マガジンひとり

自分なりの記録

デビッド・ボウイの287曲と小室哲哉の806曲

2008-11-30 18:47:23 | メディア・芸能
11月4日、著作権譲渡をめぐる詐欺の容疑で、人気プロデューサー・小室哲哉容疑者と広告会社経営・木村隆容疑者、イベント企画会社社長・平根昭彦容疑者が大阪市内で逮捕された。
小室容疑者ら3人は、約2年前に大阪の投資家に対し「小室の著作権806曲分を10億円で譲渡する」と話を持ちかけ契約。その半金5億円を先に払い込ませ、だまし取った疑い。
音楽界の大物が起こした前代未聞のこの一件は、間違いなく日本の芸能史・音楽史に残る大事件だ。
朝からワイドショーで生中継された映像を見た読者も多いだろうが、小室容疑者が逮捕された場所は新大阪のホテル・ラフォーレ新大阪。小室容疑者は、最上階のスイートルームを偽名で予約していたという。広さ90㎡の部屋は1泊9万円。人気絶頂期は、高級ホテルのスイートルームをフロアごと貸し切るなどという贅沢を満喫していた小室容疑者にとって、最後の贅沢だったのだろうか。しかし、逮捕時に彼が着ていたTシャツは、ユニクロのガンダム絵柄の990円のものだった。一世を風靡した大物プロデューサーのあまりにも悲しすぎるシーンだった。(BUBKA1月号)

というかそもそも現在の小室に5億円もポンと支払った「大阪の投資家」という存在に疑問を…。現金で払ったのか。小切手?手形?お金の流れはどんなふうに…。
てなわけで、やっとのことで手に取ることができたBUBKA誌。なにしろ芸能界のダークな部分を腰が引けずに書ける数少ない雑誌である。しかしそれを読んでももうひとつ判然としない。大ヒットを連発して長者番付の上位に顔を出すほど成功、金銭感覚の狂ってしまった彼に近づくさまざまな妖怪たち。さらに香港での事業の失敗や離婚などから急速に逆回転を始めた彼の資金繰りの、最後にダメを押したのは怪しい仕手筋から借りた高利の金だとかなんとか。
そして今も、彼にまつわる利権をめぐって、エイベックスやエイベックスの台頭を面白く思わない旧勢力の暗闘が続いている…。
なにやらかわいそうにも。今月のBUBKAも小室以上にPerfumeとAKB48を大フィーチャー。10年後には(というか今でもオラにとっては)完全に無価値な音楽たちでも、少なくとも小室哲哉は自分の考えでもって作曲してた。中田ヤスタカや秋元康は小室以上にあくどい詐欺師であるが、これから先も逮捕されることはあるまい。諸行無常である。
さて、小室哲哉が悪用しようとしたとされる、著作権のもたらす印税収入にかかわる複雑な仕組み。なにか思い出しませんでしょか。
そ~なんです。あのデビッド・ボウイ氏が1997年に、自身の旧作アルバム25枚・287曲のもたらす利益を債券化してBowie Bonds(ボウイ債)として売り出すことに。当初は金融格付け会社が高く格付けてどこかの保険会社が一括して買い取り、その後に音楽業界に同種のビジネスが流行する先駆けともなったとか。しかしボウイが過去の存在になるにつれ債券の価値は下がり、一時はジャンク債あつかいもされるように。どのみち今も一般投資家が買えるような仕組みにはなってないので、彼の音楽を愛好するオラにとってもどうでもいい話ではある。
ところでボウイ債のことを調べるのに英語版ウィキペディアをあたってみて、ついでに小室哲哉の項目を見てみると、かなり詳細にわたって記述されてるのね。英語ですと部分的にしか意味がわからないので、なんとなくおどろおどろしたB級SF映画っぽい味も。《In the Oricon singles chart of April 15, 1996, he monopolized all the Top 5 positions as the songwriter and producer, a world record.》ですと。
そういやモノポリーって「独占」って意味でしたか。さらに記述の最終章の見出しが「Fraud」となっていて知らない英単語である。「詐欺」を意味するんですって。ほかにも「Alimony=離婚の慰謝料」ですとか、小室さんのおかげで勉強しちゃいました。

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雑誌の興亡 #4

2008-11-28 20:22:46 | Bibliomania
【31】一等史料 - 文藝春秋飛躍のきっかけ
昭和24年になると前年の療養から復帰した池島信平が陣頭指揮をとる『文藝春秋』は、新興の新生社や鎌倉文庫に押された沈滞の時期を脱し、中でも5月号と6月号に掲載された2本の記事は同誌の部数を飛躍的に伸ばすきっかけとなった。その記事とは、青年将校として軍事クーデターに参画しながらも思想の違いから反対の立場に立つことになった新井勲氏による「日本を震撼させた四日間~二・二六事件 青年将校の回想」と、辰野隆、サトウ・ハチロー、徳川夢声の3氏による座談会「天皇陛下大いに笑ふ」である。

