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ゴルバチョフヘのノーベル平和賞授与

『ゴルバチョフ』より 一つのドイツヘ 一九九〇年
西側の指導者たちは、ゴルバチョフに大きな借りがあった。ゴルバチョフはもっと強力な支援を引き出せなかったのだろうか? ソヴィエト軍の東ドイツ撤退費用に関して、サッチャーは「もっと多くを獲得できたはずだ」と語っている。冷戦史家へ転じたイギリスの諜報専門家の見方によれば、ゴルバチョフは「[ドイツのNATO加盟問題」でもっと強硬な立場を貫けば、はるかに多額の資金をNATOから搾り取れたはずなのに、報酬を当て込んであらかじめカードを切ってしまった」。
ゴルバチョフがヨーロッパの戦後復興を支えたマーシャル・プラン並の大規模支援を期待していたとすれば、見通しが甘すぎた。加えて国内の圧力が彼を蝕んでいたのも事実である。ゴルバチョフはアルフーズにコールを招いた際、ドイツをNATOへ「売った」とみられたくない、と告白した。「ゴルバチョフがドイツのNATO加盟に同意したと[我々が発表すれば]何と言われるでしょうか?…… 我々の合意は、金融支援を得るための取引とみなされ、非難の的となってしまう」。ブッシュは投資と貿易について協議するため、商務長官のロバート・モスバカーと財界の幹部から成る代表団をモスクワヘ派遣した。ゴルバチョフの指示で国家計画委員会のユーリー・マスリュコフが対応し、投資が可能な企業と今後の交渉を担う連絡委員のリストを提供する、と約束した。だがマスリュコフはどちらのリストも遂に示さなかった。ゴルバチョフが主導する市場経済への移行に、マスリュコフが否定的であったためであろうか? それとも市場経済が是正すべきソヴィエト特有の官僚主義の弊害が出たのであろうか? マトロックによれば、大使館はリストの提示を幾度も督促したが、いつも「数日後に用意すひ」との答えが返ってくるだけだった。
年末にかけて三つの出来事が、ゴルバチョフの国内基盤と海外での評価が、いかにかけ離れているかを見せつけた。市場経済へ迅速に移行する期待が消えて間もなく、ゴルバチョフ夫妻はスベインを訪問した。群衆の歓迎を受け、王室と新たな親交を結んだ。独裁者のフランシスコ・フランコの死後に民主化を定着させたフアン・カルロス国王の手腕を、ゴルバチョフは高く評価していた。社会主義者の首相フェリペ・ゴンサレスとは、長い時間をかけて話し合った。チェルニャーエフによれば「資本主義と社会主義かたどる運命の本質」や「新しい時代と世界の行方」をめぐり、「刺激的で理論的にも最高水準」の対話が交わされた。ペレストロイカがソヅィエトのみならず、全世界にとっても重要であるとの認識を共有して話がはずんだ。ライーサは訪問について、「多くの理解、多くの友人が得られた」と回想している。
一一月下旬、CSCEはパリで首脳会議を開いた。東西ヨーロッパ諸国の指導者に加え、アメリカ、カナダ、ソヅィエトからも首脳が出席した。会議は新しいヨーロッパのためのパリ憲章」を採択し、「民主主義、平和、統一の新時代」をうたいあげた。ゴルバチョフは憲章を、NATOとワルシャワ条約機構に「変革」をもたらすと評価した。「変革」は決して彼の期待に沿うものとならなかった。それでもパリの主役は、やはりゴルバチョフだった。チェルニャーエフによれば、各国首脳はごく短時間でも「彼と私的な会話を交わそうと望んだ」。会議の席へ向かう時、コールはいつもゴルバチョフに道を譲り、「身を寄せては何かをささやいた」。二人が席を外して話し合うと、「会議場全体が息をひそめた」。二人がヨーロッパヘ向けて、「ヨーロッパのために事を成し遂げたのは我々である。全ては我々しだいなのだ」と、メッセLンを発しているかのような印象を与えた。
一〇月一五日、ゴルバチョフヘのノーベル平和賞授与が発表された。アメリカ国防長官のディック・チェイニーがモスクワを訪問したのは、まさにその翌日だった。チェイニーはその晩、ソヴィエト国防相のヤゾフ元帥が催した歓迎の夕食会に出席した。チェイニーはゴルバチョフの受賞を祝って乾杯の音頭を取った。ヤゾフも国防省の幹部たちも沈黙した。チェイニーは「テーブルの真ん中で、私が何かとんでもない粗相をしたような感じだった」と振り返っている。
ゴルバチョフ自身は「複雑な気持ち」だった。アルペルトーシュバイツァー、ウィリー・プラント、アンドレイ・サハロフ(!)の偉大な系譜に連なるのは「もちろん嬉しかった」。だが多くのソヴィエト国民は、ボリース・パステルナークやアレクサンドル・ソルジェニーツィンヘ授与されたノーベル平和賞を「ソヴィエトに対する挑発」とみなしていたので、今回も同様の干渉であると受け止めた。ゴルバチョフは自分の業績が世界で高く評価された結果に陶然としながらも、国内の冷たい目に悄然とした。彼は国内から殺到した批判の手紙と電報に目を通した。その姿をチェルニャーエフが目撃している。ゴルバチョフが声に出して一通の手紙を読み上げた。「書記長殿! ソヴィエト連邦を荒廃させ、束ヨーロッパを売り渡し、赤軍を破壊し、我々の全資産をアメリカに引き渡し、マスメディアをシオニストに奪われた功績に対して、帝国主義者から賞を授けられた慶事にお祝いを申し上げます」。別の手紙は「ノーベル平和賞受賞者殿へ。この国全体を貧乏にして、世界の帝国主義とシオニズムから賞をもらい、レーニンと一〇月革命、マルクス・レーニン主義を裏切った功績に感謝致します」と呪誼の言葉を連ねていた。
「これらの手紙を集めて机の上へ置いた」のはKGB議長のクリュチコフである。チェルニャーエフはゴルバチョフに、なぜクリュチコフがそのような真似をするのか、と尋ねた。普通なら国民の九〇パーセントが受賞を歓迎しないという調査結果を報告するだけで事足りるはずだった。
「私がそのことを考えなかったと思うのかね」とゴルバチョフは言いながらも、その視線は手紙の山に釘付けとなったままだった。
チェルニャーエフは言葉を継いだ。「ミハイル・セルゲイエヴィチ、こんなゴミの山のために時間と神経を費やすっもりですか? このような無知な連中に対しては、大統領として〝超然として〟いるべきです」
ゴルバチョフは黙って答えなかった。
授賞式は一二月一〇日と決まった。ゴルバチョフは晴れの舞台で写真を撮られたくなかったので、第一外務次官のアナトーリー・コワリョフを代理でオスロヘ派遣した。ノーベル賞の授賞式では異例の出来事だった。何カ月も難色を示した挙句、一九九一年六月五日に記念演説に臨んだ。翌日には演説の権利が消滅する最後の機会だった。ゴルバチョフは演説で、今の針路を変えるつもりはないと述べた。「はるか以前に、最終的で後戻りもできない決断を下しています。何ごとも、何びとも、いかなる圧力も、それが右からであっても左からであっても、ペレストロイカを推進し新思考に依拠する立場を、私に放棄させることはできません。私は自分の考えや信念を変えません。私の選択は最終的なものです」

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