goo

ウンマ(イスラム共同体)の掟

『「宗教」で読み解く世界史の謎』より なぜ商人であったムハンマドがイスラム教をひらいたのか?

布教の始まり

 アラー(神)の教えを記すクルアーン(コーラン)は、「声に出して読むことによって身に付けるべき戒律」である。アラビア語の「クルアーン」は、「読誦すべきもの」という意味の言葉である。

 ゆえに現代でも、イスラム教徒はどこの国の者でもクルアーン(コーラン)をアラビア語で声に出して読み上げなければならないとされる。クルアーン(コーラン)は脚韻(詩歌の句の終わりを同じ音にそろえること)を踏んだ美しい韻文の形式をとっており、アラビア語の意味がわからない者でも、その美しい響きに感動する。

 だから日本語などの他の言語に訳されたものは、クルアーン(コーラン)でなく「クルアーンの解説書」として扱われる。またアラビア語のクルアーン(コーラン)であっても、文章にしたものを黙読してしまうと、クルアーン(コーラン)の良さが伝わらないという。

 クルアーン(コーラン)とは、天使ジブリールを介して預言者ムハンマドに授けられたアラー(神)の教えだとされる。これは本来、ムハンマドから弟子たちに、口頭で伝え暗誦させるべきものと考えられた。

 しかしイスラム教の信者が拡大したために、第三代カリフのウスマーンの時代に現在みられるような文字になったクルアーン(コーラン)がつくられた。クルアーン(コーラン)は一一四章から成り、その章の中には二八六節の長いものから、三節の短いものまである。

 メッカに戻ったムハンマドは、毎日クルアーン(コーラン)を誦み上げ、少しも違うことなくそこに記された教えを実行した。質素で慎み深い生活をおくり、あれこれ周囲の人を助けた。これを見たムハンマドの妻ハディージャは、「私の夫は大そう偉い方だ」と感じた。

 彼女も夫を見習ってともにクルアーンを誦え、その教えに従う生活を始めた。ムハンマドが、

  「このアラー(神)の教えを広めたいが、メッカの有力者に反感をもたれるのが怖い」

 と妻に相談したとき、賢いハディージャはこう言って夫を励ました。

  「教えを実行するようになってから、あなたは前より健康で、人々から好かれるようになりました。このような立派な教えは、私たちが独占すべきものではありません。広く人々に伝えて、役立てるべき教えです」

 それでもムハンマドは用心して、四年間は気心の知れた知人だけにアラー(神)の教えを語った。その間にムハンマドの親友で商人仲間のアブー・バクルや従弟のアリーをはじめとする五〇人ほどの者が、イスラム教の信者になった。

 ムハンマドの教えが、ユダヤ教の健康法などの科学知識や社会的規範を取り入れた有益なものだったからである。ようやく、

  「アラー(神)の教えに触れた者の大部分は、アラー(神)を信仰するようになる」という確信を得たムハンマドは、六一四年になってようやくメッカでの本格的な布教を開始した。

 ムハンマドはかれが属したクライシュ族の名門、マフズーム家の青年アルカムが提供してくれた邸宅を拠点に、メッカで布教を始めた。ムハンマドは三九名の弟子をこの邸宅に集めてともにアラー(神)の神を礼拝したのちに、アラー(神)の戒律をていねいに説いた。

 メッカの有力者たちからみればそれは、メッカにいくつもある多神教の信者の集団の一つのように最初はみえた。

 このあとムハンマドのもとに、三十代半ばに満たない若者で上流の下といった階層の者が続々と集まってきた。

 特に有力な家の出ではないが中流の人々より有力な向上心の強いかれらは、ムハンマドから得た生活に役立つ情報を自分の仕事に活かして、地位を上げたいと考えたのだ。

ムハンマド、メディナに遷る

 クライシュ族の族長に疎んじられたムハンマドは、メッカから六〇キロメートルほど東方にあるターイフという小さな町に活動の場を移した。しかしかれはターイフからも追われ、新たな保護者を探してメッカに戻らねばならなかった。

 しかしクライシュ族を敵に回したかれが大っぴらに布教することはできない。このあと傷心のムハンマドのところに、思いもよらぬ助けがきた。六二一年にメッカの北方約四〇〇キロメートルの位置にあるヤスリブ(メディナ)の町から、「ムハンマドを招きたい」という使者が来たのだ。

