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シベリウス フィンランド独立の余波と内戦

『シベリウスの交響詩とその時代』より 時代を超越する-- 《タピオラ》 創作晩年期に向かうシベリウス

フィンランド独立の瞬間は何ら華やいだものではなく、《フィンランディア》の結末のような輝かしい高揚感を人びとにもたらすこともなかった。その様子を巧みに描写しているのが、一九一七年一二月八日に『ヘルシンギン・サノマット』(前身は『パイヴァレヘティ』。一九〇五年に名称が変更されて現在に至る)が報じた以下の記事である。

 「このもっとも重要な瞬間におけるフィンランド国民のように、独立宣言時、虐げられた人びとの顔に歓喜の表情がまったく見られないというのは、世界史上でも例がないことである。獅子の旗はそこかしこにむなしくひるがえり、新聞社は義務としてこの記事を書いている。フィンランドという国家が歴史上初めて独立の一歩を踏み出したにもかかわらず、である」。

それも当然であった。いまやフィンランドは軍国主義の重苦しい空気に包まれ、ストライキや暴動、貧困や失業、食糧難や極度のインフレが人びとの生活に深刻な影を落としていたからである。なかでも危惧すべき事態は非社会主義者と社会主義者の対立であり、両者の緊張は一触即発の状態にまで追い込まれてしまう。そしてついに起こるべくして起こったのが、独立宣言の翌月、一九一八年一月二八日に勃発したフィンランド内戦である。主にドイツ軍とイェーガー隊が支援した白衛隊と、ロシア軍が後ろ盾になった赤衛隊の両陣営による戦いだったが、実質的には軍事訓練などまったく受けたことがない民間人同士の痛ましい市民戦争だった。その凄惨さは筆舌に尽くし難く、犠牲者の数は双方合わせて三万七〇〇〇人あまり、当時のフィンランド総人口のおよそ一パーセントにもおよんだ。二〇世紀前半のヨーロッパが体験した内戦のなかでも、この悲劇に匹敵するのはスペイン内戦(一九三六~三九。ピカソの『ゲルニカ』で有名)くらいであったといわれている。

当初、ヘルシンキを一気に制圧した赤衛隊はその勢力をフィンランド南部全体に広げ、トゥルク、タンペレ、ヴィープリといった主要都市も支配下に収める。彼らは鉄道のほか、新聞、電話、電報などの通信網を強引にコントロールし、戦いを有利に進めていった。しかし軍事能力に乏しかった赤衛隊の戦果は小さく、しばらくすると戦況が悪化の一歩をたどるようになる。一方の白衛隊はフィンランド西部の港町ヴァーサを拠点とし、名将グスタフ・マンネルヘイム(一八六七~一九五一)の指令下、ドイツで十分な訓練を受けたイェーガー隊の力を借りながら巻き返していく。そして四月初旬、最終的な決戦地タンペレで白衛隊が赤衛隊を破ったことで、白衛隊の勝利が動かぬものとなるのである。翌五月、赤衛隊の降伏によりフィンランド内戦は三ヶ月あまりで終結した。

この内戦の問、フィンランドの至るところで殺人行為が横行する。いまや白衛隊のシンボル的存在になった《イェーガー隊行進曲》を作曲したシベリウスも、赤衛隊のターゲットにされているのではないかと、自らの身を深刻に案じた。ヘルシンキに近いヤルヴェンパーは彼らの制圧下にあったし、物々しい外出禁止令が出されるなど、アイノラでひっそり息をひそめていたシベリウス一家でさえ命の危険を感じたらしい。シベリウスは日記のなかで、当時の不安な気持ちを次のように書いている。「私たちの国、そして人びとの行為は本当に恥ずべきことだ」(一九一八年一月二八日)。「殺人また殺人。戦地の人たちだけでなく、誰もが危険にさらされている。労働者階級の勢力はまるで転がる雪玉のようだ。《イェーガー隊行進曲》の作曲者と知られたら、彼らは私を殺しにくるに違いない。ミッコ・スロールが死んだ〔これは誤報であることが後に判明する〕。殺されたのかもしれない。銀行のお金を利用できるのは『労働者』のみ。私たちにできるのは、遅かれ早かれやってくる死を待つことだけだ」(同年二月二日)。

実際、シベリウスの関係者は次々と災難に見舞われていった。当時ヘルシンキのラピンラハティ心療病院に医師として勤務していた弟クリスティアンは、満床の病院に運ばれてきた赤衛隊負傷者の入院を断ったところ、数日間投獄されてしまった。シベリウスを尊敬する若き作曲家アーレ・メリカントも、理不尽な投獄の憂き目にあう。かつてシベリウスの下で作曲を学んだレーヴィ・マデトヤの場合、二歳年上の兄ユリヨが赤衛隊に殺されている(マデトヤの沈痛な思いは、同年一二月に初演された悲劇的な交響曲第二番に見て取れよう)。シベリウスの薫陶を受けたもう一人の有望な作曲家トイヴォ・クーラに至っては、白衛隊の戦勝を祝うどんちゃん騒ぎのなか、ささいな喧嘩がもとで皮肉にもイェーガー隊に頭を撃ち抜かれてしまった。その後クーラは五月一八日、わずか三四歳の若さで世を去っている。

そうした暗雲が垂れ込めるなか、シベリウス一家も屈辱的な出来事を体験することになる。二月一二日と一三日の両日にわたり、赤衛隊一派がアィノラの家宅捜索を行ったのである。一日目は武器の所有、二日目は食料品などの貯蔵状況を調査するためだったが、この無法行為によってアイノラは、すべての部屋が上から下までめちゃくちゃに荒らされてしまう。シベリウスの動揺と心痛はかなりのもので、「あのような連中に私の貧しい家財を見せなければならないとは、何という屈辱だろう。武装した無法者に対して、私は無防備な作曲家に過ぎないのに」(一九一八年二月一四日の日記)と、激しい怒りをあらわにするのだった。アイノラでは電話の使用が差し止められ、シベリウスが日課としていた戸外の散歩時も、あちらこちらに設置された赤衛隊の見張り小屋に通行許可証を提示しなければならなかった。

こうしたシベリウス一家の状況を耳にした友人たちは、彼らをヘルシンキの安全な場所に移動させようと計画する。その先頭に立ったのはカヤヌスであり、彼は赤衛隊と交渉してシベリウス一家が無事にヘルシンキヘ赴くことができるよう取り計らうのだった。当初シベリウスはアイノラに留まる意向を示したが、最終的には旧友の説得にしぶしぶ応じることにする。そして二月二〇日、カヤヌスが先導するそりに乗って、弟クリスティアンの勤務するラピンラ(ティ心療病院)を目指すのだった。

シベリウスの関係者は皆、ヘルシンキ市内で分散して生活せざるをえなくなった彼らをとても温かく迎え入れてくれた。しかし食糧不足は深刻であり、シベリウスの体重は二ケ月あまりで二〇キロも減ったという。この頃より彼が急に老けこんだ印象を与えるようになったのは、そのためだろう。特に注目されるのは、毛髪の減少が目立ち始めたからであろうか、あえて自ら髪を剃り上げるようになったことだ。もしかしたらシベリウスはわざと禿頭にすることで、世俗の虚飾を排した峻厳なイメージ、あるいは修行僧のようにストイックな雰囲気を進んでまとおうとしたのかもしれない。それも内戦後のことである。
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