マガジンひとり

オリンピック? 統一教会? ジャニーズ事務所?
巻き添え食ってたまるかよ

雑誌の興亡 #2

2008-10-30 21:16:10 | Bibliomania
【11】文藝春秋社解散 - 紙のない時代に
保守派でゆこうとする池島信平の編集姿勢は、用紙割当委員会からの用紙の配給が『世界』『中央公論』の半分か3分の1と低く抑えられる結果をもたらした。ヤミ紙が数倍もする価格だったので、公定価格で割り当てられる用紙が少ないと、32ページの『文藝春秋』をわずか数万部しか出せず、経営が立ち行かない。いよいよ菊池寛は文春の解散を決断するが、池島は社員だけで雑誌を続けるため、菊池から発行権を譲り受けて文藝春秋新社を発足させるまでにこぎつけた。

【12】新社設立 - 文藝春秋の関係者だけで
いっぽう新生社の青山虎之助も、文藝春秋社を買収し、編集長の池島を高給で迎えて文春の看板を配下に収めようと動き出していた。しかし池島や同僚たちは、ほかの社に移してまで文藝春秋を出したくない、なんとしても文春関係者だけで古いノレンを守ってゆきたい気持ちであった。この気持ちで新社設立にこぎつけた池島たちは、資金援助や印刷会社の側面支援も得て、昭和21年5月に『文藝春秋』復刊1号(6月号・上画像)を新社から発行した。定価は5円。新社発足時の社員11人の月給は全員同額の500円であった。

【13】創刊ラッシュ - 新しい時代の到来
日本出版協会の用紙割当委員会が各出版社・雑誌への用紙供給量を決めていたが、戦中に軍部によって廃業に追い込まれた『改造』『中央公論』や、岩波書店が戦後に創刊した『世界』、同じく筑摩書房が創刊した『展望』が優遇されていた。それまでの価値観が転倒した戦後には、これらの他にも『新時代』『人民評論』『時論』『世界文化』『世紀』など30を超す総合雑誌が創刊されたのだが、いま戦後創刊の総合雑誌で残っているのは『世界』1誌のみである。

【14】理想主義 - 自戒込めつくった総合雑誌
岩波書店という出版社は「書店」の名のごとく、教師から転身した岩波茂雄が大正2(1913)年に神田神保町に創業した古書店が出発点であった。値引き交渉に応じず正価販売を貫くような岩波の生真面目なやり方は夏目漱石に愛され、漱石の『こゝろ』を刊行させてもらえることになって出版業にも乗り出すようになったのである。以来、岩波書店は知識人を対象とした書籍を多く刊行し、昭和2年には岩波文庫、13年には岩波新書を発刊するのだが、戦後の昭和21年に出版人として初めて文化勲章を受けた岩波茂雄は、第二次大戦を知識人が阻止できなかったことに対する反省から大衆雑誌を発行したい希望を持ちつつ受勲の2ヵ月後に急逝してしまった。(下画像:岩波書店が刊行した夏目漱石の『こゝろ』と『道草』の函)



【15】『世界』創刊 - リベラル派文化人と結びつく
岩波書店が総合雑誌『世界』の創刊を岩波茂雄の存命中に実現できたのは、彼と親しかった安倍能成や志賀直哉、武者小路実篤らの同心会というグループにも雑誌発刊の計画があったからで、安倍が監修にあたり、岩波新書の創刊にもたずさわった岩波書店社員の吉野源三郎を編集長として創刊されることになった。教師志望であった吉野は、卒業した東京大学の図書館に勤めていたが治安維持法に引っかかって失職。やがて山本有三が新潮社で企画した「日本少国民文庫」の編集を手伝い、自らも『君たちはどう生きるか』を執筆し、岩波書店に入ると神がかりの国粋主義から日中開戦など戦争体制にのめり込んでゆく時勢を憂えて科学的精神や国際的な視野を広めようと、哲学者の三木清らと協力して岩波新書を企画する。

