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巻き添え食ってたまるかよ

2006年間TOP20

2006-12-31 18:18:58 | 音楽

1. "You're Beautiful" James Blunt '05
2. "Crazy" Gnarls Barkley
3. "You Give Me Something" James Morrison
4. "La Réalité" Amadou & Mariam '04
5. "Gabriellas Sång" Helen Sjöholm M.Fl. '04
6. "Coming Home" John Legend
7. "My Crew Deep" Steph Pockets
8. "ゆうがたフレンド" ムーンライダーズ
9. "A Love That Will Never Grow Old" Emmylou Harris '05
10. "We Are All On Drugs" Weezer '05
11. "It Would Be So Easy" Cassandra Wilson
12. "When The Deal Goes Down" Bob Dylan
13. "Promiscuous" Nelly Furtado feat. Timbaland
14. "The Boom Boom Bap" Scritti Politti
15. "Little Perennials" Indigo Girls
16. "Talk" Coldplay '05
17. "The Otherside" Breaks Co-Op
18. "PRESTO" 矢野顕子
19. "Black Swan" Thom Yorke
20. "O' Sailor" Fiona Apple '05

『敬愛なるベートーヴェン』に対してオラは最低の評価を下したのではあるが、一般の人の声を聞くと「感動しました!思わず“第九”のCDを買ってしまいました!」みたいな意見も多い。
そういう場合、たぶんオラが間違っていて映画監督のほうが正しいのではなかろうか、ベスト盤以外のCDが売れなくなってきている世の中で、1時間を超える一続きの音楽CDを買わせてしまうのだから。
“第九”は180年ほどの時間を経てもポップスとして流通しうるという。
そんなような、最新のポップスであると同時にいつまでも聴かれるクラシックでもあるような音楽を求めてやまない。
ジェイムズ・ブラントの「You're Beautiful」は年末に『霧の中の風景』の映画を見てから急浮上し、5~6位あたりにいたのが一気に年間トップを奪取した。
イントロのメロディーの4つの音符の組み合わせが、その映画でたびたび使われる哀しげなメロディーと似ているのである。
さらに言うなら1973年の小坂明子の大ヒット「あなた」のイントロとも似ている。
この3つの曲の核心にあるのは「かなしい」とか「さみしい」の気持ちではないだろうか。
ジェイムズ・ブラントの歌詞はよく知らないが「他の男と歩いていた君は本当に美しかった。もう僕が君と一緒にいることはないんだな」みたいなことでしょ。
「あなた」の歌詞は「いつか小さな家を建てたい。わたしのそばにはあなたがいてほしい。それが夢だったけど、愛しいあなたは今どこに」みたいなことで、とても共通することの多いような。
そのようなマイナスの感情でも、すべての人に歌いかけ、みんなで分かち合うことによってプラスの感情に変えられるということが音楽の素晴らしいところであるような気がするのだが…
「You're Beautiful」は日本では「若夫婦がドライブに出かける」みたいな幸せな車のCMに使われちゃって…
ああ、日本人って1973年の時点より確実に劣化してるな、金持ち国家にはなったかもしれないけど、他人の痛みに対して冷淡というか無感覚になってるな、って気がしますね。
今の日本の音楽ってなんだかカルト宗教みたいな音楽ばっかだし、今年のレコード大賞の曲って1回も耳にした覚えがない。
美術的なこと→空間を占有する→金持ちが有利な方向に作用する。
音楽的なこと→時間を占有する→人々が平等な方向に作用する。
ゆえに、美術的なことより音楽的なことを大切にしてもらいたいというのがオラの偽らざる気持ちである。
しかし個人的には、近年では稀な、超強力な20曲をそろえることができたなあと。
生まれる前から活躍していたボブ・ディラン、小学生の頃から活動していたムーンライダーズも同時代の曲として聴くのは初めて。
4位はアフリカのマリの盲人の夫婦によるデュオ、5位はスウェーデン映画『歓びを歌にのせて』の中心の曲で、国際色も豊か。
まだまだヒットチャートが異文化の出会う交差点であってほしいのよね…