【32】異常な事件 - 人間凝縮した「戦争」
『文藝春秋』が終わったばかりの戦争の実録ものなどを載せることは、軍国主義の風潮を再び呼び覚ますことにもなりかねない、という批判も呼んだ。それに対し編集長の池島は著書『雑誌記者』の中で、戦争は怖ろしく、思い出すだけで不愉快ではあるが、それも考えようによっては大きな経験であり、わずか4年の太平洋戦争で数十年・百年単位の経験を一挙にしたようなもので、そこに表れる人間の本性は必ずや読者の胸にとどまるはず、と述懐している。このノンフィクション重視の姿勢は彼が、入社当時に『話』という実話もの的雑誌に配属されたためでもあった。

【33】社会部記者 - わかり易く、そして面白く
池島信平が『話』の、三面記事のような市井のトピックをわかりやすく面白く読ませる編集方針を『文藝春秋』へ持ち込んだことは、当時のコチコチに硬直して巻頭に難しい論文を載せるなどしていた総合雑誌の世界に新風を吹き込むことになった。文春にいながら小説家とはあまり付き合わず、社会と密着するような道を歩んだことが、後に司馬遼太郎の評した《地面のジャーナリズム》という言葉とつながってくる。



【34】天皇陛下大いに笑ふ - 新聞広告見て「やられた!」
菊池寛の一周忌の墓参で池島信平は、サトウ・ハチローらが昭和天皇と面会して天皇を喜ばせた、と耳にしてとっさに目玉記事となる座談会を思いついたのであった。同じ話を聞いていた『週刊朝日』編集長の扇谷正造は、“進歩的見栄”のようなもので記事化をためらってしまったことから、座談会を載せた『文藝春秋』の新聞広告を見て歯噛みする思いであった。池島がこれを実行できた裏側には歴史好きの彼が、天皇の戦争責任論や退位論は短期的な現象で、庶民の意識に根づいた天皇制は安泰、と読んでいたこともある。(上画像:『文藝春秋』50周年記念号に仮名遣いをあらためて再録された同座談会)

【35】非民主的手法 - 意表外の面白さ
昭和29年1月号では73万部を刷るまでに部数をぐんぐん伸ばした『文藝春秋』であったが、それを支える池島信平の編集方針には編集会議を無視して一人でどんどん内容を決めていくなど、非民主的なところがあった。彼は会議で意見をすり合わせることよりも、なにか反対されるような強烈な発想を推進することが意表外の面白さを呼ぶ、と知っていたのである。

【36】文藝春秋王国 - 社員に株式、配当10割
『文藝春秋』の部数が伸びるとともに文春の社運は以前にも増して盛んとなり、柱となる芥川賞・直木賞を復活させ、社員も増やして自社ビルへ移転した。資本金1050万円のうち過半数の株式は社員の持ち株となり、3月と9月の決算期には配当10割が支払われたという。

【37】絶筆 - 青山虎之助を讃えつつ
池島信平が『文藝春秋』を“国民的雑誌”と呼ばれるまで盛り上げた功績は、彼の雑誌記者生活25年を祝う会が、花森安治、吉川英治、小林秀雄、高峰秀子らそうそうたる面々を集めて盛大に行われたことで報われたであろう。彼は昭和41年に文春社長に就任するが、奇しくもいっとき新生社で文春を凌駕した青山虎之助を回想する文章を絶筆として、在任中の昭和48年に湯島天神のレストランで倒れ、帰らぬ人となった。行年63であった。

【38】めしを食ったか - 大雑誌発行の発端
総合雑誌だけでなく、大衆的な読者を対象とする雑誌の中にも戦後に勃興してわずかな時間で100万部に達した『平凡』という雑誌があった。この雑誌を発行していた会社は社名を凡人社→平凡社→マガジンハウスと変え、『平凡』こそ休刊したものの今も健在である。創業した岩堀喜之助と清水達夫は戦時中の大政翼賛会宣伝部に勤めていたとき岩堀が清水に「貴公…めしを食ったか」と声をかけたのが縁で親交を結んだ。

