優秀なディレクターたちがそういう効果を狙って作ってあるのですから、当たり前なのでしょう。同じように昔の人たちは囲炉裏を囲んで長老が物語る伝説の動物、竜とか天狗などの怖い話を聞いて、本当に身体が震えて後ずさりしたくなったのでしょう。それでも、その話をもっと聞きたくなる。それもこれも、同じ脳の働きです。
人間の内部には、心というものがある、森の奥には、天狗というものがいる、と言われれば、そういうものが確かにあるような気がする。でも誰も、それを現実の物質として見たことはないのです。
日常生活では、それでも十分です。話し手がそれを言うときの表情、身振り、声の調子、そして前後の状況、そういうものを感じ取って聞き手は話し手の感情を共感し、相手が感じている錯覚を想像し、その錯覚の存在感を自分の経験として記憶していくのです。そうして、その錯覚は言葉で名づけられ、存在感という感情を伴って想起することができるようになります。さらにその言葉で錯覚を思い出し、それに想起される感情を声や表情で表現したときの相手の反応を観察して、その錯覚が誰とでも共有されていることを確認していきます。こうして一連の錯覚を確実に共感できるようになり、仲間どうしは通じ合った気になって会話がはずみ、共同生活がうまくいくのです。
「天狗にさらわれるから子供から目を離すな」とか、「滝つぼには竜がいるから、子供は深いところで泳ぐな」とか言い合っていれば、その部族の幼児死亡率が低くなって人口は増加したでしょう。そういう便利な錯覚を共感し、それを言語で表現する人間の集団は結束が高まり、繁殖率が高まり、大いに繁栄して、錯覚を共感し言語を伝える能力をもつ子孫を増やしていったのです。いわば、人類の繁殖機構に埋め込まれることで、言語もまた繁殖していったわけです。
拝読ブログ:天狗について