未唯への手紙
未唯への手紙
確定性、偶然性、責任の問題
『独裁者は30日で生まれた』より
一九三三年一月の最初の三十日の出来事だけでは、なぜヒトラーが権力を獲得したのか説明するには十分ではない。生起したことを十分に理解するためには、ドイツ史をより幅広く検証する必要がある。少なくとも一八四八年の失敗に終わった民主革命と政治的右翼がプロイセン主導の下に国家統一を目指す過程でナショナリズムの大義の虜になった時点にまで遡って言及する必要があろう。また半封建的エリートが帝国を支配していたととが考慮されなければならない。過激な労働者階級の政治運動を生み出し、最終的には厳しく敵対する党派への分裂を生んだ経済状況と社会的緊張も同様である。ドイツ自由主義の脆弱さと分裂、強固な軍国主義的伝統、一部市民の偽科学的人種論に影響されやすい傾向など、これらすべてがやがて来るべきものの中で、それぞれの役割を果たしたのである。ドイツ人は勝利すると信じ込まされていたが、その戦争の敗北の衝撃、過酷なヴェルサイュ条約、国の通貨体制を破壊したハイパーインフレ、そして大恐慌の強烈な衝撃も同様である。
こうした歴史的先行事例に焦点を当てることで、ヒトラーの台頭を説明しようとする様々な見解は、不幸にも決定論に傾く傾向がある。それらの見解は、実際に起きたことは巨大な非人間的な諸力のどうすることもできない結果であり、起こらざるを得ず、その他の選択肢はなかったという印象を与える。しかし、そうした結果になるにはそうした要因が必要だったかもしれないが、多くの点でそれだけでは不十分である。それらは第三帝国がひとつの可能性であったことを理解するには役立つが、第三帝国がいかにして現実のものとなったかを説明することはない。
ヒトラーを権力の座に導いた一連の出来事のうち、偶然性の強い要素を明らかにして、一九三三年二月の出来事を検証することにより、決定論的見解の影響を緩和することができる。第三帝国は疑いもなくドイツ史の産物である。しかしそれは、当時この国に開かれていた唯一の可能性だったわけではない。ヒトラーが首相になるまでは他の政治的解決も可能だった。ナチ党指導者の成功は、権力を獲得しよ今と意気軒昂たる運動の絶頂期にではなく、彼の運が下降し始めたときに生じたのである。彼が首相として宣誓するまさに三十日前、情報通はヒトラーの政治的死亡記事を書くのに忙しかった。華々しい登場から無名の存在へ、彼の党は勢いを失い、解党寸前だった。結局、将来の独裁者は、最終的に彼の成功で終わった出来事を自分から引き起こすどころか、彼が制御できなかった一連の予測不能の展開の結果生じた失敗によって助けられたのである。
ヒトラーを権力へと押し上げた運命のあり得ない逆転にとって決定的だったのは、ヒトラー以外の人間の行動だった。非人間的な諸力は事件を可能にするかもしれないが、何と言っても人間が事件を起こすからである。このことはとくに一九三三年一月のドイツに該当する。このとき、この大国の運命は一握りの人間の行動にかかっていた。多くの人たちの運命がほんのわずかな人間の手に握られていたということは、人間の世界においてしばしば見られることである。三人がドイツの運命を握っていた。大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク、首相クルト・フォン・シュライヒャー、そして前首相フランツ・フォ・パーペンである。他の三人、オスカー・フォン・ヒンデンブルク、オットー・マイスナー、そしてアルフレート・フーゲンベルクは、先の三人に比べれば重要性は少ないとはいえ、それでも一連の出来事の中でそれなりに重要な役割を担った。これらの人間だちと比較すれば、ヒトラーの役割は本質的に状況の変化に反応したものだった。ヒトラーは、彼らに狡猾に反応したが、切り札は彼ではなく、彼らにあったのである。
もちろん、ドイツのそれ以前の歴史を理解することは、ヒンデンブルク、シュライヒャー、パーペンのような人間が、いかにしてこうした重大な政治的役割を演じることになったのか説明するために必須のことである。貴族階級がドイツ統一の際に果たしたその顕著な役割と、帝国政府における特権的地位によって彼らに付与された威信なしには、「フォン」の付いた人間たちが、共和主義的革命後も高位高官にふさわしい候補と見なされることはなかったであろう。同様にドイツの伝統に軍国主義という強力な要素がなかったら、なんの政治的能力もない敗軍の元帥が、共和国の大統領に、それも七十七歳で選出され、八十四歳で再選されるなどということはなかったであろう。また共和主義者たちが軍を有効な文民統制の下に置くことに成功していたら、クルト・フォン・シュライヒャーのような職業将校は、ドイツ政治における重要人物にはなれなかったであろう。ドイツ史をはるかに遡ったところに原因はあったが、議会制民主主義の破綻がなければ、この国の運命の決定権がとうした一連の人間に集中することはなかったであろう。あれやこれやの人間的要因を越えたものは、いかに個々人が出来事の推移に大きな影響を与えるようになったか説明するのに役立つが、個々人がいかにその影響を利用したのかを説明するものではない。