【39】ザツシヲイツシヨニ - 復員後、誘いの電報届く
二人はそれぞれ時事新報と電通を経て大政翼賛会に勤めていたのだが、陸軍とパイプのある陸軍画報社の仕事を手伝っていれば徴用されない、と思ったのも束の間、昭和20年の敗戦直前になって召集令状が二人に届いたのである。敗戦を迎えて復員した清水は、国府津の岩堀を訪ねたが留守で会えず、その2日後に「ザツシヲイツシヨニヤラナイカ イワホリ」という文面の電報を受け取ることになった。岩堀にはすでに雑誌名の腹案もあった。(下画像:清水達夫著『二人で一人の物語』)



【40】怒り - 安全地帯から「命惜しむな」
岩堀喜之助が清水達夫と作りたかった雑誌の名『平凡』。彼は終戦からすぐに用紙の割当も手配して創刊準備を進めた。彼の強烈な動機のもととなったのは、時事新報がつぶれて宣撫工作員として中国に渡っていたとき、内地から兵士へ向けて慰問として贈られる大衆雑誌に、忠孝をつくすことを説いた出版社社長の挨拶が載せられているのを目にして怒りを覚えたことであった。
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『座頭市物語』

2008-11-18 21:14:26 | 映画(映画館)
@テアトル新宿(若山富三郎×勝新太郎の軌跡), 三隅研次監督(1962年・日本)
下総地方で縄張りを争う2組のヤクザの親分、飯岡助五郎と笹川繁蔵。盲目だが居合い斬りの達人である座頭(盲人の位階を表す)の市(勝新太郎)は、親分から腕を見込まれて飯岡方の客分として逗留することになる。いっぽう、笹川も用心棒として凄腕の浪人・平手造酒(みき・天知茂)を雇うのだが、彼は労咳病みで血を吐くほど病状が進んでいた。あるとき市と平手は川釣りで知り合い、互いの境遇から通じ合うものがあるのかやがて酒を酌み交わすまでに親交を深めてゆく。ところが平手が血を吐いて臥せっていることを聞きつけた飯岡は、それなら市に大金を払って助太刀させずとも勝てる、とばかりに市を放り出して合戦に挑むのだが、平手は笹川が座頭市対策で鉄砲を用意しているのをやめさせんがため病を押して合戦に臨む。平手の世話をしていた小坊主からその話を聞いた市は、平手の意気に応えるため合戦の場へ急ぐ。友情を育んだ2人は、渡世のしがらみから対決することになるのか…。



すっかり死語となりつつある「差別語」たち。きちがい、めくら、つんぼ、おし、ちんば、びっこ、かたわ、くろんぼ、ちゃんころ…。
別に自分が長期入院していて「きちがい」の立場にいたことがあるから、というわけではないが、言葉が消されてしまったからといって、差別そのものがなくなったわけではない。ひしひしと感じますだ。差別されていることを。逆に自分が差別してもいることを。
政治家みたいな無感覚なやつらでもないかぎり、差別される、差別することに内心の痛みを覚える。感じないようにしていても、それは心の奥底に蓄積される。勝新太郎の座頭市は、それをわしづかみにしてみせる。
「めくら」には、「めあき」に見えないものが見える。人間の卑しい姿が。隠してきたものが。超自然。つむじ風のような殺陣もすごいが、それよりも人間の心を見抜く座頭市の見せる情、義侠心のほうこそスーパーヒーローたるゆえんとして迫ってきた。
かつてにっぽんに、すごい役者が存在した…。
「ヒデとロザンナ」のロザンナの自伝に、芸能界を干されてたときの出門英に仕事を世話し、復帰できるよう計らったのは勝新太郎だったという記述がある。そのほかにも、勝新太郎には兄の若山富三郎と比べると損得抜きで信義のために動くような逸話が多く見られたようである。実際のヤクザ者は「任侠」という言葉とは正反対の価値のもとに行動するが、まさに勝新太郎は多くの人が夢を仮託する「こうあってほしいヤクザ者」としての人生をまっとうしたのではないだろうか。座頭市シリーズは26作まで作られたそうな。今も綾瀬はるかが似たのをやってるね。
テアトル新宿で3週間にわたって組まれている若山富三郎と勝新太郎の特集上映。ちかごろ団塊世代の大量退職ということで時間をもてあました彼らのため、こういう企画が手堅い商売として見込まれてきてるんでしょか。シネマヴェーラ渋谷では9月~10月に浅丘ルリ子なんて特集してたよ。
みなちゃま、左卜全さんの「老人と子供のポルカ」って歌をご存知?…いや昔のコサキンのラジオで読まれた替え歌の投稿を思い出して。
♪ずびずば~~ぱぱぱや~~のふしで読んでくだぱい。
サンハイ! ♪ルリルリ~~ホネホネ~~

