できの良い子を引き合いにして、できの悪い子を叱っているような言い方になってしまいました。
筆者は理系の出身ですが、仲間うちでよく人文系学問の悪口を言って暮らしてきたので、つい出てしまいました。しかし、はっきり文系思想の欠陥をテーマに文章を書くのはこれが初めてです。現役を卒業した身になったので、もう大丈夫かな、と思いますが、まだちょっと怖い。
ただ拙稿は、哲学への無責任な揶揄が目的なのではなくて、筆者自身のまじめな自問自答です。
できの良い子を引き合いにして、できの悪い子を叱っているような言い方になってしまいました。
筆者は理系の出身ですが、仲間うちでよく人文系学問の悪口を言って暮らしてきたので、つい出てしまいました。しかし、はっきり文系思想の欠陥をテーマに文章を書くのはこれが初めてです。現役を卒業した身になったので、もう大丈夫かな、と思いますが、まだちょっと怖い。
ただ拙稿は、哲学への無責任な揶揄が目的なのではなくて、筆者自身のまじめな自問自答です。
こんな挑戦的な言い方をすると、極論を叫んで自己顕示したがるトンデモ本になってしまいます。それはちょっといやなのですが、まじめな読者を少しでも引き寄せたいので、あえて扇情的に拙稿のテーマを言ってみましょう。
「科学は間違わないで着々と発達するのに、哲学は、なぜいつも間違うのか? 科学がここまで発展したのに、人類は、なぜ、いつまでもこの世の一番不思議な謎を解けないのか? 人々は、なぜ、それがおかしいと気づかないのか?」
過去の哲学はたしかに人々が大事だと思うことを教えてきましたが、現代に至って、それらの教えが実は間違いだったことが分かってきたのではないでしょうか。特に西洋哲学は、世界中の人々に大きな間違いを教えてきたのではないか、と筆者はひそかに思っています。西洋哲学は数百年にわたって人々に間違いを教え続けることで西洋文明のあの偉大な発展に貢献したのではないか、と言いたいくらいです。
二十一世紀になった現在、哲学は本当に死にかかっています。もう死んでしまっているのかもしれません。過去の哲学はたしかに諸学問の基礎を築き文明の発展に大きく貢献しました。ところが今は、どうでしょうか。科学や経済のすばらしい発展とは対照的に、哲学は今にも消えていきそうです。これほどまで急に衰退してしまう哲学とは、結局は間違った学問だったのではないでしょうか? そう遠くない将来、哲学は、かつての占星術や錬金術のように、お伽話の世界に仲間入りしてしまいそうです。当時の最高の学者が全身全霊をかけて研究したこれらの神秘の術を、私たち現代人は、無知な古人の哀れむべき妄想にすぎない、と思っているわけです。
とにかく哲学は最高の学問でした。優秀な若者は皆、哲学者を目指したそうです。逆に哲学を勉強していれば、優秀な若者だと思われたわけですね。
しかし筆者が高校生になったころ、一九六〇年代はもう科学の時代でした。一九六一年には、人類で始めて宇宙を飛んだソ連の宇宙飛行士が「地球は青かった」と言いました。一九六九年にはアメリカの宇宙飛行士が月の地面を歩いていました。そのころから世界中の生化学者はもうDNAの研究を始めていました。それでもまだ、哲学はなにか科学では解明できないもの、人生の深遠なもの、を代表する学問と思われていました。今から思うと、その頃が、哲学の終りの始まりだったのですね。