…といったようなわけで、今年の最後の10件の記事にオラ自身の心から書きたいことをすべて込めてしまい、もうこれで最終回を迎えても悔いはないのですが、とりあえず来年もLIFE GOES ON、続いていくのでよろしくお願いいたします。
読んでいただいてありがとうございました。よいお年を。
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2006年の映画・星取表

2006-12-29 15:29:31 | 映画(映画館)

★★★★★
歓びを歌にのせて(ケイ・ポラック)
ミュンヘン(スティーヴン・スピルバーグ)
ウォーク・ザ・ライン/君につづく道(ジェイムズ・マンゴールド)
送還日記(キム・ドンウォン)
プロデューサーズ(スーザン・ストローマン)試写会
嫌われ松子の一生(中島哲也)
ゴジラ(本多猪四郎)旧作
父親たちの星条旗(クリント・イーストウッド)
山椒大夫(溝口健二)旧作
雨月物語(溝口健二)旧作
硫黄島からの手紙(クリント・イーストウッド)

★★★★
ダウン・イン・ザ・バレー(デイヴィッド・ジェイコブソン)
単騎、千里を走る。(張芸謀)試写会
力道山(ソン・ヘソン)試写会
クラッシュ(ポール・ハギス)
ヒストリー・オブ・バイオレンス(デイヴィッド・クローネンバーグ)
マンダレイ(ラース・フォン・トリアー)
集金旅行(中村登)旧作
拝啓天皇陛下様(野村芳太郎)旧作
事件(野村芳太郎)旧作
夜よ、こんにちは(マルコ・ベロッキオ)
愛より強く(ファティ・アキン)
ニューヨーク・ドール(グレッグ・ホワイトリー)
プルートで朝食を(ニール・ジョーダン)
アカルイミライ(黒沢清)旧作
さよなら、僕らの夏(ジェイコブ・アーロン・エステス)
ハーダー・ゼイ・カム(ペリー・ヘンゼル)旧作
時をかける少女(細田守)
太陽(アレクサンドル・ソクーロフ)
悲情城市(候孝賢)旧作
カポーティ(ベネット・ミラー)
卍(増村保造)旧作
虞美人草(溝口健二)旧作
霧の中の風景(テオ・アンゲロプロス)旧作

★★★
TABOO(クリストファー・レンショウ)
ホテル・ルワンダ(テリー・ジョージ)
エレメント・オブ・クライム(ラース・フォン・トリアー)旧作
忘れえぬ想い(イー・トンシン)
エリ・エリ・レマ・サバクタニ(青山真治)
ジャーヘッド(サム・メンデス)
死者の書(川本喜八郎)
刺青 SI-SEI(佐藤寿保)
トム・ダウド/いとしのレイラをミックスした男(マーク・モーマン)試写会
ブロークバック・マウンテン(アン・リー)
家の鍵(ジャンニ・アメリオ)
ヨコハマメリー(中村高寛)
ダ・ヴィンチ・コード(ロン・ハワード)
デイジー(アンドリュー・ラウ)
DEATH NOTE・前編(金子修介)
真昼ノ星空(中川陽介)
王と鳥(ポール・グリモー)旧作
トランスアメリカ(ダンカン・タッカー)
ハードキャンディ(デイヴィッド・スレイド)
年をとった鰐&山村浩二セレクト・アニメーション(コンピレーション)
40歳の童貞男(ジャド・アパトウ)試写会
グエムル 漢江の怪物(ポン・ジュノ)
ワイルド・スピード×3 TOKYO DRIFT(ジャスティン・リン)試写会
セックスチェック・第二の性(増村保造)旧作
悪魔とダニエル・ジョンストン(ジェフ・フォイヤージーグ)
「エロ事師たち」より人類学入門(今村昌平)旧作
刺青(増村保造)旧作
ブラック・ダリア(ブライアン・デ・パルマ)
ザ・ロング・シーズン・レヴュー<フィッシュマンズ>(川村ケンスケ)