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雑誌の興亡 #3

2008-11-14 20:54:18 | Bibliomania
【21】一日一篇 - 精選記事を徹底リサーチ
『リーダーズ・ダイジェスト(Reader's Digest)』は1922年にアメリカで創刊され、同国だけで2千万部近く発行し、日本語版も昭和21年から同61年まで発行されていた。その編集方針は、毎月の主要雑誌から1日1篇として月31篇の記事を要約して転載、記事を選ぶのには永続的な価値と興味を備えたものを精選することとされた。小型のため、兵士がポケットにつっこんで戦場へ持っていけることから、第二次大戦中に躍進した同誌は、内容的にもバラエティと実用性に富んでおり、記事の正確性を重視して調べあげてから掲載するため、アメリカ版は一度として訂正を載せたことがないという。

【22】『新生』終刊 - 巨額の負債背負い幕
文藝春秋社の買収も企図するなど戦後華々しく興隆した新生社は、出版のみならず政治活動や事業活動にも乗り出すこととなった。社長の青山虎之助は共産党の野坂参三の帰国歓迎会に多額の寄付をしたり鳩山一郎のパージ解禁にも資金援助を行い、事業面では化粧品の生産を手がけたり“ミス・ニッポン”の公募も行っている。ところが新生社は昭和23年に2千万円の負債を負って倒産、今に換算すれば何十億という額にあたる。それでも出版業や雑誌が好きでたまらない青山は、その後も同人誌や商業誌の発行を手がけ続けるのである。

【23】編集者冥利 - 「あなたの好きなように」
もう一つの新興出版社である鎌倉文庫の軸になった雑誌は『人間』で、東大を出てからいくつかの出版社に勤めていた木村徳三が戦後すぐ川端康成から電報で依頼されて、編集にたずさわることが決まったとき、『人間』という誌名のほかは好きなように編集してかまわない、と言われていたのであった。彼は『人間』を文壇的な雑誌でなく文芸的総合雑誌にしたいと考え、創刊号の中心にはトマス・マンの「来るべきデモクラシイの勝利について」を据えたのだが、同誌の発行には思わぬ困難が待ち受けていたのだった。

【24】検閲のあと - 占領軍の難題に直面
『人間』の直面した困難とは、連合国軍総司令部・民間情報教育局(GHQ・CIE)による検閲である。創刊号の校了刷りを提出するとCIEは「敵軍」という言葉の使われた2つの原稿は発表を許さない、片方の小宮豊隆の原稿「印刷されなかった原稿」については全文がまかりならぬ、としてきたので、編集長の木村徳三は語句を削って空白にしたうえ小宮のほうは3ページ分、鉛版をつぶして読めなくして印刷にかけた(下画像)。ところがこの処置も、検閲されたことが読者に歴然とわかってしまうことからCIEの怒りに火を注いだのであった。



【25】新雑誌盛観 - 押しかける訪問客
昭和21年1月号を2万5千部で創刊した『人間』は以降5万部、7万部と増やしても売り切れ、ほかにも『新生』『世界』『展望』など戦後の新しい雑誌は総じて活況が続いた。一般にアンケート調査した結果でも文藝春秋などを差し置いて『人間』や『世界』が「読みたい雑誌・読ませたい雑誌」ともに人気を集めた。このように『人間』が好調の鎌倉文庫には、戦前に横浜事件で追われた大森直道や若槻繁も参集し、もともと名のある作家が設立した出版社という信用もあって、次々と新しい雑誌や書籍を刊行する活況を呈したのである。

【26】派手な社風 - 食糧難でも料亭、講演旅行で北海道
木村徳三の『文芸編集者・その跫音(あしおと)』によると、当時の鎌倉文庫には《事業計画の持ち込み・就職斡旋の依頼・借金の申し込み》など種々雑多な人びとが訪れ、またそういう人たちを呼び寄せるように、料亭や試写会で大盤振る舞いするような派手な社風が目に余るようになっていったのである。

【27】鎌倉文庫倒産 - 老舗のもりかえし
派手な社風は、戦後に乱立した出版社の中にあって宣伝攻勢で勝ち残ろうとする策でもあったが、昭和23年になるとあっという間に社運は傾き、巌谷大四を編集長として作家と文学志望者・愛好者を結びつけるよう企図した『文芸往来』を創刊するも盛り返せず、社内はいがみ合いが始まって昭和24年の終わりには倒産してしまった。その残務整理には『人間』編集長であった木村徳三(下画像)があたることとなった。



【28】用紙配給制 - 減頁で総合誌の形態、形骸に
鎌倉文庫が下り坂となる背景になったのが、用紙が闇紙から厳しい統制下に置かれるようになったことで、『人間』も150ページくらいから一挙に64ページへと減らされるなどして総合的文芸雑誌の体面を保てなくなったことである。木村は『人間』に載せられなかった小説を別冊として発行し、用紙事情が許すようになると『文芸往来』も創刊するなどして対処しようとしたが、いったん傾いた社運を回復することはできず、末期の鎌倉文庫で大博打を打たざるをえない状態に追い込まれた。