その行動によってヒトラーに権力を与えた人たちは、舞台裏で影響力を持つ既得権者の操り人形だったといわれてきた。しかし、半世紀に及ぶ研究は、そうした主張が信頼し得るものであるとはしてこなかった。それは、これらの人間がいかなる影響も受けなかったということではない。ヒンデンブルクは、経済的に困窮した東プロイセンのユンカー地主に対する憂慮の念を隠さなかった。ユンカーは彼を自分の仲間として喝采して迎えた。ュンカーのシュライヒャーヘの反対、あるいはヒトラーヘの共感は、大統領の判断に影響を与えたかもしれない。だがたとえそうであっても、それはヒンデンブルク側の感情の問題であって、彼の行動を制約するような利害の問題ではなかった。シュライヒャーはひたすら自分と軍の利害のために行動した。たしかに、彼が再軍備に関与したこと、数十万のナチ突撃隊を拡大した国防軍に組み込みたいと願ったことは、ヒトラーがもたらす危険に対して彼の判断を曇らせたかもしれない。しかし、それはシュライヒャーの判断力欠如の結果であって、やむを得ざる制約的状況の結果ではなかった。パーペンは、資本家の財政的、政治的支持を求め、彼らの経済的利害を優先する傾向があったが、彼は自らの判断で破滅的な政治路線を決定した。頑固者のフーゲンペルクは悪名高かったが、彼は自らの見解や目的と異なるいかなる陣営からの圧力にも抵抗した。オスカー・フォン・ヒンデンブルクは、彼の父親にのみ忠誠を誓った。オットー・マイスナーは自分にのみ忠誠を誓った。要するに、これらの人間は自分の好みに従って自由に政治的選択を行なったのである。
一九三三年一月の最初の三十日の出来事だけでは、なぜヒトラーが権力を獲得したのか説明するには十分ではない。生起したことを十分に理解するためには、ドイツ史をより幅広く検証する必要がある。少なくとも一八四八年の失敗に終わった民主革命と政治的右翼がプロイセン主導の下に国家統一を目指す過程でナショナリズムの大義の虜になった時点にまで遡って言及する必要があろう。また半封建的エリートが帝国を支配していたととが考慮されなければならない。過激な労働者階級の政治運動を生み出し、最終的には厳しく敵対する党派への分裂を生んだ経済状況と社会的緊張も同様である。ドイツ自由主義の脆弱さと分裂、強固な軍国主義的伝統、一部市民の偽科学的人種論に影響されやすい傾向など、これらすべてがやがて来るべきものの中で、それぞれの役割を果たしたのである。ドイツ人は勝利すると信じ込まされていたが、その戦争の敗北の衝撃、過酷なヴェルサイュ条約、国の通貨体制を破壊したハイパーインフレ、そして大恐慌の強烈な衝撃も同様である。
こうした歴史的先行事例に焦点を当てることで、ヒトラーの台頭を説明しようとする様々な見解は、不幸にも決定論に傾く傾向がある。それらの見解は、実際に起きたことは巨大な非人間的な諸力のどうすることもできない結果であり、起こらざるを得ず、その他の選択肢はなかったという印象を与える。しかし、そうした結果になるにはそうした要因が必要だったかもしれないが、多くの点でそれだけでは不十分である。それらは第三帝国がひとつの可能性であったことを理解するには役立つが、第三帝国がいかにして現実のものとなったかを説明することはない。
ヒトラーを権力の座に導いた一連の出来事のうち、偶然性の強い要素を明らかにして、一九三三年二月の出来事を検証することにより、決定論的見解の影響を緩和することができる。第三帝国は疑いもなくドイツ史の産物である。しかしそれは、当時この国に開かれていた唯一の可能性だったわけではない。ヒトラーが首相になるまでは他の政治的解決も可能だった。ナチ党指導者の成功は、権力を獲得しよ今と意気軒昂たる運動の絶頂期にではなく、彼の運が下降し始めたときに生じたのである。彼が首相として宣誓するまさに三十日前、情報通はヒトラーの政治的死亡記事を書くのに忙しかった。華々しい登場から無名の存在へ、彼の党は勢いを失い、解党寸前だった。結局、将来の独裁者は、最終的に彼の成功で終わった出来事を自分から引き起こすどころか、彼が制御できなかった一連の予測不能の展開の結果生じた失敗によって助けられたのである。
