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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

何をゴミというか

2011年05月03日 | xx5存在は理論なのか

Klimt_01z つまりここにある何かは、ゴミですね。

ふつうゴミは一目見てそれがゴミだと分かる。ゴミ置き場にそれらしく置いてあるからです。そして見るからに役に立ちそうにない。

役に立たないものはゴミである。ゴミというのは、それが存在することを人間が必要としないもののことである。そうであるから、ふつうゴミは存在していないことが多い。自分の受け持ち空間を清潔に維持しなければならない場合だけ、そこにゴミは存在している。きたないのがいやなところにだけゴミは存在している。ゴミが存在していると私が思わないとそこがどの程度清潔でないのか分らなくなってしまって困るから、そういう場面でゴミは存在している。

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消滅とは何か?

2011年05月02日 | xx5存在は理論なのか

まさにゴミですね。生ゴミかな?いやプラスチックも入っている。金属も入っている。分別しないゴミですから、清掃局に叱られてしまいます。

さて、私はこの混合物の作り方を見ていなかった。私は目の前にある不規則な形をしたぐちゃぐちゃのかたまりを見ています。たしかにリンゴが粉砕されてこの混合物の中身に含まれています。しかし私にとって、ここにリンゴは存在していない。なぜならば、リンゴの匂いはほとんどしないし、おいしそうなリンゴの片鱗もないし、食べられるものはまったくないし、目で見ても何があるのかさっぱり見分けがつかない。

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存在物の消滅過程

2011年05月01日 | xx5存在は理論なのか

Klimt3 たとえば、リンゴがそこに見えるとしても、前段プロセスで身体がその存在感を認知しなければリンゴは存在できません。前段プロセスでリンゴの存在感が成り立たない例をあげてみましょう。

まず私がこのリンゴを見ないうちに、だれかが来てリンゴを粉砕してしまうことを考えてみましょう。その人はリンゴをミキサーに放り込んでこなごなに粉砕してしまいました。そのジュースに庭から拾ってきた泥を混ぜてよくかきまぜています。さらに、台所から粉せっけんを持ってきて混ぜています。さらに冷蔵庫から卵を出して割って殻ごとぐちゃぐちゃにかきまぜています。さらに押入れから古いパソコンを持ちだしてきて金槌で粉々に粉砕して破片を先の混合物に混ぜあわせて練り合わせています。ついでに細かくちぎった紙くずとセメントも少しまぜてしまいました。もう何が入っているか分からないぐちゃぐちゃの混合物ができました。さあ、これは何でしょう? 

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脳神経系の状態遷移

2011年04月30日 | xx5存在は理論なのか

さてここで後段プロセスの話を始める前にしっかり確認しておかなければいけないことは、前段プロセスでの言葉にならない無意識の認知があってはじめて、後段プロセスの言葉が浮かんでくることです。

この言葉にならない無意識の前段プロセスを進める脳神経系のメカニズムは、現代の脳神経科学ではまだ解明されていません。現代の脳機能画像化技術だけでこれを解明することはむずかしそうです。このメカニズムの解明は、神経細胞単位の微小かつシステム的な観察技術の開発がなされるであろう次世代の脳神経科学における最大の課題のひとつとなるでしょう。いずれにせよ、現在の科学知識で私たちが分かることは、人間の脳神経系の状態が認知プロセスの始まる前と前段が完了した時点と後段が完了した時点と三つの時点でそれぞれ別の状態になっているということです。そして後段プロセスは前段プロセスが完了した後でないとはじまらない、ということです。

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客観性ー集団性

2011年04月29日 | xx5存在は理論なのか

Klimt2 ちなみに、この後段プロセスでは、仲間が同時に必要と感じるものだけが存在できるようになるという点に注意が必要です。自分ひとりだけが感じても仲間がそれを必要としないような物事は、仲間と共有できないので、言葉になりません。そういう物事は前段プロセスで止まってしまって、後段プロセスまで進みません。その場合は記憶に残らず後で思い出すこともできません。

私たちはそういう物事を客観的な現実と思うことができません。夢で見た感覚などはそれでしょう。身体内部の感覚なども一過性であればほとんど記憶に残りません(拙稿23章「人類最大の謎」 。それらは客観的に存在するものではない。逆に言えば、客観的に存在する物事とは、後段プロセスにまで進んで、仲間がそれを私たちと一緒に必要と感じる(と感じられる)物事のことです。

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