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「モスクワは第三のローマ」という世界観

『宗教・地政学から読むロシア』より ソ連崩壊後の世界の混迷 ウクライナ危機と宗教問題

そうしたなかで、今のロシアを理解するカギとなるのは「モスクワは第三のローマ」といわれる世界観かもしれない。この言い方は16世紀ごろからモスクワが自らの存在を定義するのに使われ出した。チンギス・ハンなど東からの脅威、いわゆる「タタールの範」から自由となり、また「ビザンチン」帝国への従属的地位から最終的に解放され、モスクワが独自の存在感を高めたときの表現である。

正確に言うと、15世紀にプスコフのフィロフェイという修道士が提唱したが、東ローマ帝国の崩壊後、その皇女と婚姻することでモスクワの大公がツァーリ、つまりローマ帝国の継承者を名乗ったことに由来する。

実際、エイゼンシュテイン監督の名作『イワン雷帝』の中で、イワン雷帝が、ポーランドなど西側のカトリック世界や東方のハン、モスクワ内外の大貴族を前に「二つのローマ(ローマとコンスタンチノープル)は斃れ、第三のローマは立ち、第四のローマは存在しない」と言った映像を想起する人がいるかもしれない。

この「第三のローマ」という表現は、ユーラシアの中でのロシアの立ち位置を自己主張したときの表象だ。ロシアでは、国家の公式の教義となったことは一度もなかった。それでもロシア人の世界での役割、自己表象を確立するに際しての意義があったのだといえよう。

第一に、ロシアはもちろん「第一のローマ」ではない。つまりはローマ帝国か、最近までの米国のような世界の超大国、ヘゲモンとはなりえない。金融などの経済、軍事、科学技術、言語、市場や人口といったパラメーターからみても、ロシアは現在そのような地位にあるわけではまったくない。

それでもプーチンのもとでソ連崩壊後の零落した位置から復活し、国際政治の中でも影響力を行使し、存在感をいっそう増している。中国やインドといった「新興国」という名で呼ばれている歴史大国とともにBRICSとして世界経済の一翼を担う。とはいっても、エネルギー輸出に依存する経済構造に大きな変化はないし、2014年以降は他の産油国同様、その価格低下に悩むことも事実だ。

第二に、比喩的にいえば冷戦期のソ連のような、「第二のローマ」をめざすわけでもない。つまり既成の「西側」秩序に対する対抗的な理念と比重を示すこともない。ロシアに対するそのような懸念の議論は、クリミア併合後は特にありうるし、今でもマスコミや政治的に消費されている。だがよく考えると、もはやそのようなイデオロギー、対抗象徴はいまのロシアにはない。

ウクライナ危機後の東西関係について「新冷戦」という言い方に筆者が批判的であるのは、ロシアには確かに反欧米の感情はあるとしても、他者を結集して同盟関係を構築するようなイデオロギーはないからだ。現実に冷戦のもとでは米ソそれぞれの指導下で新しい同盟関係が生じ、世界は二極化した。しかし今、世界で起きているのはそれとは正反対の崩壊現象、筆者の言うメルトダウンでしかない。

もちろん、ハードな同盟関係以外にも、現在、世界にはさまざまなソフトなパートナーシユノや協力機構といった存在がある。また、経済や貿易・関税をめぐる関係が疑似同盟的な問題を生み出すことは、ほかならぬウクライナ危機が、EUとの「連携」か、それともガス代金をめぐる関係かといった争いが高じたなかで生じたことにも見える。

そうでなくともロシアは、ソ連崩壊後いくつかの国と集団安全保障条約を含む重畳的な関係を構築してきたし、ベラルーシとは国家連合的関係でもある。そしてこれらの関係をめぐる争いが、あるいは解釈が問題となることは、たとえば英国王立研究所のボボ・ローの『ロシアと新世界無秩序』(Bobo Lo15)あたりに詳しい。

むしろ日本の45倍という、ユーラシアに跨る特異な地理的な位置こそが、東西南北におけるロシアの存在をおのずと自己主張している。そうでなくとも世界最大という地理的環境は、膨大な自然資源とも相まって地政学的、そして地経学的なあり方を意識させる。太陽が昇るアジアからそれが沈むヨーロッパまで、ローマ帝国の特質は東西を眸睨する存在であった。そのような意味ではロシアは「第三のローマ」なのかもしれない。

