私たちの身体が動くことで作られる直感的な空間とそれを比喩や想像によって拡張した空間、あるいは空間の比喩で理解される実数や複素数などから理論的に定義される数学の抽象的空間、そういうような空間だけを私たちは理解できる。
そうでない空間があり得るのか、あるとしたらどうあるのか、そういう質問には答えようがない。そういう質問にはどのように答えることもできますが、どう答えようとも意味がない答えになるしかないからです。
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私たちの身体が動くことで作られる直感的な空間とそれを比喩や想像によって拡張した空間、あるいは空間の比喩で理解される実数や複素数などから理論的に定義される数学の抽象的空間、そういうような空間だけを私たちは理解できる。
そうでない空間があり得るのか、あるとしたらどうあるのか、そういう質問には答えようがない。そういう質問にはどのように答えることもできますが、どう答えようとも意味がない答えになるしかないからです。
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結局、想像上の空間も含めて私たちが感じ取ることができる空間は、すべて人間の身体が動くことによって作ることができる空間だけです。正確にいえば、私たちの運動の自由度から私たちの身体が動くことできるような広がりをもった空間が決まってくるが、私たちはそういう空間だけを感じ取ることができる、ということです。
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また私たちは想像上の空間についても語ることができます。想像上の空間では私たちの身体を実際に動かすことはできませんが、私たちは頭の中で、仮想運動によって身体を動かすことができます。逆にいえば、仮想運動によって身体を動かすことのできるような空間であれば、私たちはそれがどんなものかを想像することができます。
たとえば私たちは、童話を読んで、あるいはアニメを見て「不思議の国のアリス」の世界を想像することができます。あるいはパソコンを使って、私たちはサイバー空間に遊ぶことができます。荘子の夢の世界で蝶になって花畑を飛び回ることができます。しかしながら、それらの空間も私たちが仮想運動を使って想像できる限りにおいてしか語ることはできません。その意味で、想像上の空間であろうともそれらの空間は私たちの身体が(想像上も含めて)動ける限りで作られる空間である、といえます。
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こうして私たち人間の身体によって分かる空間のすべてがこの現実の空間ですから、これ以外の空間のあり方があるのかないのか、私たちには、まったく分からないというべきでしょう。あるはそういうあり方を問うこと自体、まったく意味がない、というべきです。あるといっても意味がないし、ないといっても、やはり意味がない、ということになります。
私たちが現実の空間について語るときは、私たちの身体が動く限りにおいてしか語ることはできません。つまり私たち人間の身体が動く限り、かつ運動共鳴 によってその動きを人間仲間と共有できる限りにおいて、現実の空間を語ることができる、といえます。
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それは火星人の身体を持っていない私たちには分かりません。あるいはたとえばクラゲにとって空間とはどういうものか(拙稿24章「世界の構造と起源{11}」
)?それもクラゲの身体を持っていない私たちには分からない。私たちは人間の身体しか持っていないので、人間が分かるような空間しか分からない。
逆にいえば (拙稿の見解では)、空間というものは(仮想運動を含めて)身体が動くことで作られるものですから、それは身体がどう動くかによって決まってしまいます。空間は(拙稿の見解によれば)身体が作るものである以上、身体に付随したものである、ということができます。
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