★★
おいら女蛮(スケバン)(井口昇)
シリアナ(スティーヴン・ギャガン)
DIG!(オンディ・ティモナー)
楳図かずお恐怖劇場・蟲たちの家(黒沢清)旧作
ディープ・イマジネーション ~創造する遺伝子たち(コンピレーション)
ジョルジュ・バタイユ ママン(クリストフ・オノレ)
青春☆金属バット(熊切和嘉)試写会
異常性愛記録ハレンチ(石井輝男)旧作
LOFT(黒沢清)
ツィゴイネルワイゼン(鈴木清順)旧作
ブロック・パーティー(ミシェル・ゴンドリー)
ナオミ・ワッツ・プレイズ・エリー・パーカー(スコット・コフィ)
イカとクジラ(ノア・バームバック)


RENT(クリス・コロンバス)
戦場のアリア(クリスチャン・カリオン)
ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男(スティーヴン・ウーリー)
好色源平絵巻(深尾道典)旧作
弓(キム・ギドク)
レディ・イン・ザ・ウォーター(M・ナイト・シャマラン)
セプテンバー・テープ(クリスチャン・ジョンストン)
エコール(ルシール・アザリロヴィック)
パプリカ(今敏)


紀子の食卓(園子温)
敬愛なるベートーヴェン(アニエスカ・ホランド)

今年はほぼ『嫌われ松子の一生』につきる。1度目はシネクイントで、2度目は目黒シネマで見たのだった。
松子の前半に「これで人生が終わったと思いました」というエピソードがたたみかけるように何度か出てくるのだが、本当にオラの過去もそんなことの繰り返しやったなあ…それでも松子のつぶやく「ひとりぽっちはイヤ…」…
そしてあぶり出されるのは、人々の強すぎる思いがいつもすれ違ってしまう、人間と人間とがわかり合うことがいかに困難か、それでも人間同士結び付きたいと願う、コミュニケーションということが人類の最大の課題なのではないだろうか。
人によってはその作風を押しつけがましく感じるかもしれないが、甥っ子が亡き伯母・松子の人生の足跡をたどって、そこに自分自身を再発見していく過程、それは監督が男性なので、女性という最大の謎を解き明かしてみたかった、というような畏敬の念みたいなことも感じた。
しかし蛇足になるが、松子の子供時代を演じていた子役の女の子が、高卒の同期入社で20代の頃オラと一緒に労働組合の活動をしていた人の娘さんと知ってびっくり…人生の明暗がこれほどくっきり分かれるとゎ
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『硫黄島からの手紙』

2006-12-25 20:18:21 | 映画(映画館)

Letters from Iwo Jima@渋谷ピカデリー、クリント・イーストウッド監督(2006年アメリカ)
日本の最南端に近い小島・硫黄島で発見された、手紙類の詰まったダンボール箱、そこには亡き兵士たちの思いが詰まっていた…。
1945年2月19日、アメリカ軍の上陸とともに始まった硫黄島戦。アメリカ軍が5日で終わると考えた攻防戦、それを36日間守り抜いた日本の男たちがいた。
指揮官の名は栗林忠道中将、武官として駐米経験のある知米派だったが、今は敗色濃厚な戦況の中、硫黄島が米軍によって本土爆撃の拠点となる日を一刻も遅らせるべく、地下に洞窟を掘って持久戦に持ち込もうと考えていた。
同島の日本軍の中には、オリンピックの馬術で金メダルを獲得した同じく知米派のバロン西(伊原剛志)や、栗林に反発して玉砕を主張する将校(中村獅童)、憲兵のエリートから一転して最前線に送られることになった士官(加瀬亮)、そして身重の妻(裕木奈江)を内地に残して従軍している元・パン屋の西郷(二宮和也)などがいた…。