 ムハンマドとかれの弟子たちは、翌六二二年に、クライシュ族に見つからぬように秘かにヤスリブに移住した。これが、イスラム教の急速な発展のきっかけとなった。

 イスラム教徒は、「ムハンマドのメディナ(ヤスリブ)への移住」を「ヒジュラ(聖遷)」と呼び、ヒジュラが行なわれた年をイスラム暦の元年としている。ヤスリブはオアシスを中心に開けた土地で、住民は主に農業を営んでいた。

 そこの居住者の約半分がアラブ人、残りがユダヤ人であり、ヤスリブのアラブ人はアウス族とハズラジュ族の二大部族に分かれて対抗し合っていた。ヤスリブのアラブ人は、名高いムハンマドが中立の立場でこの争いの調停者となることを期待したのである。

ウンマ(イスラム共同体)の掟

 ムハンマドを迎えたアウス族とハズラジュ族は、そろってアラー(神)の信者になった。このときヤスリブの地名は、メディナと改められた。

 ムハンマドはこのメディナで部族社会を解体し、それに代わってすべてのアラー(神)の信者から成るウンマ(イスラム共同体)を結成するという思い切った改革を行なった。

 イスラム教の「イスラム」とは、「アラー(神)にすべてを委ねて生きること」を意味する言葉である。アラビア語では、その言葉は「イスラーム」と発音される。アラビア語で「ムスリム」の言葉は「アラー(神)に帰依する人」を意味している。「絶対者としてのアラー(神)を信仰して互いに助け合う者」の集団を表わす「イスラム教徒」という概念は、イスラム共同体(ウンマ)結成のときに初めてつくられたと評価できる。

 ムハンマドの指導によって、イスラム共同体の「メディナ憲章」という取り決めがなされた。そこには、次のような規定が定められていた。

  「異教徒からの攻撃があれば、イスラム教徒は互いに助け合って戦う」

  「部族間の争いは、話し合いをひらいて身代金によって解決する」

  「イスラム共同体に従った異教徒には保護を与え、イスラム教徒と平等な商売上の保証をする」

 このメディナ憲章の主旨に従って、ムハンマドは、宗教面での指導権と行政、司法、外交などの最高の決定権をあわせもつウンマ(イスラム共同体)の長とされたのである。

 このようなムハンマドの地位は、歴代のカリフに受けつがれていった。

無血で従えたメッカ

 ムハンマドと同時代に、ローマ帝国の流れをひくビザンツ帝国(東ローマ帝国)やササン朝ペルシアなどの大国があった。これらの国には、武力を用いて強大な権力を握り、思いのままに贅沢をした君主が多くいた。ムハンマドの行動をかれらと比べてみると、比較的質素に過ごしたムハンマドが権力欲を満たすためだけに戦ったのではないことがわかってくる。

 ムハンマドは何度も危機にみまわれながらも、「アラブに平和な世界をつくる」夢のために頑張り抜いた。しかしその平和は、「平和のための戦い」でしか得られないものであった。

  「一つの信仰のもとにアラブがまとまれば、部族間の争いはなくなる」

 このような考えを受け入れる動きは、ムハンマドの時代のアラブ社会の側にも確かにあった。

 しかも豊かな草原が乾燥地になっていったあと、多神教の神々に対する信頼は後退していた。

 さらにアラブの人々は、中近東の各地にみられるユダヤ人が、一神教のもとで争いの少ない安定した社会をつくっているのを見てきた。しかしアラブ人にはアラブ人としての誇りがあり、民族の違うかれらに、

  「ユダヤ教に入信させてください」

 と頼むわけにはいかない。そういったときに、ムハンマドが「アラブ人のための一神教」を起こし、さまざまな立場の者の共存を目指す規則や日常生活に役立つ知識を広めたのだ。

 部族間の対立を超えて団結したメディナの人々はムハンマドの理想に動かされる形で、同一の信仰で結ばれた軍勢を組織してアラブ世界の統一に乗り出した。六二四年にメディナの軍勢は手始めに、メッカのクライシュ族の武装した隊商を襲って勝利した。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« アマゾンと配送 日常に極端な... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。