【29】『人間』を譲渡 - 社員の退職金に充当
博打というのは、木村、大森、若槻の3人はそれぞれ鎌倉文庫の看板雑誌を持って独立するよう社長の久米正雄から言われていたのだが、一般社員の退職金を工面するために『人間』を目黒書店に250万円で売ることにしたのである。木村は役員なので退職金を受け取らずに目黒書店へ移籍したのだが、『人間』を復刊するとともに今度はその目黒書店の経営が傾き始めることになる。

【30】酒気芬々 - 赤い顔も白けて
目黒書店が経営悪化したころ、木村徳三はかねてより『人間』にも関心を持っていた文春の池島信平と面会することになり、「文芸雑誌の読者なんて君みたいな優等生じゃなくて下らないやつが多いんだから気をつけたほうがいい」などの忠告をもらったのだが、そのときに池島の酒臭い息に酒の飲めない木村が顔をしかめてしまい座が不興になってしまったのであった。それ以降、目黒書店の運命は好転することなく、昭和26年の8月号を『人間』最終号として倒産してしまう。
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『カリガリ博士』

2008-11-10 21:19:55 | 映画(映画館)
Das Cabinet des Dr. Caligari@新宿バルト9(ドイツ映画祭2008), ローベルト・ヴィーネ監督(1919年ドイツ)
当時先端の画家なども起用して徹底的に表現主義のスタイルで撮られた最初の映画であり、表現主義映画というにとどまらず芸術的に、またホラー映画やサスペンス映画の元祖的存在としてあまりにも有名。大胆なセットや撮影手法、照明や小道具も後進に多くの影響を与えた。
とあるベンチで、2人の男が話し込んでいる。心霊現象のために家庭が崩壊してしまったと語る男に対し、他方の男、フランツィス(フリードリヒ・フェヘール)は、自分はそれよりも恐ろしい体験をしたと話し始めるのだった。
それはフランツィスの故郷、ホルステンヴァルの歳の市での出来事である。ある見世物小屋の主人が、営業許可を求めに役所を訪れるが、機嫌の悪い役人に冷たくあしらわれてしまう。するとその夜、その役人は何者かに殺されてしまった。
市が始まると、友人であり、またジェーン(リル・ダゴファー)をめぐる恋敵でもあるアラン(ハンス・ハインリヒ・フォン・トヴァルドウスキー)と共に、フランツィスは会場に出かけてゆく。そこには不思議な見世物小屋が立ち、評判を呼んでいた。その名も「カリガリ博士の部屋」。怪しげなその小屋の中では、カリガリ博士(ヴェルナー・クラウス)が20年以上眠ったままという夢遊病者のチェザーレ(コンラート・ファイト)を使って占いを行っていた。博士の呼びかけで目を開いたチェザーレに自らの寿命を尋ねるアランだが、なんとその答えは「明朝まで」というものだった。気味の悪さを覚えつつ、半信半疑でその場を立ち去る2人。しかし次の朝、予言どおりにアランは死んでしまった。あわてたフランツィスが、警察にこれまでの事情を話すと、博士に殺人の疑いが向けられる。だが家宅捜索をしても証拠は何も見つからない。そしてその頃、町では新たな事件が発生し、さらにジェーンにも危険が迫りつつあったのだ。はたしてフランツィスは、事件の真相にたどり着くことができるのか…。



