午前4時、われわれジャーナリストやロック・ファンの数人は、眠れなくて、たき火のまわりに集まった。何か奇怪なことが起り始めていた。だがだれも、あえてそれを口に出そうとはしなかった。われわれをこの荒地に集めたものは何なのか?アントニオーニの映画か? 宗教儀式か? 説法か?
たぶん18歳ぐらいの、エレーンという可愛いブロンドの女の子が、たき火で手を暖めていた。ベイ・エリアでロック・ダンスが催されるたびに必ず現われ、いつもステージのまん前で、ふつうトップレスで、狂ったように踊っている子だ。そのとき彼女は、星うらないで今日はひどいことが起りそうだという結果が出たと、つぶやいていた。
午前7時、太陽が丘の頂上に顔をのぞかせたころ、谷のうしろ側では大きな叫び声が起った。入ロが開かれたのだ。数分のうちに、何千人もの子供たちが、後のほうと横のほうから、インディアンの声をあげ、少しでもステージに近いところを占領しようと、まだ人が眠っている寝袋を蹴とばしながら、走り、とびはねて、殺到してきた。それは、4万から5万人の、がんじょうそうな若者たちで、その日は夜までずっと、彼らがステージのすぐ前をギッシリと埋めたのだった。彼らは週末だけのインチキ・ヒッピーなどではなく、多くは労働者の子供たちで、すり切れた中古の軍服や仕事着を着ていた。
ウッドストックに集まったのがアメリカ中産階級のパートタイム・ドロップ・アウト〔都合のいいときだけヒッピーの真似をし、またすぐ平常の生活にもどって行くような連中〕によって特徴づけられていたとすれば、オルタモントの子供たちは、大部分が、声なき大衆の子女たちだったように思われる。ウッドストックに行った人たちは20ドルもの入場料を支払うつもりだったが、オルタモントは無料ということになっていたし、ベイ・エリアの工業地帯に近かった関係で、労働者階級の子供たちが多く集まった。つまり、われわれがふだん町角で見かける子供たち、ドライブ・インで会う子供たちであった。彼らは酒からマリファナに乗りかえつつあり、話に聞いていたウッドストックの自由と愛の生活を自分たちもいま初めて経験できるというわけだった。
その日の最初の悲劇的な体験は、バークレー・ラディカルたちが、群衆に政治的な態度で接触しようとしたときに起った。ラディカルの数人が、プラック・パンサーの裁判救援資金カンパを呼びかけてバケツをまわしたとき(ちょうどその前日にフレッド・ ハンプトンがシカゴ警察に殺された)、非政治的なロック・ファンたちは、冷淡な、むしろ反感をむき出しにした態度をとったのである。
政治革命と文化革命のあいだのギャップを埋めるためと称して自己満足的な活動を行なっているバークレーの政治団体、COPS(コミッティ・オン・パブリック・セイフティ)のメンバー14人にとっては、オルタモントはワーテルロー〔ナポレオンが敗北した戦場〕と化した。COPSがこのコンサートのことを耳にしたとき、最初彼らは、ウッドストックでホッグ・ファーム・コミューンがやったように、無料の食物スタンドを組織しようとした。彼らはコンサートの主催者たちの間をさんざん駆けずりまわったあげく、自分たちの計画を放棄せざるをえなくなり、結局オルタモントへは、ほかの人たちとまったく同じように、金を払う者として、やってきたのであった。
午前10時ごろ、食物、ピーナッツ、ソーダ水、コーヒーなどの売り子が、ばか高い値段でそれらを売るために、群衆の間をまわり始めた。COPSの連中は、ウッドストック・ネーションの精神をなおも発揮しようという望みを抱いて、このようなフリー・コンサートから商業主義は追い出すべきだと決意した。彼らの政治的信念を群衆に明らかにするために、売り子たちにむかって、出て行くようにいった。テーブルでローリング・ストーンズのブログラムを売っていたふたりの中年の男(ふつうの服装をした労働者で、あきらかに金をかせぐのに一生懸命になっていた)を、7~8人の政治人間たちがとり囲んだ。
ひとりがいった。「おい、おじさん。これはフリー・コンサートだぜ。何も売っちゃあいけないんだよ」
はじめのうちは、売り子たちは、これは自分の仕事なのだからと弁解していた。だが若者たちは耳を傾けず、プログラムをつかんで群衆に向ってほうり投げた。若者たちが手を出したので、売り子のひとりは恐怖にかられ、身を守るためにテーブルをつかんで振りあげた。とうとうおそろしい結果になった。ふたりの男たちは若者を追い払ったが、売り物のプログラムは群衆の背後にとり散らされ、誰も注意を払わなかった。
