村雨庵 茶の湯日記

日々是茶の湯

ふじわらの きんとう

2016-01-09 03:50:07 | 中古三十六歌仙
中古三十六歌仙のひとり

藤原 公任
ふじわら の きんとう
平安時代中期の公卿・歌人。
関白太政大臣藤原頼忠の長男。


祖父・実頼、父・頼忠ともに
関白・太政大臣を務め、
母(醍醐天皇の孫)・
妻(村上天皇の孫)ともに二世の女王。

また、いとこに具平親王、
右大臣藤原実資、書家藤原佐理がおり、
政治的にも芸術的にも
名門の出である。

関白の子として
天元3年2月15日に内裏にて
円融天皇自らの加冠により元服して
異例の正五位よが授けられるなど、
将来が期待されていた。

九条流の藤原道長の意を進んで迎え、
優れた学才により
一条天皇の治世を支え、
藤原斉信、源俊賢、藤原行成とともに
「一条朝の四納言」と称された。

道長が対抗意識を燃やしたという
逸話もあるが、

実際には寛和2年6月10日の内裏歌合で
若手貴族の代表として
道長・斉信ともに選ばれるなど、

青年時代から共に行動することが多かった。

また、実際に四納言の中で唯一、
道長が政権の座に就く以前に
参進している(正暦3年(992年)8月)。

和歌の他、漢詩、管弦にも
すぐれた才能を見せ、
道長に対して自らの才能を誇示した
「三舟の才」の逸話は、
小野宮流の嫡男として
芸術面での意地を見せたともいえる。
また、道長には迎合していたものの、
自らの門地に対する誇りは高く、
四納言の一人斉信に
位階を越された際は
半年間出仕を止めた上に、
当時文人として有名であった
大江匡衡に作らせた辞表を
提出したこともあった


寛弘5年(1008年)11月1日、
土御門殿で催された
敦成親王(後一条天皇)の誕生祝いの宴で、
酔った公任が紫式部に対して
「この辺りに若紫は居られませんか」と
声をかけた、という。
式部は(光源氏似の人も居ないのに、
どうして紫の上が居るものかしら)と思い、
その言を聞き流した、と
『紫式部日記』に見える。
なお、この逸話の条が、
本文以外で『源氏物語』に
触れられた記録の初見とされる

《ウィキペディアより》


整体の予約は4時から
1時間前に珈琲屋に行き
モンブランとコーヒーのケーキセットを注文した
ケーキはなんと200円
味はともかく
安い
驚いた


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