【16】文化建設のために - 社会水準に基因する戦争
『世界』創刊号となった昭和21年1月号はA5判192ページで定価4円。表紙裏に自社出版物の広告を載せている以外はいっさい広告がない。本文には美濃部達吉の「民主主義とわが議会制度」、和辻哲郎の「封建思想と神道の教義」といった論説のほか志賀直哉や里見の小説も。当初は前述の同心会との関係から保守党左派あるいは金ボタンの秀才の雑誌みたい、と冷評されもしたが、やがて同心会に代わって吉野源三郎の設立した平和問題談話会との関係が強まり、雑誌のカラーは反戦・平和を強く打ち出すものになってゆく。

【17】講和問題特輯 - 熱っぽく読者に語りかける
8万部で創刊された『世界』が、異例の増刷をかけるほど注目を集めることになったのが昭和26年10月号の「講和問題特輯」であった。当時サンフランシスコで調印されることになっていた講和条約の草案は、ソ連や中国の参加しない「単独講和」と呼ばれるもので、共産主義の台頭を警戒する新聞などほとんどの論壇に推されていたものの、『世界』同号では巻頭の「読者へ訴う」からして真剣に日本の前途と世界平和の観点からこれに異を唱えたのである。

【18】『文藝春秋』と『世界』 - 創業者の思想を反映
毎日新聞社から出た『岩波書店と文藝春秋』の巻頭インタビューで司馬遼太郎は文春出身の半藤一利の質問に答え、両社の創業者の資質の違いをこう表現している。司馬によると岩波茂雄と菊池寛は《エリートコースの一高→帝大と進む過程でともに挫折を味わい大学は選科であったことから、それぞれの主題を生涯長持ちするものにした》が、《岩波は理念を考え、菊池は世界を散文に置きかえることを考えた》という。「絶対」という架空の一点を見つめる岩波のジャーナリズムと、日露戦争の生き残りのチンドン屋に取材するなど地べたから歴史を見つめる文春のジャーナリズム。このことに戦後の文藝春秋社復活の理由も表れている。

【19】引っ越し - 社員総出で同志的結合
用紙の配給量からも他社に遅れをとってしまう厳しい状況下で新社として発足した文藝春秋社は、逆境を社員の団結で乗り切ったのである。進駐軍に接収されるので仕事場の大阪ビルから出なければならなかったときも、急遽決まった引っ越し先に社員総出で荷物を運んで移動。『文藝春秋』のほか『オール読物』も復刊にこぎつけたが、社長の佐佐木茂索と創業者の菊池寛がGHQから戦争協力者として追放命令を受け、さらに編集局長と『文藝春秋』編集長も兼ねていた池島信平が過労から病気療養を余儀なくされる。

【20】『リーダイ』から学ぶ - 最後まで読ませる工夫
病気で静養していた池島信平が、退屈しのぎに読み漁った内外の雑誌。中でも彼はアメリカの『リーダーズ・ダイジェスト』から徹底的に学ぼうと決めた。今までの日本の編集者がむずかしい議論や空疎なイデオロギーにこだわって自分で雑誌を狭くし、読者を限定していたのに比べ、『リーダイ』は高度な内容をも、シュガー・コーテッド(糖衣)といわれる編集法でやさしく読者に伝えていた。どんな記事でも初めの5~6行ですでに最後まで読ませる表現法を必ずしていたのである。
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『旅芸人の記録』

2008-10-14 21:51:34 | 映画(映画館)
O Thiassos@池袋・新文芸坐、テオ・アンゲロプロス監督(1975年ギリシャ)
たぐいまれな詩の力みなぎる壮大なギリシャ現代悲劇!
1975年に完成され、同年カンヌ映画祭監督週間にひそかに出品されて世界初公開となったテオ・アンゲロプロス監督の『旅芸人の記録』の登場は、映画をつくる人びとにとって、映画を見て愛してやまぬ人びとにとって、大きな歴史的事件となった。4時間に近い上映時間を前もって知らされ、おっかなびっくり話の種に見に来た人びとも含めて、そのまま画面に釘づけになったように魅了され、熱い血でつづられた現代ギリシャ史の壮大な壁画であるこの映画に心からの熱い拍手を贈った。ある者は泣き、ある者は叫んだ。そして2度見るために―4時間近くの大長編を、カンヌで、深夜の追加上映でさえ!―人びとは席を争って悔いなかった。その限りない美しさ、深さ、力強さ、幾層にも積み重ねられた底力の重みを、当地で初めて目にした各国の記者・ジャーナリストたちが、それぞれの言葉で打電した。そして『旅芸人の記録』を、上映時間の長さのみを理由にコンクール作品に選びきれなかった映画祭当局のためらいを残念がり、満場一致で国際批評家大賞に選出した。

<ヤクセンボーレ!>は今世紀ギリシャの旅芸人たちの、おなじみの呼び込みの歌声。町でも、海でも、村でも、山でも、座員の誰かが即興で歌い叫んでお客を呼び入れる言葉に、残る一座の全員が<ヤクセンボーレ!>と唱和して景気をつける。
『旅芸人の記録』は、そうした旅芸人一座のひとつで『羊飼いの少女ゴルフォ』という五幕ものの戯曲だけを演目にしている一座の、アコーデオン弾きの老人の口上から始まる。
1952年の晩秋。南ギリシャのペロポネ半島の小さな町エギオンに降り立つ十数名の一座。エレクトラ(エヴァ・コタマニドゥ)がいて、ピュラデスがいて、初舞台を今夜迎えるクリュソテミの成人した息子がいて、老男優がいて、アコーデオン弾きの老人がいて、そのほか新しい顔ぶれの俳優たちがいる。町は、数日後の11月16日の大統領選挙を控え、“救国の英雄”パパゴス元帥の選挙カーの演説とビラに包まれて騒然としている。
同じエギオンの、さかのぼって1939年の晩秋を、同じ旅芸人一座がゆく。エレクトラがいて、父で座長のアガメムノン、母クリュタイムネストラ、妹クリュソテミ、その幼い息子の一家に、ピュラデス、詩人、老男優、老女優、アコーデオン弾きの老人、そしてアイギストスの11人。うらさびれた港町エギオンのその夜の舞台から、エレクトラは、『羊飼いの少女ゴルフォ』のゴルフォ役を母から受け継ぐことになっており、ゴルフォの恋人タソスの役を、本来なら弟オレステス(ペトロス・ザルカディス)が父アガメムノンから受け継いで姉弟そろっての初舞台となるはずだったが、オレステスは兵役にとられてしまったのでピュラデスが演じることになった。面白くないのは、クリュタイムネストラの情夫アイギストス。彼はさっそく、ピュラデスを秘密警察に密告するために町に消える…。
神話の人物たちが現代ギリシャの旅芸人になってよみがえり、ギリシャ全土を巡業しながら、1939年から1952年までの14年間の、占領、圧政、反乱の血なまぐさい歴史を、叙事詩さながらに映像に記録してゆく。
1936年生まれの監督テオ・アンゲロプロスは70年代、革命前の軍事政権下で現代ギリシャ史をあつかった三部作を制作。苛烈な軍事独裁をえぐった『36年の日々』に続いて、ギリシャ国民を長く苦しめることになった1940年代の占領→内戦を旅芸人の一座を通して描き出した『旅芸人の記録』によって名声をとどろかせた。

