マガジンひとり

オリンピック? 統一教会? ジャニーズ事務所?
巻き添え食ってたまるかよ

70年代の戯画

2008-01-29 20:33:45 | マンガ

『鳥人大系』手塚治虫(講談社版全集など)
世界中のあちこちで鳥類が高い知能を持ち始め、万物の霊長たる人類の地位を脅かし始める。そしてついに彼らは人類を追い落として新たなる地球の支配者となった。実は高度な科学技術を持つ異星人たちの中に「今の地球人は歪んだ存在、地球を支配する生物は翼のある鳥類から進化すべき」と主張する有力者がいて、その計画が実行に移され、鳥類の知能を急激に上昇させる飼料が散布されたのである。
鳥類はやがて鳥人となり、人類は彼らの家畜となって次第に姿を消していった。だが文明を築き上げた鳥人たちはかつての人類と同様に迷信や偏見や物欲に囚われ、差別や戦争や環境破壊など人類のたどった道をそのまま繰り返すことになってゆく…



かつて政治家兄弟の弟のほうがマントヒヒの対抗馬として都知事選に出馬したとき「タカとハトならハトを選んでください」みたいなこと言ってたじゃないですか。
「友人の友人はアルカイダ」「(株価が下がって)兄弟で40億円損した」…鳩山邦夫ってゆ~やつはタカ派でなければハト派でもない、あえて言うなら「バカ派」?
バカって鳥の名前でわない??じゃあアホウドリ派??語呂が悪いなあ。
まあ同じ鳥でもいろいろいるよな、鳩が平和の象徴なら猛禽類なんてのはクチバシも曲がっちゃって見るからに恐そう。
そんな鳥類が人類に取って代わることになったら??まさにドラマの宝庫。戦後最大の天才・手塚治虫がそのアイデアを基に、ストーリーのまとまった長編でなく、さまざまな舞台設定をこしらえて時には絵柄まで変え、短いエピソードを集大成したオムニバスのような形で1971~75年にSFマガジンに連載したのが『鳥人大系』
肉食系出身のモッズ警部は、夫人が特権階級のみで構成されたヒナ鳥(同じ鳥人)を賞味する秘密組織の一員であったことから…という「赤嘴党」、当時のベストセラーのパロディというにとどまらぬ味のある「カモメのジョンガラサン」、幻想的なメルヘンの「ブルー・ヒューマン」、身分違いの恋愛を描く「ラップとウィルダのバラード」と力作の続く終盤は天才ならではの遊びというか、同じ時代のさまざまな素材を消化して作品化する旺盛な生命エネルギーが気持ちいいくらい。
連載中に田中角栄が首相になってやがてロッキード事件が起こったこともさっそく、鳥類に地球の支配権を与える計画を提唱してそれによって私腹を肥やす「ドゥブルゥド主能長」の造形に反映。しかしあれだね、自民党のUFO談義じゃねえけど、この時代はやがて人類も宇宙に乗り出して銀河系の星間文明の仲間入り、みたいな(今考えるとありえない)未来像がまだ描けた時代だったですね。今はSF作家なんてどんな設定をこしらえりゃいいんざましょ。どんなんでもSFオタクから「ありえない」と突っ込まれそう。
まんざらありえなくないのが、ネタバレになっちゃって悪いんだけど、鳥人大系の結末で、鳥類に地球の支配権を与えたところ結局人類と同じ道をたどることになってしまったので、じゃあ次はゴキブリに支配権を与えてみなはれ、という。ほら、ちょうどゴキブリが大阪府の支配者に選ばれたところでおまっしゃろ。しかしひつこいねオラも…

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旧作探訪#9『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』

2008-01-25 20:49:55 | 映画(レンタルその他)

Mitt Liv Som Hund@レンタル、ラッセ・ハルストレム監督(1986年スウェーデン)
人工衛星に乗せられて地球を何周か回るうち食料が尽きて死んでしまったライカ犬。それに比べればどんなことが起こっても自分は幸せだと考える12歳の少年イングマル(アントン・グランセリウス)のマイライフ。
こんな話も元気な頃のママにすれば、ママは喜んで聞いてくれただろうにと回想するイングマルのマイライフに登場するのは、ママが病気になったためにひとりで汽車に乗ってガラス工場のある田舎に行った夏。そしてママとの最後の別れのために都会に戻り、その後ふたたび汽車で雪の中を田舎に戻る旅をした冬。
悲しい事件の連続なのに、田舎で彼を迎える人たちはどこまでも陽気で楽しい。
山奥のガラス工場のスモーランドの村で、子どもたちとサッカー・チームをつくっているグンネル叔父さん(トーマス・フォン・ブレムセン)や、寝たきりなのに女性の下着雑誌に興奮するアルビドソンさんや、村いちばんの屋根をいつも修理しているフランソンさん。
中でもイングマルがびっくりしたのは、サッカーもボクシングも強く、女の子であることを隠してチームに加わっているサガ(メリンダ・キンナマン)との出会いだったが、イングマルの心からは町に残してきた愛犬シッカンのことが離れない…。



