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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

世界で一番強い人

2008年04月05日 | x6私はなぜ幸福になれないのか

Boucher_madame_de_pompadour まあ、どんなゲームでも、プロとして生きていくためには、アマチュアのようにやっていてはすぐ落伍するわけです。現代では、何事もグローバルな競争になる。世界で一番強い人が出てきて、互いに争う。プロのエリートでなくても、どの職業でも、数多くの競争相手がいる以上、残業も過労もしないで一人前に認められるのはむずかしい。グローバリゼーションの現代、エリートとしては、二十四時間、世界中の市場をインターネットか何かで監視して情報を収集していないと負ける。休む暇など、あるはずがありません。

そういうことで、現代では、プロとして脱落しないようにがんばる本業と、アマチュアとして気晴らしにする趣味とは、峻別されることになる。社会に組み込まれている本業のほうのコミュニティで認められないと、テレビゲームでいくら勝っても、趣味のサークルで仲間にほめられても、空しい。趣味は趣味でしかないからです。

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別世界での人生

2008年04月04日 | x6私はなぜ幸福になれないのか

実社会での人生ゲームに疲れた現代人が、実人生とは違う別世界での人生、たとえばスポーツやテレビゲームや趣味の生活に惹かれるのも、古人の感覚が思い出されているという面がある。昔は照明がなかったから、日が暮れると闇の世界で生きる。闇の中では目が見えないから、がんばって働くことはできません。闇の中でもできる子作りなどで、がんばっていたのかもしれませんね。冬は作物が育たないから、遠くまで出かけて狩をする。現代のスポーツの源流かもしれない。夏の畑仕事とは全然違う仕事をするしかない。祭りでは、歌や踊りに熱中する。一日の時間、一年の季節で、違った人々と違ったルールで生活を送ったわけです。

複数の人生を同時に生きていた。現代人が休暇にカジュアルな服装に着替えて、趣味の仲間と過ごす様子に似ている。けれども、昔の人たちは、趣味などしている余裕はなかった。農耕も、狩も、祭りも、生活に必要不可欠と思っていた。いつでも、懸命にそれらをしていたわけです。一方、現代人は職業欄に書き込む本業というたった一つの競争ゲームを人生のすべてとして生きている。それが出世であろうと、あるいは蓄財、あるいは子育てであっても、それに全身全霊を打ち込んで戦わないと勝てない、と思っています。

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自由の苦しさ

2008年04月03日 | x6私はなぜ幸福になれないのか

Bou_vert 自由競争が苦しい、という話を私たちは、不思議ともなんとも思いませんが、これは現代に特有の話です。身分制度の時代には、その苦しみはなかった。競争が苦しいとか、勉強が苦しい、などという話は、身分制度の中で生きていた人々には理解不可能でしょう。自由なゲームなどなく、人生の成功も失敗もなかった。親から受け継いだ身分を全うして子に引き継ぐことが大事だった。その代わり、もちろん、競争の苦しさも自由の苦しさもありませんでした。

どちらが幸福だと思いますか?

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過労死か、引きこもりか

2008年04月02日 | x6私はなぜ幸福になれないのか

現代の市場経済社会は、自由平等である、といわれている。たしかに現代社会のこの仕組みは、昔の身分制度や国家統制の時代に比べて、個人の活動意欲を格段に高め、活気に満ちた人生ゲームを個々人に提供している。この活動意欲の高さのエビデンスとしては、たとえば、身分制度の時代に比べて、現代社会では、経済成長の速度が格段に速い、という数字に現れている。

ただし、活気に満ちた人生ゲームに熱中している人々が主観的に幸福感に満たされているか、というと、そうでもないところがあります。ある意味、楽しいゲームは苦しい。ギャンブルや麻薬のようなところがある。楽しいからやめられない。やめられないから、楽しいのか苦しいのか分からなくなって、ますますやめられない。これが極端に達すると、ワーカホリックとか過労死(一九九七年 西山勝夫、ジェフリー・ジョンソン『過剰労働による過労死:日本式生産管理の職業健康における結論』)といわれる病的症状が現れる。

これを幸福というのか? 自由意志で、本人の好きでやっているのだから身体を壊しても、死んでも、それも幸せなのか? 疑問ですね。では、どうするか? 競争の人生に身を投じるか、引いて気楽に生きるか。人生の選択としては、どちらが幸せなのか? たとえば、社会に参加し、金や出世を追い求める成功ゲームの競争に熱中して苦しむか? あるいは社会から引いて、趣味やテレビゲームの世界で虚しい日々を送るか? 現代人はどちらにも満足できない。過労死を心配したかと思えば、引きこもりの心配をする。

拝読サイト:染まる前に

拝読サイト:日本の医師は働きすぎで みんな過労死寸前 

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現代社会は分かりやすい

2008年04月01日 | x6私はなぜ幸福になれないのか

Bou_pomp そういう事情で、現代社会は、機会均等な個人が自分のための幸福を勝ち取るために、日々、自分の努力を積み重ねて競争する場となっている。努力の成果を(公開の、あるいは閉鎖された小さな)競争的市場で売り、個人の幸福を買い取る。これはとても分かりやすいゲームになっている。

貨幣を媒介とする経済価値や職業欄と肩書きに表わされる社会的地位など、だれの目にも明らかな得点が設定されている。逆に、だれの目にも明らかなものが得点として価値を認められる、競争の賞品となるわけです。そして、競争のそのルールは分かりやすいほど、ゲームとして好まれる。その結果、経済的社会的成功を求める人生ゲームはますます人気が出て、白熱してくる。つまりマクロ経済の観点でいえば、人々はより効率的な企業組織など協力体制を洗練させ、生産性が競い上げられ、またその結果、グローバリゼーションがますます発展してくるわけです。

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拝読サイト:競争

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