この映画のことを、映画の歴史における金字塔と教わってきた。『天井桟敷の人々』や『ブリキの太鼓』のような。ところが、たいへん長くて複雑な話なので予備知識を仕入れておこうと思ってウィキペディアをあたってみると、映画『旅芸人の記録』のページが用意されているのは、ギリシャ語版のほか英語版と日本語版の3つのみ。しかも英語とギリシャ語のページはあっさりしたもので、あらすじも記されてない。日本語のページのみが詳細に記述している。
ひょっとして、日本人のみが「歴史的傑作」と称してるんだろ~か。BIG IN JAPAN。旅芝居の人びとが主役なだけに、劇中劇のほかにも芝居がかったことが暮らしの中に多く見られる。語り、歌い、踊る。転がる石のような暮らしだが、芝居のようにおもしろおかしく生きていこう…それでもおもしろおかしいというよりは、わびしい…さびしい…それが日本人好みで、イギリスとかフランスとかアメリカとかいばってる国の人たちから見るとしみったれて見えるのかもしれない…当初はそう思った。
ところが最初の1時間を過ぎるあたりから、とうていそれどころではないことになってきた。圧倒される。「映画」というよりは「体験」である。詩であり、音楽であり、演劇であり、らんちき騒ぎであり、デモ行進であり、戦争である。その中には、遠くギリシャ神話からのこだまも響くものの、落ちぶれ果てた小国のギリシャはトルコに侵略され、イタリアに侵略され、ドイツに侵略される。ドイツが去ると、イギリスの支援を受けた右派政権と、共産主義パルチザン勢力のあいだで深刻な内戦が起こる。弟オレステスは兵役からパルチザン勢力に身を投じ、最後は獄死する。
「ギリシャを解放する」と称して実のところ支配下に置きたい野心のあるイギリス軍は、検問の際に一行を役者と知って芝居をやるよう要求し、興が乗ってくると歌って踊りだすなど人間的な一面も見せるものの、処刑したパルチザン兵の生首を見せながらジープで行軍するような残虐な面も。
映像は、周囲の国からもてあそばれ、右派と左派に引き裂かれてしまったギリシャの国の悲しみにあふれているが、声高に告発するという感じではない。静かで哀切で、どこか懐かしくさえ思えるような。複雑で登場人物の多い物語のあらましをおぼろげながらつかむことができたので、いずれ年をとったらもう一度見てみたい、帰ってきたい。
クラシックは逃げないからいいよ。いつも同じ場所にいてくれる。この映画が英語ウィキペディアで詳述されておらず、他言語のページも見当たらないのは、いばってる国の価値観からすると都合の悪い歴史を描いてるからかもわからない。
ひょっとすると片思いかもしれないが、この映画を愛することのできる日本人てのは捨てたもんじゃない、と思えたことであります。
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雑誌の興亡 #1

2008-10-13 15:22:37 | Bibliomania
【1】過酷な時代 - 「書高雑低」が定着
今年に入って『論座』『現代』『月刊PLAYBOY』『ロードショー』といった名のある月刊誌の休刊が伝えられるなど雑誌という出版形態を取り巻く状況は厳しい。書籍・雑誌を合わせた出版物の推定販売金額はここ10年ほどマイナス成長が続き、1996年を頂点として、2007年の2兆853億円という数字は18年前の1989年まで逆戻りしたことになる。かつて出版界においてプラス成長が続いていたときには「雑高書低」といわれたほど雑誌の勢いがよかったものの、今年の1~7月の累計を前年同期と比べてみると、書籍はマイナス2.7%、雑誌がマイナス4.1%で、雑誌の売れゆきの低下傾向が表れている。