日本一おめでとう西武ライオンズ。すごい名前の選手がいるのね。ボカチカですって。匹敵するよナ…“カリガリ博士”。
奇妙な名前のもたらすイマジネーション。先日のクエイ兄弟の映画でも、彼らは1700年代の有名な自動人形制作者ピエール・ジャック=ドロス、このドロスという名前に“SF的な”響きを感じて、自分たちの映画の狂信的な科学者の名前に用いたという。多くの者を幻想の、創作の道へいざなった「カリガリ」という名前は誰がどのように考えついたのか。発明である。
脚本を手がけたのはハンス・ヤノヴィッツ、カール・マイヤーという2人。プラハ生まれのハンス・ヤノヴィッツは、第一次世界大戦前にハンブルグで女性が殺される現場を目撃したことがあり、さらに大戦に動員されて多くの殺戮に接したことがトラウマとなっていた。いっぽうグラーツ生まれのカール・マイヤーも一兵卒として戦地に赴き、精神に変調をきたしてしばらく精神病院に入院した時期があった。この両者がお互いの経験を語り合ううち、「殺戮と精神病院」というテーマが浮上し、病院長が患者を操り人形のように操って人殺しをするという物語ができあがったというのだ。さらに結末の、すべてはカリガリ博士が院長を務める精神病院に入院しているフランツィスの妄想に過ぎなかったという、とって付けたようなどんでん返しは、博士が人殺しという物語では先鋭的すぎてお客が入らない、と心配したプロデューサーの意向によるものだとも。
とわいえ、ここでは先鋭的ということが、浮き世ばなれしたアート系ということになってない。すべては子どもがワクワクしてドキドキして熱に浮かされたようになるお楽しみに満ちている。斜めのセットも。おどろおどろな描き文字も。光と影のどぎついコントラストも。
これまで見たなかでも『黄金狂時代』の1925年よりさかのぼって最古となるため、物語に入ってゆけるのか懸念されたものの、アリョーシャ&サブリナ・ツィンマーマンの父娘による生演奏つきの上映はめちゃめちゃ贅沢で楽しい体験となった。理屈抜きでおもしろい。カリガリ=カンニング竹山、チェザーレ=小栗旬で舞台化してほしい。竹山より江原啓之のほうが適役かしら。蜷川くん、ひとつ頼むよ。



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明治・大正の雑誌メディア

2008-11-09 18:49:08 | Bibliomania
ミリオンセラー誕生へ! 明治・大正の雑誌メディア@飯田橋・印刷博物館(開催中~12月7日・祝日以外の月曜休館・10:00~18:00・一般500円)
雑誌は、手ごろな価格で多くの人びとに情報を提供し、啓蒙し、教養を深め、流行を生み出し、趣味娯楽の世界を広げてきました。また時には時代を動かす原動力にもなってきました。
日本では明治期に雑誌は盛んに発行され、大正から昭和にかけて大衆の読み物となりました。昭和2年には雑誌『キング』が初のミリオンセラーとなり、雑誌は大衆文化を支えるものとして、確固たる地位を確立しました。
本展では、大衆文化を担うメディアへと急速に発展した雑誌の成立過程を3つの時代に区分し、その時代においてどのような雑誌が求められ、読まれていたのかを紹介します。また、雑誌の部数の拡大、表現の広がりは出版と関連する産業の進歩・発達を映し出す鏡でもあります。その過程を、出版業界・印刷業界・流通業界の発達と併せて検証してみたいと思います。

《第1部》啓蒙の扉(雑誌誕生~明治中期)
草創期の雑誌は西洋から得た新知識の紹介や、新政府に対する批判、政治思想などを展開するものが多く、個人や団体が大衆の啓蒙を目的に発行していました。趣味・娯楽・文芸などの内容の雑誌はまだまだ少なかったのです。

《第2部》商業誌時代の幕開け(明治中期~明治末期)
明治22年の大日本帝国憲法発布、明治27~28年の日清戦争、明治37~38年の日露戦争と世の中を大きく変える出来事が相次いだこともあり、明治の後半期は新聞・雑誌の創刊数が激増した時代でした。ジャンルも多様化し、児童雑誌や女性雑誌、文芸雑誌などの創刊が相次ぎ、出版業界も活気づきました。

《第3部》ミリオンセラー誕生(大正~昭和初期)
大正時代の日本は、近代工業国としての基礎を築き上げ、急速に資本主義社会となっていきました。市場経済は出版業界においても、たくさん売って儲けるという思想のもと、万人にうける編集内容の雑誌が多く生み出されました。大正14年、その後に雑誌で初の100万部突破を果たした『キング』が創刊され、出版業界はマスプロ・マスセールスの時代へと突入していきました。



『滑稽新聞』第173号(自殺号)~明治41(1908)年
「新聞」という名であるが、生涯を通じ権力に屈せずジャーナリストとして貫徹した宮武外骨により月2回刊行された風刺雑誌。169号の記事が検閲にかかって発行禁止処分を受けたことに憤って、月8万部を売っていた最盛期に「自殺号」と称して廃刊した。とはいえ、これは外骨一流の洒落で、翌11月にはほとんど同じ体裁で『大阪滑稽新聞』を創刊している。



『キング』創刊号の新聞広告~大正13年12月5日の東京朝日新聞に掲載
「面白くて、ためになる」をキャッチコピーに、大人から子どもまで幅広く読まれる雑誌を目指して大日本雄弁会講談社から創刊された。創刊に際して、当時としては莫大な38万円が広告宣伝のために使われ、新聞広告のほか書店向けのポスター、チラシ、のぼりなどもたくさん作られた。その結果、50万部が刷られた創刊号は完売し、増刷も合わせ62万部を売り切ったとされる。

