マガジンひとり

オリンピック? 統一教会? ジャニーズ事務所?
巻き添え食ってたまるかよ

イタリアおっ母ぁ

2008-09-19 23:04:31 | 読書
『泣かない』ロザンナ(講談社)
40年前、北イタリアのスキオという田舎町から17歳で日本に“出稼ぎ”にやって来たウブな女の子は、ほどなく子どもの頃から夢見ていたとおりの黒い髪の男と出会い一目惚れをする。二人がコンビを組んで歌う“ヒデとロザンナ”は歌謡界の人気スターとなり、やがて二人は結婚する。紆余曲折の結婚生活15年に3人の子宝に恵まれ、ますます充実の人生が待っていたはずであったが、ヒデ(出門英)を結腸ガンの病魔が襲い、半年の闘病のすえ47歳の若さで彼は亡くなる。残されたのは、まだ小中学生の3人の子どもたち、そして明らかになる亡夫の女性関係と請求書の束。
ヒデより8歳年下の39歳で未亡人となってしまったロザンナは、いかにして悲しみと衝撃から立ち直り、TV界に復帰しつつ子どもたちを育て上げたのか。今は孫もおり、ヒデのために建てた美しい大理石のお墓にいずれ一緒に入ることを願い、それまでは泣かないと誓う日々である。



盛夏に突入するころ覚えた「豚肉と夏野菜の炒めもの」を頻繁に作っている。例の、豆板醤とオイスターソースと醤油それぞれ等量の合わせ調味料を使うやつ。加熱したトマトというのは、こんなにうまいものかと。というか、この献立を知るまではトマトが夏の野菜であることさえ意識してなかった。
本書によると、ロザンナが実家の苦しい経済状態の足しになればと、日本の芸能界へ出稼ぎにやって来て、8つも年上のプレイボーイ出門英(ヒデ)への想いに悩んでいるとき、「男は胃袋でつかめ」とアドバイスしてくれたのはロザンナのお母さん。その母親から教わったトマトソースのスパゲッティをヒデは本当に気に入って、ほとんど口から食べることができなくなった末期ガンの病床にあっても「ロザンナのトマトソースのスパゲッティが食べたい」と望んだとか。
このお母さんがすごくて、若い頃は大農家の嫁として、初産の今にも産まれそうな陣痛があるのに姑に命じられて厳寒の川で20枚ものシーツを洗う。
婚家を出てスキオの町に住み着くものの、夫は軍隊での負傷のため右腕が少し不自由で働き口が限られ、いつも家計が苦しいので夫が清掃員として勤める織物工場から安く仕入れた端切れの布を、山の町まで売りに行く。

中高年の日本人なら、ここで往年のテレビドラマ『おしん』のリヤカーを引いての行商シーンを思い出す人もいるだろう。が。ここはイタリア。使われたのはリヤカーではなく、ベスパという小さな白いスクーターだった。
エネルギッシュな行動派の母は、その町で最初にバイクに乗った女性だった。しかも幼い子どもたちと売り物の布を積んで山道を走った。颯爽と走った…と言いたいところだが、たぶんかなりドタドタしていたに違いない。生活していくためになりふりなど構っていられなかったのだ。
末っ子の私はいつもスクーターのいちばん前に立って乗せられる。冬は冷たい風がビュンビュン吹きつけてきて、口を真一文字に結んで歯を食いしばる。泣きそうな顔をして寒がる私の服の内側に、母は防寒のために新聞紙をたくさん詰め込んでくれた。まるでダルマさんのように着ぶくれした幼い子を筆頭に、子どもを2人も3人も乗せて走っている母の姿は、たくましさを絵に描いたようだった。