今年の映画鑑賞は、この作品で掉尾を飾ろうかと。
オラの父親の遺品の中に、永く集めていた切手類があったのだが、敗戦までの日本の切手にはすべて天皇家の菊の紋章が入っていたのね。
そして優秀な印刷技術や製紙技術を誇っていたその切手も、戦況の悪化とともに目に見えて紙質が落ちて粗末なものになり、とうとう通常切手の中には「敵国降伏」という文字と模様だけのものまで…
もちろん敵国とはアメリカだけでなく、中国・イギリス・オランダ・フランス、後になってソ連まで、世界中を敵に回して戦っても、念仏をとなえていればいつかはそれがかなうとでも思っていたのだろうか、今でも「アメリカの物量に負けた」ことは認めても中国に負けたということは認識すらしていない日本人が多いようである。
第二次大戦の連合国というのが国際連合を発足させたのだし、日本人とドイツ人の国民性はそうとうにヤバイ、という歴史的事実はそう簡単に消せやしないのではないか。
そもそも表面的な勝ち負けにそれほど意味があるのか、名前も言葉も奪われて奴隷としてアメリカ大陸に送られたアフリカ黒人、彼らが世界中の音楽を内側から変化させたように。
さてこの映画、予告篇で流された何本かの内外の映画とは根本的に異なっていることがあり、それは映像が黒・茶・緑といった渋い色調を強調しており、結果的にモノクロ映画に近い映像になっていること。
そこに、クリント・イーストウッド監督が過去の歴史に対して客観的に距離感をもってあつかい、それは冷徹さというよりも、敬意を抱いているからこそそうなったのだということが感じられる。
日本人とドイツ人の危険な傾向の一つに「自分との距離感のないこと、ひいては家族・国家との距離感のないこと」が挙げられるので。
そして『父親たちの星条旗』よりも感じられるのは、イーストウッド監督は戦争の残虐さというよりは、人間の尊厳、それにも増して人間の情愛をこそ描こうとしているのではないだろうか。
なにか底流に「アメリカ人も日本人も同じ人間だよ」というものが流れているように感じられるのだ。
しかし今の日本人の救われないのは、中村獅童は映画の中でもどうしようもない軍人だが、現実の世界でもどうしようもない男やということやね。
パン屋を営む二宮和也のもとへ召集令状を届ける役人の横にいる愛国婦人会の押しつけがましいオバハンに、櫻井よしこや上坂冬子ら右翼ババアの顔がオーバーラップするとともに、歌舞伎のバカ息子や三船敏郎のバカ娘はまだしも、政治家のバカ息子が政治家になるのだけは勘弁してもらえないだろうか。
「村八分」や「非国民」の時代よりもますます、日本全体がいじめ体質におちいっているように思えてならない。
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どん底ではない苦境

2006-12-23 16:08:55 | 映画(映画館)

『霧の中の風景』下高井戸シネマにて、テオ・アンゲロプロス監督(1988年)。
ギリシャの首都アテネのとある駅の夜、11歳の少女ヴーラ(タニア・パライオログワ)と5歳の弟アレクサンドロス(ミカリス・ゼーケ)は、ドイツにいるらしい父に会いたいが、列車に乗る勇気はなかった。
しかしある日、ついに2人は列車に飛び乗り、切符のない2人はデッキで身を寄せて眠る。やがて無賃乗車を車掌に見つかった2人は途中の駅で降ろされ、ヴーラは駅長に伯父さんに会いにきたと、嘘をついてしまう…。