【2】西洋雑誌 - 始まりはオランダ語の翻訳
ある調査によると今年発行された雑誌は3480誌にのぼるとされるが、これは取次ルートを経たものの数字で、直販ルートの出版物などを合わせればさらに多い。
世界の雑誌の起源とされるのは17世紀にフランスで発行された新刊紹介のカタログで、独立した定期刊行物としては1665年1月にパリで創刊された『Journal des Savants(ジュルナール・デ・サバン)』という法律学術誌と、同年ロンドンで刊行されたイギリス学士院会報が最初である。雑誌を意味するフランス語のジュルナール(英語のジャーナル)のほか英米ではMagazine(マガジン)という言葉が倉庫・貯蔵庫という意味から転用されて用いられるようになった。日本ではこれを「雑誌」と翻訳して、明治の前年である1867(慶応3)年に柳河春三(しゅんさん)により最初の雑誌『西洋雑誌』が創刊された(上画像)。この雑誌はオランダ語に通じていた柳河がオランダで発行された雑誌の中からおもしろい記事を翻訳して掲載したものである。

【3】○○雑誌 - 時代の転換期が生み出す
風俗史を研究していた宮武外骨は、明治6(1873)年から22年までに「雑誌」という言葉を使った雑誌が220点あったことを調べた。『海外雑誌』『民間雑誌』『信教雑誌』といったもので、英米の草創期に「マガジン」をうたった雑誌が多く現れたのと似ているが、これらは明治という新しい時代に指導者層がいかに対処してゆくか、はたまた人びとをいかに啓蒙してゆくか、という時代の転換期が生み出したものといえよう。明治20年には、後に『中央公論』となる『反省会雑誌』とともに総合雑誌のルーツと呼べる『国民之友』が徳富蘇峰によって創刊された。これらは初期の雑誌より多様化して商業的色彩を帯びており、中でも大正14(1925)年に大日本雄弁会講談社から創刊された『キング』は創刊号にして74万部、昭和に入ると100万部を突破するほど人気を集めた。

【4】戦後初の本格総合誌 - 発売即日に売り切れ
菊池寛によって創刊され、いまや総合月刊誌の代表ともなっている『文藝春秋』も終戦直後には沈滞し、隣りのビルに入っている敗戦後にスタートしたばかりの新生社の活気に圧倒されていた。朝になると新生社の入っていたビルの周囲にはリュックを背負った小売書店主がたむろして行列を作るほどであった。そこから創刊されたのが『新生』で、創刊号はB5判32ページ、本文・表紙ともザラ紙であったが、戦後最初の本格的総合誌とあって36万部の発行部数はまたたくまに売り切れてしまった。

【5】『新生』創刊 - めざましい発展の推進役
敗戦の年の昭和20年10月10日に創刊された総合雑誌『新生』の目次には、室伏高信、尾崎行雄、小林一三、正宗白鳥らそうそうたる顔ぶれが名を連ねた。さらに創刊2号の12月号には永井荷風も登場した。それらによって『新生』の人気はいよいよ高まり、新生社は『女性』『花』『東京』といった雑誌を次々と創刊、昭和21年には社員を180名に増やして自社ビルに移るなど活況を呈した。その推進役となったのが青山虎之助という人物である(下画像)。



【6】文学青年 - 次々同人誌創刊、執筆活動も
青山虎之助は大正3(1914)年の生まれで、新生社を創立したときには31歳の若さであった。彼は岡山県の出身で、地元にいた10代の頃から熱心に詩や小説の同人誌を発行していた。やがて大阪や東京で丸善石油の勤め人となるが、『茉莉花』という文芸同人誌の活動にも熱心で、著名な小説家とも親交を深めて寄稿してもらうなどした。戦時中は軍需工場に入って徴兵をまぬがれ、家族は岡山に疎開させて自分は熱海の旅館に滞在して東京へ通い、三宅晴輝や室伏高信の知遇を得た。敗戦の玉音放送は郷里の岡山で聞き、9月に100万円の預金通帳を持って上京、室伏と三宅に顧問になってもらって創刊したのが『新生』であった。

