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世界の特別な1日 中近東の動き

『世界の特別な1日』より

 1948年2月2日 パレスチナ、ナノリヤ ユナイテッド・ネーションズ号、パレスチナに上陸

  イスラエル建国前夜、ユダヤ人難民の苦闘

  第二次世界大戦の終結から3年後の1948年、ナチス・ドイツを生き延びたユダヤ人難民の多くは、まだ行く場所がなかった。国連で議論が重ねられていたが、彼らの大半は中央ヨーロッパの難民キャンプで生活していた。米国へ移住した者もいたが、多くの人はパレスチナヘの移住を望んでいた。だが、すでにパレスチナには多数の移民がいて、1939年に英国が発表した白書でパレスチナヘの移民数は制限されていた。

  この写真はハイファ近郊のナハリヤの北港で撮られたものだ。不法移民船ユナイテッド・ネーションズ号でやってきた難民たちが岸に向かって泳いでいる。この船は700人の難民を乗せてイタリアのバーリを出発し、英国艦隊による封鎖をかいくぐってこの地に到着した。

  撮影したのは国際的に活躍する最初の報道写真通信社のひとつ、キーストン通信社のカメラマンで名前は知られていない。

  あらゆる禁止措置にもかかわらず、パレスチナを目指しだのはユナイテッド・ネーションズ号だけではなかった。1945~1948年にかけて、さまざまなシオニスト団体が難民を満載した何十隻という不法移民船を送り出した。そうした船のほとんどはイタリアの海岸から出航し、6万9000人以上が無事に移住した。だが、なかには英海軍に拿捕された船もあり、乗船していた人びとはキプロス島の勾留キャンプに収容されるか、母国に送り返された。1947年7月11日、フランスを出航した最大規模の難民船エクソダス号が数日後に英海軍に捕捉され、臨検となった。難民たちは抵抗し、戦闘のなかで難民早Aに死者3人、多数の負傷者が出た。この事件は世界中に報道された。

  1948年5月、すべてが一変する。英国によるパレスチナの委任統治が終了し、国連の承認のもとイスラエルが建国されたのである。

 1967年6月5~10日 イスラエル、エルサレム 第三次中東戦争

  国境を変えた、六日間の戦争

  1967年6月5日から10日にかけて、中東の国境が大きく変わった。徹底した短期決戦でイスラエルの領土は4倍に増えることになった。六日戦争--この写真はもっとも重要な記録のひとつに数えられる--はさまざまな理由から勃発した。

  歴史家によれば、アラブ諸国がヨルダン川の流れを変えてイスラエルヘの給水を断とうとしたことと、エジプトがティラン海峡を封鎖してイスラエル南部を隔絶しようとしたことが、主な理由だ。しかし、この戦争の背景にあったのは冷戦、すなわちソ連と米国の対立だった。前者はナセル大統領率いるエジプトとシリアを支援し、後者は国際社会におけるイスラエルの保証人だった。

  六日戦争はイスラエルの勝利に終わった。イスラエル軍は迅速かつ効果的な空爆で敵の空軍を壊滅させ、ヨルダン川西岸地区、ガザ地区、ゴラン高原にくわえ、シナイ半島のスエズ運河までを占領した。だが、いちばんの成果は東エルサレムを手に入れたことだった。6月7日、イスラエルは象徴的、宗教的に何よりも大切な「神殿の丘」と「嘆きの壁」を手中におさめたのである。

  この写真(と獅子門を通って旧市街に入るモシエ・ダヤン将軍の写真)を撮った従軍カメラマンは、六日戦争の2つの重要な象徴を写真におさめている。まずは東エルサレム占領の証拠だ。背景の真ん中にこの写真の主役となる金色の「岩のドーム」が見える。イスラム教最大の聖地のひとつで、まもなくイスラエルの手に落ちる。もうひとっは、イスラエル軍の[秘密兵器]であった科学技術と諜報能力の証拠だ。兵士たちはライフル銃ではなく、通信機器を装備している。画面を横切る電話線ですら象徴的で、写真の構図に驚くべき幾何学的バランスを与えている。