それはばかげた、無意味な出来ごとだった。のちに、COPSの連中の大部分は、小人数の不幸な売り子たちを責めてみても何もならないことに気づいた。彼らの中でもとくに感受性の強い、バークレーの政治運動にかかわってきた人たちは、オルタモントの出来ごとを苦にして、ほんとうに病気になってしまったそうだ。
お昼前ごろには、暴行の機はすっかり熟したように思われた。どちらを見ても制服姿はまったく目に入らなかった。もし、そこに何らかの秩序もしくは法律というものがあったとすれば、突然集められたマス・コミュニティから出てくるものでなくてはならなかった。太陽が高くなり、開演時間と定められた正午が近づくにつれて、緊張と期待は増大し、自然国家というような仮想の政治概念だけが当てはまるのではないかという気がした。日常的な抑制だの約東ごとはどこかへ行ってしまって、そこにあったのは、人びとと、麻薬と、やがて始まるはずの音楽と、すでに空っぽのステージから放射され始めている信じがたいほどのエネルギーの感覚と、それだけだった。
正午を少し過ぎるころまで、高さ1メートル20センチのグラグラするステージを、押しあいヘシあいしている群衆から守るものは、ストーンズのロード・マネージャー、サム・カトラーの、抑揚のある英国風の声だけだった。カトラーは、刃物屋という意味をもつ彼の名前にもかかわらず、背が高く、やせていて、まっすぐな黒髪を肩まで垂らし、長いカギ鼻、高いホホ骨、ガラス玉のような黒い目をした男。ピッチリした茶色のレザー・コートと白いタートルネックのセーターを着ていた。電気設備のすえつけが終り、カトラーがマイクの前に進み出て「レディース・アンド・ジェントルメン、これからサンターナの演奏をおとどけしましょう。1969年最高のパーティの、最初の出演者です」といったときには、すでに会場内の緊張感はほとんど耐えられないほどになっていた。
何時間もガマンしていた群衆は、1キロもの遠くまでひびき渡るようなワメキ声でそれにこたえた。
《アメリカにいま起っているこの本質を知るには、ロックンロールを、ポピュラー・ミュージックを聞かねばならぬ》──ラルフ・J・グリースン
少なくとも初めの5分のあいだは、それはほとんどまざり気のないエクスタシーだった。あたりを見まわすと、目に入るのは青くかすむ地平線まで埋めつくした人また人、それだけ。前には、毒をもっているが美しい、音楽。ステージの両側にならんだ、巨大な、完壁なスピーカー・システムから飛び出してくる、心をくだくようなサウンドは、防寒コートのように身体を包む。このエネルギーと騒乱のただ中にいるのは、台風の目に入り込んだのと同じだ。
そのあとの出演バンドのひどさを思えば、サンターナは、詩的完全さをもったやり方でプログラムをスタートした。サンターナのうるさい音楽は都市の暴力と共震する。ボーカルは少なくて、大部分が、ふたりのコンガ叩きによってバックアップされるラテン風のヴードゥーのリズムに深くのめり込んでいた。このバンドのメンバーたちは、スパニッシュ・ハーレム〔ニューヨークのラテン系貧民の居住区〕の街頭でナイフをふるってケン力している連中のひと束、という感じだった。彼らが最初の曲を演奏しだしたとき、私は、音楽のパワーがすべてのバランスをとり、あらゆることがうまく運ぶんじゃないかと思った。
ところが、そのとき、われわれは不意に絶望の底につき落された。醜悪と無意味が、一挙に、あたりを支配した。前の方から、たくさんのクスリが列の順に手渡された。それが何なのか誰も知らなかった。「おおかた、安物のLSDだろ」誰かが笑って言った。でも若者たちは、とにかくそれを口に入れた。ステージに向って右側、前から20列目ぐらいのところで、いやらしく太ったひとりの男が、おっちょこちょいの気まぐれから、すっぱだかで立ち上った。彼の巨大な腹は前の方に垂れ下って陰毛にかぶさり、小さなペニスはほとんど見えなかった。彼はステージを向いて、踊るような、よろけるような恰好をしながら、前のほうに進んで行ったので、踏んづけられた人たちがわめき声を上げた。
われわれの後のほうでも騒ぎが起った。ふたつになる赤ん坊が泣き始め、ラリっているその母親が、静かにするようにと叱りつけた。われわれの左手では、LSDに悪酔いした男が、恐怖におののいて叫び声を立てていた。あるものはギッシリつまった群衆の中から抜け出そうと絶望的な悪あがきを試みていた。ステージのすぐ前には、ティモシー・リアリーがいた。彼こそ、いま始まりつつあることに対して何か手をうつべきなのだが、LSDに悪酔いしている若者たちを助けるよりも、ステージ上の音楽に一生懸命耳を傾けるのに忙しい様子だった。
