『DEATH NOTE(デスノート)』原作:大場つぐみ、漫画:小畑健(集英社・全12巻)
このノートに名前を書かれた人間は死ぬ…。
死神リュークが人間界に落とした一冊のノート・DEATH NOTE、これを東大に首席で合格するほどの秀才で警察高官を父に持つ「夜神月(やがみライト)」が手にしたことから物語が始まった。
彼は、法の手で裁かれない犯罪者をノートで次々と処刑することにより、善良な人間だけが安心して暮らせる世の中を実現しようとする。
やがて世間ではそれを「キラ」なる新しい神の行為として信仰する人々も現れるが、国際警察組織は「L」と呼ばれる謎の探偵を雇ってキラの正体を暴き、捕まえようと動き出す。
キラとLの息詰まる対決は、はたしてどちらに軍配が上がるのか…
マンガの紹介に力を入れているにもかかわらず、少年マンガを全巻揃えて読み耽るのなんて何年ぶりでしょう。
出版社によって少しずつ異なっているその世界観、少年ジャンプ、ヤングジャンプ、ビジネスジャンプなど、場合によってはマーガレットやりぼんも、集英社のマンガを貫くのは「努力・友情・勝利」というテーマ。
それはギャンブルや狩猟や戦争にも似ているが、極めて近いのが広い意味でのゲームの世界観。
どうりでオラがジャンプを嫌いなわけである。
作画の小畑健さんという人は、子供たちに囲碁ブームをもたらした『ヒカルの碁』の作画も担当していたそうだが、どちらかというと「成り」で駒の能力が変わったり、敵から取った駒を使えたりするという将棋と似ているストーリーなのではなかろうか。
人間という不確定要素、さらには途中からデスノートが2冊・3冊と増えてしまうので、もう後半はグチャグチャで収拾がついていない。
そういうオラは囲碁も将棋もやったことがなく、ルールもろくすっぽ知らない、そもそも前にも書いたが高校へ入学したとたん、数学のテストの点が20点とか30点とかに暴落、ある程度以上難しいことは考えられない頭なのである。
ほら、今から考えてみるとさ、漢文とか英語も語句の順番を並べ替えて意味を判読したりするでしょ、文化系の教科も数学的頭脳が必要ですよね。
それはさておき、このストーリーは「人間が神としてふるまうことは許されるのか」という一つの壮大な思考実験として非常に意義があり、それは特に90年代の日本を震撼させたにもかかわらず今は風化しつつあるオウム真理教事件を強く反映している。
夜神月はストーリーが進むにつれ、犯罪者ではない者も平然と殺し、自分の父親の死に際にも酷薄な笑みを浮かべる悪魔のような存在に成り下がってしまうのである。
さらに、殺人鬼だからキラ、メロウだからメロ、といった言葉の当てはめは酒鬼薔薇事件をも思い出させるではないか。
オラ個人としては「ワタリ」という登場人物から、白土三平さんの傑作長編『ワタリ』を読み返したくてたまらなくなりました。
さてこの作品、絵柄としては最初はやや没個性的にも感じ、井上ひさしさんの「表現がストーリーを語ることに隷属してはならない」という発言も思い起こさせるのだが、結果としてはとにかく精緻で正確な絵を描き続けることによって、複雑怪奇なストーリーと立派に対抗しているような。
子供の脳は特にそうだが、人間の脳は、1ページの視覚的情報を絵も文字もすべて一緒くたに、丸ごとバッと取り込んで解析するデジカメのような能力を持っているから、マンガは絵が主だ、いや言葉が主だ、という論議にはならないのではないだろうか。
ちなみに小説化もされている様子だが、金子修介監督の映画化は前編でほぼ単行本2巻分、原作マンガの世界観をゆがめず丁寧に映像化している。