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ハイエクの言う個人と自由

『グローバル恐怖の真相』より

中野 九〇年代の日本の状況をこのまま続けて話してもいいですか。九〇年代に新自由主義がはやり出したとき、私はまだ大学生でしたが、この議論をおかしいと思っていた。
 このころ日本型の経済システム、たとえばこれまで礼賛されていた日本型経営が急に批判の対象となりましたよね。それに対する違和感が一つ。もう一つは、自由化というときの自由、経済的自由とか政治的自由って何なんだろうということで、ミルトン・フリードマンとならんで、自由主義の権化と言われていたフリードリッヒ・フォン・ハイエクを読んだ。そして、えらいショックを受けたんですよ。
 確かにハイエクは、個人の自由が大事だと言っているのですが、個人の定義が一般にイメージされているのとは違うんです。日本では「これからは個の時代だ」とか言われて、ひとりでベンチャーを立ち上げるような個人を大事にしろ、と盛んに言われていた。でもハイエクの言う個人はそうじゃなくて、共同体の一員で、歴史とか伝統とか慣習に束縛された個人である。そういった人たちが活動してはじめて安定的な市場秩序ができ上がるという話なんです。

柴山 人間は歴史的につくられたルールというものに強く拘束されている、ということがハイエクが一貫して主張していたことですね。そのルールというのは、いわゆる法律という目に見えるものよりも、道徳とか文化的な慣習のような、目に見えないものでつくられている、と。

中野 ハイエクが一九四〇年代半ばに書いた「真の個人主義と偽りの個人主義」という有名なエッセイがありますね。真の個人主義というのは伝統や共同体に束縛された個人を考える。偽りの個人主義というのは、まさに物理学でいう原子のように、人間関係とか歴史とか慣習、共同体から切り離された孤独でさみしい個人。この個人というのは非常に弱い存在なので、全体主義的なリーダーのところにわっと集まって、国家の言いなりになっちゃうから、おれは嫌だとハイエクは言っている。共同体とか文化とかを破壊したり強引につくり替えようとすると、必ず全体主義に行き着くんだという指摘に私は非常にショックを受けた。まさにそのとおりなんですよ。

柴山 ハイエクが考えたのは、どうして文明社会はこれほど秩序だっているんだろうか、という問題です。未開社会と違って文明社会は人口も多いし、社会も複雑ですね。こんな複雑な社会をなぜ維持できているかというと、人々が目に見えないルールに従っているからだ、と。人口が増えて、社会が複雑化する歴史の過程で、人々が共存できるように有形・無形のさまざまなルールが編み出されていて、それに従っているから我々は安心して自分の仕事に専念できる。

中野 そうなんです。日本的経営と言われるものだって、歴史や文化の流れのなかで少しずつできたものですよね。だれかが設計したり、指令したものではなく、戦後みんなで肩寄せ合って苦労するなかでできたものだとすると、多分ハイエクは、日本的経営こそが自生的な秩序、スポンテニアス・オーダーであって、真の個人主義の基礎であると言ったに違いない。
 それなのに、日本の新自由主義者たちはそれをぶっ壊すと言っている。ハイエクに言わせれば、彼らは偽りの自由主義者であり、全体主義者なのです。実際、小泉政権時の政治は見事に全体主義的だった。
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