一方、現代の心理学あるいは認知科学においては、感覚器官から取り入れられた情報(たとえば網膜に映るリンゴの映像)が脳内蓄積情報(リンゴという意味記憶)と脳内で(脳神経科学の現状ではまだ解明されていない)何らかの仕組みで融合して認知が行われる、という図式が常識になっています。この常識は私たちの直感に合っていますね。拙稿の見解も、おおすじはこの常識を踏襲しますが、注目点は常識とかなり違います。
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拝読ブログ:自動編曲の手法
一方、現代の心理学あるいは認知科学においては、感覚器官から取り入れられた情報(たとえば網膜に映るリンゴの映像)が脳内蓄積情報(リンゴという意味記憶)と脳内で(脳神経科学の現状ではまだ解明されていない)何らかの仕組みで融合して認知が行われる、という図式が常識になっています。この常識は私たちの直感に合っていますね。拙稿の見解も、おおすじはこの常識を踏襲しますが、注目点は常識とかなり違います。
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私たち人間の身体はこのように(拙稿の見解によれば)生活に必要な物事を感じとって、それが存在すると感じることができます。そして同時に、それがだれにとっても同じように存在している客観的な存在だと感じ取ることができます。
なぜ私たちの身体はこうなっているのか?それは、そういう身体を持つことによって人類が互いに通じ合い協力しあって大繁栄した結果、(そのDNAと文化を受け継いで)現代に生き残っている子孫が私たちだからです。
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まあ、ふつうの常識では、私が存在しているから私の生活があるということです。ところがここでいう拙稿の見解では逆になります。つまり私の生活に必要だから私が存在する。まずこの身体が生きているという事実がさきにあって、生きているために私が必要だ、ということです。ややこしい言い方ですね。すみません。
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こういうことを言っている私自身というものも私の生活にとって必要であるから存在している、と(拙稿の見解によれば) 考えられます。つまり私のこの身体は何を目的にして動いていくのか、それを人が見たらどう見えるのか、ということを忘れないで身体を操縦していくために私というものが存在している。それを忘れると生活に困るから(私にとって私というものが)存在している、といえます。
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