「欺瞞」という言葉が最近たびたび頭をよぎることがある「他人をあざむくというより、自分自身をあざむいて、偽りの満足を得て、そこに安住する」みたいなことを一言で表してくれる便利な言葉のような。
伊集院光さんが怒っていたことに触発されて“神田うの”のことを少し考えてみたのだが、たぶん神田うのクラスのスーパー美人だったら、一生死ぬまで人生の暗黒面から目をそむけて欺瞞的に生き続けることも可能だと思う。
亭主はパチンコ産業の経営者、ゲームやギャンブルで我を忘れてしまう貧乏人たちが借金してまでもパチンコに投じた金、それをがっぽり集めて、ちょっと庶民からは想像のつかないような金銭感覚を駆使して神田うのを射止めたのであろう。
そしてこれからも神田うのはメディアに露出を続けて、美貌が衰えた後も「デヴィ夫人が死んだ後の空席」にちゃっかり座ることになるかもしれない。
しかし神田うのはともかくとしても、どんなに強い人間でも「人生でずっと勝ち誇り続ける」なんてことは不可能なのでは…いつかは老いさらばえ、連れ合いに先立たれ、病魔に苦しめられるのが人生なのではないだろうか。
吉井怜さんという、若くして白血病を宣告され、それを克服した美しい女優さんのブログをたまに見ることがあるのだが、先日死去が報じられたお笑い芸人さんのこともあるのかもしれない、いつもは病気の影も見せずに気丈にふるまう彼女がこう記していた。

「同じ病気に限らず、ご病気で亡くなったというお話を聞くと、とても複雑な気持ちになります。色々な事を考え、今ここにいる自分自身を振り返り、多くのことに敏感になります。
そんな状態の時は、石ころ一つに躓いただけで、自分の中の芯が、音さえ立てずに崩れてしまいそうになります」
その後、応援してくれるファンや関係者への感謝の気持ちがつづられるのだが、うそいつわりの一切ない心からの言葉に胸をいっぱいに満たされるように感じた。
私もこれまで色々なことをさらけ出して書いてきたつもりではあったが、自分自身の最も不都合な部分は隠してきたのである。
他人の欺瞞を指摘するよりも、まず自分の欺瞞を明らかにしなければ…

私の父親は幼少時に両親と死別し、子のない夫婦の養子となったので、その夫婦の姓が今の私の姓で、いずれ私が入ることになる墓の名前でもある。
父は心臓病を始めとして様々な持病を抱えており、晩年の数年間は味覚も失ってしまい、ある日、首をくくって死んだ。
その直後、残された母の気がふれてしまい精神病院に入院、さらには私も鬱病が極度に悪化して精神科に入院、一家は全滅の危機に。
その時期に助けてくれたのは母方の親戚だけで、それ以来、父方の親戚(別の家にもらわれた父の姉など)とはまったく音信不通となってしまった。
やがて母は快方に向かい退院したが私の入院生活は続き、世をはかなんだのであろう、母もある日、首をくくって死んでしまった。
私は結局、2年半ほど入院した後、病休を取っていた会社に復帰したのだが、もはや以前のように前向きに働くことはできなかった。
今のご時世なら正社員であることだけでも感謝すべきことではあるが、サラリーマン社会というのははっきりした競争社会である。
2年間なんとか働いてはみたものの、高卒であることによる差別、精神科入院歴による差別、営業職から事務職への差別、そういった目には見えないがひしひしと感じられるものをはね返すだけの力などもう残っておらず、30代という働き盛りで退職してしまったのである。
人はそれを「どん底」と呼ぶかもしれないが、世間には親もなければ金もない人などごろごろしている、私には金があった。
なにしろシロート童貞である、女に金を使うこともなかったので溜め込んだ小金と退職金と親の遺産を合わせれば、一生遊んで暮らすのに十分なのであった。
そして両親が首をくくった一軒家を売っ払い、都心のマンションを現金で買って労働もせずにのうのうと快適に暮らしている、というのが現在の私の姿なのである。

母は生前、『ポネット』や『ミツバチのささやき』といったヨーロッパの小さな子供の出てくる映画が好きで、よく一人で見に行っていた。また『禁じられた遊び』も大好きな映画のようであった。
「親のない子」は自分が生きていることが許されるのか、いつも不安だ。
おそらく母も、そんな映画を見て「生きていることを許されたい、救われたい」と願っていたのかもしれない。
『霧の中の風景』を見て、その美しい映像に心がゆさぶられたのだが、自分が共感を覚えた本当の理由というのは、以上のような自分にとっての一番痛い部分と関わっていることに気付き、さすがに書いてしまうことはためらわれたのだったが、吉井怜さんの文章を読んですべてを明らかにしよう、と決意した。
読まされる人はいい迷惑かもしれないが、年末に大きな隠しごとがなくなって正直ちょっと気分が楽である。
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果てしなき戦い

