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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

協力機構としての自我

2012年07月22日 | xxx私を知る私

少なくとも過去数十万年、人類の生きてきた環境では、生活を共にする仲間との緊密な協力が生存の条件であり、そのように集団の生活力を強化する方向に人類としての進化圧力がかかっていたことは間違いないでしょう。その環境の中で発生し進化してきた自然言語の上に作られている自我概念は(拙稿の見解では)、機能的に、仲間との協力を支える機構であったはずです。

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自我概念の起源

2012年07月21日 | xxx私を知る私

Draper_herbert_james_mourning_for_i そもそも「私」という言葉(第一人称)は、話し手が聞き手に「今あなたに向かって話している人物」というものを指す場合に便利であったから作られた言葉でしょう。

たとえば、

「火があるとよいのだが」

「私が火の起こし方を知っている」

というような会話の場面で、「私」という言葉は便利です。

このように自我概念は、その起源からして、協力する人物を求めている仲間(この場合第一人称で「私」と言っている話し手の話を聞いている聞き手)の観点から見ての、話し手である人物への関心にこたえるための道具でした(拙稿12章「私はなぜあるのか?」 )。

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自然言語の問題

2012年07月20日 | xxx私を知る私

私たちは「私とは何か?」と考える。それは言葉で考えています。だれかに聞くときのように「私とは何か?」と考える。あるいは、だれかに聞かれたときのように、それ(「私とは何か?」という疑問)を考える。そのとき当然、言葉を使って聞いたり答えたりします。だからして、この問題はまず言葉(自然言語)を土台にしていることは明らかです。

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永久に哲学の問題

2012年07月19日 | xxx私を知る私

Draper19 現実というものと私というものは(拙稿の見解では)、どうも深く絡み合っていて、すっきり分離できないと考えるしかないでしょう。ここに気づかずに過ぎてしまうと、「私とは何か」とか「現実とは何か」、「存在とは何か」とかいう一見簡潔な問いが作られる。それらはまさに哲学の問いであると思われている。それらはしかし、偽問題です。問うことが間違いです。論じるほど言葉に絡めとられていく。哲学者がいくら論じても答えは出ない。だから永久に哲学の問題になっている。こういうたぐいです(拙稿第一部「哲学はなぜ間違うのか」 )。

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現実そのものの根拠

2012年07月18日 | xxx私を知る私

こうなると今度は、現実の中に認められる私自身をいくら詳しく観察しても、その姿かたちや行動を分析し予測しても、その現実そのものの根拠がまた結局は私自身だということでは、本当に私を知ったことにならないのではないか、という疑問が出てきてしまいます。面倒なことは考えずに、私はここにいるからここにいる私が私のすべてだ、と言いたい気分になります(拙稿19章「私はここにいる」 )。しかし、それでも何か残っている、と思ってしまうと、気分はすっきりしません。この(私を知る私とは何か、という)問題が完全に解けたという気にはなれません。

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