - アラバマ物語(ロバート・マリガン) 1962
4 - ブギーナイツ(ポール・トーマス・アンダーソン) 1997
5 - カッコーの巣の上で(ミロス・フォアマン) 1975
6 - Mr.Boo! インベーダー作戦(マイケル・ホイ) 1978
7 - エレファント・マン(デイヴィッド・リンチ) 1980
8 - マイライフ・アズ・ア・ドッグ(ラッセ・ハルストレム) 1986
9 - ベイビー・イッツ・ユー(ジョン・セイルズ) 1983
10 - モーターサイクル・ダイアリーズ(ウォルター・サレス) 2003
コメント (4)
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雑誌の興亡 #9

2009-02-09 20:07:23 | Bibliomania
【81】3つの課題 - 販売、入り広告、取材
昭和20~30年代に『週刊朝日』などによって起こっていた週刊誌ブームに乗って、新潮社が再び総合誌を創刊するためには、以下の3つの課題を乗り越えねばならなかった。第一は新聞社系の週刊誌のような自社の販売ルートを持っていないので、従来の取次―書店ルート以外に鉄道弘済会・新聞販売スタンドに販売を引き受けてもらうこと。第二は入り広告の問題で、これは電通・博報堂に分担して広告頁を買い取ってもらうことになった。第三は新聞社系週刊誌のようなトップ記事を作る取材力がないことで、これに対処するため連載・読切の小説に注力し、巻頭にはグラビア頁を置いてその後に「タウン」の名でこまごました情報やゴシップ記事を載せることになった。

【82】看板小説 - 読切形式が長期連載に
『週刊新潮』の創刊号となる昭和31年2月19日号から連載された谷崎潤一郎の「鴨東綺譚」は実在人物をモデルとして書かれた疑いのため中断することとなり、痛手を受けた同誌であったが、佐藤亮一編集長を補佐する重役の齋藤十一が柴田錬三郎に頼んで読切連載として執筆してもらった「眠狂四郎無頼控」が読者に好評で、五味康祐の「柳生武芸帳」とともに看板小説となって部数の伸びに寄与した。(下画像:20回で終わる予定が長期連載となった「眠狂四郎無頼控」)



【83】難行苦行 - 迫る締め切り
実は出版社系週刊誌として『週刊新潮』より先行していたが同誌創刊の前年に廃刊されていた『週刊タイムス』という雑誌、これにまだ流行作家となる前の柴田錬三郎が「江戸群盗伝」という小説を連載しており、齋藤の目にとまって『週刊新潮』への時代ものの連載を依頼されたのであった。締め切りまで1ヵ月しかなく、ニヒルでアウトローで剣の強い武士を主人公とすることは決まったが、中里介山の『大菩薩峠』の主人公・机龍之助のようなインパクトのある名前にしようと彼は懸命に考える。

【84】ライター登場 - 小説が成功、特集の充実図る
机龍之助の「机」のように日常生活で欠かせないもので、しかも多少の夢は含まれているような…。締め切りが3日後まで迫った時、柴田は「眠」という名を思いついた。誰もが眠る、人生の3分の1を占める睡眠。これだ!と決めると「狂四郎」という下の名もすぐに浮かび、連載第1回でいきなり女を犯す、虚無主義者の剣士が生まれた。やがて映画化もされて人気沸騰した「眠」の他にも、小説以外の特集記事を充実させる強力なライター・草柳大蔵が『週刊新潮』にスカウトされる。

【85】アンカー・システム - 取材と記事の分業化
草柳は大正13年の生まれで東大を出た後いくつかの出版社を渡り歩き、大宅壮一の助手をしていたこともあったが、彼は昭和20年代に目にした雑誌のルポルタージュ記事などから、こなれた口調で書かれたノンフィクションを志向するようになる。その中で彼は『週刊朝日』のトップ記事をすごい記事だと思い目を皿のようにして読みながらも、章によって文章のトーンにばらつきがあることに気づいた。同誌のトップ記事は何人かの記者によって共同執筆されていたからなのだが、そこから彼は『週刊新潮』にスカウトされた際に「アンカー・システム」として取材と記事のまとめを分業化することを思いつく。