イタリア映画みたい…。それからのロザンナの人生も映画のように波乱万丈な出来事の連続。
来日してヒデと出会い、結婚するまでもいろいろたいへんだが、結婚してからも立会人2人のみの極秘結婚式の模様をフジテレビの親しいディレクターにのみ取材させたことから他のマスコミの怒りを買い、記者会見で非難されたりしてしばらく芸能界の仕事を干されたこともあったとか。やがて勝新太郎の助力で出門英は俳優としてもぽつぽつ活動を始め、小柳ルミ子の「星の砂」を作曲する(作詞は関口宏)など本業の音楽でも才能を発揮した。
そのヒデも1990年に病魔に倒れ、すっかり日本の主婦の座も板についていたロザンナは翌年、ヒデの葬儀での毅然とした立ち居振る舞いを見込まれて、TV朝日系のモーニングショーのキャスターとしてTV復帰。イタリアの家庭料理を教える仕事も好評だが、今もステージで歌うときなど亡き父母やヒデがそばにいて守ってくれてるように感じるのだとか。
「愛の奇跡」というヒデとロザンナの最初の大ヒット曲で、ロザンナは♪アモ~レ!アモ~レ!アモ~レ・ミオ!(イタリア語で“愛してちょうだい”の意味)と叫ぶ。あれは印象的であった。ヒデとロザンナとしては「愛は傷つきやすく」という曲のほうがオリコン1位で売り上げも多いらしいんだけど、今となってはアモ~レ・ミオ!で記憶に刻まれる男女デュオだったのではないだろうか。本書によると、そう叫ぶのは「愛の奇跡」のレコーディング当日にヒデが突然言い出したアイデアなのだという。


泣かない~ロザンナ 40年目の履歴書
ロザンナ
講談社

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歌の下手なジャズシンガー

2008-09-18 21:06:53 | 音楽
あはは・うふふ・え~へへの・お~ほほで・世界の株式市場がたいへんなことになってまちゅな!! どこぞの証券会社がつぶれたとかつぶれないとか。保険会社もど~たらこ~たら。まあ話は1981年までさかのぼるんですけどさ、聞いてやってくだせえ。

オラの通ってた都立T高校では、芸術科目が選択制になってまして。人数的には、だいたい音楽が4クラス、美術が4クラス、書道が1クラス組めるくらい。高2~高3ではクラス替えがなく、選択した芸術科目によって9クラスが決まっていたんですけど。

なぜだか高校1年のときだけ、書道の約40人が2つのクラスに分けられて、書道半分・美術半分のクラスが2つできていた。美術を選んだオラはそのうちの1つのクラスにいたわけです。そこでオラの仲良くなったN田くん、O村くん、C野くんという3人が3人とも書道を選んでいたため、高校2年ではオラ彼らに頼って書道クラスに遊びに行ってた。

そうするうち、その4人の友人関係の中に、POPEYEやBRUTUSの愛読者であるすかしたN田くんの引きでY岸くんという人物が入ってきた。高2の夏休みにはN田くん、O村くん、Y岸くん、オラの4人で三宅島の民宿へ3泊4日で遊びに行ったもんだっけか。初恋の人C野くんは夏期講習の予定が入っていて行けなかった。その〝初恋〟のためにオラがそれらの友人関係を失ってしまったのは前述のとおり。

そんただ友人関係の中で、オラとO村くん、C野くんの関係は主に音楽の嗜好でつながっていた。N田くんとY岸くんのつながりは「おしゃれ」~卒業式に蝶ネクタイで臨むような&『なんとなく、クリスタル』ももちろん読んでいたようなN田くんの一筋縄ではいかない趣味嗜好についてもいずれ書いてみたいけれども、ここで触れたいのはY岸くんの音楽の趣味。高校2年にして「阿川泰子」なんて聴いていたぁぁ……

ご存じ?阿川泰子。売れない女優だったのが突如として「ジャズ歌手」として脚光を浴びて「ネクタイ族のアイドル」なぁんてもてはやされたもんだっけか。オラは当時ザ・ベストテンの次に影響力のあった『夜のヒットスタジオ』に彼女が出演したのを見て、そのか弱いボーカル、へたくそな歌にあきれ返ってしまった。

それからいっぱい音楽を聴いてきたオラの価値観ですと、美空ひばりという大歌手にしても「リンゴ追分」に聞かれる歌唱は「子役の達者な演技」という域を出ていない。♪津軽娘は泣いたとさ~という田舎の少女の役を演じてるのに過ぎない。そういう意味では、彼女の内面により一致している「東京キッド」や「越後獅子の唄」における歌唱のほうが見事であるといえよう。

それにしても美空ひばりにはクラシック歌手ですら追いつかないような超絶技巧がある。技巧だけでいえばビリー・ホリデイやニナ・シモンより上かもわからない。しかし美空ひばりは、それらの大歌手に比肩する存在とはとうてい言えない。「ジャズ」というのは「いかに作曲するか」というよりも「いかに演奏するか」という価値観に命をかけて切磋琢磨している音楽ということができるのではないだろうか。へたくそでも「俺の、あたしの叫びを聞いて」というパンクの価値観とは、いわば対極にあるということが言えよう。

とはいえビリー・ホリデイやニナ・シモンの歌唱には、プロとしての技巧はもちろんのこと、パンクにさえ負けないような真実味がこもっている。阿川泰子に何があろう。歌も下手。叫びどころか、そもそも彼女は母語でない英語やポルトガル語で歌っている。そのほうがおしゃれだから?勉強とか仕事で忙しくて音楽の真贋なんてわからない人たちをだまくらかせるから??

