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私たちの世代のなすべきこと

『貧困の終焉』より 私たちの世代の挑戦

ジェファソン、スミス、カント、コンドルセ。彼らの啓蒙思想のビジョンをさらに前進させること--これは私たちにとってまたとないチャンスである。私たちの世代のなすべきことを啓蒙思想家の表現を借りて説明してみよう。

 ・人民の同意のもとに、人類の幸福を推進できる政治体制の構築にとりくむ。

 ・科学、テクノロジー、分業化の恩恵を世界中に広めるような経済体制の構築にとりくむ。

 ・永久平和をかちえるために国際協力の促進にとりくむ。

 ・人類の生活改善を目的とした、人間の理性にもとづいた科学技術の推進にとりくむ。

どれも壮大で大胆な目標であり、だからこそ過去二百年間、目標でありつづけた。しかし、いまや、あと少しですばらしい実を結びそうなものも増えている。啓蒙時代に解きはなたれた民主化革命は、いまや世界人口の半数以上におよんでいる。カントがもっていた独立国家連合のビジョンは、加盟百九十一カ国の国連によって実現した。コンドルセのいう、自動的に進歩へと向かう科学革命は着々と進行し、人類にとって最大かつ最長の苦しみをのりこえる手段として役立ちつっある。なかでも、「経済的な繁栄を広める」というスミスの考え方は、すぐにでも実現できそうだ--極度の貧困がこの世からなくなるまで、あとわずか二十年。

二十世紀を通じて、そして二十一世紀になっても、知識人のあいだでは、啓蒙運動を失敗と見なし、人類にとって脅威でさえあるという言説が流行した。人間は理性ある生き物ではなく、不合理な感情につき動かされる生き物なのだというのだ。批判的な立場の人びとによれば、啓蒙思想は人類の進歩を予測したのに、実際に起こったのは悲惨な戦争、ホロコースト、核兵器、環境破壊ではないか、と。今日の学者のなかには、「進歩は幻想である--人類の生活や歴史を、理性ではなく、感情を通して見たにすぎない」という人もいる。これはまちがいであり、私にいわせれば、危険な誤謬でさえある。経験に照らしても、これは誤りだといえる。人間のニーズを満たす科学やテクノロジーの大きな進歩は現実そのものであり、過去二世紀のあいだ連綿と続いてきたからだ。たしかに惨事はあり、未解決の課題が山積していることも事実ではある。しかし、たとえ国同士の戦争や極度の貧困がまだ残っていても、世界的な生活水準が向上したこと、世界人口に占める極貧層の割合が減ったことは誰にも否定できない。完璧にはほど遠いにせよ、進歩したことはたしかなのだ。

啓蒙思想の楽観論に惑わされて、別の道にさまよいこんだ思想家もいた。迷いは二つあった。一つは必然性についての勘違いである--人間の理性がかならず感情に勝つと思いこんだのだ。オーギュスト・コントのような十九世紀の実証主義者は、進歩の必然性を信じたため、人類が戦争や蛮行に逆戻りしたとき、啓蒙思想の遺産に疑問をもたざるをえなかった。もう一つの迷いは、暴力についてたった。集団的強迫観念によって、理性と進歩にもとづく社会がすみやかに構築できるという誤解である。レーニン、スターリン、毛沢東、ポル・ポ卜らは、社会の進歩という名目で残酷な暴力をふるった。彼らはおびただしい数のし、祖国の社会に混乱と貧困を招いた。

進歩を批判する人びとのいうことも、ある程度はわかる。進歩は可能だが、必然ではない。理性は、社会の幸福を促進するが、ときには破壊的な感情に負けることもある。だからこそ、人間社会は理性の光に照らして築かなければならない。それはまさに、人間行動の不合理な部分をコントロールし、縛るためなのだ。その意味で、啓蒙思想のいう理性とは、人間の内にある理性に反する部分を否定するのではなく、人間は不合理や感情にとらわれながら、それでも理性を制御することができ、それによって--科学、非暴力活動、歴史的な省察によって--社会制度の基本的な問題を解決し、人間の幸福を向上させることができるという信念にほかならない。
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