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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

身体運動が現実を作る

2011年11月25日 | xx7私はなぜ空間を語るのか

Fernand_khnopff_002 私の身体が、とくに意識せずに自然にその中を動いていくということは、この空間が間違いなく現実のものであって、人間はだれもが、私と同じようにこの空間を感じ取っているということを表しています。逆に言えば、この空間が現実であるということは、私の身体がその中を自然に動くということである、あるいは言い換えれば、私の身体の運動(または仮想運動)がこの空間を現実として作っている、といえます。

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だれもが私と同じ

2011年11月24日 | xx7私はなぜ空間を語るのか

私たちは仲間の人間がどのようにこの現実の空間を感じ取っているかがよく分かります。「そこの石ころにつまずかないように気を付けて歩いてね」と言えば、何を言っているのかよく分かります。それはだれもが、同じ空間を感知しているからです。だれもがこの空間を私が感じ取っているのと同じように感じ取っているはずだ、と確信できます。むしろ逆にいえば、私が感じ取っている空間は仲間の皆が感じ取っているのと同じものを感じ取っているはずだという確信があります。もしそうでなければ私は身体を動かすことができません。こわくて脚がすくんで一歩も歩けないでしょう。

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人間のいるこの空間

2011年11月23日 | xx7私はなぜ空間を語るのか

Fernand_khnopff50 私たちはだれもが同じ空間を感知する。互いが存在する空間を共有しています。だれもがそう思っています。そう思っているに違いない、と思われます。

それは私たちが同じ構造の身体を持っているからです。そして、互いの運動が共鳴し合う。運動共鳴の機構を神経系に備えているからです。前を歩いている人が石ころをよける動作をすると、私もしっかりその石ころをよけることができる(拙稿6章「この世はなぜあるのか?{4}」 )。私たち人間はだれもが「この世」という不動の同じ空間の中にいる。そしてそのことをだれもがよく知っています。

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這い這い赤ちゃん

2011年11月22日 | xx7私はなぜ空間を語るのか

不動の空間とその中を動く自分の身体。こういう図式が私たち人間の立場であります。この図式がなくては、赤ちゃんのようなものです。手足をバタバタしているうちに偶然進んでしまう這い這いくらいはできますが、空間の認知ができなければ、よちよち歩きもできない。空間概念がない人は、まあ一歳未満の赤ちゃんと認知症が進んだ老人くらいでしょう。その中を自分の身体が動いている空間を感じ取る能力は、ふつうの人間生活に不可欠の認知能力です。

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自我意識の基盤

2011年11月21日 | xx7私はなぜ空間を語るのか

Fernand20khnopff962299_2 周りの空間が不動であれば、その中を動く運動体としての自身の身体を認知できます。それが自分というものだといえます。このような図式から私たちの身体感覚はできています。人類においてはそれが社会的な自我意識の基盤にもなっているようです。「それでは私の立場がない」などと、よくいいますね。剣ヶ峰の頂上で大勢が記念撮影するときなどは、地面に立場がないわけですが、私たちの実生活では、ふつうそれを社会的な比喩として使う場合がほとんどですね。

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