ヒトラーを権力へと押し上げた運命のあり得ない逆転にとって決定的だったのは、ヒトラー以外の人間の行動だった。非人間的な諸力は事件を可能にするかもしれないが、何と言っても人間が事件を起こすからである。このことはとくに一九三三年一月のドイツに該当する。このとき、この大国の運命は一握りの人間の行動にかかっていた。多くの人たちの運命がほんのわずかな人間の手に握られていたということは、人間の世界においてしばしば見られることである。三人がドイツの運命を握っていた。大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク、首相クルト・フォン・シュライヒャー、そして前首相フランツ・フォ・パーペンである。他の三人、オスカー・フォン・ヒンデンブルク、オットー・マイスナー、そしてアルフレート・フーゲンベルクは、先の三人に比べれば重要性は少ないとはいえ、それでも一連の出来事の中でそれなりに重要な役割を担った。これらの人間だちと比較すれば、ヒトラーの役割は本質的に状況の変化に反応したものだった。ヒトラーは、彼らに狡猾に反応したが、切り札は彼ではなく、彼らにあったのである。
もちろん、ドイツのそれ以前の歴史を理解することは、ヒンデンブルク、シュライヒャー、パーペンのような人間が、いかにしてこうした重大な政治的役割を演じることになったのか説明するために必須のことである。貴族階級がドイツ統一の際に果たしたその顕著な役割と、帝国政府における特権的地位によって彼らに付与された威信なしには、「フォン」の付いた人間たちが、共和主義的革命後も高位高官にふさわしい候補と見なされることはなかったであろう。同様にドイツの伝統に軍国主義という強力な要素がなかったら、なんの政治的能力もない敗軍の元帥が、共和国の大統領に、それも七十七歳で選出され、八十四歳で再選されるなどということはなかったであろう。また共和主義者たちが軍を有効な文民統制の下に置くことに成功していたら、クルト・フォン・シュライヒャーのような職業将校は、ドイツ政治における重要人物にはなれなかったであろう。ドイツ史をはるかに遡ったところに原因はあったが、議会制民主主義の破綻がなければ、この国の運命の決定権がとうした一連の人間に集中することはなかったであろう。あれやこれやの人間的要因を越えたものは、いかに個々人が出来事の推移に大きな影響を与えるようになったか説明するのに役立つが、個々人がいかにその影響を利用したのかを説明するものではない。
その行動によってヒトラーに権力を与えた人たちは、舞台裏で影響力を持つ既得権者の操り人形だったといわれてきた。しかし、半世紀に及ぶ研究は、そうした主張が信頼し得るものであるとはしてこなかった。それは、これらの人間がいかなる影響も受けなかったということではない。ヒンデンブルクは、経済的に困窮した東プロイセンのユンカー地主に対する憂慮の念を隠さなかった。ユンカーは彼を自分の仲間として喝采して迎えた。ュンカーのシュライヒャーヘの反対、あるいはヒトラーヘの共感は、大統領の判断に影響を与えたかもしれない。だがたとえそうであっても、それはヒンデンブルク側の感情の問題であって、彼の行動を制約するような利害の問題ではなかった。シュライヒャーはひたすら自分と軍の利害のために行動した。たしかに、彼が再軍備に関与したこと、数十万のナチ突撃隊を拡大した国防軍に組み込みたいと願ったことは、ヒトラーがもたらす危険に対して彼の判断を曇らせたかもしれない。しかし、それはシュライヒャーの判断力欠如の結果であって、やむを得ざる制約的状況の結果ではなかった。パーペンは、資本家の財政的、政治的支持を求め、彼らの経済的利害を優先する傾向があったが、彼は自らの判断で破滅的な政治路線を決定した。頑固者のフーゲンペルクは悪名高かったが、彼は自らの見解や目的と異なるいかなる陣営からの圧力にも抵抗した。オスカー・フォン・ヒンデンブルクは、彼の父親にのみ忠誠を誓った。オットー・マイスナーは自分にのみ忠誠を誓った。要するに、これらの人間は自分の好みに従って自由に政治的選択を行なったのである。
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