2006-12-20 20:29:00 | マンガ

『ワタリ』白土三平(小学館文庫・全4巻ほか)
戦国時代、伊賀の里に二人の忍者がたどり着いた。少年忍者ワタリと四貫目と呼ばれる老忍で、この二人は伊賀でも甲賀でもない忍術を使うことから「第三の忍者」とされた。
伊賀の忍者には上忍を頂点とする厳しい支配構造があり、下忍たちは内容さえわからない死の掟によってがんじがらめに縛られていた。
そんな中でワタリは下忍養成所で働くカズラと友情を結び、やがてカズラや心あるリーダー格の忍者たちは「赤目党」を組織して、死の掟の秘密をあばき、忍者の世界に自由をもたらそうと立ち上がる。
その結果、死の掟を操って忍者を意のままに支配していたのは実は中忍・音羽の城戸(じょうこ)であることがわかり、城戸は追い詰められるのだが、そこに「ゼロの忍者」なる鎧兜で武装して馬にまたがる忍者が現れ、「我こそは伊賀の支配者なり」と宣言する。
そこでワタリたちは、今度はゼロの忍者を倒そうとしたが、その企みは巧妙なものだった。
苦闘のすえ、ついにゼロの忍者の秘密が解き明かされるときが来たのだが、意外にもゼロの忍者の正体は複数の伊賀の下忍たちで、音羽の城戸が催眠術で彼らを操ることによって、不死身のゼロの忍者を演出していたのだった。
伊賀の下忍たちによって、ふたたび音羽の城戸は追い詰められた。だが城戸は前もって織田信長の軍勢に伊賀の国を売り渡す約束を交わしており、信長軍の急襲によって伊賀は全滅してしまった。
四貫目とともにワタリ一族(誰の支配も受けず、放浪・旅回りの仕事をする人たちを守る忍者集団)のもとへ戻ったワタリは、そこで次々に奇怪な事件に巻き込まれ、仲間殺しの汚名を着せられたうえ、一族の人々からさえ命を狙われる状態におちいってしまった。
ワタリはこの影には必ず何者かが糸を引いているとにらんだが、その者が誰なのか、やがて恐ろしい全貌が姿を現す…。

