宇宙の果てについて語ることに似ている。だれも行ったことがない。今ここからはそれは見えない。だれも見たことがない。見ることができるはずがない。それが見えるとしたら、それは果てではないのだから。そういうものは、そもそも語ることができるものなのか。疑問ですね。そういうものを語ること自体が間違いではないのか?
(拙稿の見解では)人間の言葉(自然言語)は、それをいくら上手に使っても語れないものがたくさんある。どんな言語を使っても人間が語る限りは、目に見ることができないものを正確に語ることはできません。それらを語れると思うことが間違いの始まりです。
宗教も哲学も文学も、世間話も、しばしば死について語る。言い伝えと比喩とたとえ話を駆使して、熱心に語ろうとする。しかし語れば語るほど、どれも間違ってくる。それについて言葉で語ることができないものを無理やりに語るから、かならず間違っていく。人類が死の観念を発見して以来、それについて語ってきたことは全部間違いでしかなかった。大人の言葉によって死の観念を教えられた小学生は、それにおびえながらそれを自分の言葉にしていく。そのとき子供はもう間違っている。言葉にできないものがあるということを知らないからです。実際、私たち大人もそれを知らない。言葉に限界があることを知らない。それを知らないということさえも知らない。
拙稿もこれから死について語ります。読者はまたもうひとつ間違いを聞かされる、と思うでしょう。しかたありません。そう思って読み始めてください。いままでのどの著作も死について間違いしか述べていないことを、皆さんは知っているのですからね。
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