山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

古き人事異動

2013-02-04 06:36:02 | 旅のエッセー

 相良(さがら)といえば、直ぐに思い浮かぶのは、静岡県の相良町(現牧之原市)である。40年近くも前、家内の二番目の妹が嫁いで、一時その近くに住んでいたことがあり、「相良」と書いて「さがら」と読むのだと初めて知ったことを思い出す。その相良という地名が静岡県以外のエリアにもあるなどとは考えたこともなく、今回の旅で熊本県南部の人吉を訪ねた時、その近くに同名の相良村というのがあるのを知り、あれれ、と思った。その後、人吉城址を訪ね、その近くの人吉城歴史館というのに寄り、鎌倉初期以降この地は代々相良氏によって治められて今日に至っていることを知り、改めて自分の無知ぶりに気づかされたのだった。相良村というのも、人吉城の支配者の相良藩に何かの係わりがあるのだろうと思った。しかし、後で調べたら、この村は相良藩とは直接は係わりがなさそうで、昭和に入って戦後の合併の際に生まれた村名とのことだった。ま、しかし相良氏の影響力は地名として使われるほどだったということであろうか。

さて、そこで思ったのは、どうしてこの人吉に相良氏なのかということである。歴史館の説明資料によれば、相良藩の藩祖は鎌倉時代に頼朝の命令によって、遠江国(とおとうみ)の相良からこの地人吉庄の地頭として赴任したとのことである。やはり静岡県の相良と関係があったのだ。今から凡そ800年前の人事異動によって、この藩が始まったということになる。往時の人事異動というのはどのようなものだったのか知る由もない。

昨年の大河ドラマは平清盛一族の盛衰を描いたものだったが、その平家を倒した源氏の惣領が頼朝だったわけで、鎌倉幕府の創設者であり、その治政の仕組みとしての守護と地頭については、名前だけの知識はあるものの、その実態については殆ど何も知らないと言って良い。それで少し歴史の勉強をし直すことにした。旅での訪問でここまで突っ込むと、これから先が思いやられるなと思いながらも、楽しみの一つとしてほんの少しばかり歴史を齧(かじ)り直すのもいいんじゃないかと思った。

鎌倉時代というのが武家政治の始まりだというのは知っているけど、奈良・平安と続いた時代が一体どういう国家であり、全国に住む人々の暮らしの実態がどんなものだったのか、殆ど知らない。いわゆる貴族という人たちの暮らしぶりの記録や遺品のようなものは残っているけど、一般大衆がどのような暮らしをしていたのかについては、皆目見当がつかないのである。馬の骨を自称する自分としては、馬の骨ほどの存在の一般大衆層の人たちが、どんな所に住み、どんな暮らしをしていたのかをもっと知りたいのだが、その辺の情報は全くと言っていいほど無い。

昨年の大河ドラマは不評だったとのことだが、自分としては、あのドラマの幾つかの場面に使われた、往時の一般大衆の暮らしの景観が余りにも少ないことが不満だった。概して日本の映画やTVドラマは、戦国時代以降の出来事をテーマとするものが殆どで、それ以前のものといえばせいぜい平安時代までで、それも朝廷や公卿などの上流社会ばかりを取り上げるだけである。彼らを支えていたはずの一般大衆の姿はどこにも見えないといったものが多すぎる嫌いがある。ま、そんな古い時代の一般大衆の中に話題性を探すのは難しいから仕方がないとしても、TVの画像などなら、より忠実により多くの場面の大衆の姿を描くことによって、貴族の社会もより鮮明に描き出されるのではないかと思う。その点、韓国の古代史に係わる作品を見ていると、その辺りが優れているように思うのは、やはり国の歴史の長さの差なのかと思ったりする。

さて、その武家政治の始まりだけど、その種まきは鎌倉幕府ではなく、やはり平家を一代で政治の表舞台に引き上げた平清盛だったと思う。武家が政治のかじ取りをしたという意味で、平清盛は一大風雲児であり、その功績は大きい。ただ、武家独自の政治スタイルを生み出すには至らず、天皇や公卿の政治スタイルの中に巻き込まれたというか、抜け出せなかったと言える。その子孫たちが、公達などといわれ、瞬く間に武家の公卿化に馴染んでしまったということがそれを証明している。これを新たな武家の力を以って、武家本位の政治スタイルに持って行ったのが源頼朝だったと言える。