たしかこれ20代で実家にいた頃にレンタルで借りてきて母と見た記憶が。
母親と行動することをいやがる男の子にしては珍しいことで、ささやかな親孝行になったでしょうか。
「冬のマーケットの1000曲」を眺めてみると曲のタイトルが未来の自分の人生を予告していることが多いのに驚かされるが、この映画にもイングマルの母方の親戚は彼をあたたかく迎えてくれるが、父方の親戚は「変な子」あつかいして露骨にいやがる場面が。
オラ家もどうにもならない苦境におちいったとき父方(士)はあっさり縁を切ってきやがったのに母方(農・商)が支えてくれたことが思い出される。現実の武士は体面ばかり気にして、藤原なにがしの説く「惻隠」なんてほとんど持ち合わせてないと思うよ。いやホントの話。
人柄も母が社交的だったのに比べ父は友だち少なくて孤独な人だったような。
残念なことにオラは体質も気質も父のほうにより似てるのね。年とってますますその傾向が。
なおかつ映画のイングマルには兄がいて飼い犬もいるが、オラはひとりっ子で犬・猫も飼ったことなく、常に家族の愛を自分が独占するのが当然、という環境で育ってしまった。
三つ子の魂百まで、そのようにして培われた自己中心的で優しさの乏しい人格を矯正していくのはなかなか困難でしょうが、年をとっても遅すぎるということはないでしょう。まあぼちぼちと。優しさのにじみ出てるイングマルは女の子にモテモテだネ!サガが色じかけで迫っても振り払う誇りもあってますますもてる。
オラ老化が加速してきてますますもてないデフレ・スパイラルに流されるのを食い止めんがため、子どもだとて人生の師匠と呼びますとも。

マイライフ・アズ・ア・ドッグ

パイオニアLDC

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産む機械

2008-01-22 20:59:28 | 読書

『ペルセポリス・I~イランの少女マルジ・II~マルジ、故郷に帰る』マルジャン・サトラピ(訳:園田恵子、バジリコ)
子どもの頃、革命がありました…戦争がありました…人がたくさん死にました…
(I)イスラーム革命、イラン・イラク戦争…激動の時代を斬新なタッチで描き、このほど著者自らの手によりアニメ映画化もされた真実の回想記。
ひとり国を離れ、恋もした…クスリもやった…そして失望した…
(II)戦火を逃れた異国での学生生活とそこで味わう孤独…傷心の帰国…結婚やがて離婚。ペルシャとヨーロッパに引き裂かれて魂の空虚に悩むマルジが再びヨーロッパに向けて旅立つところで本編は終わる。
「現代における最高に斬新で、最高に独創的なメモワールのひとつと言える。人類の尊厳を最大限尊重したいという切なる願いを、マルジは声を上げてわれわれに呼びかけているのです」ロサンジェルス・タイムズ
「きらきら光る、飛び抜けた才能によるコミック回想録…無邪気な声で伝えられる…圧政的な政権がいかにして普通の生活をゆがませるかが、白と黒のコントラストの描画によってドラマチックに描き出される」ヴォーグ