Y岸くんは他にも、当時グローヴァー・ワシントンJr.の『ワインライト』というLPレコードを買ってたね。全米ヒットとなった「Just the Two of Us:邦題~クリスタルの恋人たち」のシングル盤で十分でしょうに。まあ下掲のジャケットを見ればおわかりでしょ。そ~ゆ~趣味だ。Y岸くん!もうオラのことなんて覚えてないと思うけど、きみの音楽の選択はおかしいよ!

彼はその後、どこかの一流大学に進み、どこかの証券会社へ勤めたとか。音楽の趣味はともかくとして、人格円満な人がらはオラなどおよびもつかないところで、今ごろはたくさんの部下や愛する家族に囲まれてることでっしゃろ。ほんとうにさあ。どんな音楽を聴くかなんてことは、実人生にはさっぱり寄与しねえよな。いくら1978年の音楽を即座に100曲リストアップできてもさ、自分が楽しむことしか考えてないから。もっとみんなで楽しめないとナ まあねえ…全員が勉強できる属性の都立高校から、縁故採用の地方出身者だらけの会社に入ってみたら、洋楽を聴くやつなんてほとんど居ねえんでやんの。27歳から29歳にかけて一緒に労組活動をしてた同期のOくんなんてのは、BOФWYのファン。「ボウイ」といえばデビッド・ボウイじゃなくて日本のボウイ…ださ…

ところが人間の器量としてはOくんはオラの何十倍もある。福井県出身の高卒社員ながらも、会社にたいへんな貢献をしていておそらく今ごろは破格の出世してるでしょ。ストーカーになったり病気で休んだりのオラとえらい違いだ。風のうわさで、Oくんの娘さんが子役として芸能界入りして有名な映画に出たと聞いた。

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旧作探訪#33 『完全なる飼育 赤い殺意』

2008-09-14 19:23:35 | 映画(レンタルその他)
@レンタル、若松孝二監督(2004年・日本)
竹中直人に誘拐・監禁される小島聖のダイナミック・ボディが話題を呼んだ『完全なる飼育』にはじまる当シリーズの6作目。監督にはラジカルなピンク映画の巨匠・若松孝二が起用され、大病を克服して7年ぶりとなるメガホンを振るった。
ホストの関本文也(大沢樹生)は、ヤミ賭博でこしらえた借金500万円の返済を迫られボコボコにされた。困った彼は、彼を愛人としている中年女性・幸江とのセックスの最中、彼女の夫・耕吉の殺害を持ちかけられ引き受けてしまう。
関本は幸江の指示どおり、雪山の町にある幸江の家を下見し、翌日、縁側で酒を呑む耕吉に後ろから忍び寄って鉄アレイで撲殺。しかし、箪笥から約束の500万円の入った封筒を取り出すとき、回覧板を持ってきた近所の主婦に見られてしまう。必死で雪の中を逃げた関本は足首を捻挫し、一軒の農家に入り込む。するとそこには、無口で異常におびえた様子の明子(伊東美華)がいた。関本を捜しに警察が来ると、関本を連れて天井部屋に隠れる明子。
そして二日目、家主であるトラック運転手、山田真一(佐野史郎)が帰ってきた。天井部屋に隠れた関本は、そこで明子が山田に飼育されている場面を目撃する。

「子どもなんだから、こんなものは要らない!」
「明子が動かしていいのは、布団・洗濯物・食器だけ!」

山田を“シンちゃん”と呼び、何もかも言いなりの明子。陰毛を剃られ、言うとおりにしないとスタンガンで脅されて全裸で手錠につながれる。関本は山田が不在の間に明子と結ばれ、彼女を救い出そうとするが…。



