日本のジプシーといわれるさんか(山窩)とは、一体どんな民族であろうか?
農村でよく見かける箕(み)づくりがそれである。彼らは農家で新箕(あらみ)を売ったり修理をしたりして、その生活をたてている。従って部屋のある住居はもたず、村はずれの林の中や、川のほとりにセブリ(瀬降)という天幕小屋を設けて、近辺の仕事を一通りすますと、天幕をたたんで次の場所に移動するのである。これがジプシーといわれる所以である。
彼らは純粋の大和民族を以て任じ、太古神代の時代に、われわれの先祖が穴居生活をしていたころからこの地に住み、天孫火明命(ほあけのみこと)の命令で穴から地上に脱け出したときの姿が、つまりそのままセブリとして残っているのだと伝承されている。
彼らの特徴は、ウメガイというアメノムラクモノツルギと同型の双刃(もろば)の山刀をもち、テンジンという古代そのままの自在鉤を使用し、その他もろもろの厳しい掟(ヤエガキまたはハタムラという)に従って生活している等、古来の慣習や掟を今も頑固に守りつづけていることである。そして全国的に強固な組織をもち、丹波(京都府)にいる乱破(らんぱ)という統率者(これをおおやぞうという)を最頂点に、透破(とうは)、突破(とっぱ)というその次の親分格、その下にまた(武蔵とか山城などのような)各国別の親分(やぞう、クズシリという)、郡長格にあたる親分(クズコという)があって、さらにその下に村長格(ムレコという)の各一団の親分があって、各末端のセブリを統御しているのである。
彼らは自分たちのことを山窩といわずに、「テンバ」(転場者)といっている。性温順で義を重んじるが、剽悍(ひょうかん)野性的一面もあり、明治以後には戦争で金鵄勲章をもらったり、名誉の戦死をとげた者も数多い。
江戸時代から明治を経て、その数が減ってきたといっても、死に絶えたのではなく、一般人にとけこんだのである(これをトケコミという)。今次の戦争ではさらにこれが激増し、ほとんど絶滅に近い状態である。つまり普通人と見分けがつかなくなってきたのである。しかし未だ全国には一万人近い彼らが散らばって、原始そのままに生きているのである─ (三角寛 『山窩物語』 冒頭部分)
三角氏が昭和23(1948)年、福知山市で撮影したセブリの様子。どうしてもテンジンと火壺(ほど)を撮りたくて、渋るセブリ主を説き伏せたとのこと
同じく昭和24年、埼玉県南部で撮影した箕作りのための工具。中央に見える両刃の刃物がウメガイ
昭和25年、埼玉県南部で。風呂桶をもたないサンカは、地面に穴を掘り、ビニールシートを敷いて水を汲み入れ、焼き石を投入、ぬるま湯にして入浴するのだとか
昭和27年、同じく埼玉県南部で撮影した、箕作りの両親の間に生まれた女児。小学校の優等生とのことで、就学児童が増えてトケコミが進んだのもサンカ絶滅を促していると三角氏
昭和7年、警察から三角氏が入手したという、サンカを逐われた男が持っていた炙り出しの暗号で書かれた地域ごとの一族の分布─というのは三角氏の捏造・創作で、以上の写真や学説も信憑性に乏しいとされる
竹細工や川魚漁を営む漂泊民で、神代からの先住民でもあるサンカというのは、明治期以降の官憲・マスコミ目線で三角氏が創作した部分が大きく、この言葉で渡りの職人や農村・山間部の非定住民を一くくりにするのは無理があると近年の民俗学では指摘されている。後世の創作といえば、いわゆる「忍者」にもその色が濃いが、この白土三平氏の『サスケ』では、サスケをさらって子どもに忍術を教えさせようとして無残な結果を招く役回りで山の民が登場
●三角寛(みすみかん, Kan Misumi)─明治36(1903)年、大分県生まれ。10歳で仏門に入り、のち大正15年、朝日新聞社に入社。「説教強盗」の報道で知られる。永井龍男の勧めで小説家となり、「山窩(サンカ)」という独特な題材で「丹波の大親分」「犬娘お千代」など一連の小説を書き人気を博す。
戦後は映画館の経営に携わるかたわら昭和37年、論文「山窩社会の研究」で東洋大学から文学博士号を受けるが、後にそれらの研究は多くの部分が捏造・創作であることが明らかになり、民俗学の信用をも傷つけることになった。
母念寺出版から全集を刊行中の昭和46(1971)年に死去し、未完に終わるものの、2000~01年に現代書館から全7巻の『三角寛サンカ選集』として小説・論文がまとめられた(以上の写真や引用も同選集より)。
※参照:のち13年5月にアップした記事「拘束銀行」に、沖浦和光氏が著書『幻の漂泊民・サンカ』で、同氏および先行者である後藤興善氏が、三角寛氏により警察情報に基づく誤ったサンカ概念が小説として広く流布したことを批判する記述を引用
農村でよく見かける箕(み)づくりがそれである。彼らは農家で新箕(あらみ)を売ったり修理をしたりして、その生活をたてている。従って部屋のある住居はもたず、村はずれの林の中や、川のほとりにセブリ(瀬降)という天幕小屋を設けて、近辺の仕事を一通りすますと、天幕をたたんで次の場所に移動するのである。これがジプシーといわれる所以である。