【7】破格の原稿料 - 相場の10~30倍超
『新生』が著名な執筆者を集めることができたのは、従来の青山のコネ以外にも破格の原稿料と貴重な物資を提供したためであった。昭和20年当時の400字詰め原稿1枚につき3円という相場に対し、『新生』は評論に30円、小説に50円、呼びものとなるような大家には100円(現在では20000円以上に相当)を支払った。また青山は執筆者を訪ねるときは米、砂糖、酒、輸入タバコなどの手みやげを欠かさなかった。このような執筆者への優遇は、他の出版社にとっては脅威となるものであり、戦前は芥川・直木賞を創設するなど活発に動いた文藝春秋社は戦後には完全に出遅れてしまったのである。当時の文藝春秋社には、ヤミ紙を入手してでも雑誌を出していこうとするような猪突猛進する気迫が欠けていたといわれる。

【8】鎌倉文庫 - 文士のための文士の出版社
文藝春秋社の沈滞について社長・菊池寛は「うちの重役の久米(正雄)なんかも、社が苦しいときに味方になってくれるどころか、鎌倉の連中と一緒に鎌倉文庫に行ってしまって、文藝春秋と似たような雑誌を出している」と嘆いたとか。鎌倉文庫とは、鎌倉在住の作家たちが、蔵書を持ち寄って作った貸本屋を母体として設立した出版社である。久米正雄、川端康成、里見、高見順らが参加して、軍需で儲けた洋紙店と合弁して終戦後の9月14日に出版社として発足した。

【9】丁度いいところへ - 「鎌倉文庫」のにぎわい
巌谷小波の子息で文芸家協会書記から戦時中は日本文学報国会事業課長となっていた巌谷大四も、戦後に失業していたところを鎌倉で高見順とばったり出会ったことから鎌倉文庫の出版部長を務めることに。鎌倉文庫は『現代文学選』などの双書のほか雑誌『人間』や『文芸往来』を創刊。編集局長には、戦前『改造』の編集長を務めながらも言論弾圧事件の横浜事件に連座して逮捕された大森直道を迎えた。後に文春社長となる池島信平は、知り合いだった大森を鎌倉文庫に訪ねてみると生き生きと働いており、編集室全体も当時の文春からはうらやましく思われるほどの活気にあふれていた。

【10】にがにがしい思い - 保守派でゆく決意
文春の池島信平が、新生社や鎌倉文庫といった新興出版社の台頭に接して覚えた悲哀は、戦後という時代に直面して旧来の権威が通用しなくなったことの表れであった。池島は昭和8年に文藝春秋社へ入ったが、その頃の文春は総合雑誌のトップにある『文藝春秋』のほか小説誌の『オール読物』も発行するなど堂々たる地位についていた。戦時中は召集されて兵隊となっていた池島は、栄光の座を降りた『文藝春秋』の編集長となったものの、戦時中に神州不滅とか天皇帰一とか言っていた者が《一夜にして日本を四等国とののしり、天皇をヒロヒトと呼び捨てにする》戦後の風潮がにがにがしくてならなかった。それならば“保守派”でゆこう、としたものの、そのような編集姿勢は「進歩的でない」ということで白眼視され、経営にも影響するようになる。


※書評紙『週刊読書人』の編集主幹を務める出版ジャーナリストの植田康夫氏により東京新聞夕刊に連載されている『戦後日本・雑誌の興亡』。「マガジン」とうたう弊ブログでも、この連載記事を抄録して随時掲載してゆくこととします。
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旧作探訪#37 『人喰いアメーバの恐怖』