ペルセポリスI イランの少女マルジ
マルジャン・サトラピ,園田 恵子
バジリコ

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秋田県の「なまはげ」が酒に酔って女風呂に乱入した騒動について、みのもんたは朝の番組で「襲われた女性もけっこう喜んでいる」などと発言。さすがに『ドラえもん』でのび太がしずちゃんの入浴をたびたび覗いても笑いごとで済まされる男権国家にっぽんならでわでんのー。
しずちゃんにとってのび太が気持ち悪い男だとしたら、それは「性暴力」にほかならないという視点が完全に脱け落ちている。
みのもんたとか細木・江原とかがのさばるのって、物質文明がいくら発達したとしても日本人の精神性そのものは卑弥呼が亀の甲羅で占いしてたときからほとんど変わってないことの証左なんじゃなくて?
六占星術??細木数子なんかによぉー天体の運行とかわかるわけねぇーじゃんっっ高度な物理学だぜっっ
…まあしかし、『ドラえもん』などが海外でどのように受け入れられてるのか、ってことからその国と日本との文化的親和度がある程度つかめるような。ちなみに『ドラえもん』欧米ではまったく不人気。
イランの少女マルジ(1969年生まれ)も作品の中で『おしん』を見る場面が出てくる。ほかに怪しげな売人からアイアン・メイデンのカセットテープを買う場面も。
同じ時代に生きて、同じような文化に親しんできたイランの少女は、しかしぬるま湯のような日本からは想像もつかない暴力的な圧政や戦争の生き証人でもある。
ソ連へ亡命していた経験を持つアヌーシュ叔父さんはパーレビ王政が倒れていっとき釈放されマルジにいろいろなことを語るが、革命政権によって再び逮捕されロシアのスパイとして処刑されてしまう。獄中で一度だけ面会を許されたマルジとの別れの場面が上画像である。
イスラム革命の後は、悪事をたくらんで背後でうごめく欧米諸国に対してもの申せる数少ない国の一つになったイランではあるが、男は口ヒゲあごヒゲをたくわえ女はマグナエと呼ばれる頭部をすっぽり覆うベールをかぶることを強制され、言論も厳しく規制され政治犯は投獄されて転向か処刑か選ぶことを迫られた。
なかんずく女性の人権は男性に比べ著しく制限されたため、常に自分自身に対して公明正大であれ、と説きつつ女のたしなみも大切にする素敵なおばあちゃんと過ごしてきたマルジには我慢ならない出来事の連続。
…まあ結局、自由経済においては誰の子種を選び、そして産むか産まないか、という主導権は女性に握られており、男にとってそれは非常に都合が悪いことなので宗教などなんやかんやと理由をつけて女を「出産し、子育てし、家事労働する道具」にとどめておこうとする。
妊娠中絶や場合によっては避妊ですら不道徳なこととするキリスト教原理主義と、イスラム教原理主義は類縁関係~そのほかもろもろのインチキ宗教のみなさまがたもな。
インチキ宗教の一種である村上なにがしという小説家に引っかかるなどして近年の創作活動はもうひとつパッとしない萩尾望都さんではあるが、一昨年のジュンク堂の催しで本書を採りあげていたのはさすがであった。
全盛期だった70年代の代表作『11人いる!』の魅力的なキャラクター、フロルの出身の星では男女の人口比率が1対5で、平均して男1人に4.5人の女がつき1人の女が5.5人の子どもを持つという一夫多妻制度が採られている。イスラム教が一夫多妻であることを思い出さずにはいられないが、地球は男と女がだいたい同じ数生まれてくるからね…
下画像、帰国したマルジは同志たちとささやかな抵抗を試みて、男も女もくつろいだ雰囲気のパーティーを開くが、そこへ踏み込んできた革命防衛隊から逃れようとした一人の友人が転落死。
ナチ占領下のフランスを舞台にした短編「エッグ・スタンド」で同様の場面を描いたことのある萩尾望都さんは本書を発見して読み進めてそこに差し掛かったとき心の震える思いがしたのではなかろうか。

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ELEKTRA

2008-01-16 21:14:15 | 音楽

iTunesプレイリスト<The Elektra Story>
A1. "Other Side to This Life" Fred Neil '65
A2. "Screamin'" The Paul Butterfield Blues Band '65
A3. "I Ain't Marching Anymore" Phil Ochs '65
A4. "Break On Through (to the Other Side)" The Doors '67
A5. "Alone Again Or" Love '67
A6. "Once I Was" Tim Buckley '67
A7. "Down River" David Ackles '68

B1. "Bird Song" The Holy Modal Rounders '68
B2. "Amazing Grace" Judy Collins '70
B3. "L.A. Blues" The Stooges '70
B4. "Everything I Own" Bread '72
B5. "You're So Vain" Carly Simon '72
B6. "Cat's In the Cradle" Harry Chapin '74

C1. "See No Evil" Television '77
C2. "I'm Not the One" The Cars '81
C3. "Caught Up in the Rapture" Anita Baker '86
C4. "Battery" Metallica '86
C5. "Fast Car" Tracy Chapman '87
C6. "Trouble Me" 10,000 Maniacs '89

D1. "Groove Is in the Heart" Deee-Lite '90
D2. "Debonair" The Afghan Whigs '93
D3. "Wrecking Ball" Emmylou Harris '95
D4. "Way Over Yonder in the Minor Key" Billy Bragg & Wilco '98
D5. "Come and Play in the Milky Night" Stereolab '99
D6. "Down" Socialburn '03