冒頭、元「サーカスに売られた子ども」の一人である大沢樹生が雪原を逃げるうち足をくじいてしまう場面を見て、ああ、連合赤軍の映画と同じ文法で撮られているなあ、と。
社会派の作品と娯楽作品を区別しない。同じ態度で臨む。やっぱりそうでないと、サスペンスとか犯罪のからんでくる作品には説得力が生まれないのではないか。
『完全なる飼育』のシリーズは1作目しか見ていないが、監禁された女が監禁する男に愛情を抱くようになる、みたいな噴飯が多いらしい。いや1作目はけっこう面白かった記憶あるけど、小島聖の功績が大なのかな。
しかし凶悪犯罪ですから。犯罪の、社会的な位置づけってこともある。シリーズが作られてるうち、新潟県で小学4年から19歳にいたるまで誘拐・監禁されていた女性が発見されるといういたましい出来事も。
DVDの付録に特典映像として、映画公開のときの初日舞台挨拶の模様が。そこにおける伊東美華という女優さんは、モデル出身のよくある、青山や有楽町を闊歩してそうな。美人だがあまり表情が豊かでない感じで、女優としての成功はむずかしそう。
ところが映画の中では、ほぼすっぴんで、小学3年からずっと監禁されてきたかわいそうな女性を好演。表情が乏しくうつろなところが、長いあいだ病的な男に支配された心の状態を迫真に映し出す。衝撃的なラスト・シーンも、シリーズの文脈からは外れるかもしれないが、現実の犯罪のことを考えると納得される。
モデル出身でバレーボールもやっていたとのことなので、もちろん体はたいへんきれいで、そういう期待も裏切らないよん。
これ公開されたのって、弊ブログの開始直後のことだったのね。伊東美華さんはこのあと目立った活躍をされてない様子なので、一期一会として舞台挨拶を目撃したかったなあと。チラシを見て、ちょっとでも心に引っかかったらマメに行動しないといけないナ
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『飢餓海峡』

2008-09-05 23:06:47 | 映画(映画館)
@京橋・東京国立近代美術館フィルムセンター小ホール、内田吐夢監督(1965年・日本)
10年の歳月の中で絡み合う4人。刑事2人と前科者と娼婦。追う者と追われる者の愛と運命を重厚に描き上げた不朽の名作。
当時、タイタニック号に次ぐ大惨事となった青函連絡船・洞爺丸転覆事故という実話に基づいて書かれた水上勉の長編推理小説を映画化。内田吐夢監督が“飢餓”というテーマを具現化するため特殊な映像処理を試み、登場人物たちの心理の影を巧みに映しだした超大作である。
昭和22年9月20日。台風10号の最中、北海道岩内で質店一家惨殺事件が発生。青函連絡船の惨事が起きたのはその直後だった。嵐の海は巨船を呑みこみ、船客532名の生命が奪われたが、収容した死体は乗客名簿より2名ほど多かった。函館警察の弓坂刑事は、この二つの死体が質店一家殺しに関係があると睨んで捜査を開始する。
それから10年、質店一家殺しの犯人を追う刑事、事件を闇に葬り事業家として成功する犯人、事件当夜から犯人に純愛を捧げる娼婦――偶然に翻弄される人間たちの運命は、舞鶴で起こった偽装心中事件によって再び手繰り寄せられる…。
三国連太郎、高倉健をはじめ、本作が東映初出演の伴淳三郎、左幸子ら豪華演技陣が、人間の心の中に潜む善と悪を追求した凄絶な人間ドラマである。



