山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

天気と天気予報

2017-10-15 03:55:53 | 宵宵妄話

 天気予報ではなく、天気と天気予報の話である。窓の外を見ていたら、雲が増えて怪しげになりだしたので、「天気が悪いな」というと、「あら、天気は良いのよ。予報でそう言っていたから」と家内がいう。「いや、今、外の空は雲が悪意に満ちて悪いんだよ」と言っても、家内はそんなセリフは無視するかのように、椅子に座ったまま「予報で言っていたわよ」と、認めようとしない発言をし続ける。

 毎度のことなのだが、我が相棒との食い違いの会話は、こんな調子で止まることがない。「俺は外の空の様子を見て言ってるんだ!」とついに声を荒げることとなってしまう。それでも家内は外の空を見ようとはしない。「だって、天気予報で言っていたもの、‥‥‥」という感じの顔で椅子に座ったままである。

 この不一致は何なのかな?と思う。自分は予報などよりも本物の空の様子を見た天気の方が重要だし、確実に信じられると思っているのだが、空を見ない家内はTVの予報を絶対的に信じているらしい。信じて疑いなしというほどに天気予報の精度は確実なものということなのか。

 確かにこの頃の天気予報は昔とは比べられないほどに精度が高まっている。予報のために必要なあらゆる情報が精度を増し、それを活用する技術も進展しているのだから、その読みが確実さを増しているのは確かだと思う。しかし、そうは言ってもあくまでも予報なのだ。何もかもその通りになると思い込むのは要注意ではないか。 さりとて、天気予報に敢えて楯突くというというわけではないのだが。

自分的には予報なのだから、決して100%は信じないということであり、その信じないということが大切なのだと思っている。99%の未来予測が可能だとしても1%の不確実性は捨て去れないのだ。何故ならその1%の中には絶対に予測不可能な現実が入っているからである。青天の霹靂(へきれき)ということばがあるけど、あれは予測ではなく現実の怖さを言っているのだと思う。

 天気予報というのは、ある意味で人生の未来予測に似ている気がする。科学の粋を駆使する天気予報とは違うけれど、人の多くは自分の未来をある程度正確に予測しながら生きているのではないか。晴れもあり、曇りもあれば時には雨も降る。それの繰り返しが続くものだと思っている。だけど、突然の病の宣告や事故災害への巻き込まれなどはなかなか予測できるものではない。そこには現実があるだけなのである。

 何が言いたいのか。予報と現実は違うということ。予測と実際とは違うということ。現実や実際こそが本物であること。このような当たり前のことを、時々確認することが大事なのではないか。天気予報を信じることも間違いではないけど、時々は空を見上げて雲の行方を確かめることを忘れてはならないのではないか。現代人は空を見ることを忘れているのではないか。

 家内との認識のギャップは、もしかしたら現代に取り残された老人と現代人になり済ましている老人とのギャップなのかもしれない。家内を老人と名ざして言うほど思ったことは無いのだけど、部屋の中にいて外の空も見ずに予報をばかり主張する姿勢は、如何なものかと、やっぱり腹が立つのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする