マガジンひとり

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巻き添え食ってたまるかよ

『HOUSE』『泥の河』

2007-11-21 22:19:30 | 映画(映画館)

@シネマアートン下北沢。
『HOUSE』大林宣彦監督(1977年)
女子高の仲良しグループ、大人っぽいオシャレ(池上季美子)、夢見がちなファンタ(大場久美子)、勉強家のガリ(松原愛)、空手が得意のクンフー(神保美喜)、大食いのマック(佐藤美恵子)、きれい好きなスウィート(宮子昌代)、ピアノの上手なメロディー(田中エリ子)とそれぞれかわいいあだ名を持つ。
7人は夏休みにオシャレの何年も会っていない田舎の<おばちゃま>の屋敷を訪ねることになったが、その家はおばちゃま(南田洋子)が戦争から帰ってこない婚約者を待ち続ける執念のため、嫁入り前の女の子をバリバリ食べてしまう怖ろしい家だった。
そこに閉じ込められたままひとりずつ食べられて姿を消していく中、残った娘はなんとか家から脱出しようと試みるのだが…。



『泥の河』小栗康平監督(1981年)
宮本輝の同名小説を映画化。同年度のアカデミー外国語映画賞にノミネートされた秀作。
昭和31年、大阪の下町を流れる川のほとりに労働者向けの食堂を営む一家が住んでいた。
その一人息子である9歳の信雄は、ある朝に同じくらいの年の少年・喜一に出会い、仲良くなるのだが、喜一は姉・銀子と母と3人でみすぼらしい船の上に暮らすという。
信雄が船に喜一を訪ねたとき、その母親は奥の部屋から声だけで「黒砂糖をおあげ。でもあんまりここへは来ないほうがいいのでは」と言う。彼女は船頭だった夫を失い、廓舟(くるわぶね)として夜は男を客にとって暮らしを立てていたのだ。姉弟は学校へも行っていない。
信雄の両親(田村高廣・藤田弓子)はそんな姉弟を温かくもてなし、3人の子供たちは家族ぐるみ親しくなってゆく。
しかし信雄と喜一が楽しみにしていた天神祭りの夜、お金を落としてしまって船の家にすごすごと帰ってきた2人は…。



今日はオラの昔話を聞いておくれでないかい。
上のチラシに7月30日より大公開となっているがそれは1977年の夏のことで、オラが『HOUSE』を見たのは翌78年に地元の笹塚の映画館(今はない)で市川昆による『火の鳥』のとんまな実写映画化との2本立て。
同じクラスで手塚治虫先生を尊敬する何人かもその2本立てを見たものだが、その誰もが『火の鳥』ではなく『HOUSE』のほうにKOされてしまった。
当時はCM界の鬼才でこれが初監督作品となる大林宣彦の映像表現は、それほどまでに中学生にとっては圧倒的だった。
久しぶりに見る今日、フィルムが劣化しているのか色も音響も褪せたものになっていたが、それでもなお当時の興奮がすぐによみがえってきた。
単なる生理的な恐怖にうったえるホラー映画じゃないのね、いちおうエンドロールでは池上季美子の名が最初に出てくるが実質的な主演は大場久美子で、空想好きな少女が空想よりも怖ろしい現実に襲われておびえる様子にみずみずしい感情移入が成されるゆえの手に汗にぎる恐怖。
ファンタちゃんが井戸で冷やしたスイカを引き上げたところ姿を消したマックちゃんの生首が上がってきてふぁああんたあああと呼びかけてくるくだりなど当時友だちの間で流行したものだ。
そしてさらに映画をひきたてるのが小林亜星とゴダイゴ(どちらも出演もしている)による透明感のある音楽で、メロディーちゃんが居間のピアノで印象的な主題曲を弾くうち息をもつかせぬ怒涛の恐怖が押し寄せる後半はほんとうに素晴らしい。
あれから30年も経ってしまったので大場久美子さんの人生にもいろいろあったようだが、この映画から受け取ったものだけでもオラにとってはいつまでも変わらぬ愛すべき存在のまま。
大林監督もいまだ健在だが、新鮮なアイデアを惜しげなく詰め込んだ点において『HOUSE』の輝きにまさる作品はあるだろうか…