今日のプレイリストは97分という中途半端な長さなので、LPレコードの2枚組という仮定で。
昔のレアな音源が容易に集められる現在においてもとても正当に遇されているとは言いがたいデビッド・アックルズ氏をはじめ、ラヴ、ストゥージズ、MC5、ティム・バックリーなどコアな面々もエレクトラ・レコード。
設立された50年代から60年代前半にかけてはフォーク専門のレーベルだったらしく、さまざまな曲をきれいに歌いこなして人気を博したジュディ・コリンズや、政治的抗議を込めた曲を多く作ったものの後年は不遇をかこち自殺したフィル・オクスなど当時のフォーク界の熱気を伝える顔ぶれが。
60年代後半にはドアーズの成功と、短期間に才能を爆発させたことにおいてはドアーズにも劣らないラヴというロック・バンドの躍進。
ラヴというバンドは80年代あたりまでは日本の音楽雑誌もラジオもまったくと言っていいほど紹介しておらず、高校生のオラはローリングストーン・レコード・ガイドで「サイケデリック時代後期に生まれた名盤。時代がたって古びてはいても、その音楽にはこの世のものとは思えない泡のような感じがあり、またその弦楽器の使い方はロック史上有数の華麗なもの」と記されて★5つがついていた1967年の『Forever Changes』というアルバムに激しく興味をそそられた。そして3年か4年後にやっと手にできたその音楽は、パーフェクトに期待に応えるものであった。
今は名盤としての評価は確立してはいるけど、あんまりにも簡単に入手できすぎちゃって若い人は期待をふくらますことできないかもしんないね。
そしてまた2004年にはワーナー・グループの方針でエレクトラというレーベルは閉鎖されたそうなのだが、ルーツ音楽からクラシック、ジャズにいたるまでジャンル横断的に掘り下げて定評あるノンサッチというレコード会社はもともとエレクトラの傘下でワールド・ミュージックを紹介するレーベルとして始まったものらしい。
エレクトラはクイーンやザ・キュアのアメリカでの発売元であったほか、独特の耽美世界で知られる4ADの音源も配給していたそうで、ノンサッチや4ADのジャンルを超えた音楽追求、はたまた60年代フォーク歌手の伝承音楽への興味や政治意識、といったようなことが90年代のエミルー・ハリス『Wrecking Ball』やビリー・ブラッグ&ウィルコ『Mermaid Avenue』に結実している。
そんな流れで聴いてみると、メタリカとかステレオラブにも意外に伝統色が感じられるのが不思議な気持ち。
そして日本人が正統ポップスの歴史にちらっと顔を出す珍しい場面のひとつDeee-Lite…あちこちからパクって寄せ集めた積木細工のような音楽は1曲あればじゅうぶんであろうか。そういう意味では筒美京平ってのは元祖・渋谷系なのかもしれんね。
「たそがれマイ・ラブ」という曲は、エレクトラ70年代の歌姫カーリー・サイモンがマイケル・マクドナルドと共作した「You Belong to Me」を筒美が盗んでほんのちょっとだけ歌謡曲っぽく加工しただけのものである。イントロからアウトロまで筒美京平の創作は5%いやアイデアということを重視すると1%くらいかもしれない。
盗作した曲と盗作された曲を、同じiTunesに入れて混ぜ聴きすることは決してできない。もちろんオラは「You Belong to Me」を聴く。

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旧作探訪#8『蜘蛛女のキス』

2008-01-12 21:33:59 | 映画(レンタルその他)

Kiss of the Spider Woman@VHSビデオ、ヘクトール・バベンコ監督(1985年アメリカ=ブラジル)
監房という閉ざされた空間で絡み合う二人の男の愛と絶望、そして希望…
小さな監房に収監された二人の囚人。モリーナ(ウィリアム・ハート)は未成年者へのワイセツ幇助罪で逮捕された同性愛者。バレンティン(ラウル・ジュリア)は軍事政権に抵抗しようとする信念に燃える政治犯。この小さな世界はそのまま、現代におけるありとあらゆる“対立”概念の象徴となる。体制と反体制、夢と現実、強さと弱さ、男と女、政治と非政治など。
しかしこの一見すると対照的な二人の男が、モリーナが繰り返し語る甘美な空想物語「蜘蛛女」を媒介として、ゆるやかに寄り添ってゆくことになる。そして二人は愛・友情で固く結ばれてゆく…。

われわれの人生は映画ではない、でもひょっとしたら。
人生そのもの、というか人生以上に凝縮された、というか最後の一連の場面を見ていて涙が噴き出した…ずっと前に一度見たので結末はわかっていたのだが。