 1991年 イスラエル、ジェニン 第一次インティファーダ

  絶え間なく続く、パレスチナ占領地区の暴力と衝突

 目だし帽のようにクーフィーヤ(男性がかぶる布)で顔を覆い、左肩には警棒のようなものを乗せている。だが、もっと恐ろしいのは彼の右手にピストルが握られていることだ。その人差し指は引き金にかかっている。彼はパレスチナ人で、イスラエル軍の攻撃を待ちかまえているのだろう。彼のまわりにいるおおぜいの子どもや若者たちを守っているのかもしれない。マグナム・フォトのアッバス・アッタールは、1991年にヨルダン川西岸地区の北部にあるジェニンの近くでこの写真を撮影した。

  インティファーダ(パレスチナ人の抵抗運動)の真っ最中で、パレスチナ占領地区で暴力や衝突が起きない日は1日もなかった。イスラエル兵には戦車やブルドーザーがあった。だが、もういっぽうの西岸地区やガザ地区の若者たちの武器はほとんどが石と火炎瓶だった。彼らはお互い相手をテロリストや迫害者とみなしていた。のちに第一次インティファーダ、または「石の革命」と呼ばれる衝突は1987年12月にはじまった。発端となったのは偶発的な事故だった。ガザ地区のジャバリヤで、イスラエル軍のトラックがパレスチナ人労働者でいっぱいの2台のバンと衝突し、パレスチナ人4人が死亡したのだ。だが真の原因は、この地域に住むパレスチナ人のフラストレーションと(とりわけアラブ諸国から)見捨てられたという思いだった。彼らはガザ地区の難民キャンプにすし詰め状態で押し込められ、貧困を強いられていた。

  闘争は6年間にわすこt)、兵士、民間人あわせて160人のイスラエル人と、1000人以上のパレスチナ人が命を落とした。 1993年、パレスチナ解放機構(PLO)とイスラエルのあいだでオスロ合意が結ばれた。これにより一時的に衝突がなくなり、パレスチナの国としての礎が築かれた。とはいえ、西岸とガザ地区は今も国際的な地位をもたないまま存在している。アッバスの写真に写っている子どもたちは、新たな民族闘争である第二次インティファーダ(2000~05年)、第三次インティファーダ(2015年以降)の主唱者、あるいは犠牲者になったかもしれない。

 2011年2月9日 エジプト、カイロ カイロ、アラブの春

  30年の独裁を崩壊させた、デモ隊の18日間

  30年におよぶホスニ・ムバラク大統領の独裁政権をエジプト国民が崩壊させるのにかかった日数はたった18日間たった。1月25日、フェイスブックの「われわれはみなハーリド・サイードだ」の呼びかけに数千人のエジプト人が応えた。このサイトは、数ヵ月前にアレクサンドリアの警察によって不可解な死を遂げた若者ハーリド・サイードを追悼してつくられた。チュニジアに続き、アラブの春の風がエジプトにも吹いていた。

  おびただしい数のデモ参加者がカイロの通りに流れこみ、デモ隊は市内中心部にあるタハリール広場へ向かった。数日間、そこは若者、学生、活動家、労働者、芸術家、過激派、イスラム教徒、キリスト教徒、男性や女性の集団であふれていた。誰もが激しく怒り、「パン、自由、社会正義」を求めて叫んだ。当局はこれに武力弾圧で応じ、インターネットの利用を規制しようとした。

  報道写真家のモイセス・サマンは、タハリール広場の群衆の真ん中から、内早Aからエジプト革命を取材した。彼は催涙ガスと危険に身をさらし、こうした状況下でのあらゆる人間の強さを記録した。2月9日、デモ隊は恐れずにムバラクを蔑み、歌い、叫んだ。エジプトの旗を頭に巻いた少年が、誰かの肩に乗りひときわ高い叫び声をあげていた。

  彼は青い空を指さす。それを見て、彼の下にいる者たちがおずおずとVサインを出した。多くの革命の写真のように、有刺鉄線がデモに参加する若者たちの顔に重なっている。写真を見る者の視点は、バリケードのこちら早Aにいる治安部隊と同じだ。彼らは同胞たちと戦いながら、何を考えているのだろうか。

  2月11日、ついにエジプト副大統領オマル・スレイマンが、ムバラク大統領が全権をエジプト軍最高評議会に委譲したことを発表する。喜びの波が広場に押し寄せ、幸福感に包まれた人びとの自由の歌と踊りが朝まで響きわたった。だが、彼らはほどなく民主主義への道のりがまだ長く、痛みをともなうことを知る。
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