頼朝という人は、その弟の義経との係わりなどを見ると非情の人という印象が強い。自分的にも義経のファンの側にあるのだけど、何故頼朝が非情だったのかといえば、憶測するに、頼朝から見て腹違いの弟の義経は、どうやら平家と同じように公卿指向の発想があるように思えたのではないか。義経の一連の言動の中に、守旧派思想の臭いを嗅ぎつけたのかもしれない。天皇とそれを取り巻く公卿どもの政治を武家のものとするには、弟の義経は大いなる障害だと思い極め、これを排除しなければならないと決断したのではないか。もし、義経と一緒に政治を動かすことになれば、武家主導の道が危うくなりかねないと考えたのであろう。義経は戦の功も大であり、天皇や公卿からの人気も大だった。平家打倒に関しての考えは一致しているものの、新たな武家政治の確立となると、その方法論において道は別れ、後顧の憂いを為すと考えたのではないか。本当のことは解らないけど、そのような感じがする。

その頼朝の鎌倉幕府の政治体制の基幹となるものが守護・地頭という仕組みなのだが、元々はこれらの役割は国を治めるための朝廷(=天皇・公卿)側にあったわけで、その支配権(任免権)を鎌倉幕府が武家サイドに譲渡させた(?)ということらしい。武士という武力を背景とする権力を以って、守護・地頭の名のもとに全国の経営権を幕府が握ったわけである。その当初は朝廷サイドの影響力も残っており、荘園経営などにおいては二重支配、経営という状況だった箇所も多かったということだが、やがて朝廷側の支配力は武家に淘汰されて行ったようである。このような見解はあまりにも単純過ぎるのは承知しているけど、大ざっぱにいえば、そうなるのではないか。

このような政治体制の中で、頼朝から派遣された御家人の一人が相良氏だったということなのであろう。元々鎌倉幕府は東国の源氏が中心となって惣領の頼朝を援けて成立したものであり、西国や九州への影響力はさほど大きくなかったのだと思うけど、それにしても、遠江国の相良からやって来たというのは、これはもう大変な遠距離赴任だったのではないか。現代でも、静岡県の海に近い牧之原市(相良は御前崎の直ぐ近く)から九州の山奥の人吉へ行って暮すとなると、かなり勇気がいるのではないか。往時の相良氏が遠江国で何をしていたのかは判らないけど、地頭として遠地に赴くに当たっては、この仕事が彼らにとって極めて魅力的で重要なものだったということなのであろう。革命成功の進取の意気込みと決死の覚悟を以ってこの地にやって来たということではないか。そう思った。

その赴任以来、地頭から戦国大名に成り上がり、これを生き抜いて、さらに徳川幕府下でも生き抜き、明治維新に至るまで800年もの間、多くの難関を耐えて乗り越え、この地を動かずに支配し続けて来たということは、称賛に値すると言って良いのかもしれない。3万石足らずの小藩ながら(だからこそ存続が可能だったのかも)、様々な難事を乗り越えて長い期間経営を続けられたというのは、それなりの善政が行われていたという証の様な気もする。人吉市は球磨川の上流域にあって、胸川などの支流が合流する小さな盆地にあり、人吉城址に上ると、往時からの交通・交易の要衝であったということが一望して理解できるのである。

     

人吉城址から西方に広がる人吉市街を望む景観。四方を山に囲まれた小さな盆地は、球磨川水系がつくり上げた天然の要衝地だったことが解る。

   

石垣には、その城を築いた先人たちの想いが多く一緒に積まれているように思うのだが、この人吉城も球磨川の石を多く使って何代にも亘って築き上げられたようである。3万石足らずとは思えない、スケールの大きい城だった。

それにしても、800年前、初代の相良長頼という人は、どのような志を抱いてこの未踏の地にやって来たのだろうか。初めてこの地を訪れてみて、その古の人の、その勇気というか、エネルギーの大きさに心を打たれたのだった。 (2012年 九州の旅より)

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