彼らは純粋の大和民族を以て任じ、太古神代の時代に、われわれの先祖が穴居生活をしていたころからこの地に住み、天孫火明命(ほあけのみこと)の命令で穴から地上に脱け出したときの姿が、つまりそのままセブリとして残っているのだと伝承されている。
彼らの特徴は、ウメガイというアメノムラクモノツルギと同型の双刃(もろば)の山刀をもち、テンジンという古代そのままの自在鉤を使用し、その他もろもろの厳しい掟(ヤエガキまたはハタムラという)に従って生活している等、古来の慣習や掟を今も頑固に守りつづけていることである。そして全国的に強固な組織をもち、丹波(京都府)にいる乱破(らんぱ)という統率者(これをおおやぞうという)を最頂点に、透破(とうは)、突破(とっぱ)というその次の親分格、その下にまた(武蔵とか山城などのような)各国別の親分(やぞう、クズシリという)、郡長格にあたる親分(クズコという)があって、さらにその下に村長格(ムレコという)の各一団の親分があって、各末端のセブリを統御しているのである。
彼らは自分たちのことを山窩といわずに、「テンバ」(転場者)といっている。性温順で義を重んじるが、剽悍(ひょうかん)野性的一面もあり、明治以後には戦争で金鵄勲章をもらったり、名誉の戦死をとげた者も数多い。
江戸時代から明治を経て、その数が減ってきたといっても、死に絶えたのではなく、一般人にとけこんだのである(これをトケコミという)。今次の戦争ではさらにこれが激増し、ほとんど絶滅に近い状態である。つまり普通人と見分けがつかなくなってきたのである。しかし未だ全国には一万人近い彼らが散らばって、原始そのままに生きているのである─ (三角寛 『山窩物語』 冒頭部分)
三角氏が昭和23(1948)年、福知山市で撮影したセブリの様子。どうしてもテンジンと火壺(ほど)を撮りたくて、渋るセブリ主を説き伏せたとのこと
同じく昭和24年、埼玉県南部で撮影した箕作りのための工具。中央に見える両刃の刃物がウメガイ
昭和25年、埼玉県南部で。風呂桶をもたないサンカは、地面に穴を掘り、ビニールシートを敷いて水を汲み入れ、焼き石を投入、ぬるま湯にして入浴するのだとか
昭和27年、同じく埼玉県南部で撮影した、箕作りの両親の間に生まれた女児。小学校の優等生とのことで、就学児童が増えてトケコミが進んだのもサンカ絶滅を促していると三角氏
昭和7年、警察から三角氏が入手したという、サンカを逐われた男が持っていた炙り出しの暗号で書かれた地域ごとの一族の分布─というのは三角氏の捏造・創作で、以上の写真や学説も信憑性に乏しいとされる
竹細工や川魚漁を営む漂泊民で、神代からの先住民でもあるサンカというのは、明治期以降の官憲・マスコミ目線で三角氏が創作した部分が大きく、この言葉で渡りの職人や農村・山間部の非定住民を一くくりにするのは無理があると近年の民俗学では指摘されている。後世の創作といえば、いわゆる「忍者」にもその色が濃いが、この白土三平氏の『サスケ』では、サスケをさらって子どもに忍術を教えさせようとして無残な結果を招く役回りで山の民が登場
●三角寛(みすみかん, Kan Misumi)─明治36(1903)年、大分県生まれ。10歳で仏門に入り、のち大正15年、朝日新聞社に入社。「説教強盗」の報道で知られる。永井龍男の勧めで小説家となり、「山窩(サンカ)」という独特な題材で「丹波の大親分」「犬娘お千代」など一連の小説を書き人気を博す。
戦後は映画館の経営に携わるかたわら昭和37年、論文「山窩社会の研究」で東洋大学から文学博士号を受けるが、後にそれらの研究は多くの部分が捏造・創作であることが明らかになり、民俗学の信用をも傷つけることになった。
母念寺出版から全集を刊行中の昭和46(1971)年に死去し、未完に終わるものの、2000~01年に現代書館から全7巻の『三角寛サンカ選集』として小説・論文がまとめられた(以上の写真や引用も同選集より)。
※参照:のち13年5月にアップした記事「拘束銀行」に、沖浦和光氏が著書『幻の漂泊民・サンカ』で、同氏および先行者である後藤興善氏が、三角寛氏により警察情報に基づく誤ったサンカ概念が小説として広く流布したことを批判する記述を引用
気づけば、その前に私はサンカの白い△テントを訪れたことがあり、また、私の友人はいきなり裏山からおじさんがざざっと降りてきてまたすぐ山の中に消えたことがあると言っていました。それもサンカだと思います。
また、私の友人の友人(女性)は東北のどこかのサンカに弟子入りして東京から通っているとか・・・
サンカが実在するのがいまだに不思議ですが、あれから何年も経っているので今はどうしているのでしょうか。
川に近い家に住んでいましたが定住者だと思います。中学までは同窓でしたから。
母が、在日の友人と同じく彼と遊ぶのを嫌っていました。今思えば差別ですね。
その後、高千穂の山間部の女性と結婚しまして実家に行くと見事な竹細工が。
聞くと、農家の方が普通に作るよとの事。器用不器用があるので家々で出来は違うのでしょうが。
家内の実家は典型的な山の農家。大きな梁の藁葺き屋根です。
想像ですが、さまざまな生活スタイルの人が長い年月でミックスされたのが日本でしょう。
ただ、時の権力者が区別して治世しやすくしたんだと思います。