先日の映画『紅いコーリャン』に描かれる1920年代末の中国山東省は、古代と近代が共存して混沌としている。いっぽう、その9年後に姿を現す日本軍は、まるで機械のように組織化されて描かれている。それは、事実そうだったのではないかと思わされる。
アメリカ発の世界恐慌が昭和4(1929)年、満州事変が昭和6(1931)年ですと。その当時、欧米白人の列強諸国以外では唯一といえるくらい近代化に成功していた日本の国の、その原動力はいかなるものであったのか。
それがかいま見える展覧会であった。なにか大きな、社会をゆるがすような事件が起こったとき、それに関心を持ち、新聞・雑誌をむさぼるように丹念に読む。それを支える、取材から編集から印刷から流通から消費者の手に渡るまでのスピード。緊密な情報化・組織化。
たとえば流通ひとつとってみても、明治16(1883)年に郵便条例が改正され、毎月1回以上発行される定期印刷物は「第三種郵便」として、遠近にかかわらず全国一律料金で配送できるようになったという。国土の膨大な中国では無理に決まってるとしても、交通機関のまったく未整備だった当時の日本においても、画期的な英断だったのではないか。
そして農業国であった日本でだんだん都市化が進んでいく、そのライフスタイルの変化にも雑誌の存在が寄与していたともいう。それまで勤め人が少なかったので、「週」という単位は5・10日(ごとび)や半月・月に比べて実際の生活場面では希薄だったとされるが、週刊誌という週単位の刊行物があらたな要素を持ち込み、生活の近代化・西欧化にも寄与したとされる。
現存の週刊誌でもっとも古い歴史を持つのは『週刊東洋経済(当時は東洋経済新報)』で明治28年に創刊、大正8年までは月3回刊行の“旬刊”だったという。
その『週刊東洋経済』と『実業之日本』、あるいは『主婦之友』と『婦人公論』のように共通の読者層をターゲットとして2つの雑誌が競い合うライバル関係も出版業界を活気づけることとなった。マガジンハウスの『POPEYE』が成功すると講談社が『HOTDOG PRESS』を出す、新潮社の『フォーカス』が成功すると講談社が『フライデー』を出す、などそうしたことは最近までも引き継がれてきたようでありながら、ここへ来ていよいよ元気がなくなってきている。
新聞広告ひとつでさえ軽視できない。大正9年からの『月刊現代』を休刊させることになった講談社は、相撲の八百長など数々のタブーに切り込む『週刊現代』を続けることによって、一説によると年間20億円の赤字を出しているという。同じ月曜に出ている『週刊ポスト』と異なって東京新聞に広告を出せないほど逼迫してるみたい。
おそらく200万部近く出てる少年マガジンとか100万部近く出てるヤングマガジンとかマンガ雑誌の黒字で穴埋めしてるんでしょ。若い人がなんでもケータイとネットで済ませてマンガ雑誌とか買わなくなってる現今では見通しはあまりに暗い。
雑誌が失われてしまうと、それに関連していろいろな仕事も失われてしまう。政治や企業のタブーを取材する記者がいなくなってしまう。製紙も印刷も流通も小売も。
小室哲哉の事件のこととかは、やっぱりBUBKA誌でじっくり読みたいけんども、月末に発売されたばっかで11月末まで待たなければならないのは、スピード・アップされた現代社会ではいかにもまだるっこい。「小室哲哉+細木数子」の検索で、弊ブログの過去の「FX細木数子ラブホファンド江原啓之」なる記事が突然100くらいヒットしたりとか。映画『ブリュレ』の記事をアップした後になって監督の急死が報じられるとか。ニュースは生もの。
え??『マガジンひとり』の発行部数??北京オリンピックのあたりからちょっと増えて、1日平均450部くらいでしょか。「需要=部数」という効率化されてる強みがあるけどね、インターネットだけになったら人類おしまいよ。印刷物も共存共栄でいきましょう。
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『紅いコーリャン』

