goo blog サービス終了のお知らせ 

哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

語り手自身の内部

2012年04月03日 | xx9 生きるという生き方

Dolce_far_niente__john_william_wate たとえば、「A子は五人の子を育て上げた献身的な母として生きた」という記事があるとします。その記事を書いたのはジャーナリストのP氏でした。P氏は、五人の子を立派に育て上げた母親はどんなに献身的だっただろうか、と思いながらこの文章を書きました。この文章には、P氏のその気持ちが表現されています。

P氏はA子の生き方に感じるところがあって、この文を書いた。人が人の生き方について何か言葉を使って語るときは、必ずこのような共感、反感あるいは何か語り手自身の内部に呼応するようなところがでてきます。

拝読ブログ:Idle Thoughts アガサ・クリスティー 「スタイルズ荘の怪事件」: The Mysterious Affair at Styles (1920) - Agatha Christie

拝読ブログ:小説感想 幕末の青嵐 :: POISON CARROT

コメント

生き方を語る者

2012年04月02日 | xx9 生きるという生き方

現代日本語では、人の生き方、という言葉がよく使われます。さまざまな人生の選択がある、という現代的な思想が背景にあるのでしょう。身分制の江戸時代などにはあまり使われなかった言葉だろう、と思われます。その、人の生き方、ですが、やはりこの言葉も客観的な事実を言っているのではなくて、これを語っている話者の視座からその人を、特にその社会的関係を、どう感じ取れるか、という観点で語られるようです。ある人の生き方、というものはそれを語る人がそれをどう感じ取っているかについて語るものといえるでしょう。

拝読ブログ:(転載)今、平和を語る:哲学者・東大大学院教授、高橋哲哉さん | 市民社会フォーラム

拝読ブログ:愛と幻想のノマド論 食いっぱぐれない生き方のぶっちゃけ話 : アゴラ - ライブドアブログ

コメント

人にとって生きるとは何か

2012年04月01日 | xx9 生きるという生き方

Destiny__john_william_waterhouse 私たちにとって知っている人が今生きているかいないか、ということは、このように、生物としてのその人の身体の生死という物質的問題とは違って、私たちの内部がどう変化しているか、という問題です。この点に注目する場合、人の生死はほかの生物の生死とは本質的に違うカテゴリーの現象である、というべきでしょう。

拙稿本章では、この問題、つまり、(生物にとってではなく)人にとって生きるとは何か、について考えてみようと思います。

拝読ブログ:Blog「未来を信じ、未来に生きる」 : 人間、何が起こるか判らない - livedoor Blog(ブログ)

拝読ブログ:奇妙な世界の片隅で 『セス・アイボリーの21日』と『霜と炎』

コメント

死の意味

2012年03月31日 | xx9 生きるという生き方

大した理由もなく、私たちは知っている人のことをふっと思い出します。その思い出す人が死んでしまった人か、生きている人か、の違いで思い出すときの感覚は違います。

同時代に生きている、今生きている人を思うことは、死んでしまった人を思うことは根本的に違うところがあります。生きているということは、これから何かをするということです。何かをするか、何もしないか、の違いは決定的です。死んだ人は何もしないだろうと確信できますね。私たちから見てその人はもう絶対に何もしないだろうと確信できること、それが私たちにとっての、その人が死んだということの意味です。逆にいえば、私たちがその人は何かをするだろうと思えるということが、その人がいま生きているということでしょう。

拝読ブログ:機関誌に寄稿した文章 - 無骨な日記

拝読ブログ:Toward the Sea : 小林秀雄批判補遺(蓮實重彦、柄谷行人、中上健次)、あるいは恋文のように

コメント

さびしさ

2012年03月30日 | xx9 生きるという生き方

Cleopatra__john_william_waterhouse 私たちがよく知っているある人が死んでしまうということは、仕事仲間あるいは遊び仲間が減って困ったとか困らないとかいう生活上の問題はありますが、それとは別に身体が少し苦しくなるようなさびしさというものがあって、それはそういうところからくるのでしょう。

拝読ブログ:金田一京助 「心の小径」 : 「3教科」で合格ラインをクリアー中学受験

拝読ブログ:春霞、それぞれの春 yasukoのブログ/ウェブリブログ

コメント