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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

人類の繁殖機構に埋め込まれた言語

2007年02月10日 | 3人間はなぜ哲学をするのか

優秀なディレクターたちがそういう効果を狙って作ってあるのですから、当たり前なのでしょう。同じように昔の人たちは囲炉裏を囲んで長老が物語る伝説の動物、竜とか天狗などの怖い話を聞いて、本当に身体が震えて後ずさりしたくなったのでしょう。それでも、その話をもっと聞きたくなる。それもこれも、同じ脳の働きです。

人間の内部には、心というものがある、森の奥には、天狗というものがいる、と言われれば、そういうものが確かにあるような気がする。でも誰も、それを現実の物質として見たことはないのです。

日常生活では、それでも十分です。話し手がそれを言うときの表情、身振り、声の調子、そして前後の状況、そういうものを感じ取って聞き手は話し手の感情を共感し、相手が感じている錯覚を想像し、その錯覚の存在感を自分の経験として記憶していくのです。そうして、その錯覚は言葉で名づけられ、存在感という感情を伴って想起することができるようになります。さらにその言葉で錯覚を思い出し、それに想起される感情を声や表情で表現したときの相手の反応を観察して、その錯覚が誰とでも共有されていることを確認していきます。こうして一連の錯覚を確実に共感できるようになり、仲間どうしは通じ合った気になって会話がはずみ、共同生活がうまくいくのです。

「天狗にさらわれるから子供から目を離すな」とか、「滝つぼには竜がいるから、子供は深いところで泳ぐな」とか言い合っていれば、その部族の幼児死亡率が低くなって人口は増加したでしょう。そういう便利な錯覚を共感し、それを言語で表現する人間の集団は結束が高まり、繁殖率が高まり、大いに繁栄して、錯覚を共感し言語を伝える能力をもつ子孫を増やしていったのです。いわば、人類の繁殖機構に埋め込まれることで、言語もまた繁殖していったわけです。

拝読ブログ:天狗について

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人間はなぜ哲学をするのか

2007年02月09日 | 3人間はなぜ哲学をするのか

筆者は気が短いのか、一時間以上も続くテレビドラマはあまり好きではありません。それでも妻がテレビを見ていると、横のほうから、ちらちらと見てしまいます。テレビドラマには、たいてい定番のような悲劇が作り込まれているようですね。恋人どうしや家族の死に別れの場面など、見るとなく見てしまうと、涙がにじんできそうになります。冷静で知的なはずの筆者が、そんな表情を妻に見られてはなりません。さっと横を向いてごまかす。そして、なぜこんな安直な芝居を見て涙ぐんでしまうのか、我ながら首をひねりたくなるのです。無意識のうちに心が共鳴する。それはこういう自動的な現象のことをいうのでしょう。

しかし冷静で知的な筆者としては、このように無意識のうちに感情を揺さぶる命、そして心、という存在は錯覚だということも知っています。たとえば、詳しくは後で述べようと思いますが、命とか心とかいうものは物質として存在するものではありません。だから大事でないと言うつもりはありませんが、手に取って目に見せることができない。はっきりと感じるものであるにもかかわらず、物質として捉えられるものではありません。人間どうしの交流のうちに、そのときどきの状況の経験から直感して、共感する。それで分かったような気持ちになるしかありません。

そうではあっても、よくできたテレビドラマは、なるほど、本当に心に響く。身体が勝手に反応してしまう。身体が理解してしまうのです。涙が出そうになったり、手に汗を握ったりしてしまいます。見ているこちらの身体に、テレビの中の主人公の心が乗り移ってきて、いつのまにか身体を動かして心を揺さぶるのです。次はどうなる、次はどうなる、と場面を進ませようとするのです。いいところでコマーシャルがはさまれる。実にうまく作られています。そういう連続ドラマを見ると毎回、(妻には内緒ですが)ぜひ次回を見ようと思ってしまうのです。

拝読ブログ:考える事について考える

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