ロシア帝国を東西南北の軸で見てみよう。南では、アラブ、イスラム世界と接したロシアは南の勢力のヨーロッパヘの北上を防ぎ、あわよくば、とくにオスマン・トルコ支配下のコンスタンチノープルをキリスト教徒に取り戻すといった意味があった。クリミア半島がその拠点とみなされた。西では、カトリックやプロテスタントとの間で、キリスト教的価値をめぐる東方正教の中心とみなされた。

ロシアの北部の地域は、とくにキエフ・ルーシの滅亡後はそのような正教の厳しい教義や儀式を守る中心であった。白海などでは修道院が厳しい戒律を守った。ここから「古儀式派」とよばれるロシア風の正教原理派が出てきた事情については後で触れよう。今は、世界のエネルギー資源の2割以上を有する北極海が新しいエネルギーと交通、そして軍事面でも新たなフロンティアとなっている。

そして東の世界は、ロシアにとって憧れと同時に「タタールの軌」のような脅威の源泉ともみなされた。それでもウクライナ危機後の今、この東の窓は、ほかの地域と比較するとロシアにとって開かれた開拓地といえよう。

ロシア中世史の研究者、三浦清美は、この「第三のローマ」を拡張主義と見ることは適切ではないとしつつ、東西のはざまで生きるロシアの地政学的挫捨としてこの概念を見ている。それはソ連崩壊後、エリツィンのもとでも解体過程がとどまらなかったというなかで、プーチン・ロシアの国家形成の理解にも役立ちそうだ(三浦)。

本書がとくに「第三のローマ」という角度から現代ロシアを読み解きたいと主張するのは、ロシアが、超大国、つまり大帝国ではありえないとしても、国民国家という枠だけで理解するのには狭すぎるからでもある。いねば歴史的な帝国というには不十分だが、しかし「国民国家」以上の存在としてのロシアである。ちなみに「モスクワは第三のローマ」という教義の主導者は、ロシア自身がオスマン・トルコから帝都コンスタンチノープル、つまり「第二のローマ」をキリスト教徒の手に取り戻す、という考えには反対であった。

つまり、モスクワにはそれとしての固有の国家の価値と衿侍とがある、という考えに通底する。拡張主義的なニュアンスは、主観的には「第三のローマ」にはない。この考えは基本的にはモスクワを中とするロシアが独自の価値と秩序を保つという味で孤立主義とは紙一重もとはといえば国民国家をめざすという概念でもあった。

したがってよく誤解する人がいるが、この「第三のローマ」という考えは本来的には正教帝国としての「ロシア帝国」の理念とは鋭く対立した。あるいは当時の帝国の近代化とは一線を画した。実際、この「第三のローマ」という概念を当初支持したのは、ピョートル大帝の近代化に至る帝国への道を拒否した保守的な人々であった。彼らは分離派(ラスコリニキ)とか古儀式派といわれた人々であった。「第三のローマ」という考えは彼らの国民国家的な指導理念となったと、ロシアの政治学者ズーボフが指摘したことがある。ちなみにこの歴史学者は、2014年にプーチンのクリミア併合に反対したことでも有名な人物だ。とくに彼ら古儀式派は、19世紀になって帝国への最大の反対派として次第に台頭、20世紀の日露戦争後に活躍し、初期のロシア革命にも、そしてソ連崩壊にも絡んだことが今ようやく自覚されはじめている。

「第三のローマ」という言説は、実はロシアとウクライナとの関係を理解する点でも重要である。なぜ、ウクライナとロシアの関係がソ連崩壊後25年もたって問題化したのか。ウクライナの分裂がロシアの歴史的な「固有」層を浮き彫りにしはじめた。こうして、ロシアにとってのウクライナ問題の存在が、「第三のローマ」的なロシアの存在を照らし出す。ロシアとウクライナとの宗教的・政治的アイデンティティを、そしてロシアの世界観を示すことにもなる。いずれもウクライナの自己認識が、ロシアの自己認識と絡む。
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