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哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

死はなぜ大事件なのか?

2008年01月20日 | x5死はなぜあるのか

Poussin_acis さて拙稿の見解では、まず、死といわれるできごとは、特に他のできごとと比べて変わった特徴があるわけではない。生物が故障して動かなくなる、元のようには戻らない、という現象は、何の神秘もない自然な物質現象です。物の形が不可逆的に変形するという物質現象の一種です。アイスクリームが溶けてしまうのと変わらない。

「形あるものは必ず壊れる」と昔の人も言いました。形が壊れることが問題となるのは、それを見ている人間がその形に注目しているからです。ただ甘いからアイスクリームが好きだ、という人にとっては、溶けても甘さは変わらないから、それが溶けるか溶けないかは問題ではありません。しかしアイスクリームのこんもりした形が好きな人にとっては、それが溶けてべたっと流れてしまうのは、とても残念なことです。溶けて液状になったアイスクリームなど食べる気がしない。形があるうちに食べるべきだったのです。残念でした。実に残念です。しかし、アイスクリームの溶解それ自体には残念という特徴があるわけではない。残念というのは、それの形を問題にしている人の内部に起こる感情の特徴でしょう。甘さだけを問題にしている人には、それは残念なことではない。

火山が噴火して山頂が吹き飛んでしまうことがある。大音響がして巨大な火柱が立ち、噴煙がもうもうと上がる。山の形は一瞬にして大きく変わる。昔の人々は、神の怒りとか言って神秘的な大事件だと思ったようです。しかし、噴火という物理現象も個々の原子が自然法則にしたがって運動する結果に過ぎない。他の自然現象と比べて特別な特徴があるわけではない。山の形に注目しているから大変化と思える。一個一個の原子に注目していれば、それが自然法則に従って加速されている運動があるだけです。また地球全体に注目していれば、ほとんど変化は起きていない。

同じように私たちが、一個の生物の身体と活動の外見に注目している場合だけ、その身体が壊れて活動が停止してしまう不可逆的な変化、つまり死を見てとることができる。死は、いわば、現実にあるというよりも、それを見る観察者の内部にある。それが大事件であるとすれば、それは観察者にとって大事件であるからでしょう。

拝読サイト:形あるものはいつか壊れる

拝読サイト:火の神(コマガタケ)

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宇宙の果てを語る

2008年01月19日 | x5死はなぜあるのか

宇宙の果てについて語ることに似ている。だれも行ったことがない。今ここからはそれは見えない。だれも見たことがない。見ることができるはずがない。それが見えるとしたら、それは果てではないのだから。そういうものは、そもそも語ることができるものなのか。疑問ですね。そういうものを語ること自体が間違いではないのか?

(拙稿の見解では)人間の言葉(自然言語)は、それをいくら上手に使っても語れないものがたくさんある。どんな言語を使っても人間が語る限りは、目に見ることができないものを正確に語ることはできません。それらを語れると思うことが間違いの始まりです。

宗教も哲学も文学も、世間話も、しばしば死について語る。言い伝えと比喩とたとえ話を駆使して、熱心に語ろうとする。しかし語れば語るほど、どれも間違ってくる。それについて言葉で語ることができないものを無理やりに語るから、かならず間違っていく。人類が死の観念を発見して以来、それについて語ってきたことは全部間違いでしかなかった。大人の言葉によって死の観念を教えられた小学生は、それにおびえながらそれを自分の言葉にしていく。そのとき子供はもう間違っている。言葉にできないものがあるということを知らないからです。実際、私たち大人もそれを知らない。言葉に限界があることを知らない。それを知らないということさえも知らない。

拙稿もこれから死について語ります。読者はまたもうひとつ間違いを聞かされる、と思うでしょう。しかたありません。そう思って読み始めてください。いままでのどの著作も死について間違いしか述べていないことを、皆さんは知っているのですからね。

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死は指差せない

2008年01月18日 | x5死はなぜあるのか

Nicolas_poussin_et_in_arcadia_ego_2 人が(自分の)死について語るとき、経験したことがないものについて語ることになります。死んだ人は語れない。生きてそれを語っている人は死んだことがない。それを指差しながら話そうとしても、(自分の)死は物質ではないから目に見えない。指差せない。話し手が聞き手と同じものを見ながら語ることができない。そういうものは客観的に語ることができません。

客観的でないものについて語るということでは、痛みを語ることに似ている。しかし、痛みは話し手も聞き手も、だれもが経験したことがある。同じではないかもしれないが似たような経験はある。その経験に関して、比喩あるいは類推を使って共感を求めることで、それを語れば何とか伝わりそうではある。ところが死に関して語る場合は、そういう方法も絶望的です。互いに知っている似たような経験として共感を求めることもできない。まったくできない。話し手も聞き手も、だれもがまったく経験したことがないものを、将来経験することを想像して語ることになる。

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拝読サイト:わが青春のアルカディア

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死はなぜあるのか?

2008年01月17日 | x5死はなぜあるのか

(サブテーマ:死はなぜあるのか? begin)

15 死はなぜあるのか?

バグダッドに商人がいました。ある日、召使を市場に買い物に行かせました。真っ青な顔で帰ってきた彼が言うには、『ご主人様、市場で背中を突かれて振り向くと、死に神がいたのです。私を脅すしぐさをするのです。どうか馬を貸してください。この町から逃げてサマラに行きます。そこまで行けば、死に神に見つからないでしょうから』召使は馬を駆って全速力で逃げました。商人が市場に出かけたところ、死に神が立っていました。商人は聞きました『なぜ、私の召使を脅したのか?』死に神は答えました。『あれは、脅したのじゃないの。私は驚いた顔をしちゃったのよ。だって、あの人とは今晩サマラで会う約束なのだから』

(一九三三年 サマセット・モームサマラで会う約束』訳文筆者)

(一九八七年  ダニエル・デネット『真の信者』プロローグに引用されている)

昔の哲学は死の話が得意でした。好きでした。商売の種にしていました。「死のことを、いつも考えろ(ラテン語でメメント・モリという。うつむいてこれをつぶやくと、いかにも哲学っぽい)」と教えました。昔の哲学者は、書斎に(どこで買ってきたのか)頭蓋骨を飾っていました。

 哲学など知らなくても人間はだれも、物心ついてから老いて死ぬまで「そのうち自分は死んでしまう。空しい。怖い」と思っています。しかし拙稿の考えでは、こういう思いも、数千年にわたって人々が間違った理論(世界観)を語り合ってきたために身につけてしまった錯覚のひとつです。

拝読サイト:イラクで米兵3人が死亡、自軍の誤爆が原因か

拝読サイト:「死」とは最も残酷な別れである (後編)

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