淀川長治「一人は政治犯、一人はホモ。この二人の同居。黒と白たるは言うまでもない。もちろん白がホモで黒が政治犯である。白が黒の…ここが面白い、蜘蛛の巣にひっかかる。この政治犯は黒ではないのだが、やはり黒の位置にある。いかにもこのホモが哀れでフェリーニの『道』のジェルソミーナであり『カビリアの夜』の夜の女でもある。
しかしこの作者は人間というものを真正面から“愛”の目で見すえバレンティンにも哀れ悲しい愛をそそぐ。この二人が一室にいることはムジナとヘビのわけなのだが蝶と花にした。普通ならこの同居ははじめっからワイセツである。当局はそこを狙って哀れ無智もんもうのモリーナを罠のエサにしたのだが、政治犯ならそれくらいのことは感づいているであろう。ところがモリーナは馬鹿に見えてこれまたそれを百も承知、しかもさらに当局をなぶっているところが実にホモらしくていい。この二人がついに結びつくとき、それが二人のキスだ。このキスはモリーナの死である。モリーナは愛に酔い、愛に泣いて自分がこれで必ずや殺されることを瞬間打ち忘れてしまったのがいたましいし美しい」

萩尾望都「愛は美しいものか。なぜ?
自己犠牲を伴なうから?奉仕するから?
そうじゃない。愛は自己確認だ。他者によって、己の存在の意味を知る。それが尊い。かけがえのない自己の存在を確認し、その在る理由を知り、許すことができるからだ。
バレンティンは(愛は相互に対等でなければならないという)彼の理念に忠実に、モリーナを抱く。その夢と共に。思想と夢は、無理なく重なりあう。互いの中へ埋没し、見失われるのではなく、それぞれの存在は満たされながらより鮮明に浮き上がってくるのだ。
モリーナが去る朝が来る。
出獄するモリーナに政治犯は言う。“自分をおとしめるな。他人に、価値のないもののようにあつかわせるな”そして“もう、男と寝るな”。
モリーナはじっと聞いている。彼は幸福を知る。一生愛し続ける人のいる幸福を。政治犯の言葉はモリーナへの約束だった。モリーナは望みを手に入れた。もう何も恐れるものはない」

モリーナは監房の壁に映画スターの写真を貼っている。そしてバレンティンに、彼の見たナチ将校とフランス歌姫の悲恋を描いた映画の話を聞かせる。
バレンティンはそんな夢物語を語るモリーナにいらついて「ホモ野郎!」と罵声を浴びせることもあるが、だんだんとモリーナの優しさと情緒に気づき、またモリーナのほうもバレンティンの不屈の闘志と情熱に感化され性愛を超えた敬意を抱くようになる。
この「イマジネーションとコミュニケーションの繰り返し」によって互いに高められていく様子を人生そのもののように感じたのですね。
病室の壁にELT持田のポスターを貼っていたA君を軽侮するオラは、硬直した理念にとらわれた政治犯バレンティンでもあるし、一方で自分自身も現実に負けてあてのない夢の世界に閉じこもる同性愛者モリーナでもある。まあ根性のないバレンティン・魅力のないモリーナといったところか。
しかしそんなような対立概念の両方が一人の人間の中に共存している、自己矛盾とか雑味といったようなことこそ人間本来の迷いに満ちた姿なのではないかと。
人生を生きてゆくかぎり「永遠の救済」などどこにもない…♪迷い道くねくね~~
そしてモリーナの理想は一瞬のキスに凝縮されて実現してしまったので、もはや彼の人生は終わらざるをえない、彼が釈放後に母親や友人や片思いだった男に心の中で別れを告げるくだりは涙を誘う…ほんとうにそうした意味でも完璧な映画と言えるのではないだろうか。愛・情熱・勇気・誇り・優しさ・共感、生きていくのに必要なものを示してくれる作品と言えよう。
ものすごい演技のウィリアム・ハートは本作でカンヌ映画祭・米アカデミー・英アカデミーの主演男優賞を総なめにしたとのこと。また内外で舞台化もされ、そちらもロングランになっているようである。
オラが見たのは公開からかなり経ってからレンタルで、映画に感動して原作小説も読んだ記憶が。映画ではブラジルのサンパウロらしき設定だが原作ではアルゼンチンが舞台で、最近ブラジル音楽を聴くようになってあらためて軍事政権のような激しい軋轢が表現活動にもたらす影響を実感。日本の表現が自分探し的に小ぢんまりと内向きになりがちなのはぬるま湯のような村社会ゆえか。
前に映画を見て小説を読んだのは自分の人生の中でも生命エネルギーあふれてたサラリーマン時代で、まさか精神科に長期入院なんて夢にも思わんかったが、入院生活と刑務所生活の類似などについてはいずれ書く機会もございましょう。


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