2008-10-12 18:23:19 | 映画(レンタルその他)
The Blob@DVD、アーヴィン・S・イヤワースJr.監督(1958年アメリカ)
スティーヴ・マックィーンの映画初主演作!最初の敵は、恐怖の怪物“ブロブ”だった―。
北米の小さな田舎町。青春を謳歌する高校生カップルのスティーヴ(スティーヴ・マックィーン)とジェーン(アニタ・コルソー)が愛を語らっていると、目の前を流れ星が落ちてきて、付近に落下した様子。落ちた場所を二人が探していると、腕に得体の知れないドロドロした物質がからみついて苦しんでいる老人がいた。二人は老人を医者のもとへ連れてゆくが、謎の物質ブロブは老人も、医師・看護師も次々と呑み込んで巨大化してゆく。
事情を話しても警察に信じてもらえないスティーヴは仲間たちに呼びかけて、怪物から町を救おうと苦闘を繰り広げる…。
東西冷戦や宇宙開発競争が進む50年代はSF映画・パニック映画の草創期でもあり、中でもこの作品は後に続く多くの亜流作品の原点として愛されている。最初から大スター然としていたといわれるマックィーンの演技とともに、売れない頃のバート・バカラックが楽しげなテーマ曲を書いているのも見逃せない。



THOSE OLDIES BUT GOODIES…みなちゃまのお家にカラーTVがやってきたのは、いつのことでしたか。オラのお家は1972年・小2のとき。したがって71年に放映されてた『帰ってきたウルトラマン』は白黒で見てたことになる。いま画面のすみっこに「アナログ」とか出ることがあるけど、この当時はカラーで制作された番組の画面のすみっこに「カラー」って表示されることがあった。白黒TVで見てる人もいっぱいいたのだ。弊ブログを訪問してくれてる人たちは、そ~ゆ~懐古談義をわかってくれるでしょか。お~い。みなちゃまは何歳くらいなんですか~~
他のブロガーさんたちなら、文章とか取りあげてる題材とかで、だいたいは推測つくよん。よくコメントをいただいてるAQUAMULSAさんは同年代の女性。
そのAQUAさんのブログ『音楽の迷宮』にて、ある日「とろとろーっと玉虫色のゲル状物質が流れだして」という記述が。そして翌日には「昔しょっちゅうテレビの名画劇場で放映されてました」という記述が。前者はマーク・アーモンド氏の歌声についての形容で、後者は亡くなったポール・ニューマン氏の『暴力脱獄』について。直接の関連はないが、その2つの記事を続けて読んだことによってピーンとひらめいてしまったのら。この映画のことが。
いや“玉虫色”ではなくて、真っ赤なんですけどね。カラーTVで映えるような毒々しい、真っ赤なゼリー状の。小学生当時に少なくとも3回か4回は見てるはずの定番であった。
ところが、DVDを見ていて、あれ?こんなんだったっけ…そうして最後まで見ていくと終わり方がぜんぜん違う。たしか巨大化した「ブロブ」をスケートリンクで凍らせて一件落着、と思いきやTVインタビューを受ける保安官の足下のブロブが溶け出して…という終わり方であったはず。
気になって調べてみると、その何回も見た記憶があるのは、この映画の続編、といってもパロディ味の濃厚な『SF/人喰いアメーバの恐怖No.2(原題Beware! The Blob)』という映画らしい。ちゃんちゃん!
残念なことにそちらのほうはビデオ化もDVD化もされてない模様。どこかでDVD化してくれないかなあ。いやこの世代は重箱の隅をつつきまわすような紙ジャケ再発CDを買うくらいなので少なからずの需要あると思うよん。

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旧作探訪#36 『ブギーナイツ』

2008-10-05 22:32:41 | 映画(レンタルその他)
Boogie Nights@レンタル、ポール・トーマス・アンダーソン監督(1997年アメリカ)
誰もがぴかぴかのプライドを持ち、誰もが夢を追い続けていた。輝くために、後ろを振り返らないために…。
1977年、ロサンジェルス郊外の街のナイトクラブで、ひとりの少年エディ・アダムス(マーク・ウォールバーグ)が、ポルノ映画監督ジャック・ホーナー(バート・レイノルズ)からスカウトされる。「ジーンズの股の間に宝が眠ってるぞ」。なんの取り柄もないと周囲から見られていたエディは、人並み外れた“巨根”の持ち主だったのである。
やがてダーク・ディグラーという芸名でポルノ映画界のスターとなった彼であったが、その業界には麻薬をはじめとする危険な誘惑が待ち受けており、そしてポルノ映画界そのものもホームビデオの普及によって存続の危機に瀕していた…。
撮影当時、若干26歳であったポール・トーマス・アンダーソン監督の出世作であり、その若さにして描き出した70~80年代はまさに当時そのもの。いかがわしい業界であるが、それでも“映画”の世界である。そこに見つけることのできる、人間の誇り、愛、情熱はどのようなものであったか。さらに色を添えるのは、エモーションズの「Best of My Love」やコモドアーズの「Machine Gun」といった、当時のちょっと安っぽいヒット曲の数々! マーク・ウォールバーグ、ジュリアン・ムーア、ヘザー・グラハムら俳優陣の好演も見逃せない。