さきほどのグロテスクな裸のデブ男のまわりで、ケンカが始まった。恐慌状態に陥った何人かの人びとは、両手のVサインを高くかざした。もしかしたら警察の手が必要じゃないか、という奇妙な考えが、私の頭をよぎった。
そのときだった。3人のヘルス・エンジェルスが、1メートル半の玉ツキ棒をもって、ステージを左から右に横切り、乱闘の行なわれている場所を見定めると、まるでプールにとびこむように、足から先に、ステージの前の群衆の中にとびこんで行った。巨大な群衆はヘルス・エンジェルスたちのために道をあけた。女たちは金切り声をあげ、エンジェルスが例の男をつかまえると「平和、平和」という祈りのような言葉がほとばしり出た。ふたりのエンジェルスは倒れているデプ男をふみつけ、玉ツキ棒を激しく打ちおろした。まるで古いマットレスからホコリを叩き出すときのように、両手でキューをにぎって、狙いを定めて連打した。ひとりの男が、なぐられているデブを助け起こそうと駆け寄ったが、たちまちエンジェルスにつき倒され、蹴とばされた。この教訓は群衆をとらえ、英雄のまねをしようとするものは、二度と現われてこなかった。
エンジェルスこそ、警官だったのだ! 口には出せない、この思いつきが、私をゾッとさせた。自然国家は短命に終り、今やわれわれは一種の法律と命令のもとにあった。だがェンジェルスの警察国家は人びとを収容する刑務所も、人をさばく法廷ももたない。もし、誰かが法律をおかしたとエンジェルスが認めれば、彼らは彼らのやり方でベストを尽す──つまり、その人を、ふたたび法をおかそうとは決して思わなくなるまでプチのめすのである。
誰が彼らを権力者に選んだのか? われわれではない。ステージの上からは、エンジェルス警察官については、誰も何もいわなかった。あとになって、われわれは、エンジェルスが500ドル分のビールの報酬で、警備のために傭われたのだと知った。サム・カトラー、あのよきイギリス紳士サムが、話をつけたのだった。のちにカトラーは、エンジェルスはミック・ジャガーとストーンズの個人的世話役として傭ったのであって、ステージの警備をしてもらうつもりはなかったと弁明しなければならなかった。エンジェルスはこれを否定し、彼らの仕事はステージを守ることだとハッキリ言われていたと声明し、それはこのコンサートの数人の関係者たちの話でも裏づけられている。
サンターナの45分のステージのあいだに、エンジェルスは少なくとも半ダースくらいの回数、群衆の中に入って行った。そのたびに彼らは、人びとが遠巻きにして見まもる中で、何人かの聴衆を、玉ツキのキューで殴打するか、オートバイ・ブーツで蹴っとばすか、あるいはその両方のやり方を併用するかの方法で、血まみれにした。原因はいろいろだった。ラリッた若者がステージによじ昇ろうとしたため、あるいはエンジェルスに嫌われているカメラマン、たまたまエンジェルスの通り道に立っていた人、など。そのつど、5~6人のエンジェルスは、彼らを目撃する何千人もの群衆を深刻な恐怖に陥れた。
後日、そのバンドのリーダー、カルロス・サンターナは、あるロック・リポーターにこう語った。
「あっという間の出来ごとだったので、ぼくたちは何が起ったのかも、わかりませんでした。ラリってファックしている人も、たくさんいましたね。ぼくたちの演奏中に、ナイフを握って、誰かを刺そうとしている男がいるのを見ましたよ。ほんとにケンカしようとしてたんです。相手がケンカしたいかどうかはおかまいなしに、とにかく誰かをケン力に引きずり込もうとしてました。刺されたヤツや、頭を割られたヤツなど、しょっちゅう目に入りましたね。 ぼくたちは、演奏をやめて、彼らが平静になるまで待とうと、せいいっぱいやってみたんですけど、4曲めを演奏するころには、ますますケンカ沙汰はひどくなって、どうにもなりませんでした」
人垣が作られるたびに、そのまわりでは、ギッシリ詰まった群衆がいっそうきつく、身を寄せあわねばならなかった。そこでのケンカが終ると、ほかのところに空間をあけるために、ドヤドヤと移動し、またギュウギュウ押しあうのだった。あまりギッシリ詰まっていて、座ることもできない人もいた。ステージのまわり数百メートルの範囲では、ラッシュ・アワーのニューヨークの地下鉄のような混雑ぶりだった──ただし、それは、1万人の乗客がいて、けっしてドアの開くことのない地下鉄だった。