【86】この記事すごい - 週刊誌ライターの誕生
当初『週刊新潮』で草柳は「タウン」欄のリライトなどをしているうち実力を評価され、ついに自身がカメラマンの土門拳を伴なって広島市街を熱心に取材して「8月6日の遺産―はじめてルポされたABCC(原爆傷害調査委員会)の実態」という4頁の特集記事を執筆した。この記事は編集部の心をゆり動かし、頁を倍増させて書き直すよう求められたのは彼にとってうれしい驚きであった。(下=草柳が『週刊新潮』にスカウトされたいきさつについても述べられた高橋呉郎著『週刊誌風雲録』)

週刊誌風雲録 (文春新書)
高橋 呉郎
文藝春秋

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【87】ストリート・ジャーナル - 家庭を想定しない編集
『週刊新潮』は小説でも特集記事や読み物でも雑誌の特色を見せ始める。既存の『週刊朝日』などが主婦層を意識してホーム・ジャーナル路線を打ち出したのと対照的な、街頭で読まれ家庭に持ち込まれることなど考えないストリート・ジャーナル路線である。こうして同誌が勢いづくと、昭和30年代前半には他の出版社からも『週刊アサヒ芸能』『週刊女性』『週刊大衆』『週刊ベースボール』『週刊少年マガジン』『週刊文春』など続々と週刊誌が創刊される。

【88】三つの欲 - 齋藤十一という個性
ストリート・ジャーナルを実現するための、取材体制や文体の創造、編集ポリシーの構築において『週刊新潮』は人材に恵まれた。草柳大蔵のアンカー・システムの場合、彼と気心の知れた数名の記者が取材した材料を基に、草柳がアンカーとして記事をまとめるので、全体のトーンが統一されて読者は読みやすい。さらに柴田錬三郎を連載小説に起用した齋藤十一も、時には同誌の編集長より上にあって企画・編集を取り仕切り、彼の語った「金銭欲、色欲、権力欲の三つに興味のない人間はいない。だからこの三つをあつかった週刊誌を作る」などの言葉は、後々まで同誌の性格を決定づけて毀誉褒貶とともに伝えられている。

【89】「藪の中」方式 - ナマの声を伝えるために
草柳は、話す人の主観や感情を排して客観的な記事を書くため、談話・コメントを記事の中でできるだけ短くしか使わない方針をとっていた。ところが、後に作家となる井上光晴が、談話を長々と用いて地の文章は接着剤程度にしか使わない文体=複数の登場人物が証言する、芥川龍之介の小説になぞらえて「藪の中」方式とも呼ばれる=を使い始めると、これが『週刊新潮』の主流となり、やがて草柳は同誌を去る。

【90】小説・皇太子の恋 - 一晩で20枚を一気に
草柳大蔵は昭和39年に『週刊新潮』を去るまでに、創刊時から参加していた集英社の『週刊明星』とも訣別している。同誌が、昭和33年の秋にスクープした「内定した!?皇太子妃―その人正田美智子さんの素顔」という記事にいやけがさしたためである。この記事にはもう一つエピソードがあり、当初は前週の号で報じられる予定であったのが東宮教育参与の小泉信三からストップがかかり、後に流行作家となる梶山季之が同誌の記者として記事の穴埋めに夜9時から翌朝4時までで一気に「小説・皇太子の恋」を書きあげたのであった。
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『チェ39歳 別れの手紙』