みなちゃまはブルーレイ・ディスクの機械って買うつもりですか~ オラは予定してないですだ。というか、TVが地上波デジタルになったら、少なからずの人がTVそのものを見ないことになりそう。なくても困らないよん。TV。
媒体が入れ替わるときってたいへん。レコードからCDに替わる。カセットからMDに替わる。それらからiPodに替わる。そのたびに膨大な出費と手間を。まあ音楽でしたら我慢もしますが、映像なんて別にそれほどまでして手元に残しておきたくは…。子どもでもいると違うのかナ
しかしDVDとかブルーレイの登場と異なって、VHSとベータマックスが規格争いを繰り広げてホームビデオ装置が普及してきたときは、けっこう革命的だったような。自宅にいながらにして映画を見られる。そしてなんといっても普及に貢献したのはアダルトビデオの存在でっしゃろ。現れては消えていったAV女優の名前をいくらでも思い出すことができるだ。
でも男優の名前なんて加藤鷹くらいしかわかんねえ。普通、男は勃たないよ?スタッフとかいっぱいいる衆人環視の中では。頭の中の配線の1本や2本切れてないと、とても無理。そういう世界に、自分が輝ける夢を見つけた男の子の話。
そしてそこに、自分が映画を作ってゆく鉱脈を発見したポール・トーマス・アンダーソン。この作品のあと『マグノリア』『パンチドランク・ラブ』『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』と撮っている。うちマグノリアを除く2本を見た。
今までなんとなく好きになれない監督であった。音楽ひとつ取ってみてもパンチドランク・ラブではデビッド・リンチ風なヌメッとした。ゼア・ウィル・ビー~ではオーケストラを用いた荘重な。ここでは当時のディスコで流れてたような。
作風がばらばら。どれが本当にやりたいことなんでしょ。なおかつどの作風においても基準を大きく超える秀作として評価されてるのね。体操の個人総合で優勝する選手みたい。失敗がない。
ゼア・ウィル・ビー~と、コーエン兄弟によるノーカントリーを同じ日に見て思ったのは、コーエン兄弟に比べて監督の主観が少ない。客観的に緻密に作られてはいるものの、監督の人間味みたいなものが出てなくて感情移入しづらい。とわいえ正確無比な仕事ぶりは、おそらくこれから歴史ものや文芸ものなどで達人の領域に入ってゆくのではないか。この映画も時代の波に翻弄されるポルノ映画界の興亡を描いて、ジャック・ホーナーが出資者から「これからは簡便なビデオの時代だ。作家性とかは必要ない。男が興奮できりゃいいんだ」と言われるシーンが。
そしてそのような世界で再起を果たそうとする主人公たちの最後のひと続きのくだりで、アンダーソン監督の映画に賭ける思いの強さを感じて心ゆさぶられたです。そのところの音楽ビーチ・ボーイズ「God Only Knows」、ELO「Livin' Thing」がすごくて、劇場で味わいたかったなあと。いや公開当時は存在さえ知らなかった。これからは見逃しませんとも。今はアメリカも経済状況が悪くて資金調達がたいへんと思うけど、辛抱強く進んでいただきたい。
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