杉良太郎さんに「君は人のために死ねるか」という曲があり、ダウンタウンの番組やコサキンでも「笑える曲」として話題を集めていたヘンな曲なのだが、最近のオラはこの曲の持つ異様なまでの迫力に捉えられ、親しみと実感を持って聴いている。
「♪許せないンい~ヤツがいる~許せないンい~ことがある~だから倒れても、倒れても、立ち上がる、立ち上がる…」
本当に現実もそんな感じだ、次から次へと許すことのできない敵が姿を現す…
『DEATH NOTE』にワタリという仮の名を持つ登場人物がいることから猛烈に読み返したくなり、久しぶりにその世界に浸ってみたのだが、1965年から67年にかけて週刊少年マガジンに連載されたという長編マンガ『ワタリ』、その当時から世相も移り、もはや白土三平という名を挙げても反応する人の少ない世の中である。
それまでのマンガの枠を超えて、リアルでダイナミックな表現を取り入れた「劇画」という流れの中心的存在として『忍者武芸帳・影丸伝』『サスケ』『カムイ外伝』『カムイ伝』などの代表作を世に送った。
中でも『忍者武芸帳』と『カムイ伝』は大人の読者層を意識して描かれた大長編の傑作なのだが、どうも今のオラにとっては『忍者武芸帳』の絵柄は荒々しさが強すぎ、逆に『カムイ伝』は緻密でリアルすぎて、ちょっと読むのがしんどい。
『サスケ』と『ワタリ』には丸まっちいかわいらしさもあるし、どっちみち荒唐無稽な忍術や、一人の抜け忍を殺すために何十人の忍者が犠牲にされたりする「ありえねー」世界なので、子供向けという制約のあったほうが、作者のメッセージが純粋化されて伝わるような気もするのである。
それにしても暗い。『サスケ』では物語の冒頭でサスケの母が敵の手にかかって殺されてしまい、終盤では父・大猿も殺されてしまう。
さすがにTVアニメ化では大猿が再婚するあたりまでで終わらせており、終盤の絶望的なまでの暗さはないが、それでも音楽などでサスケの「亡き母への思慕」は繰り返し描かれていた。
また『サスケ』の前半にはMr.マリックばりの「幻術」を操る示現斎という男が登場するのだが、この男の人相やかもし出す雰囲気、細木数子や江原啓之にそっくりである。
そして示現斎の役目とは、重い年貢を課す領主への百姓たちの不満をそらすことなのである。現在と構図がまったく同じでっしゃろ?
各エピソードの独立性の高い『サスケ』と異なって『ワタリ』は一つの謎を解くと次の謎が現れるという重層的なミステリーの体裁をとっており、全体的なトーンは『サスケ』よりもさらに暗い。
しかし暗いのも仕方がない、現実の写し絵なのだから、現実ではマンガ以上に怖ろしいことが絶え間なく起こり続けているのだから。
たぶん物語には時代層として60年代当時の労働運動の盛り上がりや、中東戦争・ベトナム戦争なども反映されていることであろう。
忍者の秘術には、ベトナム戦争で使われていたような兵器と似た発想も含まれているのである。枯れ葉剤なんてのは名前からして怖ろしいが、ダムダム弾、オレンジ爆弾、パイナップル爆弾、かわいらしい名前の実体は、人間がどこまで残酷に人間を殺せるかの博覧会のようなものであった。
そして今、イラク戦争にまったく実感が湧かないように、労働者は団結どころではなく分断されて「資本家VS労働者」なんて図式も消えてしまったように、現実の世界は『ワタリ』のように次から次へと悪魔が現れる果てしのない戦いなのだ。
「ワタリの笛の音は愛するものを失った怒りと悲しみに満ちていた それは風の音に和して聞くものの心にいんいんとして沁みわたるように伝わっていった」
このブログが少しでもそれに近づけたら…




ワタリ (1)

小学館

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『雨月物語』

2006-12-15 20:38:55 | 映画(映画館)

京橋・国立近代美術館フィルムセンターにて、溝口健二監督(1953年)。
戦国時代の近江の国・琵琶湖の北岸、陶工の源十郎(森雅之)の家族と義弟・藤兵衛(小沢栄)夫婦が貧しい暮らしを送っていた。
藤兵衛は武士になりたくて仕方がないのだったが、源十郎はとにかく貧しさから脱け出すためにも陶器作りに精を出し、軍勢の襲撃から逃げながらも残してきた窯の中の陶器が気になるくらい熱心である。
ある時、妻(田中絹代)と幼い子を残して陶器を売りに出向いた市場で、美しく身分の高そうな女(京マチ子)とお付きの老女が、彼の陶器を絶賛して買い取り、彼を屋敷に招く。
ところが実は彼女たちは戦乱で死んだ貴族の亡霊で、彼と夫婦の契りを結んで、黄泉の国まで連れて行こうとしているのだった…。

