実際は日本人どうしが日本語で話し合っても、意味を取り違えることはよくある。それでも、会話をやりとりしていくうちに、なんとか対応する仮想運動が作れるようになる。それで話が通じる。
つまり、(拙稿の見解では)言語は脳内に記憶として蓄積されている運動シミュレーションと言語習得によって対応づけられた発音運動との連携でできている。この対応連携の学習が、周りの人間が使う言語による言語環境によって違うので、異なる言語となって現れる。
全然知らない国の言葉を、初めて聴くときのことを考えてみましょう。ペラペラペラとつながった音声が聞こえるけれども、どこで音節が区切れるのかも分からない。紙を渡して字で書いてもらっても、ミミズが這ったようにつながっていて、どれがどの字なのか、分かりません。携帯電話を渡して、文字を打ってもらいましょう。ブランクで区切れているのが、単語らしいとは分かります。それでも、どこが動詞で、どこが代名詞かも分からない。言葉の音や文字だけをいくら考えても言葉の意味は分からない。身振り手振りをしてもらえば、分かるのか? いや、話し手の指差しなどで言葉が表している対象物が分かったとしても、それについて何を言いたいのかが分からない。