2008-11-05 21:24:43 | 映画(映画館)
紅高梁@新宿・K's cinema(中国映画の全貌2008), 張芸謀監督(1987年・中国)
『紅いコーリャン』は、日本映画における『羅生門』に匹敵する中国映画だ――それは神話と美の世界を開く。【ドナルド・リチー】
「紅」を基調とした鮮烈な映像で神話的なエピソードを描いて内外から驚きをもって迎えられ、中国映画の歴史を画する作品となった。1988年ベルリン映画祭・金熊賞。
1920年代末、中国山東省。18才になる九児チウアル(コン・リー)が嫁入りの御輿にゆられていく。親子ほど年の離れているうえ、ハンセン氏病を病む造り酒屋の李リー大頭のもとへ嫁ぐ道すがらである。彼女の父はラバ一頭で李に娘を売り渡したのだった。御輿をかついでいるのは李の使用人たち。彼らが真っ赤なコーリャン畑のなかを進んでいると、覆面の強盗に襲われる。強盗が彼女をさらおうとしたとき、彼女を救い、強盗を殺したのは御輿をかついでいた余占鰲ユイチャンアオ(チアン・ウェン)だった。女のなかに余に対するほのかな慕情が芽生える。
当時、新婦は新郎の家で結婚式のあと3日間すごし、里帰りする慣習があった。父親に連れられラバに乗って実家に戻る途中、またコーリャン畑にさしかかる。九児はふたたび覆面の男に襲われ、コーリャン畑の奥深くへ連れ去られる。が、今度の男は余だった。そして二人はコーリャン畑で愛を交わす。
嫁ぎ先に戻ると、新郎の李は行方不明になっており、余が殺したとの噂がたつ。結局、九児は嫁ぐと同時に未亡人となり、酒屋を引き継ぐ。そして余と九児は結婚する。番頭の羅漢ルオハン(トン・ルーチュン)の協力を得て商売は繁盛し、使用人たちにも慕われ、平和な日々が続く。
ある日、この一帯に名のとおった匪賊、秀三炮シウサンパオ(チー・チュンホァ)の一団が酒造場を襲い、九児をさらっていく。羅漢が3000元の身代金を工面して彼女を無事連れ戻す。だが、髪を乱した九児の姿に激怒した余は、秀の行きつけの肉屋へ駆けつけ、彼の喉元に包丁を突きつける。秀は「神かけて女には触れてない」と許しを乞う。彼が家へ戻るや九児と使用人たちがなごやかに新酒をくみかわしているのを見て、余は腹立たしさを覚え、コーリャン酒の甕のなかに放尿する。数年後、その甕の酒は不思議なことに香ばしい美酒に変わっていた。九児は後にこの酒を十八里紅と名づける。その夜、羅漢は村から姿を消してしまう。
コーリャン畑で九児が身ごもった豆官トウコアンも9才になった。この地方にも日本軍がやって来て、土地の人びとをかき集め、コーリャン畑をつぶして道路建設を強制していた。日本軍は人びとへの見せしめのため、抗日活動家となった羅漢を吊るし、村の肉屋に彼の生皮を剥がすよう命じる。羅漢は恐怖の色も見せず、日本軍を罵倒する言葉を吐きながら絶命する。
その夜、九児は9年のあいだ寝かせてあった十八里紅を掘り出し、男たちにふるまう。彼らは酒神曲を歌いつつ、日本軍への抵抗を誓いあう…。



チラシから引き写した結果、映画のおもしろいところ全部言っちゃったみたいになってますが、この後にさらに大きく盛り上がりますだ。余ユイと九児チウアルは、語り手にとって祖父母にあたる。われわれみんながみんな先祖代々歴史の中を生き抜いて、よくぞめぐり合った精子と卵子、てな感慨をもたらす。
この映画は中国国内でも賛否両論の反響を巻き起こしたともいわれるほど、当時の中国人、特に男たちを野生児のように描く。集団となっても社会化される感じではない。古代・中世・近代が渾然一体となってるかのよう。聞けば、中国で万里の長城が築かれたころ日本列島では弥生式土器が使われてたとか。
映画の後半に日本軍が現れるけれども、その様子は整然と秩序だっている。集団が機械のように組織されている。
ここに民族性の違いというよりかは、大陸と島国の時間の流れ方の違い、歴史の進み方の違いを感じますね。
おそらく向こうでは時間が直線的に進んでない。曲がりくねって行ったり来たり、進んだり戻ったり、それらが混ざり合ったり。
とともに、元来内向き志向と思われる日本人がどうして大陸に侵攻して戦争への道を突き進んだのか。泰平をむさぼってたところを強引に開国させられた屈辱感というものが、阿片戦争に負けてこのかた混乱してまとまってなくて食いものにされてた当時の中国へ向けて噴き出したという一面があるのではないか。ウラミハラサデオクベキカ。魔太郎がくる!!
映画の中で日本兵たちの使う言葉「コラ!バカヤロー!ハヤクシロ!」直線的でタメがない。条件反射的に暴力へ向かうんじゃなくて、もうちょっとゆとりを持ってものごとを受け止めてゆきたいものである。いろんなことが混在してる現在の中国からも学べることはまだまだいっぱいあるような気がしますだ。
中国映画の全貌2008ではこれから『ラスト、コーション』や『中国の植物学者の娘たち』も上映されるみたいなので、エロ目的の方も足を運んでみるとよいのでわ。

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