科学に限らず(拙稿の見解では)、人間が真実とか現実とか思っているもろもろの物事、たとえば物質や人間や社会や運勢の現象と法則、現状認識、実現性、傾向などが、なぜ真実といえるのか、その理由は結局、仲間の集団的視座から見てそれが真実としか思えない、というところにあるといえるでしょう。このことは単に理屈でそう思うということよりも、私たちの身体がいつの間にかそれを現実として受け入れるように動いてしまう、ということです。動いてしまうことで、それを、現実という感覚として感じ取る、ということもできるでしょう。なぜ身体がそう動くのか意識しないうちに動いているということが、まさに私たちの身体が現実というものをそうして受け入れている証拠といえます。
拝読ブログ:Taku Sakaushi : Diary: 皮膚感覚の知性
拝読ブログ:灰色のまち:今日のコトバ 5
灰色のまち の、hys(ヒス)と申します。
こちらのブログをリンクさせていただきました。
拙い文章でお恥ずかしい限りですが、岩田様のおっしゃることに、おこがましくもいくつか共感できる箇所があり、大変興味深く読ませていただいております。
難しい言葉はよく分かりませんが、言葉は言葉でしかない、言葉の限界を超えることにあまり意味は無い。
わたしは人間が、嫌いです。言葉を操り、世界を操り、我が物顔で蔓延っているからです。
でも、残念なことにわたしは人間です。わたしの感覚を、言葉以外で伝える方法を知らない。日々矛盾です。葛藤です。きっとこのまま、あるはずのない何かを探しながら、一生を終えるのだと感じています。
万人にとっての答えなど、あるはずがない。
分かっているのは、わたしはなぜかここにいる、ということだけです。
みんな、みんな、ただここにいるだけ、ですね。