2009-02-07 20:32:12 | 映画(映画館)
Che Part Two@有楽町・日劇PLEX, スティーヴン・ソダーバーグ監督(2008年スペイン=フランス=アメリカ)
「キューバ革命」を奇跡的成功へ導いたチェ・ゲバラ(ベニチオ・デル・トロ)は、1965年3月、忽然とその姿を消した。突然の失踪にさまざまな憶測が飛び交う中、盟友カストロが、ゲバラの残した“別れの手紙”を公表する。
「今、世界の他の国々が、わたしのささやかな助力を求めている。君はキューバの責任者だからできないが、わたしにはできる。別れの時が来たのだ―」
仲間や家族に別れを告げたチェ・ゲバラは、独裁政権下にあるボリビアの地に潜伏していた。彼の革命の旅は、キューバだけでは終わっていなかったのだ。南米大陸の自由―。それが彼の夢見た未来だった。
しかし、この新たな革命戦争は、ボリビア共産党の協力が断たれたことで、急速に迷走していく。アメリカの大々的な支援を受けるボリビア軍と、地元民に裏切られて食料も医薬品も、武器や弾薬さえ尽きかけた、あまりにも無力な革命軍。
「革命には、勝利か、死しかない。」
真実への情熱に導かれ、愛こそが人間を救うと信じ、夢と理想に向かって戦い続けた男の「革命の道程」が、終わりを迎えようとしていた―。



レイディース&ジェントルメン!「円天・あかり」とさまざまに集金しまくってパンクしたL&G波和二(なみかずつぎ)なる男、逮捕当日まで朝から酒かっくらってたそうな。人の金は俺の金!俺の金は俺の金!その人相たるや「麻原彰晃と秋元康のちょうど中間」。その行動原理も麻原彰晃と秋元康のちょうど中間。わかりやすい詐欺師ですこと。だまされるほうもどうなんでしょ。「川の流れのように」はいい歌だ、とか思ってる人はオレオレ詐欺・投資詐欺の類に引っかからないようご注意遊べ。
浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ 考えてしまいますだ。イヤフォンで音楽など聴きながら街を歩く。そのこと自体が《自分さえよければいい》と暗に言っている。私利私欲。自分はチェ・ゲバラよりも波和二に近い人間なのであろうか。権力の不正を廃し、万人が機会均等に幸福を追求し、平和に暮すことのできる社会は、いったいいつ到来するのか。前編の『チェ 28歳の革命』でゲバラは、無名の兵士の士気が勝敗を決するとして、新しく組織化した無学な若者への教育を熱心に行う。印象に残るのは、農家の娘を強姦した脱走兵を処刑することを、彼が容赦なく決断するシーン。私利私欲を追う者を放置すると、全体を腐らせてしまう結果を招くことを心得ていたのであろう。
そんなチェ・ゲバラにも、新たな闘争の地となったボリビアはあまりに過酷。ボリビア共産党の支援を得られなかったこともあるし、山岳地帯が多くてキューバより人口密度が低く、人びとがぜんぜん社会化されてない。もちろん読み書きもできない彼らは独裁政権下で苦しい日々であっても、ゲバラの熱い言葉にいったんは耳を貸すがすぐになんとなく因習に閉ざされ旧弊な暮らしへ戻ってしまう。
怖ろしいのは、物質文明も情報化も行き着くところまで達してる現代にっぽんにも、まったく同じ状況が見られる。映画『闇の子供たち』は「ベニスに死す計画」の22才の彼と見たので、後ほど別の監督が映画をほめてる新聞記事を切り抜いて彼に読ませたところ「むずかしいですね…」。彼に限った話でなく、あるNPO団体が主催する、格差社会についての討論イベントでも、議員・学者・新聞記者ら「大人」側代表がわりと意識的にわかりやすく話してるつもりでも、「若者」側代表の学生やフリーターは「議論がかみ合っていない。(大人側の話は)言葉が難しくわからない」と。会場の若者たちもほぼ同調の様子。1970年代までは残滓としてあった社会主義・共産主義の理念のもとでは、世の中の人びとを平均化するとともに、平均値を引き上げるというベクトルも同時に存在していた。“悪平等”ではない。それがいつの間にやら、私利私欲を追い求めることが奨励され、そのためには全体のレベルを下げたほうが自分に有利、のような価値観が支配的になってしまった。原因はひとつでない。いろいろなことが連関してる。田原俊彦の「哀愁でいと」からこのかた、歴史は確かに前進をやめた。

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