狭い意味での、密室殺人とかの謎が読者に提示されて、スーパーマンみたいな名探偵がそれを鮮やかに解決する、いわゆる「推理小説」ではない。
刑事コロンボみたいに犯人は最初からわかっている。犯罪をきっかけにさまざまな立場の人びとの絡み合う人間模様、そしてまたそれら立場の異なった人びとの心理にも共通して影響を与えずにはおかない時代背景・社会風俗などを地を這う人間の目線で丹念に描き出した総合小説の傑作といえよう。
実際の犯罪は名探偵が脳内でパズルを解くようにして解決されるものではない。連絡線が遭難して数多くの遺体が引き揚げられる現場にも立ち会った弓坂刑事は、乗船名簿に該当しない2つの遺体に疑問を覚えたときから人生が大きくゆらぐ。乏しい捜査費用を工面してもらって青森や東京にも出張してわずかな手がかりをシラミつぶしにあたるが質店一家強殺放火事件につながる成果を得ることはできなかった。それでも彼の執念の捜査活動は、彼がすでに警察を退職している10年後に思わぬかたちで再び光が当てられることになる。
連絡線遭難にまぎれて仲間を殺し、必死の思いで青森に渡りついた犯人が下北半島のさびれた漁村で泊まった宿の娼妓。彼女に対してちょっとした親切心を抱いてしまったことが、ずっと後にいたるまで犯人の、彼女の、刑事たちの運命を大きく左右する。
戦後の混乱が続いていた時代であり、立場上ヤミ米を買うわけにもいかない苦しい家庭生活をもかいま見せながら弓坂刑事が犯人・娼妓の心理を思って語る「体験した者でなければわからない極貧」という以外にもさまざまな当時の時代背景がなにごとかを語らずにはおかない。森林軌道、配給通帳、オンリーさん、預金のモラトリアム、戦後のインフレ、赤線…。
今の若い人にはなんのこっちゃわからないかもしれない。そのあたり、言葉でなく音と光、人間の表情、そのありさまを体感することのできるこの映画化は原作と過不足ない最高の映画化ではないだろうか。
一度TVサイズで見ておりどうしても映画館で見ておきたかった、のような思いは年配者の多い客席に共通していたようで、183分の上映時間の前半には左幸子の演技のユーモラスな部分など笑いもしばしば起こっていたが、後半はものすごいエンディングにいたるまでだんだんと客席の空気がピーンと張りつめていくのが感じられた。
邦画のオールタイムベスト等の定番作として、フィルムセンター以外でもわりと上映される機会の多い作品のようである。オラ黒澤明の『七人の侍』だけはどうしても映画館で見なきゃ、と思って機会を待ってるのだけど、一昨年だったかテアトル新宿の上映で長蛇の列できてて並ぶのあきらめちゃった。
ほら、黒澤映画はスペクタクルでしょ。映画館で見なきゃだよね。とわいえオラ映画にスペクタクルをあんまし求めてないので、求めてるとすれば本作や溝口健二作品のようなリアリズムや陰影ですので、いまだに『七人の侍』を見れてないにしても死ぬまでに見られればいいというか。

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パラリンピック女子書道

2008-09-03 20:14:03 | マンガ
「書の道」ひさうちみちお(『100万人のマスチゲン』青林堂、に収録。初出は漫画カルメン1982年5月号)
わたし松本伊代は花嫁修行のひとつとして書道を教わっていましたが、交通事故のため両腕を切断し、人の世話にならなければ何ひとつできない日常生活の不便、たくさんのボーイフレンドたちが去っていったこと、そして好きな書道を断念しなければならないことで絶望的な気持ちになり毎日死人のように暮らしていました。
そんなある日、書道の先生がお見舞いに来て「もし君がホントオに書をしたいと願っているなら腕など必要ない。やる気があるなら私の家に住み込んで朝から晩まで修行する覚悟が必要だが耐えられるか」と訊いてくれました。新しい生き甲斐を見つけたわたしは、先生のお宅で書道を究めるためありとあらゆる方法を模索することになったのです。


100万人のマスチゲン (1982年)
ひさうち みちお
青林堂

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鬼畜!と思います?身体障害者を題材とするエロマンガ。この本には他にも聾唖者の夫婦を題材とする「名もなく貧しく恥ずかしく」も収められてる。
しかし昨年、ひさうちみちおさんが青林工藝舎から出した『精G・母と子の絆』で老親のおむつを替えたり、親の性格のいやな部分も描くなどしてるのを見て、やっぱり…と。
責任を取る、というのとも少し異なる。一貫してる。若き日からの作風にぶれがない。あの、ひさうちみちおさんなら、老親の介護についてもきっちり描くだろうなあ、ということが「書の道」の作品にすでに明確に表れている。
とともに『100万人のマスチゲン』には、性風俗などを取り締まるとき見当違いな方向に行きがちな官憲や世間の良識、あるいは朝鮮人や乞食への差別の問題などもやや練りの少ない実験的なタッチながらさまざまに描かれてる。
初出の発表誌も、もろにエロマンガな漫画カルメン以外はガロ、漫金超、JUNE、マンガ奇想天外などとバラエティに富んでるね。
エロマンガを描く人ってのはだいたいが本当に好きで情熱をたぎらせて描いてるからさ、絵柄・作風といったものも多種多様なことが試しつくされちゃってる厳しい世界のように思うんだけども、ひさうちみちおさんの作風というのは近い人さえ誰も見つからない。似せること、盗むことも困難な、すべてにおいて作者の意思の貫徹されてる完全にオリジナルな存在。

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