さて実際、私たちの毎日の行動は、目の前の現実を錯覚ではなく本当の現実だと感じ取ることから始まっています。いや、拙稿の捉え方では、感じ取ろうとして感じ取るわけではなく、いつの間にか身体が動いていて身体のその動きはこういうものを現実と感じとってそう動いているからそれが現実なのだ、ということです。つまり(拙稿の見解では)私たちがこのように行動するということは、無意識のうちにこれが現実だと感じ取っているからこれが現実であるような行動になっている、ということになります。
さて実際、私たちの毎日の行動は、目の前の現実を錯覚ではなく本当の現実だと感じ取ることから始まっています。いや、拙稿の捉え方では、感じ取ろうとして感じ取るわけではなく、いつの間にか身体が動いていて身体のその動きはこういうものを現実と感じとってそう動いているからそれが現実なのだ、ということです。つまり(拙稿の見解では)私たちがこのように行動するということは、無意識のうちにこれが現実だと感じ取っているからこれが現実であるような行動になっている、ということになります。
心理学では信念(belief
)という語を使って、物事が現実であるという認知を認知主体が保持していることを表しますが、拙稿では単純に、動物の目的志向的な行動を引き起こすような認知の内容を現実と呼ぶことにします。
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拝読ブログ:ページからページへ : D.M.Armstrong(1977), "The Causal Theory of the Mind"
感覚の問題として現実感とは何か、という問題は比較的に簡単に答えられます。科学の用語としては定着していないようなので、あえて拙稿としてここで科学的(行動学的)に定義してみましょう。現実感とは、「動物の行動を目的指向と解釈する場合、身体がある環境世界におかれていると認知して目的行動が実行されているように観察されるとき、その環境世界の認知に伴っていると想定できる感覚」のことである。つまり、動物(たとえば人間)が目的指向的な行動をとることが観察できるとき、その動物にとってはその行動がある現実の中で行われているらしい、と推定できる、ということです。
現実とはどのようなものか、という存在論的な議論については拙稿19章「私はここにいる」
などで述べたことの繰り返しになるので割愛させていただくとして、ここでは、なぜ私たち人間は現実の中に生きていると思っているのか、について調べていきましょう。
拙稿本章の興味は、私たちの体感としての現実感、つまり現実を現実と感じ取る私たちの感覚はどこから来るのか、そしてその現実感覚を私たちは生活行動において、あるいは社会行動においてどのように使っているのか、という問題です。
文字で書かれた文章は、どの現場での会話なのか分からない(シンボル接地問題という)。「現実とは何か?」という問いは、現場の会話でしか答えられない、つまりコンテキストでしか答えられないような類の質問です(拙稿19章「私はここにいる」 )。
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