ずっと前に黒木メイサか誰かの舞台を見て「舞台の上は夢の世界」と書いたことがあるのだが、本当に演劇というのは生身の人間が演じてくれるにもかかわらず夢か幻のように消えてしまい、後々まで心に残る手ごたえというか深い感動には乏しい。
戦争体験のある井上ひさしさんが戦争をあつかった作品にしてもその傾向を免れないのだから、たぶん演劇というのはそういう形態なのであろう。
一方、とても夢幻的な世界を描いていながら、なおかつ出演者もスタッフもほとんど亡くなっているにもかかわらず、今日のこのしっかりとした手ごたえは、映画は演劇とは表現の次元がまったく異なるということを教えてくれる。
『山椒大夫』の時に少し『嫌われ松子の一生』に通じるものを感じたのは今日も当てはまり、それはおそらくこの監督が「人間の真実を描く」ことを最も重視しているということであろう。
オラの座右の書は『ナニワ金融道』、その中で青木雄二先生は常に「現実を直視しろ!」とオラを叱咤してくれる。
そしてもう一つ、溝口健二監督と中島哲也監督の共通点として、映画として最高の完成形を目指すべく原作小説に改良を施す、という点が挙げられる。
『虞美人草』ではヒロインをブルジョワ女から庶民女性に入れ替え、『山椒大夫』ではわずか30ページほどの短編を124分の長編にふくらませている。
『雨月物語』で特に大きな効果をもたらしているのは音楽で、あまり馴染みのない純邦楽に近い音楽なのだが、それがいかに日本人の生活感覚とか宗教観に根差したものなのか、これまでの認識を改めさせるほど生々しく迫って感じられた。
そしてそのアニミズムとか植物的・循環的な宗教観は、キリスト教やイスラム教と異質であっても、真実の表現にはどこかに同じ人間であることを共感させるものが流れているように思われた。
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『山椒大夫』

2006-12-08 21:33:36 | 映画(映画館)

京橋・東京国立近代美術館フィルムセンターにて、溝口健二監督(1954年)。
民話から題材を採った森鴎外の短編を、中世の時代考証など厳密に調査して映画化。
平安時代の末期、元は貴族の生まれだった兄・厨子王(花柳喜章)と妹・安寿(田中絹代)は、人さらいの罠にかかって母と生き別れにされ、丹後の因業な豪族・山椒大夫の経営する荘園に売られる。
そこでは老若男女が奴隷として重労働を強いられ、逃げようとした者は、仲間の手によって額に焼きゴテを当てられる。
10年間の労働を経て青年となった安寿と厨子王は、あるとき逃亡できるかもしれない機会を得るが、安寿は少しでも兄の逃亡の手助けとなるため、自分はとどまって時間稼ぎをして厨子王ひとりを逃がそうとする。
厨子王の逃亡は成功するが、山椒大夫が安寿を拷問にかけて逃亡先を自白させようとすることは必定、安寿は自ら湖に入水して果てる…

思ってもみなかったところから、『嫌われ松子の一生』に追いつく同点ホームランが放たれた。
松子は見る人を選ぶ映画であり、松子に自己投影できない人間には拒否反応を起こさせるであろうが、この作品は白人だろうと黒人だろうと全人類に普遍の説得力を持っているに違いない。
描かれるのは1000年近く昔の荘園の奴隷制度、描くのは自分の生まれる前に亡くなった監督、そんな感情移入を妨げる二重の隔たりをものともしない、人間の真実の姿が臓腑をえぐるほど悲痛に表現されている。
しかし溝口健二監督というのは、一般的には黒澤明・小津安二郎両監督ほど知られていない。
それも当然である、ここでは人間が他の人間を労働力としてのみあつかう、徹底的に搾取するという、現代でも解決されていない、むしろ資本主義の発達によってより巧妙になっている問題が克明に描かれているからである。
派遣社員という名の非正規雇用の増加、外国人研修生への徹底的な差別・搾取、国際的な生活水準の著しい格差。
権力者・支配者にとっては、奴隷たちが宗教やら夢の世界やらに慰められているほうが都合が良いことはもちろんである。
朝日新聞のような既成権力にとっては、村上春樹や江原啓之の嘘八百のファンタジーは都合が良い!村上春樹などは強者の自己正当化まで手抜かりなくサービスしてくれるのである。
全人類に普遍の説得力と書いたが、他人を支配しようとするヤツら、人間ではないヤツらは目を背けたくなり、他の人間には見せまいとするであろう。
古典的作品の中では断然他を圧する傑作、12月13日・24日にも上映される。
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