さて思わず熱が入ってしまったものの『HOUSE』は同じ時代に見ていないともうひとつ感動は薄いかもしれない。しかし『泥の河』は誰もが納得する傑作に違いない。
冒頭の、馬車で荷を運ぶ御者が事故で圧死するさまを信雄が目撃してしまう場面から、徹底したリアリズムによる描写が続きもはやすべてが名場面と呼べるほど。
特に一般公募で選ばれたという3人の子役が見事で、当時一世を風靡したNHK朝ドラの斉藤こず恵やら小林綾子やらと桁の違う、演技という域ではない、いっさい作為のない天然でんねん。
信雄の家に招かれた銀子がきれいな洋服を着せてもらうがその施しを受け取らず服をきれいに畳んで返すくだりにはっとさせられた。
母(この加賀まりこもすごい)は船上生活の売春で稼ぎ、家事は銀子がこなすのだがその家事はすべて母から教わったことなのだ…
というのもオラ長袖の服を洗濯したあときれいに畳むことができない…三田佳子の息子ほどではないが甘やかされた子供時代で、同じ一人息子でも信雄のような思いやりのある心のきれいな子でなく自分のことしか考えられない曲がった人間に育ってしまった。
信雄は9歳の子供が知るにはあまりにも悲しすぎる事実を目にし、翌日ひっそりと去っていく船を追いかけ、涙する…
みんな幸せになってほしいよ…安直に傑作とか秀作とかの言葉を使うのもためらわれる…「作」って字が気になって、作りごとじゃないんすよ、みんなの真実の哀しみを集めて幸せに転化させるような集合媒体としての映画。
世界中の映画の集まる外国語映画賞は、アメリカだけの作品賞よりある意味すごい。これほどまでに心ゆさぶった『泥の河』を抑えて受賞したのは、共産主義者でありながらナチスに利用されていく実在の演劇人を重みのある表現で描いたハンガリー映画『メフィスト』ですと。見てみたい。

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旧作探訪#7『恋はデジャ・ブ』

2007-11-09 22:32:35 | 映画(レンタルその他)
Groundhog Day@レンタル、ハロルド・ライミス監督(1993年アメリカ)。
永遠に繰り返される同じ一日を生きる破目になってとことんあせる男の、壮絶な「時」との戦い!
もしも、寝ても起きても明日がやってこず、同じ日を何度も繰り返すことになったら…。
年を取る心配はないし、罪を犯しても死んでしまっても一夜明ければすべては帳消し。女性を口説くのだって彼女の好みを聞き出しておけば、次の日には理想の男性を演じることができるのだからわけはない?
TVの気象予報士・フィル(ビル・マーレイ)が体験したのがまさにそんな不思議世界。冬眠中のモグラをたたき起こして春の訪れを占うというペンシルバニアの田舎町の祭典を取材に訪れたが、高慢で自己中なフィルは毎年のように田舎祭りを取材しなければならないのが不満で、同行した女性プロデューサーのリタ(アンディ・マクダウェル)にも不機嫌な態度を隠そうとしない。
ところがその年は天気予報が外れて吹雪が直撃する大荒れな天候のもと、交通や電話も不通になって、取材を終えて帰ろうとしたフィルの一行は町に足止めをくってしまった。
そして翌朝、フィルが目覚めると町は祭り当日!フィル以外のすべての人がそっくりそのままを繰り返す…彼は永遠に同じ一日が繰り返される時間の迷路に閉じ込められてしまったのだ。
フィルはこの特権を生かしてリタを口説こうとしたり、自暴自棄になって犯罪に走ったり自殺しようとしたりするが、それでも必ず同じ一日の朝がやってくる!
どうどう廻りの毎日、彼にとっては何年もの時間が過ぎ去り、やがて彼の心はある境地に達する…。

いや久しぶりに映画を見ていてわくわくさせられる気持ちになりましたね。
この原題にもなっているグラウンドホッグ・デイという祭りはキリスト教系の民間伝承からきているものなのだそうだが、なにかそういう宗教的な人生哲学を、楽しいコメディ小品の中に溶け込ませて心の琴線に触れてくる。
いやな男だったフィルが「なにをやってもすべて翌朝には消えてしまう」にもかかわらず「できるかぎりすべての人に対して善行を成そう」という心境に変わっていく様子。
それを「キリスト教=偽善」という言葉で片付けることはとてもじゃないができるものではない、もっと深いところで心がゆさぶられ、共感し、温かな気持ちになれる作品である。
そしてここで思い出させられるのが鎌倉仏教の「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という悪人正機説で、拡大解釈すれば「他人のために善行を成しているつもりの人ですら極楽浄土へ行けるのだから、どうあっても他人を傷つけてしまう自分の罪深さに気づいている人が極楽浄土へ行けるのは当然のこと」となるのであろうか、それにしてもあまりにも内向きの哲学と言えなくはないか。
<神>という発想の有無によって異なってくる宗教哲学なのだろうか、どうもそれだけでは説明のつかない気が…
ちなみにこの映画、押井守監督の『うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー』にインスパイアされて作られた、という説があるそうである。確かに設定などかなり似ているところがあるものの、どちらも心の底に響いてくる思索性があり、後続のクリエーターに大きな影響を与えそうな優れた映画として甲乙つけ難い。
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